*Sticky Finger*
サイト開設3周年記念
時計を見るまでもなく帳の隙間から入る光の強さで、もうすっかり早朝とは呼べぬ時刻だと察せられた。それでも
一応からだを起こして脇にある時計を見た。十時まであと少しの辺りに針が在る。クラヴィスの処に泊まった時は、
大概こんな時分まで寝てしまうからジュリアスにとって些か遅すぎる目覚めも、別段珍しいわけではなかった。だが、
寝室というには広すぎる室内の、未だ夜の名残に充ちた薄暗がりに沈む調度の一つに視線を据えたジュリアスは、実
に呆れた風の溜息を零した。目蓋を開き現実を意識した途端感じた違和感がその場所に在る。居るはずの者が間近に
在らぬ気配。其れが違和感の正体だった。
壁に寄せて置かれたカウチに何故だかクラヴィスが寝ている。どうしてあんな処で寝ているのかがさっぱり解せな
い。昨晩は確かに抱き合って同じ寝台で眠りに就いた筈である。普段のクラヴィスは本人が言うように眠りの浅い方
だ。数時間毎に目覚めてしまうらしく、時には一度起きてしまうとすっかり眠気が飛んでおり、結局ふらふらと夜の
聖地へ散策に出るのである。けれど二人で床に入った時は違う。ジュリアスが知る限り随分と深い眠りに落ちるのだ。
一旦寝付いたあと何かで覚醒してしまい、それは例えば喉の渇きを覚えたとか、波打つ彼の髪を無意識にクラヴィス
が引いてしまったとか、大人二人を充分に包み込むはずの上掛けを相手が全部かき寄せ独り占めした為に明け方の冷
気でたまらず目を覚ましてしまったとか、そんな理由で不意に現に引き戻された折り、戯れに頬に触れたり稀な事だ
が額に口唇を落としてもピクリともしない。仮に耳元で囁いたとしても、きっと何の変わりもなくゆったりした夢の
中から戻ってくるとは考え難かった。だから自分は目聡いというクラヴィスの其れを、ずっと方便だと思っていたの
だ。だが、より深く長い時を共にしてみると、強ち嘘を垂れているようでもなく、また考えてみればクラヴィスがそ
んな虚言を伸べる利点は一つもない。独りで眠るときは、やはり眠りが浅いに違いなく思えた。
ならばジュリアスと寝台に入るのは、平素と如何なる違いがあるのかと誰にともなく問えば、其処にSEXが介在す
るのだと容易に答えが返るのである。息を荒げ、鼓動を早めて肌を珠の汗で滑らせる行為を重ねるのだから、肉体は
適度に疲労し精神もある種の解放を得て、睡眠の深部へ落ちるのも頷けると言うものだ。ところがクラヴィスはそん
な簡易な理由ではないと宣う。ジュリアスと共にある事実がもたらす熟睡のわけは、別段性行為だけが要因ではない
らしい。彼曰く、心地よい睡魔が瞬く間に忍び寄るのは、直ぐ傍らの体温が殊の外安堵を運ぶからだそうだ。成る程
と得心しつつ、そう言えばと思い起こすに、クラヴィスは幼少の頃より殊更に身を寄せてくる子供だった。並び、長
椅子に掛けていれば知らぬ間にすぐ横へと擦り寄っていたり、互いの屋敷で泊まる際には寝台に入った直後こそ二つ
の躯を隔てる空間はあるが、其れを嫌うかに直ぐさま真横に来て丸い温もりを触れさせてくるのが常だった。他者に
構われるのを厭うくせに、ジュリアスにはまとわりついてくる。そんな子供だったと思い出す。長じてもそこは変わ
らぬのだろう。
その男が独り離れたカウチで寝痩けているのは何とも解せぬ。ジュリアスは寝台を抜け出し近寄ると、窮屈そうに
四肢を縮める寝姿を怪訝な面もちで見下ろしたのである。
「クラヴィス。」
少々声を落として呼びかける。同時に肩を軽く揺すってみた。う…っと何とも言えぬ声音が洩れ、閉じていた目蓋が
上がった。思ったより浅い微睡みだったのかもしれない。しかし起き抜けの顔はやはりぼんやりと虚ろで、見下ろす
相手を認識はしているのだろうが次への動きへ直ぐには移れないとみえる。
「こんな処でどうした?」
問われて漸く己のある状況を確認する。酷く緩慢な動作で上体を起こし周囲を見回す。薄く開いた唇から、ああ…と
気の抜けた声が発せられ、現状を把握したのだとわかる。
「明け方に目が覚めた…。丁度陽の昇る頃だと、帳の隙間から眺めていたら…眠ってしまったようだ。」
彼らしい理由すぎて実に笑える。
「もう十時をまわる。そなたも起きてしまえ。」
「ああ……。」
促されるままカウチに座り直すが、未だ頭がはっきりしていないのか立ち上がるには到らない。ぼやっとした面で、
とんでもない辺りを眺めている。寝乱れた髪が一筋顔に掛かっていた。
「ほら、行くぞ。」
腕を伸ばしかかる髪を払ってやろうとしたジュリアスが、慌てて指を引いた。頬を爪の先が掠った。覗き込むと、白
い肌に薄い朱の線が一本走っていた。
「済まぬ…。」
ところが当のクラヴィスは何の事やら分からぬ様子だ。指の腹でつけてしまった傷を確かめるジュリアスの仕草から、
やっと事態を察したくらいである。
「済まなかった…。痛むか?」
「いや…、全く。」
ジュリアスの慌てぶりが可笑しいとクラヴィスは苦笑する。大層な傷でもあるまいし、何をそんなに狼狽えるのだと、
からかうように言った。
「爪が伸びていたようだ…。」
失態への言い繕いであるかの口振りだったので、それなら切ればよいと言葉を向けたあと、お前は何でも大事にする
とクラヴィスは盛大に笑った。
ジュリアスは爪を摘んでいる。小気味良い乾いた音がパチンパチンと柔らかな光彩に満ちる部屋に響く。クラヴィ
スは長椅子にだらしなく寝そべり、その様を眺めていた。十の指すべてを終わらせ、広げていた紙を丁寧に畳んだジ
ュリアスがふっとクラヴィスを見遣る。
「そなたは伸びていないのか?」
どうだろうか?と首を捻る。そしてどうだ?とばかりに片手を突きだして見せた。その仕草が妙に子供じみていて、
ジュリアスは鼻先から息を抜くような笑いを洩らした。
「自分で分からぬのか?」
「判らぬからお前に見せているのだろう?」
そのくらい察しろとクラヴィスは不機嫌そうに言った。しなやかな身のこなしでジュリアスは傍に寄る。宙に伸べた
ままの腕を取り、吟味するかの眼差しで五本の指先を丹念に調べた。
「少し長いな。」
「そうか…?」
手近な椅子を引き寄せ腰を下ろす。
「整えてやろう。」
「ああ…。」
寝転がったままの相手に、摘んで貰うならしゃんとしないかと一喝が飛ぶ。渋々従うのを待ち、掌に軽く指を添えた。
ジュリアスは爪を伸ばさない。まめに己で手入れをするのだ。クラヴィスは逆に短く摘むことはない。比較的長め
に残し、美しく整えてエナメルを施す。水晶球に両手を翳す時、その方が具合が良いのだと言うが、実はしょっちゅ
う切りそろえるのが面倒で長くしているのではとジュリアスは思っている。申し訳程度に先端を落とし、あとは鑢で
滑らかな曲線を作ってやる。親指を終え人差し指に刃を当てた時クラヴィスが言った。
「あまり、先を尖らせるな…。」
それほど鋭利にするつもりが無かったので軽く頷きつつ、尖らせるのは具合が悪いのかと訊ねたところ、クラヴィス
が口の端に意味ありげな笑いを浮かべたのだが、目線を落とすジュリアスには其れが見とれなかった。
「中に入れた時、傷を作っては拙いだろう?」
降ってきた意味が解せなかった。何を言っているのだと顔を上げたところで、二つの視線が絡み合った。濃紫の眸が
面白くて仕方がないと細められている。頬に刻まれるのは、間違いなく何かを含んだ笑いである。半瞬惚けていたが、
向けられた意に気づいた。
「何を言っているのか、意味が分からぬ。」
気づいていて、判らぬと発した。この手のやり取りは苦手である。決して羞恥からではない。ただ相手が自分をから
かっているのが歴然としすぎて、その部分が引っかかった。投げられた言葉から在らぬ想像をして醜態を晒す様を期
待している風なのが癪に障ったのである。
「そうか…、判らぬか。」
昨日今日の付き合いではない。相手の心持ちをクラヴィスも読み、続きをすぐさま仕舞う方が賢明としたのだ。あと
二つ三つ言葉遊びをしても良かったが、下手をするとジュリアスが怒り出す。面白がって調子に乗ると痛い目をみる
と熟知していた。引き時が肝心なのだ。だからクラヴィスは黙し、次を収め、ジュリアスが丹念に爪を整えるのだけ
を静かに見つめた。
しかしながら人の想いとは不思議なもので、クラヴィスが戯れに撒いた種子がジュリアスの内で急速に芽吹きはじ
めていた。SEXを匂わせる其れはジュリアスに一つの象を結ばせる。己の身の内を犯す指先の予感。浮かんだ当初は
あまりに朧気で瞬時に一掃出来ると思えた。ところが一度心中に現れたなら、消し去るどころか見る間に確かな形を
為した。形を得ればあとは早い。粘膜を擦る感触、蠢く指の動き、クラヴィスの押し殺した吐息やら、淫猥な自身の
喘ぎすら脳裡に響き始める。更に困ったのは、己が妄想するそうした淫猥な行為を与える元凶とも言えるクラヴィス
の指を預かっていることだ。今、自分が頭に何を浮かべているかなどクラヴィスは知るよしもない。ジュリアスの手
にある長くしなやかな指を何ら意識することなく動かすのである。アナルに衝き入れられた指のもたらす刺激は、そ
の後に内部を充たすペニスとは異なるものだ。陰茎は圧迫感のある、しかし愚鈍な生き物を連想させる息苦しい快感
を寄越すが、指はもっと細やかで鋭利な悦を間断なく与えてくる。酷く柔軟に動き回り、一所に止まるなり周囲を執
拗に摩擦し、深くまで潜れば最も感じる部位を突きさすり抉るほども刺激して、かと思えば恐ろしく浅い辺りに戻っ
て鳥羽口付近に散らばる性感帯を弄ぶのだ。眼前に差し出された五本の指は、そんな行為など素知らぬ余所余所しさ
がある。けれど、クラヴィスが軽く関節を曲げるのが網膜に映るだけで、かけ離れている筈の其処が哀れなほど疼い
てくる。耳が熱を持ったかに熱い。髪を束ねていない事を幸いに思う。だが変化の兆しは確かに形を為している。耳
朶よりも更に股間が熱かった。先走りこそ溢れていないにしても、まさかと訝るくらいペニスが硬さを増している。
首筋にじわりと汗が滲んだ。膨れあがる行為の幻を、今すぐにでも打ち捨てなければならないと感じる。欲に埋没し
かけた理性を引き上げるのが何よりも先決だった。いや、その前に先ずクラヴィスの爪を整え終わるのが先である。
白い指先から視線を取り戻せば自ずと脳裡の像も消え失せるかに思えた。残るは二つだけである。ジュリアスは気を
取り直す為に、一度大きく息を吸い込んだ。
頬が火照るのは気のせいだと自身を正す。気が急いていてもぞんざいにならぬ様、それまでと変わらぬ風を装って
ジュリアスは全ての爪を整え上げた。最後に鑢で仕上げた外側の曲線を指の腹で確かめる。滑らかな感触が皮膚に当
たった刹那、ぞくりと背が震えた。硬質でありながら柔をもつ質感、角のない丸みを帯びた其処が体内に痕を残す際
の耐え難い悦楽が鮮明に蘇ったのである。不自然なほど唐突と手を離した。椅子から立ち上がるのもぎこちなく、慌
てたかに背を向けて手にした道具をテーブルに置く。クラヴィスの気配が背後に在る。きっと怪訝そうな顔をしてい
るに違いない。共に過ごし、触れあう故に欲を覚えるのは多々ある。少しも稀なことではないが、己独りが欲情する
のは間々あることではなかった。欲深い自身の思考が大層疎ましく、馬鹿げており何より恥ずかしい。クラヴィスの
手向けたからかいを払いのけたのが無意味に思え、乗せられるものかと通した意地が少しも役に立たなかったのが情
けない。無性に笑えてきたが、手放しで声を発てればクラヴィスはもっと訝しさを覚えるだろう。それに何時までも
背を向けているわけにもいかない。息を整え、言葉を探すジュリアスにクラヴィスが声をかけた。
「どうした…?」
ジュリアスは何事もないと返しつつ、ゆっくりと振り返った。適当な言い訳など垂れるより、知らぬ存ぜぬと述べる
のが一番の良策だと腹の底で呟いた。顔を向けた先に白皙がある。さぞかし怪訝な表情を張り付けているだろうとし
たジュリアスの予想はすっかりと外れる。
「顔が紅いな……。」
まじまじと見つめそう言ったクラヴィスの片頬が緩やかに上がる。実に楽しげな、そして随分と悪戯な笑みが広がっ
っていく。
「ジュリアス……。」
特有の揺れる声音が名を呼んだ。
「何が欲しい……?」
酷く猥雑な笑いが滲んでいる。
ジュリアスは黙す事を止めた。知らぬと言う答えも、判らぬとする返事も今は無駄なのだと観念した。彼は一つ息
を吐き、最も適切な言葉を発する為に唇を開いた。
「そなたの……、指で………。」
言い終わるのを待たず、クラヴィスは白絹を纏う躯を胸に抱き寄せた。
了