存在の証

=3=(ペッポ×伯爵&ベルッチオ×伯爵)

 ベルッチオが主の書斎へ顔を出したのは少年が屋敷を後にしてから半時間ほど過ぎた頃だった。玄関でアルベールを見送った直後、重厚な扉が閉じ切るのを待たず踵を返した伯爵の横顔が酷く沈鬱に見えたのが気になっていた。実は主に訊ねたところで恐らく望んだ返答を期待できないし、またその様に踏み込んだ言動を主人はあまり快く思わないと知っているから敢えて口にしなかったけれど、あの子供と面会したあと程度の差こそあれ同質の表情が其の横顔に在るのを彼はとても気にしていた。
 頃合いを見計らって様子を伺ったのが実のところだ。用向きは何でも構わず、最もありがちな台詞を用意し彼は主の元へと足を運んだ。扉へ確かに二つ拳を当てたのに何ら返答がないことから、ベルッチオは無礼を承知で真鍮のノブへ手をかけた。
「失礼いたします。」
張りのある声音が気配を探る。しかし其れにも一切が戻らない。ベルッチオは痺れを切らし扉を押し開けた。
 デスクに向かう背を思っていたが其処に伯爵は居らず、フロアに置かれた長椅子に掛ける姿が彼を迎えた。瞬間、彼は次ぎの台詞を躊躇った。主は長椅子に深く身を沈め何をするでもなく座している。ベルッチオに言葉を飲み込ませたのは伯爵の面に張り付いた表情であった。床より数十センチばかり上の虚空に視線を投げた其の顔は恐ろしく虚ろで、魂の抜け落ちた躯(むくろ)を連想させたのだ。
 大股に歩み寄ったのは掻き立てられた不安の為だった。
「伯爵。」
声を発したのはそうせざる得なかったからである。反応が欲しかった。例えば指を動かすとか、眸が自分へと向けられるだけでも構わない。兎に角、其処に在るものが確かに己の主である確証を求めた。
 つぃと顔が上がるのを見て、ベルッチオは不覚にも安堵の息を漏らす。微音ではあったが普段の鋭さを伯爵が逸していなければ間違いなく気づかれた筈だと思った。しかし家礼を捉える双眸に鋭利な輝きはない。茫漠とした曖昧な視線が向けられただけだった。
「お疲れになりましたか?」
努めて抑えた言い回しで内心の焦燥を隠そうとした。口を突いて出たのも大して意味のない言葉だ。普段なら決してこんな事を訊いたりしない。だが此が主を引き戻した。焦点を忘れた双眸が眼前に在る者の姿を理解し、茫洋とした眼差しに意思が宿る。己を見下ろす従者の存在に気づいた伯爵は失笑ともとれる不確かな笑いを一度浮かべ、それから長く深い嘆息を落とした。
「いいや…。」
何に対する返答か瞬時に判ぜられなかったのは沈黙が長すぎた所為で、ベルッチオが漸く自分の疲れたか?と訊ねた其れへの反応なのだと理解した時、既に主は普段と変わらぬ面もちを取り戻していた。
「何かお持ちしますか?」
「いや、今は結構だ。」
そう言ってベルッチオから視線を外した伯爵は口を閉ざす。再び静謐が室内を支配した。ベルッチオは己がどうすべきかを見失う。もう次ぎに発する台詞の蓄えはなく、だからといって伯爵を残し退室するのも御免だった。だいいち、先ほどの様を目の当たりにした所為で長椅子に掛ける姿から目を離せずにいる。戸口と主の大凡中間の辺りで棒立ちになり阿呆の如く相手を見つめていた。いっそ此処から去れと命じられれば良いと思い始めたところ、不意打ちのような問いが伯爵から発せられた。
「ペッポからの報告はあったか?」
「昼の定時はありました。」
「夜には来ると思うか?」
「ハッキリとは判りませんが…。」
もしも今夜、伯爵があの小娘を呼びつけたとしたら三度目になる。少年と面会したのち、深くは判らないが何らかの気持ちを持て余すと伯爵はペッポを呼び寄せる。忍び込んだ屋敷の雑事が終わってからになるので、毎回彼女がやって来るのは夜半近くになった頃である。私室へ招いたそのあと、主とペッポが何をしているのかは想像しなくても察しが付いた。恐らくその戯れが始まったのは彼女が初めて此処へと連れて来られた晩からだろう。ベルッチオは酷くいたたまれない心持ちになる。仕える者としてのプライドと、自身では極力否定しているが残りの感情は嫉妬に違いない。あんな思慮の欠片も持たぬ餓鬼に身を委ねねばならない伯爵への悲哀も幾分あるかもしれない。それらがない交ぜとなり鳩尾の付近に苦い凝りが生まれる。ベルッチオはやるせなさに下ろした両腕の拳を固く握りしめた。
「午後の定時があったら今夜此方へ来るように伝えてくれ。」
思った通りの命が下る。ベルッチオは了解をあらわそうとした。ところが彼の口から吐き出されたのは自分でも驚愕する台詞だった。
「私では駄目でしょうか?」
向けられた双眸が見事に瞠目するのを見つめながら彼は今一度信じがたい進言を発した。
「今夜は、私を…お召しください。」
 色の付いたグラスの向こうに見えたベルッチオの眸は真摯そのもので、決して冗談や洒落を言っているのではないのは歴然としていた。それに普段からそうした戯れ言を垂れるのはバティスタンの領分で、彼はそうした発言を軽くいなすのが役割だ。家礼は至極真面目に言葉を繋いでおり、しかも眼差しに込められた必死さが伯爵に否と言わせぬ圧迫感を孕んでいた。
「私は……、お前にそうした役割を負わせるなど…考えてもいない。」
「自分は全く構いません。」
「それは…私がペッポとどうした行為を重ねているかを知っていての言葉だと、そう理解して良いのか?」
「勿論です。」
相変わらず視線は外れない。それどころか刹那を刻むごとに伯爵を見据える眼光に力が籠もる。首を横に振ろうものなら無理矢理にでも是と言わせるほどの強引さが伯爵を威圧した。
 一分弱の攻防。室内にみっしりと張りつめた沈黙。ベルッチオは伯爵の口元を、主は家礼の威眼を瞬きも忘れ凝眸した。根負けしたのは主だった。ふっと視線が外れたと思うと伯爵から薄い苦笑の声が洩れる。
「お前の諸々が済んだら寝室へ来るが良い。」
「有り難うございます。」
「ベルッチオ…。」
「何か?」
「お前にそうした趣味があるとは知らなかった。」
語尾が微かに揺れている。呆れたと笑っているのは明かである。家礼は些か釈然としない風にこう言った。
「趣味なんかはこれっぽっちもありません。」
「趣味もなく酔狂なことだな。」
『貴方は別だ。』と、ベルッチオは腹の底で大きく声を上げる。けれど其れが音になることはない。彼は常に適切な台詞を用意しているから、当然それを返した。
「野良猫が付け上がるのが気にくわないだけです。」
「なるほど…。」
では…と一礼しくるりと返る背にもう一度主の声がかかる。
「ベルッチオ、気が変わったなら来る必要はない。」
「恐らく気は変わらないと思います。」
引かれた扉に吸い込まれ消えていく背を伯爵は見送った。しなやかな背筋が今宵は自分の戯れに付き合うらしい。思わず吐き出した溜息の意味は安堵と諦めを含んでいる。最も近くに在るからこそ、それ以上近づいてはならない気もするし許される気もする。どちらなのかは今宵の閨房で知らされるのだろう。




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