暁光
=1=(『迷いの夜』後日談/ベル伯)
硬質な音が響く。規則正しい其れは古色蒼然とした振り子の振幅により時を刻む仕掛けの発する音だ。以前の持ち主の趣味であるのか、巨大な時計は壁の一部となり其処にあった。時刻を知るだけなら、日に一度発条(ぜんまい)を巻かねばならない手間の掛かる機械など不要で、だから間違いなく其れは嘗て此の部屋の持ち主であった人間の趣向に違いなかった。此処を寝室とする際、伯爵は無用な存在である筈の壁時計をそのままにした。そして自らの手で発条を巻く事を日常の決まり事としている。目にも見えず触れることも出来ぬ『時』と言う観念を音にして知らせる古めかしい道具を、何故か伯爵は気に入っていた。気づかぬ間に自身を押し流してしまう時間を、何某かの形として確かめたいが故かもしれない。或いは、徐々に刻まれていく先に在るはずの仄暗い未来を感じようとしているのだろうか。どちらにせよ、寝室となるこの場所には途切れることのない音が存在していた。
押し黙る主と向き合うベルッチオは普段なら気にも留めない時計の音が、今は酷く耳障りだと考えていた。扉の前で伯爵の帰りを待ち、漸く薄闇の中から現れた姿を見留め薄く安堵し、けれど張りつめる厳しさを纏った主の面を見た途端、直前まで迷い続けた行為を躊躇いもせず実行した。激しい叱責を覚悟し、罰を当然と腹を括り、向き合った眼前の躯を腕に収めた。一度は拒絶を顕わにしたが、結局伯爵は彼の行為を責めもせず寝室へと付き従うことを許した。
しかし部屋へと入り、外套とシルクハットを家礼に渡したのち、伯爵は部屋の一画に置かれた大ぶりの椅子に掛けたまま沈黙する。僅かに俯き、視線を足下に落とした伯爵はある種思い詰めた感のある難しい表情を張り付け呼吸以外の動きを逸してしまった。迂闊に声を掛けることもならず、少しの距離に佇んだベルッチオはただ主の姿を見つめるばかりであった。次ぎに何が発せられるのか予想も付かない。屋敷を包む夜の気配は室内の音を懐へと隠し、すると本来なら気づくことも稀な機械音がベルッチオの耳管に大きく響いて、とても落ち着かない気分へと追い立てた。
伯爵が椅子に掛けたのは立っているのがやはり辛かったからだ。つい先ほどまで行っていた行為は物理的にみれば酷くされた範疇に入らない。傷を負わされたわけでもないし、体内を無遠慮に掻き回されてもいない。縛られたり、信じられない体位を強要されたりもしなかった。稚拙な器具を入れられ、それが徐々に内側を侵蝕しただけで、最後は自分の手で吐き出したにすぎなかった。ところが己の屋敷、そしてごく私的な空間に戻ってきたのだと自覚した途端、幾分気怠い程度だった筈が不覚にも椅子に座り込んでしまったのは肉体の疲労ではなく精神の疲弊が伯爵から下肢を支える力を奪った為である。躯が休息を求めているのではなく、心が何かに凭れたがっているのだ。
其れはつまりベルッチオにまた理不尽な要求を課すと言うことで、不意に抱き締められた腕の逞しさに思わず家礼の言葉へ是と返してしまったけれど、自室に踏入り僅かながら冷静さを取り戻した今になって、己の考えの無さが大きく自身を詰り始めたのである。断るべきであると聡明な思考は結論したがっていた。俯いた面を上げ、形ばかりにしかならないだろうが、努めて毅然とした声音を作って家礼に退室を促さねばならないと自らに言い聞かせていた。でも思うばかりで下ろした面はなかなか上がらず、言うべき言葉は喉の途中に張り付いて少しも音にならない。ベルッチオは微動だにせず伯爵の様子を見つめている。伯爵は息を吸い込み、幾度も口を思う言葉の形に動かそうとするのだが、その度にこぼれ落ちるのは酷く儚げな溜息ばかりであった。
「伯爵…。」
家礼がそう発したのは決して焦れたからではなく、豪奢な椅子に納まったまま何事かに意識を取られている様が気になったからであり、また伯爵が出先で誰と会い如何なる時を過ごしたかを知りすぎていたから、口を閉ざした主の今は長い頭髪に隠された表情に浮かんでいるはずの辛さに耐える如き翳りを気遣ったためである。
何処か遙か彼方から呼び戻されたような顔であった。唐突とした呼びかけに上げた面には驚きに似た無防備さが浮かんでいた。そこには思考の深みから掬い上げられた安堵も微かに見え隠れする。
「ベルッチオ…。」
呼びかけに答えたのは家礼の名であり、伯爵は今にも形にせねばと思い続けた其れを声に乗せようと言葉を続ける。
「今宵は…、酷く疲れた。お前の申し出は…やはり受けられない。」
此が確かに伯爵の真であったならベルッチオは深く一礼を残し部屋を出ていったに違いない。しかし紡がれた一連の音には徒の色が射す。そしてベルッチオの予想を裏付ける如く、伯爵は言い終わるや否や視線を何もない虚空へと彷徨わせたのだ。二つの異なる色に塗り分けられた眸は、上辺だけの親交を持つ相手ならばいくらでも誤魔化せる様々な表情を持っている。でも誰よりも長きを共にした相手、しかも誰よりも傍らに居た男を謀る自信は欠片もなく、だから伯爵は殊更に何某かを明かさぬよう、ベルッチオの双眸から逃れるかに視線を外したのであった。
「伯爵。」
再び寄越された己への声に伯爵はギクリと肩を動かす。内耳に染みいるほど其れは穏やかで、不意に扉の前で抱きすくめられた時柔らかく髪を撫でた掌の感触を連想させ、強い語気で徒言を咎められるより随分と伯爵を動揺させた。抑えた声音の静やかさが、己の垂れた虚言を見抜いていると確信させたのである。一体何を言われるのか、伯爵は読み切れないが故に不安定な心持ちを抱く。随分と身勝手な言い分だが、出来るなら隠しきれない望みやら願いやらを見透かした上で、気づかぬフリをして欲しいと落とした灯りに薄く照らされる室内をただ眺めていた。
「何か…暖かいものをお持ちしますか? それとも少々強めの酒精がよろしいでしょうか?」
ベルッチオは気づかぬどころか、全く明後日な言を述べた。咄嗟に顔を其方へ向けたのは、予想だにしない問いに驚いたからもあったが、相手がどのような顔でそう言ったのかが大層気になったからでもあった。家礼は先ほどの位置から全く動かず、普段と微塵も変わらぬ姿勢で主のいらえを待っている。不要だと返すべきか、けれど気づけば喉の渇きを覚えていて、伯爵はゆっくりと一度息を吸い込み気持ちを整えると『酒精を…。』と低く返した。
緩やかに閉じていく扉を見つめ、伯爵は自身が驚くほど安堵しているのを感じていた。ベルッチオは確かに己の徒を察し、だが素知らぬ素振りを送ったに違いない。あの男はそうした人間なのだ。だからこそ何もかもを預けると決めた。ただ、此程深く相手を求めるとは微塵も考えてはいなかった。故に伯爵は戸惑うのだろう。人と深く関わるのを疎ましく思い続けた己が、従者である男をより近くに感じたいと願う自分の気持ちが理解できないのだと…。
再び戻ってきた相手に向けた伯爵の面は、とても茫漠としていた。掴みきれない自身の想いを持て余している所為でもあり、数時間前に起こった現実を受け入れられない精神の疲弊がもたらした表情でもあった。其れをチラと視界の内で覗き見ると、家礼は厳かな所作で主の側へと歩み寄り持参した諸々をテーブルの上へと並べた。細やかな細工を施されたグラス、其れと揃いになったピッチャーと芳醇な香を漂わせる筈の琥珀より幾分深い色の酒精を満たしたデキャンタを殊更に丁寧な手つきで一つ一つ置いていく。硝子が木面に触れる硬質な音と共に整然とあるべき位置に並べられたそれらを伯爵はやはりぼんやりとしたまま眺めている。如何にも男の手と言った無骨な指が一つのグラスには琥珀をそして今ひとつには透明な液体を注ぐ。先ず酒精をつづき水の入ったグラスを、ベルッチオは決まり事のように伯爵の前へと置いた。
「お待たせしました。」
この一言までが一連の約束ごとであり、伯爵は其れを耳にして漸くグラスへと手を伸ばした。家礼が選んだ琥珀の銘柄は知れないが、口元へ運んだ其れから立ち上る芳香は普段のものより少しばかり重みのある甘さが漂う。薄く一口を含み口腔で味わったのちゆっくりと嚥下すれば、香りが主張する如くとても丸い味が残った。
「良い香りだ…。」
「お気に召しましたか?」
「ああ、美味だ…な。」
伯爵がつぃと顔を上げる。此処へ戻ってから初めてしっかりと互いの姿を確かめ合う。
「お前は何時も私の望む物を選ぶ。」
そう言った伯爵の眼差しは最前とは異なり大層柔らかな色をまとっている。
「恐縮です。」
頭を垂れる男はその柔和な色味が真であれば良いと思う。が、その反面努めて顕されたものであることも知っていた。
「先ほども言ったが…。」
上げかけた視線の先の伯爵は静かな面もちで続ける。
「今宵は…もう下がれ。」
やはり其れが主の望みなのかとベルッチオは腹の底で落胆と安堵をない交ぜにした心持ちを転がす。此まで主が望んだまま夜を共にしてきた。自らその役回りを買って出たのは最初の一度だけで、以降彼から閨での行為を申し出たことは皆無だった。求められたから抱くと言う立ち位置は従者としては当然とも見えるが、実は随分と狡いやり口だとベルッチオは自覚している。仮に自分が伯爵に対し仕える者としての意識以外を持ち合わせていないなら其れは正しい。けれど敬愛が恋情に、そして愛情へと変化した自身の感情を承知しているならば、此は卑劣で狡く最低の立て前だと確信していた。主の命であるからSEXをしている従者という図式は、上の連中ならば珍しくもない日常の一つであるが、その実伯爵にとっては酷く納得のいかない関係だとも判っている。だから狂おしいくらい互いの肉体を貪ったのち、物理的な充足の直中にあって伯爵は悲しげでやるせない顔を見せるのだと気づいていた。でも、それでいて一時の熱情に抱える憂いを忘れているのも確かなことで、故に伯爵が求める限り応え続ける心づもりを決めていた。
半時より少し前、伯爵の戻る扉前で待ちながら両手に余るやりきれなさを収めようと努め、しかしそんな事は無理だとその度に膨れあがる怒りに近い感情に教えられていた。薄闇の中から浮かび上がる如く現れた姿を目にして、無礼を承知で抱き締めたのは主の為でなく自分自身の不安定さをうち消したいが為であった。それでいてまるで主への気遣いであるかの素振りをする自分を殴りつけたいような嫌悪感も確かに抱いていたが、結局口から出た台詞は相変わらずのきれい事であった。本当はその場で無理矢理にでも接吻をした方が互いに楽なのではないかと迷い、なし崩しに閨房へともつれ込む様が脳裡を掠めたのも事実だった。しかしその直前で踏みとどまったのは、相変わらず胸中に燻る如何ともしがたい怒気の片鱗を感じていたからである。主が誰とどうした行いをしてきたのかを承知していて、其れが止められぬ流れだとも充分理解していても、シーツの上で抱き合ったその時自分は間違いなく別の男の付けた痕跡を探すだろうとベルッチオは考えた。微かに残るかもしれない名前と顔だけを知る男の香りや、薄まらず瑕のように落とされた情交の痕を確かめた瞬間、自分が何をしでかすかを彼は図りきれずにいた。自制するつもりに違いなくとも、予想は常に裏切られる決まりを内包している。もしも抑え切れぬ感情が噴出し、全てを腕に抱く肢体に向けてしまったらと思い、ベルッチオは言ってしまった言葉を少なからず悔やんでいた。言葉を逸した伯爵に飲み物を持ってくるかと無関係な言を吐いたのは、今一度自分を諌める時間が欲しかったのもあり、頭を冷やす暇を必要としての行動だった。
『下がれ。』と言った伯爵の命を受け、ベルッチオは半ば安堵し半ば迷いを捨てきれずにいる。SEXだけが夜を共にする術ではないと思考の片隅では察していて、でも例えば寝台に横たわる伯爵が浅い微睡みに落ちる様を眺めて朝を待てるのかと問わたなら、ベルッチオは是とも否とも返せないのが事実であった。今、主は確かに退室を形にしている。従うべきだとベルッチオは自身を納得させた。
「それでは…失礼いたします。」
殊更にゆっくりと一礼をした。伯爵から数歩離れた其処から扉に向かう足取りは自分でも笑えるほど緩慢であった。扉の前へ辿り着き腕を上げてノブを掴む際、阿呆のように大きく息を吸い込んだ。そして殊更に時間をかけて吐き出しつつノブを廻し手前に引いた。其処から出る折り、一度振り返ってさっきよりもっと深く礼を贈ろうと意味のない約束事を決めていた。
『これで…良かったのだろう。』
最後の一礼をすべく背を返しながらベルッチオは腹の底でそう呟いた。
くるりと返した背が淡い灯火の下、徐々に伯爵から遠ざかっていく。気のせいか普段見慣れたベルッチオの足取りと比べると随分ゆっくりとして見えた。きっとそう感じるのは自分の愚考が見せている錯覚だと伯爵は考える。本当は行かせたくないと言う頭の片隅に隠した己の愚劣な願いを捨てられない故の見間違いであろうと溜息を吐く。屋敷に戻る自分を待っていた男の腕が躯に廻る感触は、今も鮮明に皮膚の其処此処に残る。もっと奥深く、身の内に付けられた嫌悪の痕をベルッチオの腕に甘んじれば簡単に忘れられると判っていて、だがそれらは己も承知して出向いた結果なのだから、彼に頼るのは全くの間違いだとも理解しているからこそ、手を伸ばせば其処に在る気配を遠ざけようとした。けれども乾きにも似た心の虚を埋める者は、ベルッチオ以外に知らないのも実のところで、それ以上に惜しげもなく寄越す柔らかな激しさを己は欲していると伯爵は可笑しいくらい判りすぎていた。
『これで……良かったのか…?』
脳裡に響いたのが自身の声なのか、或いは体内に在る彼の者の呟きなのか微塵も判ぜられない。が、問いかけに大きく意識を揺さぶられたのは事実である。逸らせずにいる視線の先でベルッチオは今まさに扉を開こうとしていた。こま送りの映像を思わせる大層緩慢な動きで扉が開く。きっと家礼は其処で振り返り一礼したのち薄暗い室外へと消えていくのだ。
「ベルッチオ!」
思うより、迷うより前に言葉が口唇から吐出していた。下ろしかけた頭がハッとして持ち上がる。
「情けない主人であると……笑ってくれ…。」
消え入るくらいの言を述べた主は、哀れなほども項垂れていた。
続 >>>>