*路傍の影*

チビ刹→アリー(ほのぼの?)

 何かが勢いよく背中へ当たった。少年はビクリと体を震わせて双眸を大きく見開いた。眸に映るのは暗がりに折り重なって眠る小さな姿。ムクリと起きあがって後を振り返ると、彼の背を直撃したのは、すぐ傍らで寝ていた同胞の足だった。土間に厚地の布を敷き詰め、子供らはそこで眠る。十数人が寝るには充分な広さがある。けれども小さな兵士達は、何故か一カ所へ集まり、寄り添って横になった。だから隣の子供が寝返りのついでに少年を蹴ったのだ。それは別に珍しくない。だから彼は直ぐにもう一度寝入ってしまおうとした。地平線に歪み潰れた蜜柑色が顔を出せば、こんな静けさを世界は忘れる。轟音と爆音、怒声と悲鳴、更に区別の付かない様々な音が周り中を埋め尽くして、彼らを急き立てるのだ。遠く砂の上を撫でる風音が聞こえるような、たれ込める静寂の中でぐっすりと眠りたいなら、今を逃してはならなかった。
 一度、彼は横になり目を閉じる。深く息を吸って吐き出す。周囲から少年を包む柔らかな同胞達の寝息。それに意識の全部を委ねれば、簡単に微睡みの階へ片足をかけられるはずだった。けれど彼は暫くすると大きな二つの眼(まなこ)を開き、今し方と同じように起きあがる。そして今度は仲間を起こさぬよう細心を払いつつ、そっと粗末な建物を抜けだした。後ろ手に扉を閉め、少年はその場に佇む。眠気が飛んでしまった。目蓋が重くない。頭もくっきりと冴えている。彼は不思議な気持ちでフッと顎を持ち上げた。墨を流したような空が見える。それは珍しいことだ。周囲を砂で囲まれたここの空は、いつも薄くけぶっている。朝でも昼でも夜でも、何処かで起きる砂嵐や、低い辺りへ舞い上がった細かい砂粒で、空の色は常に掠れた薄茶に染まっているはずだった。それが真の黒で塗られている。更にチカチカと瞬く星の光。少年は少しの間、ひどく珍しいものを見つめる眼差しで、真上の天を仰いでいた。
 なにが彼の眠気を払ってしまったのか。少年自身にも思い当たるものはない。偶々浅くなった眠りの淵から現へ引き戻されてしまったからかもしれない。星はどれだけ眺めていても飽きることはなかった。でもいつまでも、そうしているわけにはいかないのは、子供でも分かり切ったことだ。日が昇れば、瓦礫の中を駆けなければならない。身を隠し、目標を破壊せねばならないのだ。眠らなければ判断が鈍る。それは、ややもすると命を落とす可能性に繋がる。彼は天から目線を降ろした。わずかに迷い、建物を離れ、疎らに建つ家屋の間を歩いた。目指すのは水場だった。喉が渇いていたのではない。ただ冴えてしまった意識を落ち着けるには、何か別の事をするものだと、同胞の誰かが言ったように思ったからだった。
 水場はこの集落の外れにある。こんな砂ばかりの土地に、水が湧くなどあり得ない。水場といっても、定期的に調達してくる飲料水を設えたタンクに貯蔵しているだけだ。だからふんだんに使えるものではない。でも、夜更けに子供が喉を潤す程度なら、誰も咎めはしないはずだった。彼は特別に足音を忍ばせはしない。もとから痩せこけた子供だ。殊更に足を踏みならしたりしなければ、耳障りな靴音も鳴らない。今は夜の真っ直中だ。静かに水場を目指す少年は、誰しもがすっかり寝入っていると思いこんでいた。
 暗がりの中、もとは家の壁であったと思われる名残が建つ。月の白光も、星の微かな灯りも届かず、壁の影になる部分は、深い墨の色に塗りつぶされている。夜目の効く少年でも、そこは単なる闇の溜まりにしか見えなかった。けれど気配がする。耳を澄ませば、聞き慣れない物音もした。彼は足を止める。気配の辺りへ視線を投げた。そして耳を峙てる。薄く届くそれが、人の不規則な息づかいだと気づくのに、数分の時間を要した。人間の吐き出す息の音だと理解すると、そこに不可思議な水の音が混じるのが判る。少年はその場に棒立ちとなり、眼を凝らしても歴とはしない、黒々とした影を凝眸した。
 少年から壁の残骸までは、少なく見積もっても数メートルの距離がある。もっと近づけば正体を暴けるかもしれない。しかし彼はその場から足を進めなかった。1ミリも近づかない。大きな二つの眸をいっぱいに瞠り、子供はひたすら目線を送る。闇に潜むそれが何であるのか、知りたいと思う反面、耳に馴染まないものが、少しばかり恐ろしかったのだ。危険を孕む事象へ近づかない。彼が日々の中で覚えたことの一つだ。命じられたなら一目散に駆け寄って銃口を突きつけたかもしれない。が、今は誰にも命令をされていなかった。だから彼はそこから出来うる限りの情報を得ようと努めたのだ。
 あまりにその方を見つめていたからだろう。背後から人が忍び寄るのに気づかなかった。
「何してる…。」
背のすぐ後から声をかけられ、少年はハッキリと見て取れるくらいビクリと飛び上がった。弾かれたかに振り向く。男が一人、彼を見下ろしていた。
「こんなトコで何やってんだ?」
少年は困った。答が見つからない。自身でも未だに正体が掴めていないのだ。影に潜む何某かを説明できない。もとから言葉を多く持たない子供だ。彼は返答の代わりに、闇の深い辺りへ顔を向けた。
「……?」
男が少年の見遣る方角へ意識を集めるのが判った。鋭利な眼差しが、隠れる何かを見極めようとしている。直後、呆れを孕む笑いが洩れた。
「おまえ、アレ…見えんのか?」
少年は肩越しに男を振り仰ぎ、見えないと言う替わりに、二つ三つ頭を横へと振ってみせた。
「なら、放っておけ。大したこっちゃねぇ。」
子供は仰天する。男には何かが見えたのだ。あんな塗り込めた黒い翳りの内側の事象が、この男には理解できるのだとひどく愕いた。
「で、おまえは何しに来た?」
水を飲みに…と告げようとする。
「ションベンか?」
だが、男は全く明後日の単語を口にした。
 どうしても水が飲みたかったのではない。思いついたのがそれだっただけだ。そこで少年は投げられた問いにコクリと頷く。何でも良かったのだから、迷いなく彼は頭を一つ是の形に動かしていた。
「んじゃ、こっち来い。」
すかさず促される。男はスタスタと件の場所とは反対へ歩き出す。少年は慌てて後を追う。男に従わなければと、急いた風に足を前へ出した。



 低く昇る月。天の高みに在るとより青みを帯びるそれも、夜半を疾うに過ぎて未だ大地の縁に寄り添う今夜は、ただ白く澄んだ明かりを地べたへ降らせる。崩れかける褐色の壁。真昼には陽にさらされ、哀れな瓦礫でしかない。でも今は、月明かりに照らされ、遠い過日には集落を囲んでいただろう堅牢さをうっすらと漂わせていた。嘗て防衛の要であったはずの長壁へ、男は盛大に放尿する。長着の裾を鮮やかに捌き、無造作に引き出したイチモツを壁へ向け、相当に溜まっていたと思われる腹の中の水分を、一気に排出した。
「呑みすぎちまった…。」
言い訳ともつかぬ台詞を垂れ、一度ブルリと身を震わせ、至極きもちの良さそうな吐息を吐いた。
「なんだ、たいして出てねぇな…。」
チラと隣を覗き見て呟いた後、面白そうに鼻先で笑う男は、ひどく機嫌がよいらしい。
「ションベンじゃなかったのか?」
上から降ってくる声音に、初めて少年は答えた。
「少し……。」
少しもよおしたのか、少しだと判っていたのか、短い単語からは全体が読めない。けれど男は先を問わず、そうか…と言うと口を閉ざした。
 黙り込んだ男を少年は視界の端で覗き見る。くつろいだ横顔だ。教義を語る時、彼に体術を教える時、剣技を披露する時とも異なる、距離を覚えない顔だった。近寄りがたさが失せている。神の意志を伝える者とは思いがたい、少年と同じ人の顔をしている。彼はそれまで感じていた居心地の悪さを手放した。何かを訊ねても、はねつけられない気がする。今し方の暗がりの真意を、少年は訊いてみたいと切に願った。
 放尿が終わる。男はさっきより満足そうな息を長く吐いた。きっと寝屋へ戻れと言われる。言われたら従うしかない。そうなれば影の謎は解けないまま有耶無耶になる。何と問えば良いのか、少年は必死で考えた。
「よぉ、ガキンチョ。」
彼の思考を遮ったのは不意に放った男の声だった。ギョッとして見上げる少年の双眸に、ニヤリと笑う顔が映った。
「さっきのアレ、何だか知りてぇか?」
子供の考えを見透かした問い。少年はまたコクリと頭を振った。
「来い。」
ムズと指が肩を掴む。鼓動が跳ね上がった。が、少年はそれを悟られまいと、表情を消した。足早に先ほどの場所へ戻る男。小走りに付き従う子供。立ち止まると、男は足下を探る。掌へ握り込める大きさの石を拾い上げた。
「見てろ。」
潜めた声が命じた。少年は息を殺す。
 振り上げた腕から放物線を描き石が宙を飛んだ。暗がりへ落ちる石。鈍い音が鳴る。地面へ落下したのか、壁の名残へ当たったのか判じられない。
『おわっ?!』
『おおっ!!』
二つの声は突然の攻撃に仰天していた。
「テメェら、いつまでもジャレてんじゃねぇぞ!」
「隊長?!」
「ひでぇ!」
影から飛び出したのは二人の兵隊だった。明かりの下へ出るが早いか、兵隊はあっと言う間に走り去った。何やら叫んでいたが、特別意味のある言葉を発している風ではない。随分と哀れな声だと、遠ざかる二つを聞きながら、少年はぼんやり思った。
 逃げるかに走る二つの背。男の馬鹿笑いが上がる。ゲラゲラと一頻り笑った後、不意にその場にしゃがみ込んだ男が少年を見た。
「野郎が二人で何してたか判るか?」
「判らない…。」
「口…吸ったり舐めたりしてやがったんだ。」
少年は全く意味を理解出来ない顔をする。ポカンと間近の男を見つめるばかりだ。
「判んねぇか?」
「口…を?」
鸚鵡返しに断片を呟く。
「だから…。」
また腕が伸べられ、子供の細い肩を掴むが早いか、男は痩せこけた体をぐぃと引き寄せる。踏みとどまることもできず、少年は為すがまま腕に捕らえられた。
 惚けた風に薄く開いた口唇をぬるりとした感触がこじ開けた。入り込んできたなま温かさ。濡れた柔らかいそれが少年の口内をゆるりと舐める。縮こまった舌を侵入物が絡め取り、軽く吸い上げ、瞬く間に解放する。口蓋を窄めた先が擽った。少年は目を大きく見開いたままだ。全身は驚愕で硬く、入りすぎた力で動くことを忘れていた。去り際に舌先が唇の輪郭をなぞる。そして最後に、湿った音と共に、少年は口唇を吸われた。
「まぁ、こんなコトをしてたワケだ。」
何事もなかったように、男はそんな台詞を垂れた。続けて、さっさと寝屋へ戻れと命じる。呆然と立ち竦む少年は、耳が聞こえないのかと疑うほど、微塵も動かず、何もない虚空へ視線を泳がせていた。
「おい、ガキ!聞こえねぇのか?」
再度の命令が響く。漸く我に返った子供は踵を返し脱兎の如くその場から走り出した。
 最前より更に高く男の笑い声が上がる。追いかけるかに聞こえるそれを振り払い、少年は必死で駆けた。口内に残る舌の感触。生々しい温柔さ。男の吐き出す息の温度。口腔から鼻孔へ流れ込んだ匂い。汗と酒精と、男の纏う人の臭気。唇を吸われた触感は、手の甲で拭っても消えようとしない。
「口を…なんで…。」
やっと辿り着いた扉の前で、少年はポツリと言葉を落とした。行為の理由も、その意味するところも形にならず、理解にはほど遠い。耳の奥で少しも治まらずに鳴っている自分の鼓動を煩わしく感じる少年が一つだけ判ったことは、目の前の扉を押し開け、仲間達の間で横になったところで、決して眠れないと言うことだった。
 夜は深さを増している。月は空の中ほどまで昇る。朝は未だやってこない。しかし、穏やかな時は、当分小さな兵士へ戻りはしなかった。





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