*月下の影*

夜桜を見る二人

日が落ちてからすでに数時間。薄闇に浮かぶ白亜の宮殿に今は一つの明かりも灯らない。
多分この場には彼しか居ない。こんな月も高く登る時刻には。



両側に続く低い生け垣の間に置かれた外灯の青い明かりの中、ジュリアスは一人庭園を抜ける小径を歩いていた。定
時を過ぎること三時間余り、供も連れず歩を進める理由は分かり切った事。机上に積まれた未決の書類を文官をすべ
て帰したのちも、彼は自身の納得がいくまで検討していたからに違いない。疲労のもたらす倦怠にか真昼の宮殿では
見られぬ程その足取りは重く、気のせいばかりでなく抜ける青空を映す瞳の色にも翳りがある。
常春の聖地にあっても夜に吹く風は冷たく、今のジュリアスには殊更肌寒く感じられた。明日から視察の為にこの地
を離れる彼は、自分の不在の間にも通常の執務に不備があってはならぬと、いつにも益して時間を掛け己の責をこな
した。誰の為でもない。ただ女王の為、宇宙の為に。彼が裁くのはただ一枚の書類であっても紙片の持つ意味は深く、
重いのだ。一つの迷い、一つの嫌疑、一つの過ちが取り返しのつかぬ事態を招くやもしれぬ。だから、己の余暇を削
ったとしても足りぬ時がある。まさにこの数日はそうだった。
一日は変わらぬ速度で明けて暮れる。それがもどかしく、時間の無さに苛立ちすら覚えた。新たに迎えた年若い女王
と無数に生まれる新しい生命に、個人の日常など忙殺されても仕方のないことであった。それに不満など感じるジュ
リアスではない。彼は守護聖であり、その首座であり、それこそが彼の在るべき姿だからである。死に向かい迷走す
る宇宙を支えたあの時を思えば、眩い希望に溢れる今の方がよほど彼に相応しいと言える。不満など、あるはずもな
い。
それでも…。
ただ一つあるとすれば、それはごく個人的な世界の行く末から比べれば取るに足りぬ気がかりだけなのだ。この数日
守護聖殿に姿を現さぬ闇の守護聖がどうしているかなど、気に掛けていると口に出すのも憚れる仔細な事象に他なら
ない。あの者が執務をさぼるのも、何の連絡も寄越さぬのも、当たり前すぎて誰も気にも留めないことだ。顔を見て
言葉を交わしたいなどと、そんな事の為に少ない時間を割くなどはいくら思ってもしてはならぬ行為だとジュリアス
は自戒する。あの細い指先で一度だけ頬に触れて欲しいと願うなどは。
自身の足下に視線を落とし、彼は微かな苦い笑みを浮かべた。



その時…。
庭園を渡る風が蜜色の髪を揺らす。闇を抜ける流れに覚えのある香りが在る事にジュリアスは気付く。沈む視線が宙
を彷徨い、遙か先に向けられた。
月下にあるは大樹の影。
その周囲は一際白く闇に浮かぶ。咲き誇る薄紅の花が風に舞い、薄い帳を纏ったかに見えた。ジュリアスはそこに一
つの姿を捉えた。古木の幹に凭れ佇む者のシルエット。今一度吹く風が漆黒の長い髪を巻き上げる。その人は僅かに
顔を上げ、宙に舞い散る花弁を眺めていた。
「クラヴィス…。」
小さくその名を呟き、ジュリアスは足早に駆け寄る。そしてそれが幻でない事を望む。明け方の夢の様に近寄り手を
差し伸べた途端、霧散してしまわぬようにと。



「クラヴィス!」
ジュリアスが声を上げるのと、その人が振り向くのはほぼ同時のことと思われた。今は少し雲に霞む白い月明かりの
元で、クラヴィスは穏やかで優しげに微笑んでいた。雪のように降る花の中で、吐息ほども静かに「ジュリアス・・」
と呼んだ。墨色の衣に包まれた腕が伸べられ、指先が触れた途端ジュリアスは胸に抱き寄せられた。涼風に冷えた頬
を長い指がするりと撫でる。
「こんな所で何をしていた?」
唇から零れた言葉があまりにも彼らしく思え、クラヴィスは鼻先でクスリと笑った。
「花を…見ていた。」
あと幾日もせずに散り終えてしまうからと、金絹の髪を梳きながらクラヴィスが続けた。
「仕事もせずに花見とは良い身分だな。」
ジュリアスがそう言うと頭を預けた薄い肩が小刻みに震え、声もたてずに笑うクラヴィスが「そう言われると思った」
と返した。そして、うるさい口だと言わんばかりに唇を重ねる。
また、風が吹き抜ける。
ほんの少し前、身を竦ませるほど冷たく感じたそれと同じだとは思えぬくらい暖かい流れがジュリアスの髪を揺らし、
不思議なほど甘い香りがした。
離れては求め合う唇がより深く重なり、白く煙る月下の帳に包まれた二つの影は時を忘れ、互いの言葉にならぬ想い
を伝え合ったのだった。



最後に一度軽く触れた唇が微かに震え名残を惜しみながら廻した腕が解かれた時、ジュリアスはふいにこんな話を思
い出す。咲き乱れ乱舞する桜は、それを愛でる者の心を魅了し魂を奪うことがある。だから春の声を聞く頃に、まし
て一人で舞い散る桜を見てはならぬのだ。
だが今宵はそれが愛しい者との束の間の逢瀬を運んできた。奪われるより強く想い、願ったからなのか。或いは、そ
れまで奪った人の心を哀れに思い、気まぐれに与えて寄越したからなのか。
それとも・・・。
月下に佇むその人に華さえもが魅了された故かもしれぬ。
虚空に差し出す白い指先に絡むひとひらの花弁を愛でるクラヴィスの横顔を見つめ、ジュリアスはそんな事を思った。



見上げた空には真円の月。
舞い散る雪片にも似た薄紅の桜。





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