*NAI*
04' クラ誕
シャトルが専用ポートへ到着した時、既に深夜と言う時刻だった。ポートは主星にある。其処から聖地までは次元
回廊を利用する。聖地にシャトルを受け入れる施設があれば直接其方へ行きたい処である。主星と聖地間の距離は、
わざわざ回廊を使うほども離れていないからだ。実際は光って等いない『光の扉』を抜け、躯を運ばれると言うより
も、何かの力で強く引かれるかに亜空間を行く。その間ほんの数秒のことだ。正面に四角く切り取られた出口が見え、
見えたと思った時は既に聖地に到着している。王立研究院の奥まった一画に開いた扉の外へ出ると背後で空気に溶け
るかの密やかさで回廊の扉が閉じた。外地から戻った際、聖地へ帰ったと実感するのは耳の奥が痺れるような静寂に
包まれる時である。特に次元回廊を使用した時はそれを如実に感じる。外界の如何なる場所でも出会ったことのない、
深く厳かな静寂が己の周囲に立ちこめているのを体感し、この場所が聖地なのだと五感すべてが安堵するのである。
ジュリアスも今それを感じ、決してずっと緊張を強いられていたわけでもないが肩先からゆるく力が抜ける感覚を
覚えていた。すると直ぐ後ろから密やかな溜息が聞こえた。聖地に在る事実を今になっても何処かしらで否定したが
る男が、己と同様の安堵を覚えているのが少しばかり可笑しく、しかし此の地を嫌ったところで自分にも彼にも行き
場など無いことを知っているから、クラヴィスの吐き出したそれが酷く物悲しい響きとなりジュリアスの内耳を揺ら
した。
「クラヴィス。」
発した彼の名は、研究院の回廊に吹き積もる厳格さを纏った空気を揺らし、微かな残響を伴って相手へと届く。
「なんだ…。」
「このまま私の屋敷へ行って構わないだろうか?」
「ああ、そのつもりだが…。」
彼らの荷物は従者が別に各の屋敷へと運ぶのだから、どちらがどの屋敷へ行こうが関係ない。もう日付が変わってし
まったから彼の生誕ではないのだけれど、ジュリアスはクラヴィスの為に用意した諸々があるからそう確認したのだ。
ただ、クラヴィスは外地に在る間ずっと落ち着かぬ質なので、もしかしたら自分の屋敷へ帰りたいのではないかとも
考えた。だから一応訊ねたのである。
それなら一つの馬車で戻ろうと、光の館付きの一台が停まる東の車寄せへと向かうことにした。彼らが戻ると振れ
が出ていたから当然だが、漆黒の静寂に御者付の馬車がひっそりと佇んでいる。小径に敷かれた砂利を践む音を拾い、
項垂れていた馬が頭を上げる。御者はその変化にすぐ気が付いたようで、徐々に近づく二つの影の為に馬車の扉を開
けるよう御者台から飛び降り脇に控え恭しく待っていた。乗り込むのを待ち扉が閉まる。馬は一度小さく鼻を鳴らし
てからしずしずと夜の聖地を光の館へ向け歩き出した。
向かいには掛けず、クラヴィスは当然の顔でジュリアスの隣へ腰を下ろす。背を伸ばし、前方へと顔を上げるジュ
リアスの肩に軽い重みが凭れてきた。彼は此の地へ戻った安堵だけでない、ある場合にジュリアスへのみ見せる顔を
しているに違いない。ホッとしたような、甘えたような、少し萎れた表情を白皙の上へ薄く張り付けているのだ。
「疲れたのだろう?」
「まぁ、幾分な…。」
共に同じ星へと降り、祭礼へと出席していたけれど、ジュリアスは女王の代行と言う肩書きを必要以上の責として言
動に滲ませており、例え真横に並んで座していても決して素を出さぬ姿勢を貫いていた。居室として宛われた客室が
隣り合っていても、公的な用事以外クラヴィスの元へ足を運んだりせず、当然ながら朝起きてから就寝のため寝台へ
と入るまで守護聖の筆頭として在り続けた。公事なのである。まして女王の名代であった。守護聖以外の顔を持つ必
要などないのだ。そんな事はクラヴィスも判っており、彼も相応しい顔、相応しい物腰、相応しい対応を崩さず与え
られた日程を恙なく過ごしていた。
大人げないと言ってしまえばそれまでだが、彼は公人をし続けるのが非常に苦手で、隙を見ては息を抜く術を心得
ているのに、今回だけはそれも殆ど発揮できなかった。常に張り付く警護や側仕えは、クラヴィスに隙を与えなかっ
たようだ。二日目の朝、朝食の席で顔を会わせた時点でもう苛々と機嫌を損ねているのが手に取るよう見とれ、ジュ
リアスも気持ちとしては優しい言葉の一つも掛けてやりたいが、周囲の存在がそれを許さなかった。漸く祭礼を含む
諸々が終了し、労いの晩餐を受ける頃などは哀れさを通り越して申し訳ないが笑えてしまうくらい情けない顔をして
いた。ジュリアス以外の誰も気づくわけはなかったろうが、不機嫌さをありありと面に出す仏頂面は彼の内面を何よ
りも顕していて、だが周囲はきっと噂に聞く闇の守護聖の気むずかしさに肝を冷やしていたことだろう。
故に、気が抜けたかに頭を預けてきたクラヴィスの重さを肩に受け、ジュリアスは何とも言えぬ気分になったので
ある。
「明日…。」
言いかけ、既に日付が変わっているのを思い出し言い直す。
「もう、今日になるが…。週明けまでは休みになる。ゆっくりとすれば良い。」
「ああ…。」
もしかしたら微睡み掛けているのかもしれない。即座に聞こえた声は輪郭のぼやけた曖昧な響きだった。今更労いを
かけてやっても遅いのは判っている。クラヴィスはあの場所に在った時、こうして欲しかったのだと知っていて、で
もそれを守護聖の肩書きで無視したのはジュリアスだ。だから、自分で言っておきながら、また彼が触れてくるのを
受け入れながら、己の情の無さが厭になるのである。もっと柔軟に振る舞えればきっとお互い楽なのだと頭では理解
している。しかし身に付いた規律を崩すのは至極難儀だ。自らを作る骨格とも言える、守護聖の形を振りかざし実は
自分がクラヴィスに寄りかかっているのだと自覚している。
シャトルの中で口淫をしてくるクラヴィスを払いのけなかったのは、こうした甘えがさせたに違いなく、生誕だか
ら特別などと浅はかな言い訳を口にしないと思うように振る舞えない自分が哀れでやるせない。本当は自分こそが彼
に触れたかった。抱きついて貪るほども接吻がしたかった。彼の性器で内部を掻き回され、気が狂うほど乱れてしま
いたかったのは誰でもない、自分だとジュリアスは知りすぎていた。
「ジュリアス…。」
薄ぼんやりした声が、物思いに耽りぼやっとしていた相手を呼ぶ。
「何だ?」
「お前の屋敷に戻ったら…。」
「戻ったら?」
「さっきの続きがしたい………。」
わざわざ断るまでもないとジュリアスは不審そうな顔をする。何を今更といった気分だった。
「私が厭だと言ったら、そなたは我慢するのか?」
「まぁ、今宵は…しないのだと肝に銘じるつもりだが…?」
「何故、突然にそんな事を訊いてくる? 何時も何も言わずに仕掛けてくるのはそなただろう?」
「普段は、そう…だが。」
「普段と今宵の何が違うのだ?」
急に口を閉ざしたクラヴィスが適切な語句を捜しているのだと察しがつく。彼にとって是非伝えたい内容だったり、
上手く表現しなければと思う事であればあるほど、懸命に言葉を見つけようとする。ジュリアスはそうした彼の様に
出くわすたび、自分のなってなさを痛切に感じる。自分はクラヴィスに限って酷く直情的に言を放つことが多い。言
ってからしまったと言い繕いを始める。彼が時たま己に言うように自分は情が薄いのかもしれないと腹の底に不快な
虚が溜まるのを感じるのはこうした時だ。
「お前と外地で祭礼に出たのは随分と久しかった…。聖地でも…、お前は小難しい顔をしているが、この幾日かはず
っと肩を怒らせている風で……。」
つまり要約すると、いつにも増して守護聖然としている様子を間近で見てさぞかし疲れているだろうと思ったから、
今日は駄目だと言われる気がして先に訊ねてみた…、と言う風な事であった。
「下手な気遣いは似合わぬぞ。」
「何だそれは?」
「私はああした場での振る舞いには慣れている。当然、気持ちを切り替え休む時は休む事も躯が覚えているのだ。」
「ほう…?」
小馬鹿にした言いようだった。多分、今発したのが方便だと見透かされているのだろうとジュリアスも判っている。
切り替えなど上手く出来る筈もなく、翌日の行事が気になり寝付かれなかったのが実のところだ。
「それ故、そなたに要らぬ気遣いをされる謂われはない。それに今宵に限ってそんな事をされると薄気味が悪い。」
失敬なヤツだとクラヴィスが不機嫌そうな溜息を吐いた。
「ならば良いのだな?」
「当然だ。」
相変わらずもたれ掛かったままのクラヴィスは納得したとばかりに言葉を収める。だらしなく寄りかかっておいて、
気遣いもないものだとジュリアスが呆れた声で言った。ふっと鼻先で笑うのが聞こえたが、それ以上何かが返ること
はなかった。
間もなく馬車は本道から大きく曲がり混み、光の館へと到着する。窓から覗く屋敷の玄関に明かりが灯るのが見え
た。恐らく執事が迎える為に灯してあるのだろう。彼へも労いを送らねばとジュリアスは恭しく頭を垂れる姿を思い
描いていた。
玄関から私室へと続く廊下を行くジュリアスは後ろに付き従う執事へ幾つかの指示を出している。食事は済んでい
る由、この後は私用の浴室を使う由、明日の朝食は定刻よりは幾分遅めにする由、そしてクラヴィスの着替えを部屋
へ届ける由。主の『以上だ。』を受け、執事は直ぐさまもたらされた其れらを行う為、廊下を戻っていく。クラヴィ
スはずっと押し黙ったまま彼の横を歩いていた。チラと視線で並ぶ顔を盗み見ると、やはり茫漠としている。相当に
眠いのでは無かろうかとジュリアスは思った。けれどクラヴィスに限って、寝台へ入るなり突如その気になり眠気な
ど忘れてしまうのが常であるから此も要らぬ気遣いだろうと腹の底で苦笑した。
私室の居間へ入るなり、クラヴィスは我が家にでも戻ったかにくつろぎを見せ、長椅子に掛けたと思うと空かさず
テーブルに置いたままの祝いを見つけ手を伸ばした。
「気に入ると良いが…。」
包装を解き始めたのに気づきジュリアスが一応の言葉をかける。
「髪に付けるのか?」
手に乗せた其れを眺めクラヴィスは惚けた顔をしている。
「ああ、美しいだろう?」
「そう…だな。」
生誕に何か欲しいかと訊かなくなって久しい。ジュリアスが幾度訊いても答は同じだから何時しか問わなくなった。
単なる形式であると理解しているが、ジュリアスはそれでも何某かを見つけては祝いだと贈ってきた。全く興味など
ない風に言うクセに、クラヴィスはこうして手渡されると実に嬉しそうな顔をする。今もそうだ。本人は自覚してい
ないに違いない。普段の無表情は何処へ行ったとからかってやりたくなる。ふとジュリアスは面白い事を思いついた。
来年の生誕には鏡を贈ってやろうと考えついたのだ。包装を解き、箱から取り出して品物を眺める彼がどんな顔をし
ているかを教えてやるには打って付けだと声には出さず独りごちた。口元が緩みそうになるのを堪える。何と気の利
いた祝いであろうと、己に讃辞を送りたい気分となっていた。ところが、穏やかだった彼の顔に影が射す。努めて仕
舞い込んでいた物を、無意識に拾い出してしまったのだ。
『来年、互いが此処に居ればの話だ…。』
忘れたふりをしていた。いや、していたかった其れを最も確かに感じてしまうのは、実は互いの生誕の日なのだとジ
ュリアスは微かに顔を歪めた。
室内の淡い光の下でクラヴィスは暫くの間手に乗せた白銀の飾りを眺めていた。が、不意に思い立ったと言う素振
りで立ち上がるとスタスタと続く寝室へ入って行こうとする。何をするでもなくクラヴィスよりも憮然としていたジ
ュリアスも流石に気づき何処へ行くと声が上がった。
「寝室へ…。」
当たり前の顔で応える相手は構いもせずに扉を抜けていく。
「クラヴィス!」
一旦消えた姿が顔だけを覗かせる。何の用事だと訝しそうに眉が上がった。
「先に湯を使ってしまえ。」
「お前は?」
「そなたの着替えが届く。飲み物がいるならその時に伝えておくが…。」
「任せる…。」
奥に続く扉に向かいながら面倒だと呟くのが聞こえた。後で使うなどと言ったなら、無理矢理にでも浴室へ連れて行
こうと決めていたジュリアスは些か肩すかしを食らった感がある。素直に従ったのだから文句もないのだが、妙に手
応えがないと色々と深読みしてしまうのはジュリアスの悪い癖かも知れない。いつも翻弄されているから、習い性に
なっているのだろう。執事がやって来るのを待ちながら、テーブルにぽつんを置かれた髪飾りに視線をやる。明日、
クラヴィスの髪を整える時、付けてやろうと頬を緩めた。
程なくして扉を叩く音が響き、執事が言いつけた通りの衣装を携えやって来た。軽い酒精をと伝えれば畏まりまし
たと退室していく。まるで其れを待っていたかにクラヴィスが現れた。
「そなた…、もう上がったのか?」
「悪いか?」
「早いな。」
「いつも通りだ。」
何がいつも通りなものかと思ったが言わずにおく。実際、共に湯を使おうものなら何やかやと絡みついてきて、小一
時間は上がろうともしないくせに、独りで入れば瞬く間に出てくる。髪を大振りのタオルで拭っているのを見ると、
一応きちんと洗ったらしい。届いた夜着を手渡し、直ぐに飲み物が届くと告げ、ジュリアスも続けて浴室へと向かっ
た。幾つかの続き扉を抜けながら、いつまでもバスローブのままで居ないよう釘を刺してくれば良かったかと考える
も、そこまで世話を焼かずとも相手は子供ではないと思い直し、けれども形ばかり大きいが子供と大して変わらない
かと訂正する己に気づき、此だからクラヴィスに煩がられるのだろうと自らの思考に呆れていた。
浴室へ一歩践み入った瞬間ジュリアスは酷く驚いた顔をした。室内に満ちる温度と湿度を含む空気に確かにクラヴ
ィスの香がある。彼の使う香のかおりではない。余程近くに在らねば知らないであろう彼特有の香りが空気の内に溶
けているのだ。其れを体臭と呼ぶのかはよく判らない。しかし眉を顰めるような不快な香ではない。焚きしめた白檀
の裏側に潜む、抱き合ったり肌を合わせたりしなければ気づく筈のないクラヴィスの匂いであるのに間違いはなかっ
た。先ずシャワーを軽く浴びたのち、浴槽へと躯を沈める。四肢を伸ばし不要な力を抜けば吹き溜まった疲労も溶け
流れる心持ちがする。立ち上る湯気に混じり、最前感じた彼の残り香が未だ漂っているのだと知った。
他者なら知り得ないであろう、そうした諸々を己が感じ取る事実は、其程もクラヴィスと深く関わっている事だと
ジュリアスは認識する。ふ…と、ある日此らが自身の周囲から失せるのだと、ついさっき押し込めたつもりの意識が
また頭を擡げ始めたのを知り、どうも今宵は感情が負へと傾きすぎると自嘲した。だが其れは今日に始まったことで
なく、彼の生誕に限らず己の生誕そして新年を迎える折りにも繰り返し脳裡へ浮かぶのが事実である。年を重ねれば
薄れるどころか、日々色を増し影のように意識の端に居座っているのをジュリアスは自覚している。
クラヴィスとの思い出が一つ増えるたび、其れは深くそしてじわじわと広がっていくのだと理解していた。特に、
年に一度の記念であれば来年はこの日を独りで過ごしているのではないかと、具体的が像が形を結び得も言われぬ焦
燥に激しく思考を乱されるのである。けれどもジュリアスは、その日の訪れが来年などと言う先に待ち受けているの
ではない事も熟知していた。
『明日かもしれぬ…。』
明日の朝、己か或いはクラヴィスの内から在るはずのサクリアが消失している可能性が零ではないのだ。但し、だか
らといって日々を怯えて過ごすなど愚の骨頂だとも知り得ているから、何も知らない素振りで毎日を送る術を会得し
たのである。
サクリアがどうして生まれ、如何なる理由で独りを選び、いつ消えて次を捜すのかを誰も知らない。例え女王であ
っても約束の日の訪れを予感など出来ない。全ては宇宙の意志であり、世界の理なのである。抗う術は皆無だ。守護
聖は体内に其れを宿し聖地に存在するだけの生き物だ。サクリアが無くなれば放逐されると決まっている。勿論、た
だ追い払うのでなく、生涯を保証され外界へと下ろされるのだが、此の地に召還される際家名も地位も家族も財産も、
一切の痕跡を一度消されるのであるから、戻る場所などある筈がない。親族が残っていたとしても、余程の事がなけ
れば快く迎え入れられるなどあり得ない。過去の亡霊がある日現れるのと同義だからだ。任期が短ければ可能かもし
れぬが、ジュリアスほどの長きを聖地で過ごしていたら、可能性は零よりも低いのが現実である。
守護聖で無くなった己には何もないのだと思う。頼る者も迎える家もない。身を削り全てを捧げた守護聖としての
実績も只人となった時には塵ほども価値を持たぬ。ただ其れは仕方のない事だと納得している。地位や名誉の為に守
護聖の責を全うしてきたわけではない。選ばれた者としての義務を果たしたにすぎない。故に、何もない事を怖れて
はいない。怖いのは無い事でなく、失うことだ。唯一欲して、唯一手にしたものを無くしてしまうのが恐ろしいので
ある。其れが掛け替えのない思いやら心やら、己自身と等価の存在であるから、逸してしまったなら今度こそ自分に
は何も無くなり、もう二度と手にするのが叶わぬから何時か訪れる現実を意識の外へと捨てたがるのだ。でも、其処
から逃れられないのも現実だと判りすぎていた。
天井から落ちた雫が彼の露出した肌を打たなければ、ジュリアスは未だ埒のない愚考の螺旋に絡め取られたままだ
ったろう。ハッとして現実へ戻れば、些か湯に浸かりすぎていたと自覚する。湯当たりする一歩手前だった。慌て浴
槽から上がり、ぬるめのシャワーを浴びながら全身と髪を洗う。用意された衣服を着け、髪を拭いつつ居間へと戻る。
きっとクラヴィスは大いにむくれているだろうと想像し、むくれるくらいなら構わぬが届いた酒精を粗方呑んでしま
っていると始末が悪いと眉を寄せる。ぐだぐだと苦言を垂れ、絡んでくるに違いない。内廊下をジュリアスにしては
随分と優美さに欠ける足取りで取って返したにも拘わらず、続き扉の先、居間の長椅子は蛻の殻であった。しかも届
いた瓶の栓は開けられてもいない。まさか夕涼みなどと外へ行ってしまってはいないかと、あり得すぎて否定できな
い仮定を確かめるべくテラスへ続く硝子扉を見れば錠が下りたままであった。そこで漸く寝室かもしれぬと思い当た
る。何故こうも己はクラヴィスに振り回されるのかと、通り過ぎてきた寝室を覗く為に居間を後にしながらジュリア
スは随分と可笑しそうな笑みを刻んでいた。
決して狭くはない寝室を覗いたジュリアスは、天蓋付きの独りには大きすぎる寝台でだらしなく眠りこける姿を見
遣り、盛大且つ大袈裟に脱力していた。彼程したがったくせに、常になく確認まで寄越し、珍しい気遣いまでみせて
おきながら呆気なく睡魔に取り込まれている様に、思わず笑いが込み上げてきた。一応は夜着に着替えているのは誉
めても良いけれど、こうもあっさりと寝入ってしまっているのを見れば、可笑しさを超え馬鹿らしさを覚える。寝台
の端に軽く腰をかけ、ジュリアスは少しの間薄い笑いを張り付けたまま長く伸びた肢体を眺めていた。
上掛けもかけずにいるのが気になったのは、深夜も過ぎた今室内に忍び込む冷気に開いた襟を引き寄せたからだっ
た。腕を伸ばし、肩まで足下に押しやられた上掛けをひきあげてやろうとした時、俯せになるクラヴィスの横で何か
がチラと煌めいたのに気づく。シーツに乗り出し具に見れば、其れは自分が贈った髪飾りであった。何を思い寝台に
まで持ち込んだのかは知れない。想像しても判らないだろう。ただ、こんな処にまで持ってきたのなら少なくとも気
に入ったのだろうと思えた。それならもっと嬉しそうに礼の一つも言えば良いのだと、相手が聞いていないのを良い
ことに呟いてみる。シーツに転がる其れを拾い、ランプの横へそっと置いた。
いつまでも起きている必要はなくなった。自分もさっさと寝台へ入るのが懸命とジュリアスはランプの灯りを絞り
寝台を回り込みクラヴィスの傍らへと躯を滑り込ませた。もう深い辺りまで行ってしまったクラヴィスは、ジュリア
スの体重を受けた寝台が僅かに撓むんでもピクリともしない。顔を寄せれば無防備な面で熟睡している。シーツの白
さに広がる黒髪が、淡い明かりの端を受け濡れたかに見える。ここ数日、顔は会わせてもこうして間近に在るなどな
く、互いに従者を引きつれて祭殿への回廊で行き会ったりすれば、自分でも滑稽だと思えるくらい相手の気配を感じ
ようとしていた。すぐ脇を行き過ぎる際など、背に全ての神経が行ってしまったかと訝るほども遠ざかるクラヴィス
のサクリアを辿っていた。己がこんなにも好いているなど、この男は知り得まいと思う。どんなに振り回されようが、
手を焼かされようが、彼らしく振る舞う姿を見るのが至福だと知ったら、一体どんな顔をするだろうかとあれこれ描
くが、結局いつものつまらなそうな、何やら五月蠅そうな顔しか浮かばなかった。
己の頬が緩んでいるのを自覚して、ジュリアスはつい今し方まで負に傾いていた意識が見事に立ち戻っているのを
知った。その途端、別段悲しくも寂しくもないのに何故か泣きたい気分になっていることに気づく。その理由は捜す
までもない。自分を置き去りにして夢を漂う男の所為なのである。恐らくジュリアスは誰よりも前へ顔を向けていて、
しかし誰よりも己の内に潜む翳りを認知している人間だろう。常に光を纏うが故、最も陽の当たらぬ部分に目を向け
易いのである。闇を従えるクラヴィスよりも、深い影に苛まれている可能性が高い。そして其処から目を背ける事が
酷く下手である。だから強く在ろうとする。脆さを隠そうと努める。だが、一旦傾き始める心や意識を引き寄せる術
に長けていない。ジュリアスが其処へ落ちかけるのを、まるで知っているかにクラヴィスは現れ、何気ない顔でひょ
いと沈む心を掬い上げる。はらりと舞った紙片を拾う如きの気安さでだ。ジュリアスはずっと其れに甘えてきた。多
分、これからも同じなのだろう。寄りかかる心地よさを、彼はただ傍に在るだけで教えてきた。
もしも何時かその日が訪れたとしたら、この男は常と同じ飄々とした様で己を掬い上げていくのだろうか。まさか
とも思い、或いはと訝る。聖地の規律さえ物ともせず、何かをやらかしてしまう気がして、ジュリアスは其れは其れ
で恐ろしいなと首を竦めた。
傍らから聞こえる寝息が何とも心地よさそうで、知らぬ間にジュリアスも目蓋が下り始めている。うかうかしてい
ると、明けの鳥が鳴き出すやもしれぬ。明日からは暫しの休みが待っている。クラヴィスが羽目を外さぬ筈がない。
微睡み始めた意識の中で、ジュリアスは其れもまた恐ろしいとやけに穏やかな吐息を漏らした。
了