*遠雷*
テーマは『切ない話』
クラヴィスに促されその部屋に一歩践み入ったジュリアスの耳に微かに響いた音は彼方の遠雷に似ていた。
時間とは恐らく最も個人的な尺度に支配される万物の理ではないだろうか。確かに刹那を刻む長さは一定であり、
天候や地殻の変動に左右されることはない。しかし例えば何某かを待ちわびるときは永遠よりも長く感じ、逆に楽を
享受する間は瞬くよりも短く思える。全く同じ長さで過ぎているとは決して思えない。故に酷く個人の感覚に因る部
分が大きいと言える。
だが聖地と外界に於いては全てが異なる。各の場所にもよるが、少なくとも気の遠くなるほど緩やかに流れる聖地
の時間を超える地はあり得ない。外地の時間は三倍から五倍の早さで流れる場合が多く、十倍二十倍も皆無ではない。
これは作られた時差である。宇宙を統べる女王のサクリアが此を実現させているのだ。
只人の時間と聖地に住まう者の時間に差別化を設けた理由は、只一つ女王と守護聖の交代が短い周期で訪れぬよう
取りはからわれたためである。一つの国でさえ国王やら領主やら支配者の交代劇は様々な煩雑さと弊害をもたらす。
それが宇宙単位で始終行われるのを避ける故であると考えるのが分かり易い。
この恒久とも思える時間に中で守護聖は宇宙の望みを叶え、女王は全宇宙を恙なく守っていくのである。今後この
特殊な決め毎が違えられるなど恐らくないと思われる。
既に寝室へと下がっていたジュリアスへ急が告げられたのは日付が変わってから小一時間も過ぎた頃であった。ノ
ックの音は執事の心中を如実に顕す小ささで、丁度微睡みに落ちかけていた主が返したいらえに寄越された声もあか
らさまな気遣いの為に扉越しにはやっと聞き取れるほどであった。
「研究院よりの使者が参られておられます。」
それだけで彼は事の次第を全て理解した。
「分かった、直ぐに行く。」
用件を聞かずともこのまま宮殿へと向かうつもりになっていたジュリアスは、迷いもせず寝台を離れ正装を纏うため
隣室へと足を運んだ。手際よく執務服を身につけ、玄関ホールで待つ使者の前に現れるのに十分とかからぬ素早さで
あった。
首座の出で立ちを一目見て使者は既に相手が大凡を分かっているのだと得心する。一度礼を送る使者にジュリアス
は常と変わらぬ厳かな声音でこう言った。
「大体は察している。詳しくは馬車の中で聞こう。」
畏まりましたと今一度頭を垂れる者の横をすり抜け、主は玄関の扉を抜け車寄せに佇む馬車へと急いだ。
書面にする暇もなくやってきたのであろう。使者は馬車が動き始めるのを待たず口頭で詳細を伝える。
「まだ始まったわけではございませんが、それも時間の問題だと思われます。」
「回避への全ては尽くしたが駄目であったか?」
「はい…。残念ながら…。」
項垂れる使者の様は少しも大袈裟には映らない。この事実を知るならば誰でも同じ仕草をしたはずである。
「開始された場合の被害総数は出ているのか?」
「わたくしが持ち場を離れます時には未だ算出中でございました。」
「決して少ない数ではないだろうな…。」
「はい、恐らくは…。」
「主任研究員からは何か新たな手立ては無かったか?」
「開始までにもう一度多角的に分析をしてみると言っておられました。」
「それに掛けるしかないかも知れぬな。」
「はい…。」
これだけの会話でジュリアスは殆どを理解し、直ぐさま己に出来うる術を探し始める。深い聖地の中、木々の影すら
漆黒に沈む静寂(しじま)を縫って馬車の音だけが重く響いた。
現女王への交代劇は旧宇宙から新たな空間への移動を伴う大がかりなものとなった。何もかもが移せるわけでなく、
過去に取り残された数多の星々は移動から一年と経たずその生命を終えた。そして新宇宙に生まれた小さな惑星達は
各の時を刻み成長を行ってきた。酷くのんびりした発展を遂げる星もあり、生き急ぐが如き早さで育った星もある。
中でも此処にきて急速な勢いで進化をものにした星がある。主星系宙域では外れに位置する比較的小規模な惑星であ
った。名をタイロスと言い、当初は際だった特徴のない穏やかな環境を育んでいると思われていた其処が爆発的な人
口の増加や、文明の過激な発達を成し遂げたのは生まれ育った民の望みが其れであった為である。
望んだからと言って何もかもが叶う筈もないが、民の希望は少なからず聞き入れられる決まりとなっている。注い
だサクリアの量に誤りがあったなどなく、受けた民がその恩恵を無駄なく形にしたのだと考えられる。しかし急激な
変化は吉事だけをもたらさぬものだ。集落が村となり町へと変わり更に都市へ移行し最後は国家となり平地を多く保
持する地形が幸いし、一カ所への極端な集中は起こらず同程度の国が幾つも生まれた。それぞれが独自の産業を持ち、
国家間での行き来が始まり経済が充実し政治が執られ法律により守られる。民の作り上げた理は順調に未来を開くも
のと思えた。だが、国が栄えればより多くを望むのも人の持つ当然の欲望で、領土の拡大を廻り小さな争いは始終起
こっては収まってきた。
ところがほぼ同程度の発展を行ってきた国々に格差が生じる。やはり肥沃な土地を得た国は他から徐々に抜きんで
てゆき、恩恵に預かれなかった国は少しずつ遅れをとるようになる。大国は小国を傘下に納めんと画策を始め、考え
あぐねた末に吸収を受け入れる国が出てきた。また大国の内へと納まらぬにしても、同盟を結び相互の利益を得よう
と考える国もあった。
小競り合いを繰り返し、僅かずつ国家が纏まっていく。結局数多に存在した小国は何らかの形で大国と手を結び最
終的には巨大な三つの国が確立され、皮肉なことにこれら三国は互いに対峙する事で存在する世界を形成した。
研究院が変化に気づいたのは聖地の時間で四日前の事であった。直ぐさま通常の監視体制から緊急のそれに移行さ
れ、惑星軌道上にも臨時の監視衛星が置かれた。以前からきな臭い空気が漂っていたのは聖地でも確認しており、各
国が軍備を充実させていたのも知っている。だが、これらはあくまでも抑止力としての配備だと判断していた。大き
くなりすぎた国家においての防衛と銘打った力は互いを抑える場合が多いからである。しかし其れが抑制できる範囲
を超えてしまった。
まさに一触即発の状況に当然ながら出来うる限りの手は施した。有効と思われるサクリアを送り、一度は緩和され
たかに見え監視に当たる職員からも安堵が漏れたのもつかの間、最終的なトリガーとなったのはやはり物欲であった
らしい。三国の中央、各の国土が干渉する付近に新たなる資源の埋蔵が確認されてしまう。手に入れるために各国が
隙を窺い始め、今の時点で武力が行使されるのは時間の問題であった。
この間、何よりも聖地の手を煩わせたのは『時差』である。同じ時間軸を共有しているなら構わない。が、惑星と
聖地の間には五十倍強の異なりが存在したのである。この隔たりを作ったのは女王であり、彼女に其れを作らせたの
は宇宙の意志であった。故に対応策は尽く後手に回る。そして今、この時を迎えたのである。聖地の一日が一月以上
になってしまう現地の時間を誰もが忌まわしく思った筈であった。
研究院の中央制御室に入った途端、ジュリアスは忙しなく周囲を見渡した。次いで眉をこの上もなく顰める。直ぐ
さま職員の一人に問いを向けた。
「闇の守護聖は未だ来てはいないのか?」
知らせは彼一人に伝わった筈がない。筆頭二人へもたらされているに違いないのだ。
「クラヴィス様はお出でにならないとの事でございます。」
答えたのは自ら使者としてその者の元へ足を運んだ職員であった。
「知らせを受け、あの者がそう言ったのか?」
「はい。」
「此方へは来ないと?」
「左様でございます。状況は了解したとのご返事だけを頂戴いたしました。」
秀麗な首座の顔が歪む。嫌悪にも似た影が射した。
「あれは…、何を考えているのか…。」
思わず零れた一言が彼の心中を明確に顕す。ジュリアスは即座に踵を返し扉へと向かう。何事かと慌てる職員へ振り
返り、直ぐに戻ると言い置き急かされたかに退出していった。背後の者達はジュリアスが直接闇の守護聖をこの場に
連れてくるのだろうと考える。今までも幾度か目にした光景だったからである。
今し方歩いた回廊を戻り、中庭に抜ける廊下への角を曲がり中途でテラスの横から本道へ続く小径に降りた。ジュ
リアスは口唇を固く結び、更にきつく噛みしめている。浅はかな愚痴や苦言が零れぬようにか、或いは寸暇を惜しむ
あまりにかもしれぬ。はたまた常ながら真意を明かさぬ相手への愚弄にも近い罵倒を放ってしまわぬ為なのか。彼は
道の先をひたと見つめ、夜露を含む下生えを踏みしだく音のみを発て己を待つ馬車の元へと急いだのであった。
今宵は空に低い薄雲があるらしく、既に昇りきった月の明かりもどこかしら茫洋としている。そして風がない。大
気はその場所から微塵も動く気配がなく、よって酷く夜の香が強く漂う。暗がりに潜む澱みが、彼の足下に絡みつく
かのようだ。夜半に啼く鳥の音も大層低い辺りから鈍く聞こえる。静けさの裏側にある、特有の禍々しさが殊更に大
きくジュリアスの焦燥を駆り立てた。程なく頼りない外灯が視界の先に現れ、其の下に佇む馬車の輪郭が彼を迎えた。
乗り込む折り、随分と抑えた声音で一言『闇の館へ』とだけ発する。御者は特に何かを言いもせず一度深く頷き馬
車の扉をゆっくりと閉める。乾いた鞭の音が一つ。蹄が敷かれた小砂利を践み、車輪が鈍い軋みを上げる。厳かに動
き出す馬車の振動に揺られ、ジュリアスは窓から夜に堕ちる宮殿を眺めた。白亜の外装は墨の色に沈み、遠く研究院
の辺りだけが頼りない灯火を瞬かせていた。彼の者の屋敷まではほんの数十分あまりである。その間何某かを纏めよ
うと勤めるも、悲しいかな募る焦燥が思考を妨げ結局ジュリアスは森の先に見慣れた屋敷の灯りをみとめるまで、何
も考えることは出来なかった。
緩い曲線を描き馬車を導き入れる車道はそのまま屋敷の玄関へ続く。よもやと思ったが、降り立つ彼が重厚な扉を
一度叩いただけで其れは内側へ大きく開いた。ホールに立ち首座を迎えるのは屋敷の執事である。彼は常と同様の慇
懃な仕草で頭を垂れその様に相応しい挨拶を寄越した。
「このような時刻に申し訳ない。」
「いえ、とんでもございません。」
「クラヴィスは未だ休んではおらぬのか?」
「はい、書斎においでになります。」
ジュリアスは聞き終わるや否や其方へと続く廊下へと足を向ける。途中、丁度ホールの中程の辺りで一度立ち止まり
顔だけを返して執事へ問う。
「私が来ると…クラヴィスは知っていたのか?」
執事が間を置かず迎えに出た事、玄関の灯りが落とされていなかった事実からジュリアスはそう訊ねた。
「恐らくお見えになろうと仰っておりました。」
首座の面(おもて)が俄に曇る。知っていたなら何故自分が出向かぬのかと、喉元まで上る台詞を飲み込んだ。
書斎は寝室へ続く廊下の更に先にある。幾つも並ぶ扉をやり過ごし、彼は真っ直ぐに其処へ進む。廊下の外れ、正
面の壁には灯り取りを兼ねた色硝子が嵌るその手前で彼は扉へと向いて拳を三度当てた。
「入れ…。」
聞き慣れた声に招かれる。押し開いた先、主はテーブルに向かい顔を上げてジュリアスを見た。
「そなたを迎えに来た。」
「何故…?」
「この期に及んで何故と訊くか?」
「何処に在ろうと既に同じだ…。」
「同じではない!」
思わず高まる感情にジュリアスは声を張り、放たれた言葉の語尾は孕む怒りに震えていた。
「いや…、同じだ。」
今にも弾けんばかりの怒気を気にもせず、クラヴィスは舐めるかに相手の顔を見つめる。
「何が同じだ! 直ぐさま院へと赴き出来うる術を行使するのが我らの勤めだと分からぬか!」
「勤め…?」
「職員が今も有効と思われる策を捜している。其れに従い我らの力を使うのが勤めだ。」
「其れが勤めか?」
「そうだ。」
やれやれと肩を竦める相手が薄く灯るあかりの中でうっそりと立ち上がった。
「少し待て…。」
言い置くとクラヴィスは隣室へと消える。衣装を整えるのだとジュリアスは察した。主の消えた室内に残るのは開き
かけた数枚のカードと憶えのある甘やかな香であった。
車中で彼らは何も言葉を交わさなかった。ジュリアスはひたと前を見据えクラヴィスは墨に塗り込められた窓外を
ずっと眺めていた。闇の館に居たのは高々数十分であったのに、再び宮殿へと向かう為屋敷の外へ出た時空は最前よ
り低い雲がたれ込め薄鼠に見えた。ぼやけた月明かりも既になく、通りの外灯だけが此の地の唯一の灯りに思えた。
宮殿の車寄せから研究院へ急ぐ間もジュリアスが口を開く事はなかった。勿論クラヴィスから何かが発せられるわけ
もなく、二人は押し黙ったまま己らの硬質な靴音を耳に捉え歩を進めた。
院のメインルームに戻る。開く扉へ向いた職員の顔が全てを伝えた。険しい或いは焦燥に駆られた表情が二人を迎
える。先に入室したジュリアスは急ぎ主任研究員に状況を確認する。メインモニタの前で首座の一声を受けたエルン
ストは平素の怜悧さを保ちはしているが、明かな苦渋を漂わせていた。
「つい数分前に始まってしまいました。」
勤めて平静を装っている。が、それでも声には寄る辺無さが滲んだ。
「すぐにサクリアの適正量を算出できるだろうか?」
「サクリアと申しますと?」
「あの者を同行させたのは闇のサクリアを流布させる為だ。」
エルンストはどう返答すべきかを迷い一旦言葉を切る。その時後方より別の声が答えた。
「無駄だ…。」
振り返るジュリアスに次ぎが投げられる。
「その者も同じ答えであろう…。」
くぃと顎をしゃくる仕草で主任研究員を示すクラヴィスの言葉を裏付ける台詞がジュリアスへと届く。
「無駄…とは申しませんが、現時点で闇のサクリアを送られても確実な効果は得られないと思われます。」
サクリアに即効性がないのはジュリアスも重々承知している。今この時点で算出した適正量が直ぐさま何某かの影響
を与えるなど端から考えていない。ただ何もせず手をこまねいていることが出来ないだけだ。欠片ほどの可能性を躊
躇い傍観する手段を彼は持ち合わせていないのである。
「其れは承知しているが、しかし…。」
続きを遮ったのは背後からジュリアスの前に歩み出たクラヴィスであった。彼は軽く上げた腕で首座の言葉を制し、
そのまま主任研究員の傍らに寄ると何かを小声で話しかけた。密談をするつもりでは無かった筈だ。単に室内のざわ
めきが彼の低い声音を消してしまっただけの話だ。エルンストは即座に頷き控える職員へ指示を出す。
「五分ほどお待ち下さい。」
クラヴィスへ返した此だけがジュリアスへと届いた。
実質五分と掛からず一度退室した職員が戻ってくる。エルンストがクラヴィスへ用意が出来たと告げる。此処で初
めて闇の守護聖が首座へと向き直る。
「今、わたしの出来る事をする用意が整ったらしい…。お前も…来るが良い。」
案の定説明をする気のない相手からはそれ以上の言葉はなく、しかしジュリアスも訊ねるつもりがないようで職員の
後に続き部屋を出ていこうとする黒衣の背に彼は無言で従った。問いは溢れるくらい胸中に渦巻いている。が、この
場で其れを発するのは適切とは言い難いとジュリアスは判断したらしい。
通されたのはメインルームの奥に並ぶ準備室であった。普段は臨時の会議やら、火急の場合の資料室或いは自室に
戻れない職員の為の仮眠室として仕様されることもある小部屋である。小部屋と言ってもメインルームや其れに準ず
る制御室、通常の会議室に比べて小振りであるだけで、部屋の中央にポツンと置かれた二つの椅子が殊更な空虚さを
漂わせるほどの広さを有している。職員は入り口を開けると急かされたかに持ち場へと立ち返って行った。
一歩室内へ践み入ったジュリアスの耳に響いたのは微かな残響を伴う破裂音であり、其れは何処か彼方で鳴る遠雷
に似ていた。並び置かれた椅子の前、中空には会議などで用いる空間モニタが在り酷く状態の悪い画像が映し出され
ている。クラヴィスに促され椅子にかけつつ見上げた双眸に件の惑星から送られてくる現状を伝える映像が飛び込ん
だ。いや、剰りに粗い粒子と通信状況の悪さから瞬時に其れだと判じるのは難しかった。恐らく映像を優先する為に
音声データを切り捨てたのだろう。故に砲撃の轟音が遠雷の如く聞こえたのである。
「今、我らが出来る術は此だけだ…。」
隣に掛けたクラヴィスが口を開いた。
「お前がサクリアを送ると言い出すだろうとは思っていた。だが、それは出来ぬ…。」
「即座に効果が見込めぬからか?」
「違う…。」
「ならば何故(なにゆえ)にだ?」
「仮に…有効と思われる量を送ったとしても、其れに因り戦闘が沈静化したとしても…だ。再び戦火が起こるのを止
めることは出来ぬ。」
長引かせるだけだ…。言い終わったクラヴィスがジュリアスの顔を正面から見据える。
「だが、戦闘に向かう意識を一度沈めれば別の手段を民が打ちだすかもしれぬ。」
「いや…、其れは無い。」
「何故そう言い切る。」
「此までに何も策を講じなかったなら、新たな手立てをあの者らが考えつくかもしれぬ。だがな…ジュリアス、こう
なる以前にお前は全てを行ったのだろう?考え得る何もかもをしたのでは無いのか?」
それとも何か落ち度があったのか?と問うクラヴィスの視線には詰問にも似た鋭さがあった。
「落ち度などない…。全てを…あらゆる術を…私は行ったつもりだ。」
「それでも結局戦火は上がった…。此は避けられぬ道なのだ。」
「それでも…、何もせずにいれば失わずとも良い命が落ちる…。」
「失われずとも良い命だと?」
「我らが救える命もあると言っているのだ。」
「ならば…お前は失われても構わぬ命があると言うのか?」
「そ、そんな馬鹿な言いぐさで私を愚弄するつもりか!」
「愚弄などしない…。此は当然の理だ。どちらか一つでは世界は成り立たぬ。正が在れば負がある。そう言う事だ。」
「……。」
「どれ程手を尽くしても避けられず、落ちていく命があるなら…。其れもまた宇宙の意志なのだろう…。」
一度だけジュリアスは何かを言わんと唇を開いた。けれど其処からは微かな溜息が漏れ形を為した言が紡がれること
は無い。細い吐息にも似た嘆息を落としたのち、彼は口唇をきつく噛みしめるばかりであった。
宇宙の移動が行われる以前、彼らの守護する其処は果てしない時を有して穏やかな安寧の中にあった。小さな諍い
や小競り合いが皆無だったわけではないが、無象の被害をもたらす人的行為など許さぬほどの穏やかな秩序が保たれ
ていた。守護聖はそれら小事を事前に知り、納める事が責であった。
だがしかし、新たなる宇宙には未だそこまでの安定はなく、此までにも数え切れぬ争いは起こっていた。だた此程
の巨大な戦闘は聖地で最も任期の長い彼らにして初めての事である。ジュリアスが食い止めんと足掻くのも当然と言
えた。
「人は愚かで浅はかな生き物だ…。」
言葉を納めたクラヴィスが再び先を発する。つい今し方ジュリアスに向けていた強すぎる言い様は形を潜め、耳に届
く声音には囁きよりも穏やかな響きがある。
「避けられぬ戦火が宇宙の意志だとすれば、其れは星の民への戒めかもしれぬ。」
「戒め…。」
「過ちから正しき道を知る事を…、宇宙が望んでいるのではないか…。」
「望んで…。」
「民だけでなく、我らにも其れを望んでいるなら…。見届けることが責だと…わたしは思う。」
「見届けるべきなのか…。」
「それに…、戦いは長くは続かぬ。」
「どうして…?」
「怒りなど…一時の感情だ。」
複雑に入り組んだ事情があれば或いは数年に及ぶ戦闘もあるだろうが、未だ稚拙な物欲と一時的な感情の起伏だけに
支配された争いの結果でしかないなら、間もなく誰しもが現実の虚しさに気づくだろうとクラヴィスは言った。若い
星に生まれた若い民の戦である。欲しい物を手に入れようとした為に引き起こされた争いは拗れ不要な長期に渡るほ
ども執拗に続く筈がないのだ。けれどこの先、より高度な文明や複雑な政治そして信仰を手にした時には未曾有の被
害をもたらす大戦も起こりうる。また其れまでにも恐らく幾度となく同じ過ちを繰り返すのだ。
「最初からただ眺めていろとは言わぬ。お前が全てを尽くしても納められぬ時は、こうするのが責だと言っているの
だ…。」
「そのたびに、私はこうせねばならぬのだろうか…。」
「恐らく…な。」
「其れが宇宙の意志なら…。」
「そうだ…。」
己に課された責であったらジュリアスは全うするしか術を持たない。眼前で散っていく数多の命を無機質な画面の
中に捉えなければならない事実に彼は空虚な怒りを覚えた。自身に宿した力が与える誇りと希望が、何の役にも立た
ない現実への怒りと傍観以外に為す術のない実情を受け入れなければならない事への虚無感が彼を深い哀しみに引き
入れようとしていた。膝に置いた両手の拳をこの上もなく固く握りしめる。整えた爪の先端が薄い皮膚に傷をつける
くらいに力が籠もる。そして其れは止められぬくらい震えていた。
光明を手にする者が内包する、本来表面には顕さぬ虚が大きく口を開けていた。彼が無意識のうちに隠そうとする
人であるなら当然の脆さをこれら現実の切っ先が鋭利な刃物の如く抉ろうとした刹那、酷く茫漠とした声音がジュリ
アスの落ちかかる意識を止めた(とどめた)。
「だが…安心しろ。」
「…?」
「この後、多分幾度も同じ場に臨まねばならぬとしても…。わたしは付き合ってやるつもり…だ。」
「そなたが…か?」
「まぁ、こうして座っているだけだが…。」
「あまり…役に立たぬな…。」
強張った肩から幾分力が抜けるのが分かる。それでも強く握った拳は解かれない。
「出来るのは……。」
此くらいのことだと言いつつ、クラヴィスが手を伸ばした。
其れは随分と微かな温もりであった。膝にある固い拳の上に掌が重なったのである。長い指が小さく丸まった其処
を包んだ。両腕から不要な力みが消え失せる。胸に凝る諸々の憂いが癒されたなど全くなかった。ただ少しだけ心が
軽くなったかに感じた。
「無いよりは…良いかもしれぬ。」
小さく呟いたジュリアスは、細い吐息を零した。彼は意識をモニタへと注ぐ。未だ凶事は続いていた。けれどジュリ
アスは翳りのない双眸で其れを見つめる。悔恨はある。しかし迷いは捨てていた。
痛ましいほどの静寂が室内にたれ込め、二つ並ぶ椅子にかけた彼らはその後一切を忘れたかに眼前を見据えていた。
再び遠い雷鳴が響く。それは残響を伴い僅かの間空間を揺らした。
了