*浮き雲*

『Holy Garden』after episode2 / 本編読後がお薦め

この場所に来てからもう幾日も経つ。ここは屋敷のすぐ前に海がある。
だから目覚めているときも、本を読んでいても、互いに見つめあっていても、唇を深く重ねていても、そして夢の彼方にたゆたっている時でさえ、波の音が聞こえる。今もそれは薄く開けた一枚の窓の隙間から入り込み、シーツに肘を付き傍らに眠る者を眺めるジュリアスの耳に届いている。
命の源を内包する海の息づかいは少しも耳障りではない。それどころかここに来てから、何故か優しい気持ちになるのも波音の所為ではないかと思えた。
クラヴィスは眠っている。静かな寝息を発て、開いた胸元が規則的に上下する様をジュリアスはかれこれ半刻ばかりも見つめたいた。聖地を離れ煩わしい日常から解き放たれているにも関わらず、ジュリアスは毎朝鳥の音の上がる頃には目覚めてしまう。それをクラヴィスにからかわれても、身体に染みついた慣習はそう簡単には違えられぬらしい。整った寝顔を見ながら、細い指がシーツに散らばる髪をすくい取る。昨夜床に就く前に珍しくクラヴィスがこんな事を言った。
「明日も早くに目が覚めてしまったなら、わたしを起こしても構わぬ。 一度くらいお前の朝の散策とやらにつき合ってやっても良いからな。」
今にも閉じてしまいそうな瞼を何度も瞬かせながら、そう言ったと思う間もなくジュリアスが良いとも悪いとも答える前に彼は眠りの階(きざはし)に足を掛けていたのだが。本人がそう言うならとジュリアスも目覚めた時、クラヴィスの肩を揺すって声をかけた。ところが昨晩の事などすでに夢の内に忘れてきた様で、うっすらと開いた瞼から深紫の瞳が覗いた途端、彼は鼻先で薄く笑うと腕をジュリアスの躯に廻し抱き寄せ、再び眠りの中に落ちていった。これにはジュリアスもただ笑うしかなく、「仕方のないヤツだ…。」と呟いてもうそれ以上彼を起こすのを諦めた。
また眠り込んだクラヴィスの顔があまりに幸せそうで、それを奪ってしまうのが惜しいと思えたからだろう。それからずっとジュリアスはクラヴィスを眺めている。きっと彼が目を覚まし、未だ眠そうな顔で「おはよう」と言う頃には太陽は既に水平線から高く昇っているに違いない。朝食の席でクラヴィスに約束の一つも守れないなどと言ってやるのも良いかもしれぬとジュリアスは可笑しそうに笑った。
そのすぐ後、彼はそっと傍らの白い頬に唇を落としてから寝台を離れた。テラスに向いた大ぶりの窓の下には紺碧の海がある。毎朝彼は真っ直ぐに続く砂浜を歩く。今日もそれは変わらない。
クラヴィスの眠りを妨げぬ様、殊更気を付けて後ろ手に扉を閉めると彼は長い廊下を玄関に向かい歩いて行った。



長椅子に仰向けに寝転がり窓の外を見る。視界に広がるのは真っ青な空だけであった。仰ぎ見る硝子越しのそれは幾つもの格子に切り分けられていた。何処までも蒼い空の真ん中にポッカリと雲があった。一つだけ見える浮き雲は今にもその紺碧に融けてしまいそうだ。しかし、それが決して融けてしまわぬこともクラヴィスには分かっている。何故なら空はあくまで空であり、雲はいつまでたっても雲に変わりがないからだ。同じ大気の中、今にも融けて混ざり合うかに思えても異なる粒子で作られているが故に一つにはなれないと決まっているのだ。何をするでもなくただ空を眺めながらクラヴィスは取り留めもなく、そんな事を考えた。
今、ジュリアスは居ない。彼は午後になると必ず外出し、この岬の裏にある磯に行くのであった。朝は濱を午後には磯を歩くのだと彼は決めているのだ。ここに来てからジュリアスはそんな決めごとを立て、しかも忠実に実行している。
幸いこの地に雨が降ることはなく、故に彼の決めごとが滞ることもなかった。
「全く…仕方のない奴だ。」
本人が居ないのを良い事にクラヴィスはあからさまに声に出して言ってみた。
「もっとノンビリとしても良いだろう…。」
ジュリアスにそんな風に言ったことはある。それはまだこの屋敷に来て幾日も経たぬ時のことであった。ジュリアスは心の底から驚いた風な顔をして、実際に驚いたと言いながら少し眉間に皺を寄せ「我らがここに来た目的を忘れるな」と厳しい口調でクラヴィスを叱った。
そう、ジュリアスがここに来た目的はあの事故の傷を癒しつつ、今でも若干残る足の痺れを治すこと。所謂リハビリを行う事であった。執務を離れ、身体を治す為にと女王自らが選んだこの地に二人はやって来た。その間、筆頭二人が聖地を空けるのをジュリアスが拒まぬようにと、これは女王の勅命として彼らに与えられたのだ。あくまでも執務の一端であり、決して遊びではないのだとジュリアスは日に一度はクラヴィスに言う。だから彼は毎日同じ時間に決まった距離を歩くのだ。
「ご苦労なことだ…な。」
少し前に摂った昼食が良い具合に腹を満たし、そうなると必然的に瞼が重くなる。生真面目な顔つきで磯の風に吹かれる黄金色の髪を思い描きながら、クラヴィスは訪れた睡魔を拒むことなく迎えた。
『そなたの任は昼間から寝る事ではないのだ、クラヴィス。 早く身体を治すことだろう。 偶には外を歩くのも必要だとは思わぬのか?』
眠りの扉に手を掛けたその時、そう言って腕を差し伸べるジュリアスの姿が現れた。クラヴィスは笑って首を振る。
「わたしに構わず行ってくれば良い。」
ただ、お前が必ず戻って来さえすれば…。



この二人を供にこの地に遣わした女王は甚だ洞察に優れていると言える。聖地の屋敷で静養を言い渡しても、ジュリアスは決して少なくない書類を私邸に届けさせ、そこが彼の執務室でないだけで誰が見ても休んでいるとは考えられぬ様子であったし、クラヴィスはと言えば隙をみては屋敷を抜けだしジュリアスの元を訪ね、そのあと必ず具合を悪くしていた。
彼らは供に在れば良いのだ。女王の出した勅命は誠に妙案だと思われた。



クラヴィスが目を覚ました時、すでに日は暮れ始めていた。
ゆっくりと起きあがり室内を見回すが、そこにジュリアスの姿はない。テラスを覗き、書斎に声を掛け、寝室に足を運んでも残り香の様に微かに感じるジュリアスのサクリアが漂うばかりでやはり彼は何処にも居なかった。まさか午後に出ていったまま帰って来ていないのかと不意に不安が沸き上がる。
何かあったのではあるまいか…?
そう思った途端、クラヴィスは椅子の背に掛けてあった上着を羽織りテラスの脇にある階段を駆け下りていた。
屋敷の裏にある濱に立ち、辺りを見回すと遙か先に佇む人影を認めた。此処は聖地直轄の区域に指定されており、他者が簡単に入り込むなど不可能である。あの先に居るのはジュリアス以外にあり得なかった。
濱の砂は思いの外水分を含みシットリと足に絡みつく。思うように先に進めず、クラヴィスは歩きながら小さく舌打ちをした。ただ歩いているだけなのに直ぐに息が上がり、なかなかジュリアスの元に辿りつけぬのが焦れったいのか、クラヴィスは足下の砂を忌々しげに蹴り飛ばすのだった。
それでも徐々にその姿がハッキリと見て取れる距離まで近づくと、沈みゆく夕日の朱を受け燃える様に煌めく蜜色の美しさに魅せられたのか、クラヴィスは一度立ち止まり細い息を吐いた。
空と海が沈む陽の色に染まる。世界のすべてが一つの色に支配される。その中に佇むジュリアスだけが輝きを放つかに思えた。再び一歩を踏み出しながら、彼は声を上げてジュリアスと呼んだ。
丁度いまは凪なのだろう。それは潮騒に消されることなくジュリアスに届いた。振り向いた彼が見たのは、息を弾ませどこか慌てた風に歩み寄るクラヴィスであった。不意にジュリアスの頬が緩む。嘗て、こんな光景を幾度も目にしたのを思い出したのだろう。互いの私邸を行き来していた幼い頃、昼寝から覚めたところ傍らにジュリアスが居ないと決まってク
ラヴィスは今にも泣き出しそうな顔で彼の元に駆け寄ってきたものだ。
まさか今のクラヴィスが泣き出す訳もなかったが、普段なら見せる筈のない随分と真剣な表情が可笑しくもあり、微笑ましく感じたのかもしれない。間近まで距離を詰めるクラヴィスにジュリアスは穏やかに笑みながら、腕を差し伸べた。
それを取ろうとクラヴィスも手を伸ばす。指先が触れるが早いか闇色を纏う細い腕がジュリアスを引き寄せた。胸に抱く躯に腕が廻されるより先に唇が重なった。柔らかな感触を味わいつつ、何度も離れてはまた触れるキスは深く交わる手前で終わりを告げた。
唇を離すクラヴィスの顔を不思議そうに覗き込むジュリアスの瞳を見つめて、彼は柔らかく微笑み密やかな声音でこんなことを言った。
「ジュリアス…。 お前を抱きしめたいのだが…。」
何を言い出すのかと海よりも蒼い瞳が僅かに見開かれる。
「私は…構わぬ。」
言い終わらぬ間に突如クラヴィスは砂の上に膝を付いた。腰に廻した腕に力を込め抱き寄せながら、彼はジュリアスの胸に顔を埋める。華奢な指が漆黒の髪に滑り込んだ。耳を当てるとジュリアスの鼓動が聞こえた。トクトクと刻まれる命の音が寄せる波音と重なり、それと共に感じる暖かなサクリアの温もりに気付いた途端、何故かクラヴィスは泣いてしまいそうだと思った。
確かに抱きしめているのは自分だった。抱き合うのではなく彼の身体を引き寄せ、己の腕の中にあるジュリアスのすべてを感じたいとそうした筈だった。いつもなら首筋に絡むジュリアスの手が今は己の頭を撫でている。それがやけに優しく、少し上から耳に届く彼の息づかいや時折もれる緩い吐息がまるで初めて人を抱いたような錯覚を呼び、また己がジュリアスの胸に頭を預けているのが不自然なくせにとても心地よいと思えてならない。自分が抱きしめている筈なのに、その実何もかも許され包まれていると感じるのはきっと絶え間なく続く波の音があるからに違いない。生命の源を抱く海のすぐそばで命を育む光のサクリアの暖かさに触れたからなのだろう。
それにしても…。
どうして涙が溢れそうになるのかと胸の奥で呟き、ふと顔を上げると自身を見下ろすジュリアスはとても幸福そうな、そして大層柔らかな笑みを浮かべていた。幸せとはこんな何処にでも転がっている少しも特別でない瞬間に感じるものなのかと、凡そ平素の彼らしくもない感傷に満ちた想いを抱きつつ流した視線の遙か上にフワリと浮かぶ小さな雲があった。
昼間の一時に窓越しに見えたあれと同じ筈などなかったが、まるでそっくり同じに思える浮き雲である。
それが、朱から濃い緋色に変わった恐ろしいくらい美しい空の色に染まり、残光に焼かれ熔けて大気の熱と一つに混じり合っているようだった。
もしかしたら…。
こうして供にあり、同じ道を歩んで行けるなら、いつしかジュリアスとも一つになれる気がした。互いを縛る忌々しい光や闇の力が尽きても、時を分かつことなく約束の日を迎えられるのではないか。今まで一度として告げなかった、叶わぬかも知れぬ誓いを伝えても許されると思えた。こんな気持ちになるのは、きっと幻のような空と海のただ中に居るからなのだろうと苦い笑いを浮かべ、クラヴィスはゆっくりと立ち上がり今度は背に当てた腕に力を込めジュリアスを胸に抱いた。再び唇を合わせ、先程とは比べものにならぬくらいの深く熱いキスに溺れながら、この長い口付けが終わったら言ってしまおうとクラヴィスは心を決めた。



その時、ジュリアスはどんな顔をするのだろうか。果たして実現するかも分からぬ、儚く不確かな誓いを受けてくれるのか。でも、この美しくも切なく夢とも思える世界に在って、何の約束も交わさぬのはとても哀しいに違いない。



それが波音の運ぶ、刹那の幻かもしれなくとも…。





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