*Silver Drops*

雨の中で抱き合う

出かける時、雨は降っていなかった。
前日に研究院より降雨の連絡があったが、ジュリアスが屋敷を出る折りに見上げた空はスッキリと晴れていて、
降るとしても恐らく午後になってからに違いないと思えたくらいだった。
新たな力を得たこの宇宙はおよそ平穏で当然聖地は常春にある筈なのだが、当代の女王はこと気候に関して変化
を好むらしく、形ばかりと言えども四季を作り日々の天候にも雨や曇天、場合によっては雪までをも降らせたり
した。
それは彼女の生家が主星にある事に起因していると思われる。
彼女が幼少から聖地に召されるまでを過ごした土地には、眠気を誘う春の日溜まりや夕暮れに吹く涼風を待ちこ
がれる夏や誰とはなしに温もりを分かち合いたい秋やある朝世界が白銀に染まる冬があったからに違いない。
世界をその両手に抱く道を選んだ少女の些細な望みを拒む者など、聖地には一人も居なかったのだ。
当初とまどいを見せた守護聖にしても幾つかの季節を巡った今となれば、逆にそれに親しみを覚える者さえいる。
それでも前日の晴天から夜を隔てての雨に不都合もあるわけで、だからその都度、王立研究院から天候に関する
知らせが届けられるのだ。
それ故ジュリアスも雨が降ると頭の隅に留めていたのだが…。



守護聖殿にある彼の執務室から廊下に出た時にはまだ降り始めた雨に気づかなかったが、車寄せに向かう為に中
庭に出たところで鈍色の空からおちる無数の滴を見てジュリアスはほんの少し顔を曇らせた。
本当は雨が降り出す前にしたい事があったのだが…。
この日は日の曜日でジュリアスも休日のつもりで平素なら間違いなく起床している時刻にも、まだ床の中にいた
のだ。
光の館の扉を叩いたのは研究院からの使者であり、その者がもたらした知らを聞くや否や首座の守護聖は自身も
すぐ院に向かうと言ったのである。
そう言うが早いかジュリアスは私室に戻り、あっという間に支度を整えたのは言うまでもないことであった。
正装を身にまといながら彼はチラと続く寝室へ視線を流した。彼の視線の先、閉じられた扉の内には未だ夢の中
を漂う者がいたからだ。
ジュリアスが寝台を離れる時もその者は全く目を覚ます気配がなかった。恐らく今もそのまま眠っていると思わ
れた。声を掛けたものかとジュリアスは思案した。
何も言わずに出かけてしまい、それほど時間がかからずに戻るつもりではあったが目が覚めた際に自分が居ない
とクラヴィスは決まって不機嫌になるのを承知していたから、やはり一声かけていくか・・などと独り言を言い
ながら側仕えの者を下がらせた後、ゆっくりと寝室のドアに向かい部屋を横切っていった。
案の定クラヴィスは熟睡しており、せっかく出かける由を伝えようと気を利かせたジュリアスの行為はまったく
の無駄に終わってしまった。
数度名を呼びながら上掛けからのぞく肩を揺すってみても、クラヴィスは目をさますどころか何の反応も示さな
い。ただただ、幸せそうに眠りをむさぼる姿を見下ろしジュリアスは諦めたとばかりに小さく頭を振って、その
まま部屋を後にしたのだった。



屋敷に戻る馬車の車窓から降り続く雨を眺めながら、ジュリアスは予定よりずいぶんと早く戻れた事にほっと小
さく息をついた。
届いた知らせは凶事ではなく、彼が現在見守る新星にわずかばかりの変化が見られたと言うものであった。
報告を受けたのがジュリアスでなければ間違いなくその場で了承をするだけに留める程度の変化であったが、彼
はそんな子細な事象をも自身の目で確認したいと休日にも関わらず惜しげもなく院へ足を運んだのだ。
これは彼の気性と執務に対する姿勢の現れである。彼が出向かぬはずなどなかった。
もしこのジュリアスの行いに異議を申し立てるとすれば、彼の屋敷で待つであろう闇の守護聖くらいのものだ。
きっとジュリアスの姿を見るやいなやむっつりとした不機嫌そうな顔で皮肉の一つも言う違いない。
まったくお前の仕事好きにはつき合いきれぬ・・とか。
休みの日まで仕事をして何が面白いのか・・などと。
多分クラヴィスは私室での彼の定位置になっているカウチに凭れ、そう言った途端にぷいと視線を逸らせるに決
まっている。怒った風を装いながら次にジュリアスがなんと言ってくるかを待っているのだ。そしてジュリアス
の返す一言をどうやってからかってやろうかと画策している筈である。そこまで分かっていながら何時もジュリ
アスが放つのは同じ言葉であった。
私は私のやり方でやるまでだ・・とか。そなたに迷惑を掛けたわけではあるまい・・などと。
もうこれは互いの決めごとにも等しい、変わらぬ日常の会話になっていた。
そんな事を頭の端で考えながら窓外に流れる景色を眺めていたジュリアスがふと何かを思いついたように笑みを
浮かべた。「そうだ…。」と小さく呟いたりもしている。
次に彼の秀麗な面にあらわれたのは悪戯な子供にも似た笑顔であった。よほど面白いことを思いついたのだろう。



玄関で彼を出迎えた執事は予想よりかなり早く帰宅したあるじに笑顔をむけ「お帰りなさいませ。」と頭を下げ
た。「早くのお戻りでようございました。」とも言った。朝食も摂らずに宮殿に出かけた主人を気遣っているの
は明白である。着替えのため私室に向かうジュリアスが後方に付き従う執事に顔を巡らせて「あれは?」とだけ
問いかける。
まだ、お部屋においでのようですが…。
これだけの言葉からはクラヴィスが未だ寝ているのか、それとも起きてはいるが部屋から出てこないのかは分か
らなかった。もしまだ寝台から出てもいないのなら、たたき起こして共に朝食を摂ろうとジュリアスは小さな決
意を結んだ。しかし既に目覚めていた場合はきっとへそを曲げているだろうから、機嫌をとるのに少し骨が折れ
るとも考えて顔には出さず胸の内で苦笑した。
でも今日はいつもとは違うのだ。
ジュリアスにはさきほど思いついた彼の機嫌をあっという間に直す秘策があるのだから。もう一度彼はそれを頭
の中に思い描き、今度は楽しそうな笑みを浮かべた。
主人の私室まで従って来た執事はジュリアスが何かを言う前に彼の荷物を差し出すと、何も言わずに下がって行
った。その扉の内に居する人の存在を知っているから、執事はそこには入らない。これももう数年来の習わしで
あった。それを受け取りながらジュリアスは軽く会釈を返し、ゆっくりと扉の中に消えて行くのだった。
後ろ手に扉を閉めつつ彼は室内をざっと見渡す。そこには誰もいない。
「やはりまだ起きていないか…。」
呟きつつ足早に部屋を行き、寝室に続く扉を遠慮なく開いた。
室内にはまだ夜の名残があり、それと共にクラヴィスの香りがした。ところが寝台の中は無人で、もちろん部屋
の中にも人の気配はない。怪訝そうに眉を寄せて視線を忙しなく巡らせると左端の窓が微かに開いている。ジュ
リアスは目聡くそれを見留ると大股に近寄った。クラヴィスはテラスに居る、そう思った。ガラス戸を大きく開
け放つ。だが、そこにも思う姿は無かった。
「何処に行ったのだろう?」
そう言った時の顔をクラヴィスに見られなかったのは甚だ幸いだと言える。もしこの場にクラヴィスが居たら大
層おもしろい物を見たなどとからかうに決まっている。無意識にジュリアスが浮かべた表情はどこか不安げで心
許ないものであったからである。例え屋敷に仕える者でさえ見たことのないジュリアスの顔。クラヴィスしか知
らぬそれを彼は必ずといって良い程からかうのだが、その実そうしたジュリアスの素を表す表情とか態度をクラ
ヴィスは何よりも嬉しそうに見つめるのだ。
己が如何なる面を作っているなどとは知る由もないジュリアスはクラヴィスの好みそうな場所に思いを巡らす。
どう考えても屋敷の外に出たとは思えぬ。執事は確かに部屋から出てきていないと言っていたではないか。
ならば、まさか庭に…?
テラスの縁から半ば身を乗り出すようにしてジュリアスは広がる庭園を一渡り見回した。決して狭くもない庭の
ただ中にやはり人影があった。純白の執務服の裾を翻し屋敷側面にわたるテラスをジュリアスは駆ける。大きく
回り込むテラスを居間の辺りまで進み、今一度視線を走らせるとさきほどより遙かに近くクラヴィスが見えた。



間断なく落ちる銀色の雫。
庭の周囲、塀に沿って立ち並ぶ木々の葉先にも。整然と植えられる甘い芳香を放つ花々にも。つま先に触れる下
生えさえも余すところなく細かな雨粒は降り注ぐ。まるで霧と見まごう細い雨の糸は視界を微かに曇らせながら
庭園にあるはずのすべての色を一つに染め上げていた。広がるのは鈍色の世界である。
傘もささず、何かを羽織るでもなくクラヴィスは咲き乱れる薔薇に囲まれるようにして立っていた。僅かに顎を
上げ、降り続く銀色の雨をただ眺めているようである。漆黒の夜空に散らばる星々や名残の色を引いて沈む夕日、
明け初める空にたなびく低く薄い雲。誰しもが美しいと言うそんな景観だけでなく、例えばちらちらと木々の合
間から差す木漏れ日のような日々の暮らしに埋もれてしまう刹那の眺めでさえクラヴィスの不思議な色の瞳には
美しく映るのかもしれない。もしかしたらジュリアスが常に思うように彼には他の誰にも見えぬものが見え、気
にもとめない風景も違って見えるのだろうか。
背に流れる黒髪まで濡れそぼり、纏う薄い部屋着は絞れるほども重くなっているに違いない。しかし、そんなこ
とは今のクラヴィスにとっては気にもならないことであった。ただ世界を閉ざす銀の帳に心を奪われたように見
つめている。ついとその腕が上がった。腕を伸ばし手のひらに雨の雫を受けている。ジュリアスの立つ辺りから
はクラヴィスの表情までは分からないが、恐らくそれは穏やかな顔であるだろうと思えた。
クラヴィスが気まぐれに散策に出るのを好むのは知っていたし、ふとした何かを眺め時によっては数時間同じ場
所に留まる事も珍しいことではなかった。そんな時クラヴィスの意識には煩わしい日々の諸々も忘れたい過去も、
そしてジュリアスの存在でさえありはしないのではと思えてならない。彼の世界で唯一ジュリアスが踏み込めな
い領域なのだと理解している。だがそうした場面に出会った時、それは少し寂しく微かに悔しい気持ちを運ぶの
だった。
雨の庭にたたずむ姿をジュリアスは暫しのあいだ見つめていた。



軽やかな足音が近づくのに気づくのと張りのある声に名を呼ばれたのは同時のことだと思われた。それまで世界
には途切れることのない雨音しかなかった。細かな水滴が落ち続けるさーという音はクラヴィスを何もかもから
隔絶するようで、それは果てしなく心穏やかにさせ、でも爪の先ほどの孤独も覚えるどこか現実離れした空間を
作っていた。そして視界に入るすべてが鈍い銀色に塗り替えられている。
クラヴィスは雨が嫌いではない。特にこんな朝の静かな雨は好きであった。目覚めた時、ジュリアスはすでに居
なかった。先に起きて朝食を摂りに行ったのかと考えたが、どうも着替えたようであり、きっと休日にも関わら
ず宮殿か研究院にでも呼び出されたのだろうと小さくため息をついた。別に機嫌を損ねたわけでもなかったので、
とりあえず帰りを待ってもう一眠りするかとまた寝室にとって返した。
ごろりと寝台に寝転がり瞳を閉じてはみたものの、意外にも頭は冴えていてすこしも眠気はやってこない。しか
たなしにそのまま何をするでもなくシーツの上で所在なげに横になっていたのだ。
どれほど経った頃だろうか、雨が降り出しているのに気づき庭にでてみた。それから今までクラヴィスはずっと
雨の中に居た。朝の雨は暖かく幾ら見ていても飽きることがなかった。ジュリアスの姿がない室内にいるのが少
し寂しいと感じたから、尚のことこの場所は居心地がよかったのかもしれない。それでもそろそろ部屋に戻ろう
と思った矢先、自分に向かい駆け寄る足音に気づき、気づいたと同時に名を呼ばれたから彼はその方に体を返し
たのだ。
ジュリアスは正装のままであった。単色のくすんだ世界にその純白の姿は在り、思いこみだけではなく確かに光
を放ち輝いて見えた。まっすぐに自分を目指すジュリアスを見留た途端おもわず笑顔を作っていた。それに気づ
いたジュリアスがこぼれるほども笑むのを見たクラヴィスは、唐突と彼を抱きしめたい衝動にかられる。理由な
どなく、ただ今この場所で抱きしめてキスがしたかった。
そんな事を考えながら一歩を踏み出す。駆け寄るジュリアスの腕を掴み有無を言わさず胸に抱き込もうと延ばし
た腕をスルリとかわされ、クラヴィスが意外そうに眉をひそめたのはほんの半瞬のこと。
ジュリアスは自らクラヴィスの胸に飛び込んできた。驚いて何かを言おうと開かれた唇にジュリアスは自身のそ
れを押しつけたのだ。吃驚したクラヴィスの腕が一度びくりと跳ねて、しかしすぐさま胸にある躯に廻され力を
込めて抱き寄せた。気づかぬうちに冷え切っていたのだろう、合わせたジュリアスの唇がいつもよりずっと暖か
い。忍び込む舌がクラヴィスのそれを求めて口内を彷徨う。舌先でジュリアスの舌をもてあそぶ風をみせておき
ながら、触れた途端にクラヴイスはからめ取り唇よりさらに熱いその感触を味わった。
「ん…。」
甘すぎる吐息の欠片がジュリアスの口の端から落ちる。より深く唇を重ねようとクラヴィスが黄金色の頭を支え
て引き寄せる。なんの抵抗もなく身を寄せるジュリアスの腕がクラヴィスの濡れた部屋着のに皺を刻んだ。
息を継ぐ為に微かに離れた時、クラヴィスがこんな事を言った。
「わたしを置いていった詫びか?」
まっすぐな黒髪に指を絡ませながらジュリアスは笑う。
「…違う。」
「ならば…なんだ?」
肩にあった顔上げてジュリアスは得意げな顔で答えた。
「そなたが口づけて欲しそうな顔をしていたから。」
大げさに驚いてみせながら、クラヴィスは雨に濡れた柔らかな頬に唇を落とす。まさかな…と胸の内で呟き、
まぁ、それも良いか…などと納得するのだった。
自分と同様にジュリアスもそれを求めていたならこれ以上の幸せはないのだから。



二度目のキスはクラヴィスが仕掛けてきた。
一度目よりずっと熱く深いそれは互いの意識を滲ませ、もしかしたらその先までいってしまいそうなほども強く
求めあっている。雨はまだ止まない。きっとこのまま午後になっても降り続くに違いない。
クラヴィスが次ぎを欲しがったらどうしたものかとジュリアスは思案する。彼の機嫌を直すのに、帰ったらキス
をしようと決めていた。しかしその後までは考えていなかった。晴れていたならやりたいこと、行きたい場所は
あったのだが。たまには雨に閉じこめられて終日部屋で過ごすのも良いかもしれない。雨音の流れ込む部屋の白
い波間に漂うのも悪くない。
自身が思うほどクラヴィスもそれを望んでいるだろうし。こんな日は温もりを離したくないと心が揺れているから。





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