*HIGH NOON*
既刊『anode ray』未収録エピ/アリーリハビリ萌え
昇降口から一歩を踏み出す。正午に近づいた陽射しが容赦なく落ちている。屋上のフラットな床面は、強すぎる光の所為で白っぽい色味に見えた。平坦でただ広いだけの屋上。馬鹿らしいほど丈の高いフェンスが周囲すべてを囲っている。人は誰も居ない。散らばるように置かれるベンチ。午後の三時を過ぎれば、それでもチラホラと人の姿がある。が、間もなく正午を知らせるチャイムが鳴る今の時分に誰かが居る方が珍しかった。
軍管轄の医療施設で、午前の時間帯は診察と治療が行われる。誰もが病室の寝台の上か、治療用の個室か、或いはリハビリ施設で大人しくしている筈なのだ。しかし男は此処にやって来た。陽射しの下へ出ると、顎を持ち上げ頭上に広がる空を見る。鮮やかな煌めきを振りまいてくる陽光が眩しいのか、双眸をずいぶんと細め幾度か瞬きもする。一頻り蒼ばかりの空を眺め、気が済んだとばかりにゆっくりと歩き出した。幾分力のはいる左足を前に進め、軽量合金の松葉杖で自重を支えつつ、引きずる風に右足を手繰り寄せる。スペースのほぼ中央までたどり着くのに、五分近くが過ぎた。昇降口からは7〜8M程度の距離だ。人っ子一人居ない屋上の真ん中。男は少しの間、突っ立ったままでフェンス越しの遠景を見ていた。面白いものなど欠片もない眺めを、陽に晒されながら飽きずに眺め続けた。
特別意味があって目線をやっていないのは歴然としてる。視線があちこちへ頻繁に移動するからだ。男の病室から此方側の景観は見えない。丁度、真逆の方向にしか窓が切られていないのだ。四角で切り取られた中庭以外は見あたらない眺めにうんざりすると、別の世界を覗くようにこの場所へやってくるのかもしれなかった。
それでも面白味のない風景に飽きは来る。気が済んだとばかりに男は顔を外し、自分の立ち位置から一番近いベンチを捜すと、またたっぷりと時間をかけてそこまで移動した。ベンチまでは大凡3M。大柄な男が大股で歩けば数歩で行き着く。けれど動かない下肢を漸く前へ進める今の状態では、呆れるくらい目標は遠かった。
ベンチは元の色がどんな彩りかも判断しかねるほどの情けない有様だ。陽に晒されすぎて、薄いグレーに見えるが、もしかしたらもっと別の色味だったのかもしれない。男はそこへ慎重に腰を降ろす。実はほんの五日くらい前まで、彼は誰かの補助なしに立位からの着座が出来なかった。自力で座り、自力で立ち上がる要領を会得したのが、ここ数日のことだ。それまでは何をするにも他者が近くに居た。便所で用をたす時ですら、他人の手が必要だった。男はその状況に情けなさを感じてはおらず、ただ一々面倒なことだと、どこか他人事を語る風な思いを抱いていた。
日々の努力が功を奏し、自力で可能な動作が一つ又一つと増える。腕や足に付けられていた枷が外されていくように、男は微々たる自由を少しずつ取り戻していた。今、その一つを享受する。少しはマシな左足も、自重を支えるには全く心許ない。よって腰を降ろす際、総てを両腕が引き受けることになる。先ずは腕の筋力を取り戻すのだと、担当する職員が何度も繰り返したのは、この為だったかと改めて思う。慎重に動作を進め、薄い治療着を身につけた男は何とかベンチへ腰掛ける。ずっと陽を受けていた座面は熱を溜めていて、座ったとたん尻が温かった。
「暖けぇな…。」
独り言にしては随分と大きな声音が洩れた。しかし誰も居ないのだ。もっと大声で何かを叫んだところで、咎められるどころか何某かの反応がある筈もない。
丈の高いフェンスの編み目をくぐり抜ける風は、すこし高めの音を鳴らす。時折、強く押し寄せる風の勢いに、突端の細い支えが細かく揺れて儚げな軋みを漏らした。陽射しはいよいよ真昼の傲慢さを誇示する。薄い衣服を通し、皮膚へその温度が伝わってきた。空調により快適さを管理された施設内から、一切を調整されない場所へ来ると、再生された肉体の一部が生き物としての機能を覚え込む手触りがある。皮膚が温度やら空気の動きを感じ、うっすらと汗が滲んだり、愕いたように毛穴が閉じる感覚。それを自覚するたび、確かにこの腕は自分のものなのだと納得できる。作り物ではない。自身の一部だとする確信。それを何かの拍子に拾い上げる瞬間を、男は随分と気に入っていた。
正午のチャイムが鳴り始める。建物のあちこちに設置されているスピーカーから流れ出す響きは、微妙な反響と時差を伴って幾つもの異なった音として周囲の空気を震わす。男はそれを切欠に、この場を立ち去る素振りを見せた。傍らに投げ置いた支えを手に取る。両手でグリップを強く握る。勢いはつけない。腕の筋力だけで、座面から上体を引き上げるのだ。
「手を貸しましょうか?」
腕に自重を任せようとした矢先、背後から静かに声が掛かった。
「いや…。」
流れを途切れさせない為、男は振り向くこともせず躯を慎重に持ち上げる。状況を咄嗟に判じた声の主は次ぎを仕舞う。不要な手助けを、相手は拒んだのだと即座に理解したからだ。
立ち上がり顔だけを声のした方へ向ける。白衣を引っかけた職員が立っている。憶えのないツラだ。男に関わる数人の職員ではない。彼の限られた行き先。治療室やらリハビリ施設やら、偶に覗く娯楽室や日に三度は足を運ぶ食堂にも、その白衣は居なかったはずだ。誰だ?と訝る。それがそのまま表情に浮き出たのかもしれない。
「個別には逢ったことはないですよ。」
続けて自分は医師であると言った。
「で、何か用か?」
手を貸そうと言ったのは状況から納得がいく。が、わざわざその続きを投げてくるのは、何某かの目的があるからだろう。男は端的に訊く。するとひょろりとした医師は特別用はないと応えた。
「実はあなたに若干の興味がありましてね。私の担当はカウンセリングです。長期に渡り機能回復を余儀なくされた方は、殆どの場合私を訪ねて来る。でも、あなたは全くやって来ない。」
「用がねぇからな。」
「確かに、私は必要ではないですね。こうして会ってみて判りました。」
肉体の損傷が重度であればあるほど、精神の損傷もそれに比例するのが通例で、男はそのケースから考えると、早い時期にカウンセリングルームのドアを叩くだろうと予想されていたらしい。
「何故来ないのかと、とても不思議に思っていたのですが、謎が解けました。あなたは自分で整理をつけている。」
「行かなきゃならねぇってワケじゃねぇだろ?それともきまりでもあんのか?」
医師は常に身につけているのだろう慣れた穏やかさで柔らかく笑い、そうした規則はないから来なくても良いのだと返した。
「食事の時間ですよ。」
そう促すと、医師はクルリと背を向け、スタスタと昇降口へ歩いていく。男も自分の速度で同じ場所を目指した。開け放った鉄扉の前、眩い光の下で前を行く医師が振り向いた。
「規則はないです。でも、話したい事が出来たら来てください。」
「多分、行かねぇと思うぜ。」
「多分、そうでしょね。」
一旦、言葉を切る。そしてこう付け加えた。
「ただ人は何か大きなものを無くしたり、逆に手に余るものを得たりすると、無関係な誰かと話をしたくなる。」
その時の為に自分は在るのだと、まるで諭す風に会話を閉じた。
「無駄口叩く趣味はねぇよ…。」
既に人の居なくなった屋上に、男の漏らした一つづりだけが低く落ちた。あとは風鳴りだけが在る。太陽は丁度、空の真上へ昇りつめていた。
了