存在の証
=1=(ペッポ×伯爵&ベルッチオ×伯爵)
扉を叩く音一つにも各に個性がある。今、二つ響いた其れの主(ぬし)は間違いなくベルッチオだと伯爵は察していた。
「失礼いたします。」
些か慇懃がすぎるかとも思しき所作で思った通りの声音と共に扉から家礼が顔を覗かせた。
「モルセール子爵がお見えになっておりますが…。」
つまり、家礼はあの小僧が相変わらずの不躾さで唐突とやって来ているが果たして面会を許すおつもりか?と訊ねているのだ。
伯爵は暫し黙り込む。少年との間に確乎たる信頼を築くことが最初の目的だった。其れは剰りにも容易く成就し、実を言えば少しばかり拍子抜けするほどでもあった。好きなときに訪ねれば良いと言ったのは己であり、少年が言葉通りの気安さで来訪するのは喜ばしい筈なのだが、全てを受け入れてしまうのが得策とは言い難いと気づき始めていたのである。
叩けば必ず開かれる扉は必要だ。けれど其れだけでは何かが欠けている。信頼の裏に潜む一筋の虚ろを与えるべきではないかと伯爵は逡巡していた。時には失望や落胆、そして疑惑が存在してこそ信頼は強さを増す。曖昧な理由で或いは理由すら分からないまま扉を閉ざされた時に感じる、受け入れられない可能性を知らしめるべきだと彼は決した。
「どう、なさいますか?」
思考に沈む主(あるじ)へ抑えた問いが向けられる。
「今日は…、所用でお会いできないと伝えろ。」
「畏まりました。」
視界の端で深く礼を寄越す姿を確認し、伯爵は再び机上に幾枚も開いた空間モニタへ視線を戻した。
ゆっくりと閉じていく扉。背を返し離れていこうとする気配。重厚な木製の其れが外部と室内を遮断する直前、鋭い声が飛んだ。
「ベルッチオ!!」
「何か?」
いらえは即座に聞こえ、再び顔が覗く。
「やはり会おう。」
「宜しいので?」
「客間に……。」
言いかけて言葉を切る。
「いや、テラスへお通ししろ。」
「はい。」
返事とは裏腹に『テラス』と言う意外な場所への訝しさがベルッチオの顔を掠めた。
屋敷の中庭に面したテラスへ主が足を運ぶことは滅多にない。まして其処へ客人を通すのは初めてである。家礼が怪訝さを覚えるのも当然のことだった。だが有能な男は不要な質問などしないし、仮にしたとしても主が答える謂われもない。故に彼は何事も発せずその場を離れた。
初めての時は地下の荘厳な空間へ、次は当たり前の客間、その次ぎも客用の部屋ではあったが別の応接室へ少年を招いた。上階には未だ使われていない部屋が幾つもある。年若い者は物珍しさを好む。特にあの子供は其れが顕著だ。それで今日はテラスへと決めた。しかも其処で少年は予想の欠片さえ抱いていない台詞を聞かされることになる。
感じるのは不安か、落胆か、それとも懐疑か…。 鳶色の双眸に射す色を思い描き、伯爵は口の端を微かに引き上げた。
-+-存在の証-+-
風がそよぐ。降り注ぐ陽射しは午前の遅い時刻に相応しい薄い黄味色の輝きを纏う。往来の喧噪がどうして此処まで届かないのかが不思議なほど穏やかな空間が確保されていた。
アルベールは通された部屋が少なくとも来訪者を迎える為でなく、主に一時(いっとき)の安息を約束すべく設えられた場所である事実に僅かな驚きを覚えた。簡素でいて上質な調度と光彩をふんだんに取り込む壁に大きく開けた硝子扉、その先に張り出したテラスと更に其処から数段の階を降りれば広がる中庭が決して客をもてなす目的で作られたのではないと主張している。これまで通された部屋とは明らかに異なっており、主のより近くへ践み寄ることを許されたのだと感じた。だから最初は単純に驚き、すぐに得も言われぬ喜びに顔を綻ばせた。
テラスへの扉は開いている。少年は迷わず其方へ足を運んだ。湿気を含む甘い香は緑の息吹である。殊更に飾り立てず、しかし細部まで手の入った庭はあの地下に広がる亜空間とは実に対照的だ。さりげなく何処か素朴で懐かしさを漂わせる此方と、贅を尽くした幻想世界のどちらが主の好みなのかと彼は取り留めのない事を脳裡で転がした。
空の高見から微かに聞こえる鳥の音が虚栄に満ちた都市の直中であるのを忘れさせ、アルベールは惚けたかに突っ立ったまま中庭を眺めていた。
「お待たせして申し訳ありません。」
背後から掛かる声に肩が跳ねた。少年は自分の頬が大袈裟に火照るのを感じた。振り返る仕草は不自然そのもので、内心の動揺を隠そうとしたのが歴然としている。伯爵は其れに向け柔らかな笑みを作り、唐突と声を発した不躾さへの謝罪を述べた。
「いえ、俺がボーっとしていたからちょっと驚いただけです。」
こちらこそスイマセンと小振りな頭をコクリと下げアルベールは相変わらず恥ずかしげな笑いを浮かべている。
「お言葉に甘えてまたお邪魔したのですが、お忙しかったですか?」
気遣いを問いにする。主がなかなか現れないから気づいたに違いない。其れを気が回らぬと指摘するつもりなど更々無い。
「少しばかり立て込んでおりましたが、丁度手が空いたところでした。」
「あっ…、スイマセン。やっぱりお忙しかったんですよね?」
「いえ、殊更にと言うほどではないのです。少々込み入った用事が舞い込んでおりましたが先ほど片づきました。」
必要以上に双眸を細め親愛を込めた笑みを湛え伯爵は気にしないで欲しいと続けた。
「俺、最初は特に行き先なんか決めていなかったんです。」
唐突としゃべり出す。子供にありがちな行動だ。頭で考えたものが直ぐさま形となって吐出し、其れをすべきか否かを判ずるなどしない。相手の都合も考えずやってきた自分の行為へ理由付けをしようとしているかである。
「天気が良かったから出かけただけで、バイクだから…少し遠出しようくらいしか考えていませんでした。」
フッと持ち上がる視線が相手の様子を伺う。伯爵が自分の発言をどう捉えているかを確認したかったのだろう。しかし相手は変わらぬ笑みのまま自分を見つめている。アルベールは先を話し始めた。嫌がられていないと安堵したからだ。
「通りを走っていたら馬車とすれ違ったんです。少しだけ…伯爵の馬車に似ていました。あ!でも色が同じだったくらいで、あんなに立派な馬車ではなかったです。そうしたら…急にお会いしたくなって、失礼を承知でうかがってしまいました。」
「思い出して戴けて、光栄です。」
深く響くその一言がアルベールに本格的な安堵を与えた。弾かれたかに上がる顔一面に鮮やかな少年の笑いが広がった。
「ところで、宜しければ彼方でお茶をご一緒したいのですが…。」
伸べられた腕がテラスを指す。アルベールは自分がずっと突っ立ったまま伯爵に相手をさせていたのに気づいた。新たに浮かんだのは羞恥の表情ではない。配慮に欠ける自分への悔しさを孕む唖然とした色が鳶色の眸を曇らせた。
「あ、有り難うございます。 少しお話できたらすぐに帰ります。」
「そう仰らず、お時間の許すまでおつき合いください。」
「ご迷惑じゃないですか? 未だご用事が終わられていないんですよね?」
「其れは夜にでも片づけるつもりでおります。」
どうかお気になさらず…、歩み寄った伯爵の腕が少年の肩に乗った。軽く促す掌に相手の緊張と動揺が伝わる。歩調がぎこちないのは気のせいではない。アルベールは確かに好感以上の情を抱いている。
続 >>>>