*カナリア*

金色の小鳥とジュリアス

 強く引けば呆気なく壊れてしまう様な繊細な引き手を慎重に開ける。軋みもせず滑らかな動きで其れは開いた。怖がらせてはならぬと細心の気遣いで指先を差し入れる。けれどその小さな鳥は怯えもせず薄くエナメルを施された爪と長い指を眺めるばかりで、飛び退くでもまして暴れもしなかった。小首を傾げ眸前でゆるく揺れる白い指先を飽きずに見つめている。その仕草が何とも愛らしく、クラヴィスもまた籠に在る小さな生き物に見入った。
 脅威ではないと悟ったのだろうか、鳥は暫くすると整えられた爪の端を突く素振りを見せた。手を入れた時より更に厳かにクラヴィスは止まり木の上で既に警戒を忘れた小鳥をそっと掌に収めた。己が身を拘束されたと知った刹那、きっと其れにとっては渾身と思える力で逃れようと足掻くが、そんな様にはお構いなしに彼はゆっくりと片手を胸の辺りまで引き寄せた。
 掌に感じるぼんやりとした体温と恐ろしく早い鼓動が、今手の中にある物の焦燥を伝える。あと少し握る加減を間違えたら恐らく死んでしまうに違いない。其程も儚い存在感である。人の手を放れ、生きてはいけぬのではと一瞬の危惧が過ぎる。しかし其れは一陣の風の如く瞬く間に彼の内から消え、クラヴィスは常と同じ緩やかな動作で庭に向く大振りの硝子戸を開けると腕を差し出し空に向けて大きく手を広げた。一度ブルッと身体を震わせ、何処かからの呼び声が聞こえるかの勢いで森の梢の遙か上を目指し小鳥は飛び去ってゆく。
 鮮やかな碧い空の先、其れは見る間に微かな黒点となり薄くたなびく雲に吸い込まれ消えてしまった。手を翳し、少しの間視線で追っていたクラヴィスは丁度午になろうとする高見に向かう太陽が眩しかったらしく、幾度か眸をしばだたかせた後くるりと背を返し庭の明るさに比べれば影に覆われたかに薄暗く感じる室内に戻っていった。



 一体どんな文字で顕すのかと問うと相手は恭しく『金糸雀』と書き記した紙を寄越した。だからクラヴィスは其れが屋敷に届くまでもっと幻想的な黄金色の煌めきを纏う姿を想像していた。ところが大層な絹の覆いまで掛けられた鳥籠の中に居たのは情けないほども小さな黄味色の小鳥だった。正装をぎこちなく纏う惑星の使者にあと少しでこれが件の金糸雀なのかと声に出して訊ねてしまうところであった。
 只でさえ緊張に全身の筋肉を強張らせている使者にそんな事を訊こうものなら、哀れなその男はその場で卒倒するか、まさかそんな失態は演じずともクラヴィスの足下に平伏して涙ながらに赦しを請うくらいはしたかもしれぬ。本人がどれほどに自身を評しているかは分からぬが、彼の元を訪れた使者にすれば相手は神にも等しい闇の守護聖である。しかも聞き及ぶに尊き彼の守護聖は随分と気難しいらしい。神殿に在っては市井の民と一線を引くその者にして持てる常識の全てを動員し、微塵も粗相があってはならじと、砕身の振る舞いを心がけても全く足りるなどある筈がない。クラヴィスには単なる質問が、使者の耳には不手際への糾弾に聞こえても仕方のないことだった。
 実際彼が目の前に現れた小鳥をのぞき込み訝しげに芳眉を寄せたのを目ざとく見留た使者は、消え入りそうな声で『何か…?』と発した。他人には感心を持たぬ闇の守護聖であってもあからさまな恐縮を見せられれば何でもないと答えるしかなかった。それ以上クラヴィスが何も発しない事を確認すると大仰な革製のファイルに挟まれた育成の覚え書きと、この鳥が如何に光輝なる謂われを持つかが認められた書簡を残しこれ以上頭を下げられぬ礼を致したのち、来たときよりも更にぎこちない所作で使者は屋敷を後にしたのであった。
 こうして『金糸雀』と言う名を持つ小鳥は闇の守護聖に献上されたのである。聖地にあり宇宙を統べる女王の庇護にある数多の惑星には九人の守護聖が司るサクリアを奉ずる星が幾つもあり、そうした惑星に設えられる神殿に奉られるのは守護聖自身とは限らぬが彼らの宿す光やら闇やらもっと具体的に水やら大地やらである。それら惑星の中で特に農耕や酪農などの生産を主たる産業としている星からは豊穣を祝い何某かの献上品を守護聖に届ける慣わしを持つ事が多い。大概は年に一度、特産の品が贈られてくる。クラヴィスの司る闇を奉ずる惑星は他のサクリアほどは多くないので、最多と思える緑の守護聖への献上品などから比べると極少ないわけだが、それでも通年に何度かはそうした品を携えた使者を迎えることとなる。
 しかし今回の様な『生き物』を贈られたのは初めてのことだった。彼の対となる光の守護聖は個人的に乗馬を嗜み、偶々彼のサクリアを奉る惑星の中に馬の育成に長ける星があった為、ジュリアスが幾度かそれらを献上されたのを知っている。クラヴィスにあの黄味色の小さな鳥を贈った星は本来主産業を観光とする惑星で、今までも特に何かを寄越した記憶などない。この申し出を最初に聞いた時は何かの間違えではなかろうか?と首を捻ったものだ。
 その後、献上の詳細を認めた書簡が届き一読すれば理由は解せる。何でも件の星に住まう由緒在る一族ではその鳥を如何に美しく鳴かせるかを古より伝えており、秘伝とされる育成の術を磨き幾羽もの美声を残しているのだと言う。現在の当主は長きにわたる一族の歴史に於いても天才と誰もが認める名匠であり、どうやらその男が名器にも例えられる絶品を作り上げたらしい。才人は己の技に傲ることなく、今も次なる逸品を生み出す為に腕を振るっている様である。そして彼は非常に信心深い一面を持っており、その歴代にも類を見ない美声を聞かせる鳥を神殿に奉納したのである。これらの話は既に神官にも伝わっていて、其程のものならいっそ守護聖に献上し類い希なる美声を楽しんで戴こうとなったのが大まかな経緯である。
 当初クラヴィスはこの申し出にあまり乗り気ではなかった。いくら逸品と言われようとも品が生き物であるのが釈然とせず、簡単に受けるのは気分的に憚られたのである。が、鳥の名を問うたところ「金糸雀」と書き記すと知り、見てみたいと気持ちが動いたのであった。世話にしても手が掛かるほどもないと思い、どうにも手を患わされるなら緑の守護聖にでも訊ねれば的確な教えも得られようと考えたのもある。
 ところが彼の想像は大いに裏切られ、聖地の森でも見かける程度の際だって美しくもない小鳥がやって来たと言うわけである。けれど今更要らぬとは言えず、彼は自室の窓際に鳥籠を置く羽目になった。



 そして三日が過ぎた朝を迎えてもカナリアは全く啼かないのである。餌も食べる、籠の中を良く動き具合が悪いとも思えぬのに『チ』とも囀らない。書面にある育成の方法の通り世話を行い、気に掛けても鳥は端から鳴き声など知らぬとでも言いたげに何も発しない。いくら其の声が美しくとも始終啼かれては五月蠅いのではないかとした懸念も無駄になりつつある。逆に見た目では分からぬ、素人では判じきれない不具合があるのではないか?と不安にもなった。
 そこでクラヴィスはこの朝、執務開始よりも早く屋敷を出て緑の守護聖を訪ねた。早朝のまさかの来訪に年少の守護聖も面食らった風ではあったが、事が鳥の様子だと聞けば随分と親身になった。実際に見てみない事には何とも言えぬが、多くの場合は環境の変化が一番の原因だと言い、一日二日では新しい環境に慣れぬ個体があっても不思議ではないと述べた。自分も時間を作り一度鳥を見に行きたいと言いながら、七日を過ぎても馴染まないなら別の要因を考え、場合によっては獣医に診せる事も考慮する方が良いと告げた。
 大凡クラヴィスも予測していた答えだったが、第三者に言われれば単なる独りよがりがある程度の確信に変わる。礼を述べ屋敷を辞したのち、彼は一旦私邸に戻るべく馬車に乗った。後先など考えずに屋敷を出てきたから平服のままである。時刻は間もなく定時になるが、その形では宮殿に上がれない。上がっても良いが確実に咎められる。そこで取り敢えずはと己の屋敷を目指した。脇道から通りに出た処でバッタリと光の守護聖の馬車に出会ったのは大変珍しい事であった。ジュリアスは平素ならもっと早い時刻に屋敷を出る。こんな時間に此処を通るのは滅多にない。クラヴィスの行く手を塞ぐかに馬車を止めるとジュリアスはあっという間に降りて少し後に停まった相手の馬車に駆け寄って来た。クラヴィスは腰を上げもせずその姿を眺めている。
 窓越しに自分を見下ろすクラヴィスを見遣りジュリアスから声が上がった。
「その形で宮殿に上がるつもりか?」
挨拶も忘れ問うジュリアスは幾分慌てている風である。クラヴィスは相変わらずの調子で私邸に戻る由を伝える。勿論マルセルの屋敷に行った事も忘れず話した。
「お前こそ、今頃どうした?」
「そなたの屋敷に寄って来たのだ。」
だからこんな時間になってしまったとジュリアスは少し悔しそうに言った。
「何の用事だ?」
「そなたが受けた献上品が気になった。」
自分の身の回りも満足に整えないクラヴィスが果たしてそんな手の掛かるであろう生き物の世話に辟易しているのではないかと訝ったらしい。
 基本的にジュリアスは馬に限らず生き物を飼育する事が好きである。生家には馬だけでなく犬も居たと以前語っていた。恐らく大層気を揉んで、結局出仕前にクラヴィスを訪ねてしまったのだろう。ところが主は留守で、執事も行き先は知らぬし、ただ直ぐ戻ると言われただけだった。定刻が迫り、仕方なくジュリアスは宮殿に向かい其処でクラヴィスと行き会ったのだ。
「啼かぬのか?」
「ああ…、ピとも言わぬ。」
「マルセルは何と?」
「慣れれば啼くだろうと。」
「弱ってはいないのか?」
「見たところは元気なのだがな…。」
ジュリアスは髪と同じ蜜色の眉を寄せ酷く難しい顔をした。聡明な頭脳で膨大な知識の中から的確な事例を選り分けているに違いない。しかし、簡単には導き出せなかった様子で執務が終わったら見に行くが構わぬか?と訊いてきた。
「別に構わぬ。」
「それなら夕刻に行こう。」
言い終わるやいなや、ジュリアスはああ…こんな時刻になってしまったと焦りながら自身の馬車へと戻って行く。結局馬車から降りもしなかったクラヴィスは硝子を引き下ろした小さな窓からその後ろ姿を見送ったのである。
 路の両側に広がる深い緑の合間から零れる朝の淡い光の中を柔らかな黄金の波を靡かせ、振り向きもせず去ってゆくジュリアスをじっと見つめながらクラヴィスは小さく呟いた。
『金糸とはあれの髪の様な輝きを持つと思っていたのだが……。』
酷く残念そうな響きを帯びる言葉を洩らすクラヴィスを乗せ、馬車は厳かに動き出した。



 私邸に戻り自室に入る。着替えるかと隣室への扉を見遣るが、この時点でクラヴィスの宮殿に上がると言う意思は殆ど失われていた。もうどうでも良いと思えた。前日目を通した報告書に認められた宇宙の状況からも今日明日に特別何かをせねばならない事象は無いに等しい。出仕したところで細々とした雑事への承認やら既に形式と化している次席としての署名が廻ってくるだけである。それに、よしんば突発的な事態が発生したなら、宮殿に在らずとも私邸だろうが森の湖に居ようが使者が伝えにやって来るだろうし、そうなれば直ぐさま参内するのだから何処に居ても同じ事だと思える。
 クラヴィスは着替えも止めて、長椅子にゴロリと横になった。時計を見ると既に定時は大幅に過ぎている。夕刻に訪れるジュリアスに小言を言われるのが少しばかり煩わしいだけで、今日を勝手に休みとしたところで何の問題もないのだと一人嘯いてみた。陽は先ほどより高くなり、室内には麗らかな日射しのもたらす温もりが広がりつつある。穏やかな午前の一時はクラヴィスの勝手な休日を奨励しているかであった。
 何気なく視線を流すとその先に鳥籠が在る。黄味色の鳥は朝に見たときと変わらずチョコチョコと動いている。ぼんやり眺めているとそれは随分と忙しない動きであった。餌を一度啄んだと思うと水を飲み、休む間もなく止まり木に乗り、翼の下に頭を幾度も入れている。どうやら毛繕いらしい。動作自体が小刻みで素早いので何とも気が急いている風に見える。ゆっくりと留まる事を知らぬのかと、クラヴィスは半ば呆れて見入っていた。そうしている間もカナリアは鳴き声を発する素振りはない。忘れてしまったのかもしれぬとクラヴィスは小さく溜息を吐いた。
 暫く横になったまま見ていたが何を思ったか急に起きあがると彼は鳥籠に近寄り中をのぞき込む。小鳥は誰かに凝眸されようとも構わず籠の中を動き回る。
「一度くらい啼いてみたらどうだ?」
密やかな声音でそう問いかける。声に反応し、一時カナリアはクラヴィスを見つめた。硝子細工の様な黒い眸が彼を捉える。小首を傾げる仕草はまるでその意味を尋ねているかのようだ。
「お前は…、美しく啼く為に此処に来たのだろう?」
そう言っておきながら、クラヴィスは私はどちらでも良いのだがなと続けた。
 生き物を献上の品と宣い、まして其れが名品なの逸品だのと謳う神経に当初酷く嫌悪を覚えた。人為的に美声を作る技にどれほどの価値があろうかと腹の底で悪態をついた。本来生き物はそれらにとって最も生き易い環境で暮らすべきだと考えるし、そうある様に出来ているのだ。北方の生物を南方で無理矢理に飼育するなど馬鹿げているし、人間との共存に適して配合を繰り返し大きさやら質やらを調整するのは傲慢の為せる愚行だと信じている。何と身勝手な行為であろうか。
 より美しく啼く鳥を育てる術が如何なるものかは知らぬが、鳥は本来威嚇や状況伝達、そして求愛の為に鳴き声を発するのだ。それが美しかろうが五月蠅かろうが相手に伝われば問題がない。どれ程の苦労の末に作り出そうが、鳥にすれば要らぬ世話に他ならないだろう。だから本当はカナリアが囀らぬなら、それも良いとして育てるつもりであった。ならば何故クラヴィスが早朝にマルセルの元まで足を運んでまで鳥が啼かぬのを気にしているのか。
「あれと似ているかもしれぬと思ってしまったのだ…。」



 美しく囀る為に育て上げられたカナリア。立派な守護聖と成るべく教育され育ったジュリアス。符合はたったそれだけである。人と鳥を比べる事自体に無理があるのは分かっている。それでも似ていると感じてしまったのだ。本人の意思とは無関係に作り上げられてしまった美声と守護聖然とした振る舞いが、どうしても同じに思えて仕方がなかった。こんな事をジュリアスが聞いたら烈火の如く怒るに違いない。自分は望んでその道を選んだのだと強く主張するに決まっている。これまでも数え切れぬくらい彼はそうクラヴィスに言っている。自身を殺してまで守護聖の顔を作る様を時に揶揄し時に叱責する度にジュリアスは繰り返し同じ言葉を吐いた。それが彼の望みであり、与えられた任を恙なく全うする事こそ彼の誇りなのだと嫌と言うほど聞かされた。クラヴィスにはジュリアスの言を否定するつもりなど無い。それに否定したところで彼が生き様を変えるわけでもないのだ。
 ジュリアスが彼の道を歩む様を見届けるのが己の役割だとクラヴィスも随分以前から認識している。それでも、時として一人の人間が課せられるには無謀とも言える責を全うせんが為、人としての己まで捨てつつ無言の悲鳴を上げる姿に要らぬ言葉を投げてしまうのである。いい加減にしろと怒鳴りつけたのは一度や二度ではない。ジュリアスはいつも最初は声を荒げクラヴィスの言をはね除け、余計な事だと退ける。そして最後には済まないと謝罪するのだ。そんな時、クラヴィスは為す術もなく彼を抱き締めるだけだ。
 しかし、だからといってジュリアスから執務を取り上げる事も出来ない。クラヴィスが執務全般を精力的にこなし、ジュリアスが余暇を満喫するよう助けてやれば事が上手くいくのではないのだ。彼はサクリアから解かれるまで例え事務的な執務が無かったとしても守護聖であり続けるから、彼の頭脳を占有する様々な問題が一掃されるのではない。ジュリアスの有り様に否と唱えるのは、守護聖である彼の存在を否定するのと同義なのである。それこそ愚行以外の何物でもない。
 美声を奏でるべく作られたのなら、それがクラヴィスの思いに添わぬ事であれ、耳を傾け美しいと賛辞の一つも向けてやるべきだと考えた。それが彼の鳥を受けたクラヴィスの責にも等しい行いだと得心したのである。ところがカナリアは鳴き声を忘れてしまったかに囀らない。
「忘れてしまったのなら…それも良いかもしれぬ…。」
柵を捨て、単なる小さな鳥として生きる事を選んだのなら無理に啼かせるつもりもないとクラヴィスは低く笑い、そのまま彼は口を閉ざした。
 室内の音は消え、窓外からは微風が木々を揺らすさわさわと言う音が聞こえる。午に近くなるにつれ、窓から入る光は益々鮮やかな煌めきを纏う。閉ざされた部屋の空気が幾分淀んだ気がして、少し外気を入れようとクラヴィスが窓に足を向けた時、葉の擦れる音に混じって遠く鳥の音が鳴った。森の奥からか、それとも空の高見からなのかは知れぬ、他に音が在ったなら気づかぬくらいの微かな声であった。硝子戸の取っ手に手を掛けた刹那、後方より鈴を鳴らすかの音が上がる。振り返ると籠の中のカナリアが吹き溜まった澱をぬぐい去るほども高く美しく啼いていた。それまでの沈黙が嘘に思える清らかな声音は、僅かに聞こえた鳥に呼応するかに止むことなく続いた。
 まるで呼び合っているようだ…。そう思った途端、クラヴィスは鳥籠を開け小さな身体を手の中の収めていた。



 光に満ちた窓辺から室内に目を転じると其処は酷く薄暗く感じた。自ら放してしまったにも拘わらずクラヴィスは急に後悔を覚え少し前まで身を置いていた長椅子に妙に力無く腰を下ろす。あの届いた声が同じ種のものとも知れぬのに、衝動的にカナリアを逃がしてしまったのは迂闊すぎると思えたのだ。籠以外を知らぬ愛玩用の鳥に捕食など不可能だったかと、一度掠めた懸念が舞い戻る。今から探しに行ったなら、未だ間に合うかと考えるとこうしては居られぬ気分になった。捕獲の道具も有りはしないのに、慌てて庭に出ようと腰を上げたところに扉を叩く音が響いた。
「何だ。」
焦りがあった故に常にも増して投げやりな応えを発した。開いた其処に立っていたのはジュリアスであった。
「どうしたのだ?」
不自然なクラヴィスの様子にジュリアスは違和感を感じたらしい。
「お前…、夕刻ではなかったのか?」
「昼に手が空いたので様子だけでも見に寄ったのだ。」
言いながら視線を室内に向けたジュリアスの双眸に扉の開いた空の鳥籠が飛び込んだ。
「逃げたのか?!」
「いや…、逃がした。」
「逃がした??!!」
「ああ…。」
答えると目を伏せるクラヴィスにジュリアスは訝しさを感じ、何があったと訊ねる。
 クラヴィスは言い淀み、ハッキリと伝えようとしない。恐らく言いたくない何某かがあると踏んだが、釈然としないのは好まないジュリアスはまるで子供を諭すかに言いたくないのか?と柔らかな声音で問いかける。こうした場合、ジュリアスはある程度の納得が得られるまで引き下がらぬのを知っているからクラヴィスは渋々概略を話した。
「啼いたのか?」
「そうだ…。」
「森の鳥に応えたのかもしれぬな。」
「お前もそう思うか?」
穏やかに微笑んでジュリアスは軽く頷いた。
「それで放してやったのだな?」
「そうなのだが……。」
それは間違いだったのではないかと、クラヴィスは随分と小さな声で言った。先ほど感じた不安を重ねてジュリアスに問いその返事を待つ。
「恐らく、そなたが言う程も悪くはないと思う。」
「何故?」
「此処は聖地なのだ、クラヴィス。」
外界とは異なる常春の楽園ではないかとジュリアスは笑った。
「餌に不自由するかと考えるなら庭に餌箱を置けば良いだろう?」
「成る程…。」
「それに本来カナリアは野生に在った姿から其程手を加えられてはないらしい。」
「そうなのか?」
「書物にはそう在った。」
きっとこの生真面目な男は執務の合間に調べたに違いない。堆く積まれる書類を裁きながら図書館から取り寄せた書物を繰る姿を描きクラヴィスは微かに口の端を緩めた。
「ならば、捕らえなくとも大丈夫と言う訳だな?」
「そたなに捕まるほど愚鈍な鳥なら些か不安ではあるがな。」
五月蠅いと眉根を寄せつつも今度は明らかに笑みを浮かべるクラヴィスを見遣り、ジュリアスは可笑しそうに事実だから仕方がないと追い打ちを掛けた。
「どちらに飛んで行った?」
ジュリアスはそう言うと開いたままの硝子戸を抜け裏庭に面したテラスへと出る。クラヴィスも続きながら、森の方角を示し彼方の方だと返した。そのまま肩を並べ二人は暫くの間其方を眺めていた。
 視線を動かし、視界の端に捉えたジュリアスは煌めきを放つ黄金の髪を風に揺らし森の先を見つめている。あの鳥が自らの枷を自由への声に変えた様に、いつかジュリアスも守護聖の衣を纏いながらも新たな翼を手に入れるのかもしれぬと、クラヴィスは己の願望ともつかぬ思いを脳裏に浮かべた。そんな事を考えていたからだろう、無意識に彼はジュリアスに顔を向けあからさまに凝視していたようだ。ジュリアスが其れに気づかぬ筈はない。
「何だ?」
クラヴィスは無言のまま、すぐ横にある身体を引き寄せ唇を重ねる。別段抗う様子もなくジュリアスは彼の接吻に応える。柔らかな唇の感触を確かめる様に其れは徐々に深くなっていった。
 天の高見から鳥の声が降る。自由を謳歌するかに幾度も上がる其れは、しかし夢中で求め合う口づけの熱に苛まれ、互いの息づかいに煽られる彼らには届かない。絡めた舌を強く吸うと、ジュリアスの肩が小さく跳ねた。口内に吹き込まれる熱い吐息に微かな躯の疼きを覚えながら、クラヴィスは蒼天を駆ける金糸の翼を眼裏に描く。薄くたなびく雲を割って、瞬く間に飛び去るその鳥は金糸雀と呼ばれている。





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