指先が触れる
カヴァルカンティ×ヴィルフォール
夜会とはどれも変わり映えのない、言ってみればどれだけ顔を出したところで退屈なだけの集まりだった。例えば其処での会話を愉しみたいとか、何かを自慢したいとか、お目当ての誰かがいるなら話しは別だろうが、半ば義務でしかなければ恐ろしく無駄な時間に思えても仕方がないだろう。
まして命じられて嫌々乍らに来たのなら、その胸中は察して余りある。その証拠にアンドレアは相手が決まり文句の社交辞令を述べて彼の前から居なくなる度に、好い加減飽き飽きしたと一瞬非常に苦々しい表情を浮かべた。
『お前が行くのだ…。』
呼び出され顔を出した屋敷の一室で、彼の後見人は短くしかし絶対に逆らえない命令を言って寄越した。
『何の為に?』
ぞんざいに訊ねた途端、その人の横に控える厳つい顔の家礼が叱責を吐き出そうとしたが、それは主人が制して形にはならなかった。
『あの娘が来るらしい…。』
アンドレアは何も言わなかった。が、芝居がかった表情と仕草で自分がどれほどうんざりしているかを顕した。
『不満か?』
『まぁね、小便臭い小娘の相手を喜ぶヤツなんかいないと思うけど?』
『なるほど…な。』
伯爵は面白そうに笑って見せたが、やはりこの時も家礼は凶悪な面でアンドレアを睨み付けた。
不満を垂れるのは相手に対して甘えがあるあからだとアンドレアは自覚している。この不思議な貴人に、少なくとも自分は興味以上の好意以上の感情を抱いているのだと、彼は初めて引き合わされた時から知っていた。だから思うままを垂れ流すし、嫌なら嫌だと、納得がいかなければそのままを口にする。ただ相手が自分を気にも留めていないのも気づいていて、だからそのうちしっかりと自身の存在を貴人の中に刻んでやろうとも思っていた。
『アンタは行かねぇの?』
行くなら話は別だと青年は意味ありげな眼差しを向ける。
『私は別の集まりがあるのでな…。』
サラリとかわされ、アンドレアはあからさまに舌打ちをするとダラダラと文句を並べた。
それは伯爵の家礼が恐ろしげな声で止めるまで続いて、アンドレアが口を閉じるのを待ったように伯爵はさっさと部屋を出ていった。
彼は仕方なく此処に居るのだ。だから頃合いを見計らって抜けだしてやろうと隙を窺っている。今宵彼のお目付役を仰せつかったのはあの筋肉ハゲではない。リーゼントの方だ。アイツなら簡単に撒けるとアンドレアは最初から高をくくっていた。あとは空気が変わった瞬間を見逃さないこと。手にした細いグラスの中身をチビチビと舐めながら、青年は周囲へ満遍なく注意を払っていた。
どよめきでもなく、ざわめきでもない。しかし確かに空気の色と匂いが一瞬に変わった。それは畏怖に近く、ベタベタしたなれ合いの作り出すわざとらしい柔らかさが突如薄まったわけは、広間の入り口へ目を向ければ即座に知れた。
アンドレアは自分の視線が其処に釘づけられるのを感じる。逸らすつもりはないが、もし逸らせようとしても不可能なくらい、彼は激しく凝眸している。
『なんで来るんだ?』
聞いてねぇ…。アンドレアは自分が嘘のように浮かれているのが判った。
夜会には似つかわしくないほどヴィルフォールは気むずかしい顔を崩さない。数人が遜った挨拶をしても軽くいなすように会釈するだけだ。この場に来たのが煩わしいとしか見えない。それなら来なければ良いのに…と、口には出さない陰口が聞こえる気がする。
大袈裟な笑顔を張り付けて近寄ったのはダングラールだった。結局この男は娘を連れてはおらず、恐らく娘が拒んで独りやってきたとみるのが正しい。言い渡された目的が居ないのだから既に帰る以外を考えていなかったアンドレアは急遽それを反故にする。小娘と親しくしろと言われたが、今夜別の相手に近づくなとは言われていない。ならば少しだけ傍に行っても構わないと、彼は勝手な結論を引き出していた。
ダングラールは二言三言ヴィルフォールに言葉を掛けたが、相手は全く取り合わなかった。誘ったのはダングラールではないのか?とアンドレアは視界の端でその様を眺めながら訝しく思う。その後も相手の機嫌を取ろうと幾人かが会話をしかけるも、ヴィルフォールの頑なさに尻尾を巻くはめとなった。そしてその男は周囲に幾つも出来る歓談の輪から完全に孤立した。その状況を自ら望んで創り上げたのかと疑うくらい、首席判事は誰とも和やかな空間を作らず広間の中央に佇んでいた。
壁の近くで様子を伺っていた青年が動く。流れる如き滑らかさで、其処此処にできる人の輪をすり抜けた。ヴィルフォールの背後へ回り込む直前、間近に居る給仕の持つ銀の盆から華奢なグラスを一つ手にする。そして徐に僅か後ろから声を発した。
「お一人ですか?」
らしくない程怖ず怖ずした声音は演出だ。そのくらいが良い。馴れ馴れしさは逆に相手の猜疑心を煽る。
「アンドレア・カヴァルカンティです。」
自ら名乗るのも大事だ。未だ名前など覚えて貰えていないくらい下手に出るのが得策なのだ。
「ああ、君も来ていたのか…。」
全く顔を緩めずヴィルフォールは応える。興味がないと言うより、別のことに気を取られている風に思える。
「何方かとお待ち合わせですか?」
「いや…。」
すっと視線が外れた、何かを探しているかに見えた。
「何も召し上がっていらっしゃいませんね?宜しければ…。」
直前にかすめ取ってきたグラスを差し出す。
「あ…ああ、戴こう…。」
断らなかったのは断る理由がないだけのことだろう。反射にも近い反応でヴィルフォールはグラスへ手を伸べた。
細い柄を軽く摘む相手にアンドレアは気づかれないくらいのさり気なさで触れてみた。掠める程度に指先へ触ったのは、ヴィルフォールの整えられた爪だった。滑らかに磨かれた感触。そのつるりとした丸い触感が、アンドレアの指先に残る。あと一言か二言を交わそうと、彼が場つなぎの台詞を吐き出そうとした刹那、ヴィルフォールは呆気ないくらい簡単にその場から離れていった。誰かに呼ばれた筈もなく、だが探し物を見つけたかに少しだけ急いた風にアンドレアに背を向け人垣の中へと消えていった。
「んだよ……。」
苦り切った呟きを落とし、青年はもう全てに興味が失せたと眩い灯りの溢れる広間を後にした。
戻りの車中、むくれた顔で窓の外を眺める青年へバティスタンは軽口を叩く。
「なんだ?お嬢さんが来なくてツマンネェってか?」
チラと目を動かし、あからさまに呆れた顔を作るアンドレは即座に否定を垂れる。
「…にしちゃ、ご不満タラタラな顔してんじゃねぇか?」
「クソ面白くもねぇトコに行かされて喜ぶ馬鹿はテメェくらいだろ?」
「んだと!」
「なぁ、今日って誰の主催なだよ?」
「は?なんだ?急に??」
「ヴィルフォールが来てた。」
「テメェ、何にもしなかったろうな?」
「なんかして欲しかった?」
ニヤリと笑うアンドレアの眼差しは鋭い。吐き出した台詞が冗談だとは思えない含みがあった。
「残念ながら挨拶しただけだよ…。」
欲しい情報が得られないと瞬時に悟り、彼はまた窓外へ視線を投げた。
「報告ん時に伯爵に聞きゃいいだろ?オレは主催が誰なんざ知らねぇからな。」
「そうする…。」
妙に素直ないらえにバティスタンは窓へ向いたブロンドに隠れる横顔を伺った。が、そこにはただぼんやりと流れる通りの灯りを眺める茫漠とした眼差しがあるだけだった。
「夜会の主催者は、ヴィルフォールの前妻の知人だ…。」
伯爵はアンドレアの表情が俄に変わるのにうっそりと口元を緩めた。
「何で前のかみさんの知り合いだとノコノコ出てくんだよ?」
「さぁ…知りたければ自分で調べたらどうだ?そうした事はお手の物だろう?」
覗き込むかに顔色を窺ってくる後見人の問いに無言のいらえを返すと、青年は何故か腹を立てた風に部屋を出ていった。
『さっぱりわからねぇ…。』
釈然としない気分を引きずる彼の指先には、未だ丸く滑らかな感触が残っている。そしてアンドレアは何故自分が苛立っているかを全く判ぜられずにいた。
終