*石榴の色*
04' VTD / ちびっこ
目の前に差し出された手が何かを掴んでいるのに最初は気づかなかった。無言で伸ばしてくる腕はいつもと同じ墨色の袖に包まれており、その先から覗くグーの形に握られた手はやはり見慣れた小さな其れだった。
「何だ?」
訝しさをあからさまに声に出せば、只でさえ厳しい声音になりがちな彼の言い様はひどく相手を詰問しているかに聞こえた。
「あげる…。」
返ってきた答えの小ささにジュリアスは自分のきつい言葉を責められている気分になり、更に不要な力を込めて『だから何だと訊いているのだ!』と甲高く問い重ねてしまった。目の前の腕がビクリと動いた。
驚いたに決まっている。そして竦んでしまったに違いない。泣き出すかもしれない…。
「いや…、怒っているのではない。」
少しばかり柔らかな言になるよう心がけて俯いてしまった顔を覗き込む。切りそろえた髪が顔に掛かって彼が如何なる表情をしているのかが全く判ぜられなかった。ふと丸みを帯びた肩に眼を遣ると震えてはおらず、幾分強張っているだけに思える。
『泣いてはいない…』
ジュリアスは其処が小刻みに震えていなかった事に安堵を覚えた。自分が怒鳴り声を上げておきながら、相手が泣いていない事実に胸をなで下ろすなど非常に身勝手な気がした。けれど、彼が泣き出してしまうと自分はそれにどう対処したら良いのかが分からない。彼と出会って言葉を交わすようになり、こうして休みの日に私邸を訪ねてくるまでに何ヶ月もの時を要した。
普段の関わりに不慣れさはなくなったが、自分と同じ年の、所謂子供に慣れていないジュリアスは子供そのものの反応を返す相手との交わり方を漸く覚え始めたところなのだ。
「……あまいの。」
幾度か息を吸い込み、間違いなく溢れそうになった涙を堪えているであろう相手からの返事はジュリアスを満足させるには甚だ的はずれな一言だった。喉元まで昇った言葉をジュリアスは何とか嚥下する。これ以上同じ問いを突きつけたところで、彼はきっと望む答えを寄越しはしないと察したからもあるが、果たして中身が何であるかを明らかにする事が其程も必要なのかと自らに言い聞かせたのもあったからだ。
「私に…くれるのか?」
やっとひねり出した語句は自分でも間が抜けていると承知しながら、それでも他に適切な一言が浮かばぬ為に仕方なく紡いだ其れを受けた相手は、相変わらず下を向いたままだがコクリと確かに頷いた。少し前より長くなった髪が肩の僅か下でサラと揺れた。ふわりと日向の匂いがする。他の守護聖からは決して香らぬ、彼を殊更に子供だと感じてしまう香りが鼻孔の奥を刺激するのをジュリアスは割と気に入っていると今更ながらに思った。
此処までたどり着く間、彼はずっと腕を差し出していた。しっかりと握りしめた物は光沢のある紙でできた袋である。表面に細かな模様が描かれている。目を凝らして見ると其れは絵本にでも出てくる玩具の木馬を模した柄であった。薄い緑色に不規則に散らばる子馬の模様の袋は、きっと彼が屋敷の者に強請って探させたに違いなく、どこから見ても彼がジュリアスに贈るべく飾った進物なのだと分かる。
「ありがとう。」
漸くジュリアスが其れを受け取り、当然の謝礼を述べるのを聞いて彼はやはり最前と同じにコクリと首を下ろした。その時何か言ったようだったが、残念ながらジュリアスには聞こえぬ風であった。
何時までも庭に面したテラスに居ても仕方がないとジュリアスは彼を屋敷の中へと誘う。まだ俯き加減で足下を見ている仕草に業を煮やし、さぁ!と下ろした手を取った。その時彼の手が予想以上に冷たいことに気づき、気づいたと同時に常とは違う様々の違和感が蒼い晴天の眸を俄に曇らせた。
「そなた…、此処までどうして来た?」
平素なら彼は私邸から馬車でやって来る。幼い守護聖を送り届ける供の者が必ず従う。そして彼は玄関からジュリアスの館の執事に伴われ、私室であるこの部屋へとやって来る筈だ。ところが今日は違った。部屋で一人、資料となる書物を紐解いていたジュリアスの耳にテラスに続く大きな硝子戸を叩く音が聞こえ、何事かと開いた先に小さな彼が立っていたのだ。
冷静にその姿を見ると上着を羽織っていないばかりか、身に纏う其れは薄い部屋着に他ならない。テラスに忽然と現れた彼を見て、何故そうした違和感に気づかなかったのかとジュリアスは激しく己を叱った。それまで素直に従っていた足がピタリと止まる。振り返れば、彼は先ほどよりもっと項垂れて根が生えたかにその場に立ちつくしている。この時点でジュリアスは何もかもがハッキリと理解できた。
一人で来たのだ。馬車にも乗らず供も連れずに光の館まで歩いて来たに決まっている。勿論屋敷の誰もこの事実を知るわけもない。知っていたなら彼を一人で出しはしまい。例え彼が一人で行くと駄々をこねたとしても、そんな戯言が通るなどあり得ない。しかし、これはあくまでジュリアスの予測を越えるものではないから、彼は大層穏やかな言い様で怒らないから本当の事を述べよと冷えた手を繋いだままでそう言った。
「ひとりで……、あるいて……。」
「屋敷の者には、私の元へ来ると言い置いてきたか?」
「いいおいて……ない。」
思った通りだ。ジュリアスはやれやれとばかり大仰な溜息を吐く。繋いだ手がヒクリと動く。吐き出された溜息の後に叱責が来るかと身構えたのかもしれない。
「では、直ぐに使いの者を遣ろう。きっと今頃そなたの屋敷では皆が心配している。」
不意に小さな黒い頭が上がった。見開かれた眸がジュリアスへ向けられ何かに驚いている風であるが、それが何に対する驚嘆なのかは読みとれない。
「どうした?」
「みなが…しんぱいする?」
「そうだ。だから、もう黙って出てきてはならぬぞ。」
『うん…。』と言いかけ慌てて言葉を飲み込み続けて『はい…。』と弱い了承が聞こえた。返事は必ず『はい。』と言うのだとジュリアスが繰り返し言い聞かせたのを、彼は忘れてはいなかったようだ。
気づけば彼がジュリアスの前に姿を現してから顔をしっかりと見合わせたのは今が初めてになる。平素でもこの幼い守護聖は前よりは下を向いている。それは今日も同じで、ジュリアスに紙袋を握った手を付きだした時ですら、下方に顔を向けていた。聖地が常春と称されるのは、極端に気候が変化しないよう管理されているからであるが、だからといって寒暖が皆無なのではない。早朝の空気は吐き出す息を白く染めるし、夕刻が近づけば肌に触れる風に襟元を引き寄せたくもなる。今は既に夕刻に近い午後の終わりである。幾つもの森や林を隔てた闇の館から此処まで子供の足では有に半刻以上は掛かる。ようやっと顕わになった彼の頬と鼻の頭は見事なくらい赤く色づいていた。
「寒くないか?」
再び腕を引くジュリアスの後から、うんと言いかけ改めてはい…と言い直す柔らかな声音が聞こえた。
私室に入るとジュリアスは直ぐさま闇の館へ使者を送るべく誰かしらに伝えねばならぬと言った。側仕えを呼ぶ鈴を一旦手に取ったがそれをテーブルに戻し、小さな守護聖に振り返ってソファに掛けて待つよう促すと自ら執事の元へ行って来ると告げた。誰かが来るまでの時間がもどかしく、夕暮れが近づくにつれ密やかに部屋の温度を下げる夜の気配が随分と冷たい彼の手からこれ以上体温を奪うのが気がかりで仕方なかった。執事に伝えれば何より事は迅速に進む。闇の館への伝言も、うっすらと寒さの忍び寄る部屋に暖を入れるのも、彼に暖かな飲み物を運ぶのも、執事に話すのが何よりだと考えた。
「少し待っているのだぞ。」
小さな身体がソファをよじ登るのを眺めながらジュリアスは含めるかに述べる。未だ足の届かないソファに座る彼はゆっくりと頷いて『まっている。』と同じ言葉を繰り返した。ちょこんと掛ける彼の両足がゆらゆらと揺れている。
この地にやって来た頃より少しだけふっくらとした頬はまだかさついた朱に染まっていたが、ジュリアスを見つめる夕暮れの眸には先ほど溢れそうになった涙の痕跡は残っていなかった。一度頷いて見せると、重厚な扉を開き廊下へと出る。執事が控える部屋は長い廊下の遙か先にある。駆け出しそうになるしなやかな両足を宥め、ジュリアスはしっかりと前を見据えて思う先へと向かった。
全てを言い渡したジュリアスは自室へと戻って行く。長い廊下を歩きながら先ほどから気になっている事柄を頭の中で纏めていた。彼が一人で来た理由。屋敷の誰にも告げずに此処まで歩いて来た理由。いくら考えても答えはやって来ない。幼い守護聖が外に行きたいと請えば、其れを無碍に退けるなど普通に考えれば有るはずのない事だ。行き先が光の館だと言えば、誰も止めることなどする謂われがない。
彼らは普通に互いの屋敷を行き来する。出会った頃は、見えない溝が確かに存在した。子供に慣れていない子供は、子供である事しか知らぬ子供を受け入れられずに拒絶した。拒まれた子供は如何なる理由で差し出した手を払われたのかが理解出来ず、ひたすらに拒んだ子供の蒼い眸を覗き込んだ。しかし柔軟な心はさほどの時を有せずして溝を跳び越し、そんな物が有ったのすら忘れた風に笑い合った。だから、彼の望みが退けられた理由が思い浮かばない。結局、本人に尋ねてみなければならないのだとジュリアスは自身に確認をおくりつつ、ほんの少し憂鬱になった。訊けば彼はまた竦んでしまうかもしれない。一人で来たことを叱責されると考えないよう、問わねばならないと自らに言い聞かせた。
扉を開くと、彼は同じ姿勢で其処に居た。少々退屈そうに両足をゆらゆらさせてソファに腰掛けていた。
「屋敷へは使者を送った。間もなく何か飲み物が届く。」
ジュリアスは伝えるべきを短く告げた。彼は頷きながら『はい。』と了解を寄越した。ソファに歩み寄り、彼の隣に掛けるとジュリアスは相手の眸を捉えて厳かな声音でこう訊ねる。
「どうして一人で来ようと思ったのだ?」
ひゅっと息を呑む音が鳴った。ついた両手がギュッと握られる。答えあぐねているのは明白だった。
「来ては駄目だと言われたのか?」
彼は再び俯いてしまった。ジュリアスの好きな夕暮れ色が墨色の髪の影に隠れる。
「誰にも言わぬ…。私だけに教えてくれ。」
普段なら少しでも答えが返らぬと苛立って声を荒げてしまう自分を、ジュリアスは幾度も宥めて返答を待った。
「きのうは…、たくさん力をつかったから…。」
途切れる声の続きを辛抱強く待つづける。
「よるに…、たくさん頭がいたいに……なった。」
ジュリアスは思い当たる。昨日、彼は今までで最も沢山のサクリアを送ったのだ。宇宙は此方の都合などお構いなしに要求を突きつけてくる。力を行使する者が幼かろうが不慣れであろうが、欲する物は与えねばならない。一度に複数の惑星にサクリアを送った彼が、結果如何なる状態になろうと宇宙には無関係な事象なのだ。
「酷く痛かったのか?」
「……はい。」
ジュリアスにも覚えがある。確かに自身の内に宿る力であるはずの其れを、時に制御が侭成らず或いは行使した量に未発達の肉体が付いていけず、あっという間に体調を崩すのは珍しいことではない。今でこそジュリアスはある程度の加減を覚えたが、それでも万全にはほど遠いのが実情だった。
「今朝も痛かったか?」
「すこし…いたいだった。」
ならば屋敷の者が彼の願いに頷かない筈だ。彼は触れなかったが恐らく発熱もしていたのだろう。
「それなら屋敷で休んでいなければならぬだろう?」
何故それでも黙って自分の処に来たのか?と、ジュリアスは核心を問うた。
「あまいを…もってきた。」
「あまい?」
「あまいを、ジュリアスにあげる。」
テーブルに乗ったあの紙袋を彼の指がさし示した。訝しげな顔を作り、ジュリアスはソファから下りると彼の示した其れを手にして戻る。じっと見つめる菫色の前で握られていた為にくしゃくしゃになった袋の口をそっと開いた。中からは甘い香りがふわりと立ち上った。覗き込むと黒褐色の丸い塊が幾つも入っている。
「あまいは、たべるとなおります。」
「痛いのが治るのか?」
「はい。」
「これはどうしたのだ?」
彼は年中の守護聖の名を上げた。昼過ぎに見舞いに訪れた際に持ってきたくれたと言う風の言葉を並べた。
ジュリアスの持ちうる言語の数に比べれば、彼の知る語句など十分の一にも満たない。それらを懸命に手繰り寄せ、本当に食べたら治ったのだと真摯な眸で辿々しく語った。ジュリアスも自分と同様に具合を悪くするかもしれない、ならば早々に届けねばならないと人の眼を盗んで屋敷を抜け出して来たのだと知れた。常識から判断すれば、菓子を食したから復調するわけなどない。けれど彼は確かに治ったと力説する。平素、言葉少なく多くを語らぬ彼が拙い語句を駆使して伝えようとする其れはあまりに不確かな言語であったが、少なくとも伝えんとする真意はジュリアスに届いたようだ。
「クラヴィス。」
「…はい。」
「ありがとう…。」
言い終わらぬうちにジュリアスの空色が緩やかに弧を描き、桜色の唇が柔らかに綻んだ。クラヴィスはその常は硬く引き結ばれた唇が、厳しい光を湛える眸が微笑みに緩むのが好きだ。自らが持参した物が彼にそれを運んだのが何よりも嬉しかった。はにかんだ様に微かに笑んで、クラヴィスはもう一度『はい…』と頷いた。
その後、もう治ったからと頑なに言い張るクラヴィスを宥め寝室まで連れて行くのにジュリアスは大層難儀した。屋敷から歩いて来たのだからと何度も言い含めて、着替えをさせ寝台に入れるまで半時弱もかかった。やっと大人しくシーツの間に潜り込んだクラヴィスに絵本を読んで聞かせ、薄く開いた唇から穏やかな寝息が聞こえるのを確認した時には安堵したと共に酷く疲れた己に気づいた。
しかし、ジュリアスは一度として声を荒げなかった、聞き分けのないクラヴィスを叱責もしなかった、そして彼の双眸から涙が零れる事もなかった。ホッと大人じみた溜息を漏らしはしたが、ジュリアスはとても満足している。指の先まで充ちている充足感に彼は再び零れるかの笑みを浮かべた。
自分がそうであるように、シーツの上に投げ出され緩く握られた小さな手が何時か宇宙の明暗を担うのだとジュリアスは知っている。其れがクラヴィスに如何なる物を与えるのかは杳として知れない。酷い苦痛なのか、誇らしい高揚感なのか、ジュリアスには判じきれない。出来ることなら、その時も今と同じに互いの心根を伝えあえれば良いと願った。
ついと上げた視線の先、窓の外には暮れ始めた空があった。沈みゆく陽の名残が窓外を石榴の紅に染めている。落ちてゆく太陽は瞬く間に緋色に変わり、間を置かず薄い蜜柑色へと移っていく。そして気づけば其処は深い菫色に染まるのだ。ジュリアスの好きな一日の終わりを慈しむ、クラヴィスの眸と同じ色の空は、もうそこまでやって来ていた。
何故…、こんな事を思い出したのかとジュリアスは釈然としない面もちで小さく嘆息した。自らに何故と問うておきながら、しかし何が彼にそんな掠れてしまった過去を運んだのかは歴然としているとテーブルに置かれた箱に視線を遣った。陛下からの届け物だと受け取った秘書官は非常に畏まってそう伝えた。宝石箱とも思える豪奢な飾りを施されたその中には小振りな黒褐色の塊が整然と並んでいる。如何なる謂われかを以前に拝聴したと記憶しているが、毎年この時期に贈られてくる菓子はその都度形が異なる為にその実、どうした意味合いだったかを思い出す切欠にはならないのだった。女王が寄越した今年のそれは濃厚な味わいの菓子に違いなく、昨年の大理石を模した物とは別物に見えるが同質の材から作られたのだと、年少の誰かが言っていた。
小さな手が握りしめていた光沢のある紙袋に入れられた菓子と、今テーブルにある箱に並ぶ物が同じだと気づいた時、ジュリアスの意識は遙か遠くにけぶる記憶の彼方へと飛んでいたのだ。あの後、菓子を食した覚えはすっかりと消えており、僅かに残るのは特有の甘さの後口内に広がった苦みだけで、美味いと感じたのかも判然としない。一人で全部を食べてしまったのか、それとも二人で分けたのかもさっぱり思い出せずにいた。女王からは守護聖全員に同じ菓子が届けられている。果たしてクラヴィスは覚えているかと考えるも、直ぐさま其れはあり得まいと苦笑した。それに、此までも何度かこの菓子を口にしたことはある。今日に限って感傷に浸った理由があるとするなら、きっとアレか?とジュリアスは視線を窓外に送る。眼を離した数分の間にもう空は群青に塗り変わっており、つい先ほど彼の目に映った濡れたような石榴の色は既に何処にもありはしなかった。
『顔を……出してみるか。』
無性にあの仏頂面が見たくなった。不機嫌を貼り付けた白皙が煩わしそうに自分に寄越す、恐ろしくつまらなそうな声を聞きたいと、ジュリアスは静やかな所作で己の席を離れた。
了