存在の証

=6=(ペッポ×伯爵&ベルッチオ×伯爵)

 一つの躯に異なる人格が同居するとは一体如何なる状態であるのかを他者が理解するのは難しい。実のところ其れを選んだ者にしても、己が身に起こってみて初めて理解できるのである。いや、理解など全く不可能で次々と顕わになる自身の変化をただ諦めたかの如く受け入れる他に術はない。
 しかし伯爵は彼者の何もかもを許しているかと言えば否である。少なくとも根元となる人間の部分を明け渡すのを頑なに拒み続けている。本当は人の形のみを残し、粗方を譲ってしまった方が楽なのかも知れない。そうすれば、明けない夜に一人抗い、異形へと変貌する己を直視しなくても良いのだから。
 波打ち際に築いた砂の楼閣、寄せてくるさざ波が徐々にその形を崩していく。彼者を身の内に宿すのは、徐々に侵蝕されていく其れに似ていた。人の持ちうる一部を放棄したことに別段の異存はない。肉体を形作る細胞を別の粒子に置き換えるのは割合と都合の良いものだった。外傷は瞬く間に消え、痛感は非常に曖昧となる。他者より何某かの傷を与えられても眉一つ動かさず怜悧な面差しを崩すこともない。狼狽えず、慌てもせず、凶器を振りかざす相手を尽くなぎ払うも可能だ。伯爵の抱く大儀を成就する為に振りかかるであろうそうした凶行を予測するなら、此は実に具合がよかった。
 ただ、内面に保持し続ける志や想いや心などという不確かな感情を手放さないから、人に在るべき諸々を逸するのは時として酷く不安定な揺らぎをもたらす。例えば夜の静寂(しじま)に一人あれば、昼には全く気にもしなかった彼者の囁きが煩わしいほどに精神を苛む。それでいつしか無防備な心を晒す眠りを諦めた。泡沫に忍び寄る甘美な声音はあまりに魅惑的で、眠りのうちにあっては不条理な提案に頷いてしまうとも限らないからである。
 また人ならあって然るべき温度を失ったのも意外な弊害を与えてきた。普段、何も籠もらない握手やら儀礼的抱擁は何ら問題はない。相手が伝えてくるのがあくまでも形式ばかりの社交だからである。笑顔で手を握り合ってもそこには友愛の欠片さえない。数秒ののち、触れていた掌が離れてしまえば単なる他人へ戻る。故に感情は動かない。けれど秘めた想いや強い情感を抱きながらの触れあいはとても難儀だ。指先が刹那掠めただけでも温もりに乗せた敬愛とか憧憬、そして恋慕を伝える。受けるつもりがあるなら構わない。しかし此方にあるのは拒絶である。流れ込もうとする想いは大層重く息苦しかった。裏切りの果実と呼んだ少年が己に好意を抱き、更に抱いたものが日を追う事に育ち熟れていけば、相手は何のてらいもなく体温と共に其れを寄越す。深きに仕舞い込んだ筈の脆く柔らかな部分を少年の無垢な心は容赦なく斬り付けた。自らを保護しようと極力直接的接触を避けてみたところで、面会の最後には友情の形として時に手を握り或いは軽く抱き合う自然な流れは拒めない。そのうち人の体温にすら感情を揺すられるようになる。己が摂氏36度の温度を有しないから、余計に其れを感じ取ってしまうのだと悟った。体温と心、此の二つは伯爵にとってあまりに厄介な代物となる。
 自らが策の一つとして呈した子供との面会は知らぬ間に伯爵を大いに翻弄し、終了ののちも一頻りの不安定な気持ちを持て余す結果を呼んだ。ペッポと面談し奴の誘いに首を縦に下ろした時、伯爵は確かに此の払いきれない不確かさを抱えていた。一時の戯れを望んだのはそうした理由があったのだ。


 主が寝室へと言い渡したなら向かう先は確かに寝室なのだけれど、ペッポがやって来るたび使われていたのは主寝室ではなく普段は扉の開くことなどない控えとされる寝室のことだ。ベルッチオは迷いもせず其方へと足を向ける。只でさえ人気のない屋敷の中が、日付も疾うに変わった時刻になれば薄気味の悪いほどひっそりと静まりかえる。自分の靴音が意外なくらい響き、無意味だと判っていながら家礼は殊更に足音を忍ばせる。
 あの時伯爵はペッポと如何なる行為を重ねているかを知っているのか?と訊ねた。ベルッチオは顔には出さず苦笑するしかなく、最初に戯れを行ったあと全ての始末をしたのが誰であったかを忘れた風な主の言い様に一瞬からかわれたかと訝ったのは事実である。性交の痕跡を拭い、急ぎ持ちこんだガウンを渡し、腰の立たぬ主へ肩を貸して寝台まで行ったのは間違いなく彼である。しかも容赦のないSEXであった事を見て取り、夜明けの鳥が啼くまでまんじりともせず寝室の前に在ったのは、慣れぬ行為が伯爵へどれほどの負担を及ぼしたかを懸念しての事だった。ベルッチオは他人のいちもつをねじ込まれた経験を持たない。が、逆を請われ従った憶えがある。手加減なく貫いた結果、相手が酷く痛みを覚え場合によっては暫くの不調さえ訴えるのを知っている。寝室から微かでも苦痛の声があったなら、例え入室を拒まれたとしてもこの時ばかりは従わぬ気づもりでその場に立ち続けた。結局何事もなく朝は訪れ、伯爵も普段と変わらぬ素振りで終日を過ごしていた。しかし自身を見事に制する主が、一切を飲み込んで一夜を送ったとする予想は恐らく外していないと思っている。
 そこまで判っていながらベルッチオは主の元へ向かう。また、伯爵がわざわざペッポとの性交について問うたのかも判然としない。忠実な家礼は実のところ非常に迷っていた。請われたままを行えるのか?主の言うがままを施す自信はあるのか?そして性欲に溺れ思わず伝えるつもりのない想いを口にしてしまわないか?
 幾ら自問しても答えはなく、迷いは迷いのまま胸中に燻るばかりである。だが自らが言い出したことだ。今更後へ引くなどできない。一歩践みだしては逡巡し、次ぎの一歩で腹を括り、再び先へと足を出せばまた躊躇う。そんな愚行を繰り返している間にその部屋の扉へと辿り着いてしまった。
 自分でも驚くほど重苦しいノックの音が鳴る。まるで家礼の胸中を表すかの響きであった。
「入れ。」
主の言う寝室が此処に間違えなかったと、入室を促す声音が教える。ゆっくりとノブを廻し、躊躇いがちに押し開ける。伯爵は寝台から少し離れた椅子に掛けていた。
「失礼いたします。」
深々と頭(こうべ)を垂れると苦笑ともとれる笑いを含んだ声がこう言った。
「気が変わらなかったらしいな。」
「はい、そのようで。」
「酔狂な男だ。」
「そうかもしれません。」
常より主には礼を尽くす男である。が、今夜は其れが度を超えていると思えるくらいベルッチオは畏まっていた。
「此方で少し付き合え。」
見ればテーブルにタンブラーとグラスが乗る。ベルッチオは後ろ手に扉を閉じ、差し向かう形に置かれた椅子へ腰を下ろした。
 グラスに琥珀色の液体を注ぐ。たった其れだけの動きも伯爵が行うだけである種儀式めいた厳粛さを醸し出す。男にしては細い指先がグラスを掴み、其れをつぃと差し出す。優美な所作である。ベルッチオは知らず其れに見入っていた。
「どうした?」
「いえ…、戴きます。」
受け取る刹那、互いの指先が微かに触れる。ベルッチオは自分が無闇に動揺しているのを感じ、其れを伯爵に悟られぬよう一切の表情を消す。そして何喰わぬ顔でグラスを一息に飲み干した。
「ベルッチオ…。」
「はっ。」
「手加減などするな。気遣いは不要だ。」
「……。」
黙り込んだ家礼に伯爵が問う。
「異存でもあるか?」
「いえ…。」
「遠慮も要らぬ。」
「畏まり…ました。」
グラスの液体に視線を落としそう答える。一体主は何を望むのかが解せない。しかし抗うつもりも、問い返すつもりもない。
「伯爵。」
「何か?」
「もう一杯、頂戴できますか?」
主は微かに口元を緩め、グラスを受け取り酒精を注ぐ。従者の腹を読みとったらしく、返されたグラスには先ほどより遙かに多く琥珀が揺れていた。
 不作法を承知でベルッチオは酒を流し込む。喉元を焼いて落ちる液体と共に迷いと躊躇いを飲み込んだ。けれど、何より深くへ落としてしまいたかった想いだけは、肋骨の奥へと引っかかり彼の望みを笑い飛ばすかに小さく震えた。




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