*Bloodstain*

アレハンドロ×アリー(怒られるケダモノ)

 亜熱帯の街に降る雨は、気温の高さも手伝って染みつき普段は隠される筈の匂いをあからさまに暴いてくる。やって来た男は眉を顰めるほど濡れそぼっていたわけではなく、停めた車から玄関までの間に、髪ときっちり着込んだスーツの肩先が薄く湿っている程度だった。しかし部屋へ入った途端、コーナーが投げつけたのは威嚇にも聞こえる一つづりで、それをぶつけられたサーシェスは半瞬ぽかんとしたツラをした。
「その匂いは何とかならないのかな?」
語る口調は普段通りの穏やかなものだ。が、滲み出る嫌悪はくっきりとした輪郭を帯びている。
「はぁ?何が臭うって?」
問いかけつつ男は先ず持ち上げた腕の辺りへ鼻を近づける。それから両手。次ぎに背広を脱ぎ、拡げた布地の匂いを嗅いだ。更にタイを緩めながら薄手のシャツの胸辺りをひっぱりクンクンと畜生を思わせる仕草で何某かの匂いがするかと確かめた。
「別に何も臭わねぇけどな。」
 椅子にかけたまま、一連の動作を眺めていたコーナーが、つぃと顔を背けた。明後日の方へ向いた横顔。軽く寄せた眉。一拍置いて、形の良い口唇が動いた。
「雨の所為だよ。君から人を殺めた匂いがする。」
「ああ、ちょっとな…。」
予定外のことだ。小うるさく探りを入れてきた小娘を一人、片づけたのはつい半時間くらい前だった。抑揚のない単語の並び。気の抜けるくらい茫洋とした言い様で、男はそれがどうした?と訊く。
「君が外で何をしたかは問題ではないのだ。ただそれを此処へ持ち込むなと私は言っているのさ。」
シャワーを浴びて、染みついた痕跡を落として来いとコーナーは言う。半ば命じるかに語尾を強め、さっさとしろと向けた目線で促した。
「なに苛ついてんだ?」
続けて、シャワーはどっちだ?と、サーシェスは何時にも増して惚けた風に垂れる。逆らう気は更々ないらしい。強要を軽く受け入れる。
 コーナーのほっそりとした指が隣室を示した。
「そこからリビングを抜けて寝室へ行きたまえ。寝室の奥が浴室だ。」
ああ…と気のない声。男は平素の数倍はぼんやりとしたツラで、言われたまま示された方へと歩いて行った。



 此処へ来る前、男が何処で誰と会っていたかをコーナーは熟知している。面談の相手も、交わされたであろう会話の内容も、一字一句とまではいなかいが、ほぼ把握していた。サーシェスは一応の決まりとして、それらを報告にやってきたのだ。そうしろと指示したのはコーナーだった。けれど、移動の途中でイレギュラーがあったのは聞いていない。それを咎める気持ちの持ち合わせもなかった。彼の気に障ったのは、放った言葉通りで、自身の元へ下世話な雑事の片鱗を持ち込んだことに、少々苛立ちを覚えただけのことだった。
 のっそりと部屋を移動していく男の背を眺め、軽い腹立ちとは別の感情をコーナーは手の内で転がす。現れた相手の気の抜けた様が引っ掛かるのだ。感情の揺れ幅が大きいのではなく、感情などという面倒な代物をどこかに置いてきた風な様に、これまでも幾度か遭遇したけれど、今回は目に余る。その要因が件のイレギュラーであると容易に想像はつくが、相手の内側までは見て取れない。意識の向ける先が、何処にあるのか見当が付かないのは、駒として動かす兵隊を把握する上で、あまり好ましい状況でないと、彼は常々考えていた。
 人の心根までを鷲掴みたいと願うほど、聡明な彼は欲深くはないし、高慢でもない。偏に他者を従える者として、配下に置く人間の大凡を理解しておく必要性を感じているにすぎなかった。だからといって真っ正面から挑むのは短絡的すぎるし、実際試したわけではないが、あの傭兵に関していえば、成果を期待できないと践んでいる。眺め、察する事が最も適切と、薄く流れてくるシャワーの音を耳にしながら、コーナーは最初から分かり切った結論へ辿り着く。そしてうっすらと自嘲にも取れる嗤いを浮かべたのは、己の居場所以外では愕くほどすべてに興味を抱かない兵隊が、双眸に何を映すかを知りたがっている自身の不可思議な欲求が、ひどく馬鹿らしく思えたからに違いなかった。
 アリー・アル・サーシェスは期待を裏切らない。下劣で粗野な傭兵などという生き物は、丹念に身を濯ぐ筈がないと誰もが抱くイメージを決して覆さないのだ。シャワーの音が聞こえてから十分かそこいらで、それはぱたりと止んでしまった。寝室との続き扉は開け放ったままだ。空調の些細な風に乗り、その方向から甘い香りが漂ってくる。浴室に置かれたシャボンの匂いだ。大雑把にせよ、一応は言われたままに従ったのだろう。すっかりと張り付けていた諸々を洗い流し、今は人工的な花の芳香をまき散らしている。
 けれどもそれが待ち受けるコーナーへ近づいてこない。報告の義務を棚上げにし、恐らくは寝室のベッドでくつろいでいると思われる。義務とは名ばかりの形式的な決め事だと、少々互いの間柄に慣れを覚えた男が、気を抜いている可能性は高い。それとも、今し方見た腐抜けた様子の通り、報告すらどこかへ置いてきてしまったのかもしれない。依頼主は仕方なしに腰を上げる。頭ごなしに叱責する気持ちはないが、態度如何に因っては小言の一つくらい垂れるつもりにはなっていた。一足を踏み出す時、眉根を随分ときつく寄せていたことに、彼は全く気づいていない。だから、入ってきたスポンサーに対して、傭兵が大層ぶしつけな台詞を投げた時、コーナーは仰天した風に瞠目し、それから心外だと口に出して呟いたのだった。



 そこそこの広さを持つ寝室。奥のドアが半開きのままだった。その先は浴室だ。湿気と熱気の一部が、調度の少ない部屋から空調の快適さを奪っている。戸口から二歩ばかり入ったそこでコーナーは立ち止まる。予想通りと言うべきか、サーシェスはキングサイズのベッドで大の字になっていた。当然の如く、一糸まとわぬ姿である。しかも良く見れば、男は浴びた湯をほとんど拭い取っていない。薄い空色のシーツが人の形に濡れている。ぼやけた輪郭の濃淡が、染みこんだ水気の多さを顕していた。
「タオルもローブも用意してあったと思うが?」
突っ立ったままでコーナーは確認めいた口調で言った。ぼんやりと真上の虚空へ投げていた目線がそちらへ移る。サーシェスは面倒そうに頭をずらし、入ってきた相手を眺めた。
「なんだ?おっかねぇツラだな?」
何を言っている?と鋭い視線が問う。
「スポンサー様はご立腹か?」
そんなに眉間に皺を寄せて、何に怒っているのか?とサーシェスは間の抜けた音で訊いた。
 無意識の表情を指摘され、コーナーは心外だと口にし、別段怒りなど覚えていないと敢えて涼しげな声音で答える。同時に意識を自らの表情へ集め、さり気なく面相を整えることも忘れなかった。
「もしも私が君に立腹しているとすれば、その要因は二点。一つは報告が遅いと言うこと…。」
二つ目を上げる前に、コーナーはベッドサイドまで近寄る。
「二つ目は来客用の寝台をすっかり濡らしてしまったことだね。」
そしてもう一度同じ台詞。
「躯を拭うタオルは用意されていただろう?」
「ああ、あったかもな…。」
どうでもよさげに口を開き、欠片も気持ちの入らない単語を並べ、サーシェスは悪かったと宣うが、もちろんそれには爪の先ほどの済まなさも窺えない。
「報告はどうしたのかな?」
相手の態度に知らず口調が強まった。
「搬送は滞りねぇと言ったぜ。全部相手に送り届けたってな。一個寄越せと言ったら、つまんねぇ探りを入れてきやがったから、適当にあしらった。」
「イレギュラーの事態はその後のことだったと?」
「そうだ。ガキが取材したいと抜かすから、車に乗っけてやった。多分、少し前からゴチャゴチャ嗅ぎ廻ってたヤツだ。面倒だから消した。」
「勿論、手際よく痕も残さず行ったろうね?」
「だからだよ。」
「何だって?」
「だから、納まりが悪ぃんだよ。」
前後の脈絡もなく放たれる言葉。わずかだが焦れた色が滲む。コーナーは意味が図れない。思わず身を乗り出し、仰臥する男の顔を覗き込んだ。
 バランスを崩したと認識するより先に、己の躯が宙へ浮いた事実に仰天し、コーナーは浅い叫びの形に口唇を開いた。けれどもそこからは微かな音も放たれず、何某かが声になるより早く、未だ水気を纏った胸の上へ乗り、硬い両腕で抱き込まれたのだと悟る。何の真似だと詰問する暇はなかった。サーシェスがそれを遮ったのだ。
「鉛玉ぶち込んだ人間とヤったことあるか?」
またも脈略のない質問。
「死にかけた女に突っ込むと、弛みきったババァでも嘘みてぇに締めてくんだぜ。」
コーナーのいらえなど欲しがっていない。サーシェスは勝手に先を続ける。
「直ぐにはくたばらねぇトコに二三発ぶち込んでやったからな。あの小娘も地べたに転がってビクビク震えてやがった。」
耳の間近で殊更に潜めた声が語る。
「生きてる人間に向けて引き金引く瞬間ってのは、馬鹿馬鹿しいくらい興奮すんだよ。だからぶっ殺す時に、一発ヤっちまう。俺らはいつもそうだ。輪姦し(まわし)もやった。決まりみてぇなモンだ。」
思いだした風にサーシェスは鼻先で嗤う。実に愉しそうな響きがコーナーの耳管へ流れ込んだ。
「ここが俺らの居場所なら、さっきも間違いなくヤった。スッキリして後腐れもねぇ。けど、ここはあんたらの居場所だ。痕が残ったら面倒が起きる。だからそのままほったらかしにして来た。納まりが悪ぃんだよ。」
ひどく残念そうに最後の音を吐き出すと、サーシェスは敢えて口元をコーナーの耳殻へ擦り付け、吹き込むかにこう言った。
「ヤラせろ。」
 生温かな呼吸と共に内耳へ忍び込む不遜な一言。咄嗟に跳ね起きようとしたコーナーの機転は正しい。サーシェスの性的欲求は真実だ。不敬極まりない男は、依頼主をそのはけ口に貶めようとしている。瞬発力で腕を払おうとした咄嗟の判断は、しかしそれを上回る相手の筋力と瞬時の行動で功をなさない。離れようとする肉体。その肩を掴み、上下の体制をあっと言う間に入れ替える素早さ。今度も声を上げる合間はなかった。シーツへ背を押し付けられ、仰向けにされたコーナーの視界には、薄笑いを浮かべる男の顔が映る。
「君が欲情するのは勝手だけれど、それに私が付き合う謂われは微塵もないよ。」
ひどく冷静な物言いだ。虚勢を張っているわけではなさそうだ。怜悧さの内側に怒気が潜む。怒りが殊更の穏やかさを生んだらしい。
「謂われもクソもねぇんだよ。」
両肩をジワリと押さえる腕の強さ。相変わらず口元に貼り付く浅い嗤い。サーシェスは聞く耳を持たないと言う風に、剥き出しの股間をコーナーの股ぐらへ押し付けた。
 布地を隔てても、男の熱を孕んだ硬さを感じる。それが密着し、衣服の中で踞るコーナーの性器を擦り始めた。急いてはいない。緩慢な動きだった。徐々に追い上げ、欲を煽る動作。本人の意思とは無関係に、下着の中で窮屈そうに身じろぐ屹立。制止を促す台詞の端々に、濡れた震えが混じる。呼吸に不規則さが生じ、その変化をすかさず見取ったサーシェスが愉快そうに呟く。
「四の五の言っても、気持ちよくなりゃあ、掘られんのも気になんなくなるぜ…。」
「今、止めれば…愚行も冗談として流せる…。」
「一発抜けば、ヤリたくなんだよ。」
ぐぃぐぃと擦り付けられる股間の硬さ。下手に口を開けば、情けない声音が洩れるのは必至だった。不本意に引き結ぶ口唇が戦慄く。だがコーナーは顔を背けない。双眸を閉じもしない。変わらず見下ろす男の瞳を、射るほども睨め付けていた。
 なめらかな布に広がる違和感。濡れた感触は、コーナー自身の体液か無礼な男のものか判別がつかない。しかし、それが薄気味の悪い触感であるのには変わらなかった。そして鳩尾の辺りに噴き溜まり凝りを作りつつあった怒りを明らかにする切欠には、充分すぎるくらいの威力となる。肉体的反応を堪える為に、意識せずシーツを握りしめていた両手が上がる。コーナーは肩を掴む男の腕を、大層な力で握った。引き結んだ唇がゆっくりと動く。
「己の性欲を処理するなら…、相応の場所へ行ったら良い。」
同じ繰り返しを続けていたサーシェスの腰が止まる。
「君の欲情に付き合う気などまったく無いと言っているのだよ。」
腹に力を込め、一気にそれらを吐き出すと、コーナーは肩から手を退けろと命じた。
「嫌だね。」
「冗談では済まされないよ。」
くっと喉の奥を鳴らし、サーシェスは下卑た嗤いを垂れる。それが相手の感情を逆撫でたと理解するのは、わずか半瞬ほどあとのことだった。
 両腕を握るコーナーの手。恐らく当人も予想の範疇を越えたであろう力が込められ、薄く整えられた爪が、硬く張り詰めた男の腕へ埋まった。ささやかな痛み。当然気にもならないと、サーシェスはそれを無視する。すると手首と肘の中間に在ったそれが、爪を埋め込んだまま下方へ引かれた。皮膚が細く裂ける。手首まで降りきる頃には、筋となった痕から朱色のしたたりが滲み出ていた。
「痛ぇな。」
肩から手が離れる。サーシェスは目の前へ二本の腕を翳した。ふっつりと盛り上がる紅い帯。ジワジワと染み出す血液。
「仕方がないよ。それは君の愚かさが生み出したのだから。」
睨め付ける双眸は変わらず男を捉えていた。
「俺の所為だってか?」
言いながら、腕をペロリと舐め、男は口内に広がる錆臭さに顔を顰めてみせた。
 コーナーはベッドから瞬時に離れる。腕が失せた途端と言って過言ではない素早さだった。床へ両足を降ろし、立ち上がって乱れた衣服を手早く直す。口唇は閉じていた。端正な顔には表情の欠けらもない。何かをその下へ隠している風にも見えなかった。ただシーツの上でベタリと座り込む男へ、涼やかな一瞥をくれただけで、その場から出ていく。
「こんな真似をしたのは、初めてだよ。」
その時、うっすらと浮かび瞬く間に消えたのは、微笑の片鱗。そこに自らを省みる色はなく、相手への蔑みもない。もしも投げられたそれをサーシェスが視界の端ででも見ていたなら、含む意図を察したかもしれない。が、彼は自分の腕に付けられた痕を、ただぼんやりと眺めているだけだった。
 毛足の長い絨毯を敷き詰めた床は、歩み去る靴音を吸い込み、その者が何処へ向かったのかのヒントを消した。数分が経つ。幾つかの壁を隔てた先で、ドアの閉じる音が鳴った。相手が私室として使う部屋へ入ったのだと知れるが、サーシェスは相変わらず惚けたツラで同じ場所に居た。
「なんだってんだ…。」
ボソリと落ちた響きは、誰に向けたものでもなく、空調の音に混じり、わずかな残響にもならなかった。



 謝罪を期待してはいない。いっときの情欲で、依頼主を慰みに貶めようとした節度の無さに腹を立てたが、それを何時までも引きずる気はなかった。相手がどう振る舞うか、閉じた部屋の中でコーナーが思ったのはたったそれだけで、けれど半時間が過ぎても、ドアに音が発つことはなく、その一枚を隔てた辺りに、人の気配も感じなかった。様子を伺う為、部屋を出て、来客用の寝室へ足を運べば、そこは蛻の殻。浴室の手前に脱ぎ散らかしてあった衣服がないと気づき、あの男は何も残さず立ち去ったのだと理解した。
 小一時間前、すっかりと水気を含んでいたシーツは乾いている。人の居た痕跡は、幾つかの褐色。点々と散らばるそれらだけが、少し前までそこに在った者の様を伝えていた。
「手駒を一つ、無くしてしまったかもしれない。」
独りごちる際、漸くといった風に彼は失笑に似た表情を浮かべた。精鋭を失ったことへの自省だけでなく、あの振る舞いを起こさせた一端が、互いの馴れ合いに因るものだと既に気づいていていた故の、自嘲めいた物言いだったのだろう。フッと軽く息を吐く。このイレギュラーにより、コーナーは一つ余計な雑事をこなさねばならなくなった。
「優れた駒を捜すのは、なかなかに骨が折れる。」
言い聞かせるかの一つづり。すると言い終わりを待ったとでもいう様に、隣室から端末のコールが聞こえた。
 それは専有の端末だ。つい今し方、挨拶もなく出ていった男との回線だ。何某かの捨てぜりふでも垂れるつもりかと、ゆったりした足取りでコーナーは部屋を移り、テーブルから取り上げた端末の回線を開いた。画像はない。チラチラと瞬くモニタにはSOUND ONLYの文字。スピーカーからは屋外の雑音。次ぎに飛び出すのが件の男の怒鳴り声なら、らしすぎて爆笑したはずだ。車の走り去るモーター音が流れ、直後に短い単語がスピーカーを震わせた。
「痛ぇんだよ。」
たったそれだけで、相手は回線を落とした。少しの間、呆気にとられ反応を忘れたコーナーから、馬鹿らしい笑いが上がった。
『君は…謝罪のひとつも知らないのか。』
胸中で言葉にすると、更に可笑しさが募る。脇腹を引きつらせ、言葉もなく笑い続けていた彼は、笑気が納まるのを待ち、手の中の端末の電源を入れた。音声通信用のコールが鳴る。五回目を数え、六回目でも応答がない。七回目、八回目がなり始める直前、相手がやっと回線を繋いだ。その時、不覚にも抑えていた筈の笑気がぶり返す。繋がったと同時に相手が聞いたのは、ぷっと吹き出す気の抜けた音に違いなかった。







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