*花吹雪*
春/エロなし
大きく張り出した枝が空の蒼に向かい目一杯伸び上がる様に広がっている。頭上から己を呼ぶ声に其方を振り仰い
だクラヴィスはほんの一瞬だけ呼吸を忘れた。
自分を見下ろす双眸が恐ろしく呆れかえっているのだとジュリアスは上目遣いに其れを盗み見ながら気づかれない
くらい小さく溜息を吐いた。光の下では薄い菫色にも見える眸が瞬くのも忘れたかに己を凝眸している。白皙には気
遣いも思いやりもまして労りの欠片もない。冷ややかな面、不可解だと言わんばかりに微かに潜められた眉、クラヴ
ィスは心底呆れかえっているに違いないと思えた。
「馬鹿か…、お前は……。」
呟くかに落ちた声音は予想を裏切らぬ響きを孕む。老木の根本に座るジュリアスを立ったまま数分眺めていた後、彼
は大層困惑した風に肩を竦めて深い嘆息を一つ零した。
花を見に行こうと今年もジュリアスが言った。この時期になると毎年同じ誘いをする。昨年は湖の畔に、その前は
庭園の裏手に、更に以前はクラヴィスの屋敷の裏庭に。そして今年は森の奥にひっそりと在る古木を見たいとせがん
だ。クラヴィスは何処で見ようが同じ花ではないか等と毎回同じような事を言う。一年のうち、この時期にしか花を
つけないなら、其れはどんな場所で見ようが美しいと鬱陶しそうに髪を掻き上げながら苦言を垂れる。それでもジュ
リアスは、新たな場所を探してきては行きたいと繰り返す。
「森の湖を見下ろす丘があるだろう?」
「…ああ。」
「丘に上がる道が途中で分かれているのを知っているな?」
「…ああ。」
「その分岐を奥に入って行った先に在るのだ。」
「…そうか。」
「小径を行くと開けた場所がある。」
「…ああ。」
「其処に一本だけ古木があるのだ。」
「…なるほど。」
「明日の朝、早めに起きて行ってみないか?」
「………。」
嬉々として一本の花の木を語る彼が、酷く不可思議に見えてクラヴィスは生返事を返しながら別の事を考えていた。
普段からジュリアスが何かを強請るなど珍しい。欲していても口に出さない、願っていても言葉にしない、それが彼
の規律である。それなのに殊この花に関しては辟易するほども固執する。
『何故だろうか…?』
ぼんやりと細い肩先に遊ぶ蜜色の巻き毛を見つめそう思った。何か拘る理由があるのかもしれない。
『訊いたら…答えるだろうか?』
聞いているのかとジュリアスが問う。
「ああ…。」
あやふやな答えが又しても戻る。
「なぁ…、ジュリアス。」
不意に顔を向けられ、何事かと蒼穹が見開かれた。
「どうして、そうまでして見たがるのだ?」
所詮は単なる花ではないかとクラヴィスが重ねた。
「好きだからだ。」
至極当然と言う風に簡潔な答えだった。間髪を置かず、あっさりと返されたので次を続けられない。と言うより、そ
の後にどう問うつもりだったのか自分でも判らなかった。
「…起きられるかどうか……。」
曖昧にそう述べたが、了解の意だとジュリアスは汲んだようで一つ頷いて頬を綻ばせた。
翌朝、ジュリアスが思うよりはずっと遅い時刻になってしまったが、二人は徒歩でその場所を目指した。遅れたの
は勿論クラヴィスがなかなか寝台から出なかったからだ。別段行き渋ったのではない。単にハッキリとした覚醒が訪
れるのに時間がかかったのである。幾度も声を掛け、肩を揺すり、終いには髪まで引っ張ったにも拘わらず、彼は薄
く眸を開くも、直ぐに微睡みに落ちてしまった。半分ほど目が覚めても、常の倍以上ぼんやりとした眼差しでジュリ
アスを眺め、漸く上体を起こして『おはよう…』と寝ぼけた挨拶を寄越したのは、最初に名を呼んでから小一時間も
経った頃だった。ジュリアスは慣れたもので、大して腹を立てるでもなく辛抱強く相手の意識をこちら側へと引き寄
せる努力を続けた。往復すれば丁度良い朝の散策になると朝食を後回しにして屋敷を出る。クラヴィスにしてみれば、
大層な早朝である。歩き始めて暫くは会話など出る筈もない。ひたすらに湖に続く森の小径を進んだ。
幼い頃から数え切れぬくらい通った路である。不思議と一人で辿った記憶がないところをみると、クラヴィスの館
に泊まったか或いは遊びに出向いた折りに誘い合って出たのだろう。先に立つ自分が時折振り返ると、後から真剣な
表情で追ってくる小柄な姿があった。今もそれは変わらない。いや、これが夜の散策だったならクラヴィスは少し先
を歩いているに違いない。が、朝霧の晴れたうっすらと湿り気の残る木立の間を歩くこんな時間は、ジュリアスの半
分ほどの歩速でゆったりと後方を行くのが現在の彼のペースなのだ。立ち止まり首を返して肩越しに見る。薄い陽光
が木々の上から落ちる中、軽く上衣の裾を捌き歩を進める彼に当時の面影はなかった。
何故、桜を見たがるのかと問われた時迷わず好きだからだと答えた。それは嘘でも方便でもない。たった十日くら
いしか花を付けない、あまりに潔く散っていく桜が好きだ。けれど、それが理由の全てではない。だが、胸にしまう
残りを口にするつもりも無かった。例えば新年であるとか、生誕や何某かの記念という一年にたった一度の区切りを
クラヴィスと共にある事に彼は大層拘る。また今年も同じ時に在るのだと確認したいと願ってしまう。其れはこの白
い花を愛でる行為でも同様だった。次ぎは無いかもしれぬと、普段は敢えて意識から捨てている可能性がどうしても
払えなくなる。感傷的すぎると自らを戒めたが無駄だった。一つだけ決まった未来は、どんな色なのか知れない。鮮
やかな色彩なのか、はたまた混沌の色なのか。知る術がないから、数多の色を記憶に落としそれで塗ろうとしている
気がする。実にくだらない、まるで自分らしくない行為だと言うことだけは判っているのだが…。
思考の内に入り込んでいたが躯は覚えているようで、間もなく小径が左右に分かれる辺りとなる。迷わず森の奥へ
と続く方を選んだ。徐々に強さを増す陽光とずっと歩いてきた所為で僅かに汗ばんでいるのが気になった。風が止ん
でいるのもある。木々の合間から光を弾く湖面が覗く。あと僅かだと少しだけ歩を早めた。
きっと立ち並ぶ樹木が遮っていたからだろう。森を抜けた其の空間には風があった。ぽっかりと開けた場所に太い
幹から幾本も枝を伸ばした桜の古木が佇んでいる。上空から吹き降りる朝の風に揺れる枝先、惜しげもなく舞い散る
雪片にも似た数多の花弁。視界がけぶるほどの薄紅の帳を纏う其れは、今まで見た中で最も巨大な桜であった。少し
遅れて其処に践み入ったクラヴィスが思わず足を止めたのは当然である。薄暗い緑の先に忽然と現れた異界に迷い込
んだ錯覚に囚われたに違いない。時すら奪われたかと訝るくらいの幻覚が存在した。
「クラヴィス!見事であろう?」
樹の間近でジュリアスが微笑っていた。引き寄せられるかにクラヴィスも歩み寄る。頭上を覆う薄い紅色の天から、
止めどなく幻が降り注いでいた。
取り憑かれたかもしれぬと自覚していた。目を奪われた。視線が外せない。現実から切り取られた非現実が逆に真
実だと信じられる時がある。まさに其れが今だった。拘束から放たれ、宙に放り出された花弁は刹那の自由を謳歌す
るかに一旦空の高見を目指しているとでも言いたげに緩やかな動きで上昇する。それがとある辺りで不意に落下し始
める。重力と言う名の理に絡め取られたのである。逆らうことなく大地へと下降する。ハラハラと音が鳴っているの
ではと疑うほども儚げな様で降り落ちる。たったそれだけの繰り返をクラヴィスは惚けた様に眺め続けた。吹き積も
る白い欠片が大地を覆い隠し、いつか己も其れに埋もれてしまうのではないかと疑った。世界が此処だけで成ってお
り、此までが虚構だと言われたら其れもあり得ると頷いてしまいそうであった。
「クラヴィス!!」
頭上から名を叫ばれ慌てて振り仰いだ。どれくらいの間、自分は花弁の乱舞を見つめていたのか知れないが、視線の
先、大きく張り出した枝の上にジュリアスは居た。波打つ金絹の髪と純白の衣装が風に靡いていた。
「此処からの眺めが格別なのだ。」
誇らしげな顔で鮮やかに笑うその姿が双眸に飛び込んだ刹那、クラヴィスは呼吸を忘れた。
「此は……夢…か?」
思わず零れた呟きが、しかし間違いであると彼は知っている。白い帳の中に射す一筋の光こそが真であると、遠い記
憶がそう囁いた。緩く吹き渡る風の中、煌めきは惜しげもなく輝いていた。
「そなたも来てみろ!花の間から空が見える。」
大きく反り返りジュリアスは声を上げた。そして、次の瞬間眩い光は大地へと………落ちた。
「履き物を履いたままで…。滅多に登らぬ樹上ではしゃぐから………。」
口元に冷笑を浮かべクラヴィスは肩を竦めた。
「五月蠅い!!」
馬鹿にしたければすれば良いと、ジュリアスは羞恥に頬を染めて怒鳴り声を放つ。別に馬鹿にしたくはないと返しつ
つクラヴィスが手を差し伸べた。
「立てるか?」
「当たり前だ!」
「低い枝だったから幸いだった…な。」
言い終わらぬうちに込み上げた笑いで白皙が崩れる。
「笑うな!!!」
それでも伸べられた手を取り、ジュリアスはゆっくりと立ち上がった。
「どこか痛むか?」
「どこも痛まぬ。」
軽く衣装を叩いて彼は悠然と歩き出すが、繋いだ手を離すつもりはないらしい。
「戻るぞ、クラヴィス。」
決まりが悪いに決まっている。振り向きもせず小径へと戻るジュリアスは、グイグイと黒衣の腕を引いた。
「折角来たのだ。もう暫く愛でてはどうだ…?」
「黙れ!!」
からかわれていると判っているから、ムキになって歩を速めている。後から聞こえる忍び笑いに、彼はもう一度『笑
うな!』と声を荒げた。
誘うように花弁を散らす桜の大樹を後にして、彼らは元来た路を戻って行く。相変わらず手を繋いだまま、ジュリ
アスは怒った風な顔で前を見据えている。黄金色から微かに覗く耳が火照ったかに赤い。唐突と触れたくなった。
「ジュリアス…。」
未だ言い足りないかと睨み付ける為に振り返った途端、前触れもなく胸に抱き込まれた。抵抗の隙も与えられぬまま、
唇をやんわりと塞がれてしまった。突き放すかどうかを半瞬迷う。が、結局触れてくる其れを迎えて彼は静かに眸を
閉じた。軽く舌を絡めクラヴィスは胸中で呟く。
『あと少し、愛でていても良いだろう…?』
花が散り終えてしまうまで、暫くの間は………。
了