迷いの夜
=1=(ベル伯/フェル伯)
仰向けに開いた躯は大層無防備で、其れは漸く行為に慣れてきたからの証であり、でもこの後何が起こるのかを知っているからこそ、見下ろす男へ向けられる眼差しには怖れと不安と幾ばくかの諦めが込められているのだ。
もう此が幾度めかと数えるのを止めたのは外出より戻った主が無言で躯を寄せてきた時からだった。出向いた先で何があったのかを訊くほど野暮ではないつもりであったが、無理矢理にでも聞き出したいと腹の底が熱を持ったのは否定できない。
あれは自分が同行しなかった夜会から帰った日のこと、酷く気落ちした横顔に胸中をざわめかせ私室を訪れた夜半、椅子にも掛けず部屋の中央に佇んでいた人が顔を伏せたまま縋り付くかに胸元へ投げてきた躯を抱き寄せて行為へと雪崩れ込んでからだと記憶している。
明けの鳥が遠い空で高く低く囀るまで抱き合っていた。実際其れは珍しく、恐らく初めてだったに違いない。普段なら行為の痕を消すが早いか何もなかった顔を作り家礼が在るべき場所へ戻っていく。時に名残を惜しみ退室が遅れれば情のない主の声音が其れを促すのが決まり事だった。
ところが東の空が薄く色を変え始めても絡んだ腕や足を主は解く素振りもなく、当然ながら事後の微睡みに落ちているなどあり得ないのに、蒼白の腕は掴んだ温度を手放すことをしなかった。
家礼が情事の数を数えなくなったのと、主が何かに突き動かされる如く行為を求めるようになったのは同じ頃からのことで、今になって記憶を手繰り寄せてみればどうやらあの夜を境にしていると思われた。
胸に与えられた愛撫だけで充分に気持ちは昂ぶっているかに見えた。最初長い髪を分け現れた項に吸い付いていた口唇が肩へとすべり、微かな跡(しるし)や明かな痕(あと)を残して胸へと辿り着いた時分には欲の先触れが形となり始めていた。
乳首に触れたのは意外にも口唇ではなく、無骨な指の腹であった。まだその時は触れても硬さを持ってはいない、でも心持ち敏感になっていた先端をゆるい動きで潰すように撫でているうち、瞬く間と言うほどではなかったけれどほどなくツンと立ち上がり呼吸の中に細い吐息が混じりだした。特に片側が感じるらしい。家礼にすれば右で、主にとっては左の突起へそうしてやんわりと触れてやればあからさまな情動が凝りとなって欲深さを主張した。
勿論、片方を留守にしはしない。指で弄る傍ら口に含めば、温い湿り気と舌先の感触でやはり同様の強張りを見せる。
「…ん…。」
シーツに投げ置かれた腕が上がり、胸にしやぶりつく男を捜す。ゆらゆらと宙を彷徨い、すぐに落ち着く場所を見つける。胸上に屈み込む家礼の首筋にしなやかな腕が絡みついた。張りつめた筋肉を誇示する褐色の首に蒼白の腕がまとわりつく様は、ある種の艶めかしさを漂わせた。
「ぅ……ん…。」
口内で転がされた凝りをきつく吸われた途端、鼻先から甘すぎる音が零れ、其れに呼応するとでも言うように首にある腕が厚みのある肩や背の上を滑った。もどかしいのか、或いは善いのか、舌先の感触に腰が跳ね、また濡れた声が一つ落ちた。
今宵も主から無言の命が下され、其れは夜会より戻る馬車の中でのことだった。ルナでも頻繁に集いへの誘いはあった。が、パリに来てからの頻度は彼の地の比ではなく、下手をすると一晩に複数の招待を受けることもあった。事前に招待客の顔ぶれを調べるなど容易いことで、主は手にしたリストをざっと眺め受けるか否かを決めている。誰が主催かではなく誰が招かれたかが重要であり、招待客の中に例の名が一人でもあれば主は快い返事を返していた。
従者は別室で主の戻りを待つ慣わしであるから、主が誰とどのような会話を交わしたかなど知りようもなく、しかし馬車に乗り込むなり大きく嘆息し酷く険しい表情を作る横顔を確認したなら、誰と顔を会わせたかは歴然としていた。
その男の屋敷へ招かれたのはたった一度、その後は相手の公邸を訪ねたり此方が親睦を名目に招いたりした。怜悧な面立ちを崩さない主の胸中がいったいどのような思いで揺らいでいるかは判ぜられないが、少なくとも平穏とはほど遠い心持ちだと察せられる。
故に夜会において顔を会わせる事実が主に不安定な感情を抱かせるのだと考えた。まったく何処にも持って行きようのない、渦巻く激情をやり過ごす為にSEXを求めるのだろうと得心していた。そう思うのが何より筋が通るし、至極自然な思考だと頷けたからだ。
今夜、広間に主が在ったのは高々一時間にも満たない長さで、それにしては相当に強い嫌悪の翳りが面に射していたのは、恐らく短い会話でもした折りに許し難い台詞を相手が吐いたからだと予想した。
そうでなければ主が二つ目の嘆息を落としたすぐ後、家礼を睨むくらい強く見つめて音にしない命を寄越すことはない筈なのだ。
『寝室へ…。』
唇が確かに此を告げる形に動いた。家礼は常と同じ慇懃な態度で一つ頷く。たった其れだけの決め事であった。
胸を離れた掌が脇腹を掠め臍の辺りをさすっていたのは僅かの事だった。今夜の伯爵は普段から想像もできぬくらい貪欲さを剥き出しにしたり、けれど不意に羞恥で顔を背けたりと大層安定を欠いている。
乳首への刺激で少なからず欲情したと思う間もなく、急にベルッチオの肩を押し戻して逃れる仕草をした。戸惑う相手が身を引く素振りをすると、今度は執拗に唇を求める。伸べる腕が逞しい肩を掴み引き戻し、降りてくる唇に己の口唇を強く押しつけた。その意味を図るゆとりなどはなく、ベルッチオはきつく抱き締め薄唇を奪う。昂奮の為か、はたまた収めきれない感情の所為かで戦慄く口吻をゆっくりと舐めたのは、其処が常よりずっと自分の温度を求めているように思えたからだった。
人ならば持ち合わせる焦燥やら不安やら危機感やら、そうした諸々が躯の内側に吹き堪って出来る虚を意識すれば、其処を埋めたいと思うだろうし乾いた心が潤いを求めもするだろう。大儀の為、意に添わぬ言を吐き作り笑顔を張り付け誰よりその面(つら)を見たくもない相手と親しげに語らったりすれば、真意と現状の狭間で精神が軋みをあげても無理はない。其れを一時の熱情で紛らわせんと足掻くのを愚かだと言い捨ててしまえばそれまでだ。他者が侮蔑の視線を投げたとしても其れを責めることが出来ないのと同様に、忠誠と敬愛と諸々を凌駕しかねない恋情すら抱え込んだ男が、それらの対象である相手の望みを何もかも叶えてやりたいと腕を伸べる行為を嘲ることなど不可能なのであった。求められたら其れを上回るものを与えたいと、家礼は伯爵の舌を絡め取り乱暴なほども強く吸った。
首筋に在る二つの手が張りのある褐色の皮膚へ爪を立てる。鋭利な痛みは強引な接吻への糾弾のようでもあり、また二度と離すまいとする情欲の楔にも思え、ベルッチオは舌根を尚も拘束し苦鳴すら啜り尽くす勢いで震える舌を貪った。
息を吐く為に離れる数秒が待ちきれないと伯爵は相手の口唇へ自身を薄唇を寄せる。たったそれだけの合間では満足に大気を取り込めなかったにも拘わらずにだ。再び重なる唇が細かく震えるのは、口蓋へ這わせた舌に感じているだけでなく、まったく足りない呼吸の苦しさからだろうと考えながらも、平素からは想像すらできない主の貪欲さを振り切ることができず、家礼は食らいつくかの接吻を続けた。
互いの唇を吸い合うことで満足できる筈などなかったが、口づける行為に没頭していればそれだけが全てであるかの充足を感じてもいた。だが実はどちらも此の先へ落ちていこうとしているのも事実で、呼吸を求め僅かに分かたれた伯爵の口吻から零れる濡れそぼった吐息を拾った途端、ベルッチオは最前から感じていた情動の一旦が淫らがましい願望に変わるのを確信した。
乱れた裾を払い、下着の上から軽く触れただけで其処は既にしっとりと湿っていた。掌で包み、ジワリと圧迫する。仰向ける肢体がブルリと震えた。緩く円を描いて押しつける手に新たに染み出した汁の温度を感じる。
「ぅ…ぁ…。」
きつく閉じられていた双眸が驚いたように見開かれ、伯爵は切迫したかに短い喘ぎを洩らす。薄い布の内側で性器が脈打った。
「う…ぅ…っ…。」
射精感が急速に高まったらしく、伯爵は脇腹をひくつかせ顔を歪める。もうそれだけで充分だった。ベルッチオは薄い布を剥ぎ取る。現れた陰茎は厭らしく色を変えていた。
半ばまで勃ちあがったペニスを口に含む際、伯爵は微かにひきつった微音を発した。感じていると言うより、温い口内に取り込まれた感触で放ってしまいそうになったのを堪えた感がある。確証はなかった。そこで窄めた舌先を裏筋に沿って動かしてみた。
「ぃっ…ぁ……。」
両足の指に力が籠もる。やはり意思とは無関係な吐精の衝動がそこまで来ているらしい。ずくずくとした疼きが明確な欲へと形を変えつつあるのだ。ベルッチオは口の中で一度吐き出させるべきか?と迷う。が、彼は含んでいた性器を手放し先端に軽く口唇を当てるだけに止めた。
伯爵があからさまに不快感を訴えなくなったのは少し前からだ。しかしだからと言って全く苦痛を感じていないかと推測すれば恐らく答は否である。薄くはなっているらしい、そしてどうにか表面に出さず耐える術を手にしたのかもしれない。それでも喘ぎの中に潜む低い呻きは消しようもなく、ならば別の愉悦を施し誤魔化かすようし向けるのが貫く側の義務であろう。今なら、迫り上がる射精の誘惑に意識の半ばを占められているこの時なら、内部を指で解す事への抵抗も幾分軽いに違いない。
置き去りにされた伯爵の性器は寄る辺なく震えている。ベルッチオは陰茎を柔らかく包むが如く指を絡ませた。
「ぁ…あぁ……ん…。」
伯爵が触れられる喜びを淫靡な音にする。二三度、ゆるく扱いただけで先端はとろとろと粘液を滲ませる。やはり悦は其処まできていると確認し、ベルッチオは香油の瓶を取り出す為に片手を枕の下へ忍ばせた。いつからか薫り高い潤滑油の入れ物はその場所に置かれる決まりとなっていた。
衝き入れた指を包み込む内側の柔らかさはゆったりした収縮を繰り返している。襞に擦り付ける指の腹を感じ、伯爵は息を詰まらせる。執拗に同じ動きを続けるともどかしさが込み上げるのか、細切れの音を繋いで家礼の名を呼んだ。引き込もうとする内動に逆らわず少し奥へと肉を分けて進めば、其れはあまり好まないらしく低いうめき声が『止せ』と命じる。だが言の意図とは裏腹に、苦渋を孕むそれさえ淫靡な響きに聞こえてベルッチオの股間をざわつかせた。
「明日……お前は…っ…う…残…れ…。」
折り曲げた指の関節で内壁を擦っていると伯爵が唐突と言葉を発した。確かに明日も一つ招待を受けている。詳細は未だ聞いていないが、此までとは異なるささやかな集いだと知らされていた。
「いえ、お供するつもりでおります。」
「ぁ…、う…ん…、共は…っ…バティ……ス…ぁあ……を……ぁッ…。」
「何故、残れと…?」
「それ…は…、…はぁ…ん…ぁ…。」
紡ごうとする気持ちを余所に奥へと忍び入る異物の刺激で言は途切れ先が見えない。
「あの……男…が…、いっ……ぅ…あぁ…あ…、来…っ…ん…。」
「ならば、尚更お供します。」
「駄目だ…、残…ぁっ…れ…。」
「どうか、その理由(わけ)を…、お知らせください。」
「恐ら…く、私は……あの…うぅん…男…にッ…。」
確かな形になったのは其処までだった。新たに起きたうねりはベルッチオの指を強引なまでに先へと飲み込み、誘われるまま深みを目指した指先が伯爵の最奥へ届いたのである。
「ぁ…あぁ…っうぁ…ん…ぁあ…ぅあ…っ。」
身を捩らせる伯爵からそれ以上は望めない。激しい快感に飲まれた口唇が垂れ流すのは悦にまみれた淫声だけでしかなかった。
続 >>>>