*Suger Fix*
03'ジュリ誕-当日-/『Shine』の翌日
両手を大きく前に押し出す。天井まで届くほどの窓が外に向けて開かれた。常にジュリアスが床を離れる時刻からは随分と遅い。その証拠に梢の上には既に昇った太陽が柔らかく輝いていた。ここ聖地に一応の四季は設定されている。春と呼ばれる仄暖かな気温の日々が終わると夏と呼ばれる強い日差しの毎日がやってくる。けれど、例えば主星などに於いてのそれと格段に異なるのは、不愉快になるような湿度がない。そして陽光の強さはその季節を思わせるも、朝夕になれば肌寒くさえ感じる。それ故に今窓を大きく開け放った折り室内に遠慮もなく吹き込んできた風が彼にしては珍しく乱れた部屋着から覗く素肌を掠め、ジュリアスは無意識に躯を震わせた。
朝露の名残はとうに消えている。だが、きっと裏庭に一歩でも踏み出せば素足に触れる下草は未だうっすらと湿っているに違いなかった。庭に出るか否かを数十秒逡巡する。そして彼は一度室内に…、いや隣室とを隔てる扉に一瞥を送った。明るさに慣れた目には奥まった壁に在る扉は妙に沈んで見える。その先には寝室がある。彼が起きてくるまでにはまだ暫く時間がかかるだろうと思う。それなら少し庭を歩いてきても問題はなかろうと、ジュリアスは優雅な身のこなしでテラスへの一歩を踏み出そうとした。
強い風が何の前触れもなくジュリアスの横を吹き抜ける。それが何を意味するのか、彼は瞬時に悟った。しきりとなる扉が開いたに他ならない。隣室へと続くそれが開けられたのだ。風は室内を真っ直ぐに駆け抜けていった。彼は迷わず顔を後方に向ける。起きてくる筈のない人が扉の辺りに立ち、窓に立つ自身に眼差しを送っていた。
「おはよう。」
ジュリアスの凛とした声音が届くと、クラヴィスはやはりどこかぼんやりとした風に『ああ…』とだけ返した。ゆるりとした動きで部屋を進み、窓の前に居るジュリアスの横に立つ。思った通り、彼はまだハッキリと目覚めていないらしい。ふと目を開いた先にジュリアスが居なかったので、とりあえず起きてしまったのだろう。顔をのぞき込むと今にも瞳を閉じてしまいそうな、曖昧な表情のクラヴィスが窓外に広がる朝の庭を眺めている。
「まだ、眠いのか?」
可笑しそうに問うと、気怠げな声が全く見当違いな答えを寄越した。
「……寒いな。」
言いながらクラヴィスはすぐ横に在る者の躯に腕を廻し引き寄せる。抱き寄せた途端、肩に頭を預け緩やかに波打つ黄金の髪に鼻先を埋めた。
ジュリアスの指先が背に流れる黒髪を撫でる。微かな、しかし満足げな吐息が薄唇からこぼれた。触れている部分は極めて少ない。肩先と廻した腕と掌と、だがそこから感じる互いの体温はそれこそ朝の冷えた空気を忘れさせるくらいに暖かかった。視線だけを動かし、自分に身を預けるその顔を見遣った。クラヴィスは目を閉じている。思いの外長い睫が時折小さく震える。起きているのだろうとは思うが、あと少しこのままで居たなら彼は間違いなくこんな不自然な姿勢で寝入ってしまう。
「クラヴィス。」
耳元でハッキリと呼ぶ。眠ってはいない証拠にすぐさま反応が返る。
「……ん?」
が、ジュリアスの予想はそれほど外してはいなかった。既に微睡みに落ちかけたのを顕すかに、戻った声は随分と曖昧な響きを帯びていた。
「このまま寝てしまおうなどとしてはいまいな?」
「ああ…。」
短く答えながら、それでも良かったとクラヴィスは腹の中で呟いた。
顔を上げると触れるほども近くに在る彼はキラキラと笑っていた。
「お前は、随分と元気だな…?」
眩しげに目を細めながらクラヴィスは如何にも驚いた風な顔を作った。
「日頃から……鍛えている。」
ジュリアスは少し決まりの悪そうに小さく咳払いをした。クラヴィスの含みに昨夜の情事を思い出したからか、それとも彼の囁くかの声音に何かを感じたからか。話題を変えようとその鋭利な思考が瞬時に回転した時、驚きの表情をいつもの静やかなそれに置き換えた人が面白い事を言いだした。
「今日はお前の生誕だが…。昨日のアレ以外は何も用意していない。」
それは既に聞いた話だとジュリアスは口元に視線を置いたまま先を待った。
クラヴィスが処罰まで喰らって手に入れた酒は昨晩二人で呑んでしまった。それに彼に言わせれば入手が難しい逸品を、当初は生誕に贈ろうとしたものの途中からは己が手に入れたいだけの欲求で半ば意地になったのだそうだ。厳密に言えば今年は何も贈るものが無いのである。
「そこで…だ。今日一日、お前の望みを何でも聞いてやる。」
またこの男は何を言い出すやらとジュリアスは呆れた風にその顔を見る。クラヴィスは自らの提案を何よりも良案だと考えているようだ。どこか得意げな顔をしている。
「どうだ…?」
「望みは一つか?」
「いや…、数に限りはない。」
「どんな事でも?」
「……ふむ。」
ここに来て彼は自分が随分と大それた発言をしたのでは無いかと訝った。
「わたしに出来る事なら……だが。」
「分かっている。」
ジュリアスは突如心許なさを面に昇らせたクラヴィスに思わず吹き出してしまいそうになるのを、何とか堪えつつ当たり前だ、出来ぬ事など望んでも仕方がないと返した。それを受け幾分安堵を覚えたのか、彼は再び偉そうな言い回しで何でも言ってみろ等と言う。
「突然その様な事を言われても……。」
当たり前だが何の準備もなく、ではこれこれをと発するほどジュリアスは欲深くはない。
今度は、彼が蜜色の眉をひそめ困った顔を貼り付けた。クラヴィスは大方こんな望みを言って来るだろうとした予想はしている。普段から彼が口やかましく向けてくる望みは、やれ書類を早く仕上げろだの遅刻はするなだの、もっと曖昧にやる気を見せろ等といった職務絡みのものである。だが今日は土の曜日である。まさかこれから宮殿に出向いて執務に就けと言い出すほどジュリアスが野暮な人間だとは考えられぬ。以前から何度も共に行こうとせがまれた遠乗りか、或いは結局叶わずじまいとなっている庭園のカフェテリアに出向く辺りを持ち出すに違いないと践んでいた。
「やはり直ぐには思いつかぬ…。」
間近にあるジュリアスの小さな顔は、本当に困り果てたと言っている様だ。
不意にクラヴィスは言いようのない感情がわき起こり首筋付近がゾワリとするのを覚える。宮殿や、恐らく己の屋敷でも滅多に拝むなど叶わぬ困惑に揺れる表情。それは随分と子供じみて見えた。愛情の中に潜む保護欲に近い感情がクラヴィスの、普段はあまり表立って顕さないよう心がけている気持ちを大きく動かした。
「……??」
前触れもなく強引に抱き込まれたジュリアスが抗議を発しようとする。嫌なわけなどない、この多くを語らぬ人がそれを補うかに抱き締めてきたり、唇を重ねるのはむしろ喜びである。それでも、彼の言いなりに、為すがままとなるのは悔しい。だから真は歓喜であっても敢えて流されぬと顔を逸らし、殊更に糾弾したりする。そんな彼の様を偽りなどと呼ぶつもりはないのだが…。
「突然……何をする。」
口元からこぼれた声音は随分と小さい。それに微塵も抵抗をするつもりもないらしい。少し前まで愛おしそうに墨色の髪を撫でていた指先が、黒色の部屋着に細かな皺を刻んだ。今度は腕の中に在る黄金にクラヴィスは又顔を埋めた。日だまりを思わせるジュリアスの香が甘く彼を満たす。
「…クラヴィス?」
鼻先で笑うかの微かな返答にジュリアスは続ける。
「今、良いことを思いついた。」
「何だ……?」
「今日一日、そなたは私の言うままにしろ。」
「???」
言の意が計れず、クラヴィスは反射的に顔を上げ何か素晴らしい閃きに頬を僅かに紅潮させたジュリアスを見遣った。
「私が言う通りにするのだ。」
ジュリアスは声を張りそう言うと何故か自分から相手の胸に顔を押しつけた。クラヴィスがまじまじと見つめているから、急に照れくさくなったのかもしれぬ。
クラヴィスの胸に鼻先を押しつけていたのは数十秒くらいだったか。弾かれたかに顔を離したジュリアスは不快だと言わんばかりの言い回しでこう言った。
「クラヴィス…。そなた…臭いな!」
昨夜はしたたかに呑み、そのまま抱き合い、幾度も躯を繋げ、そのまま寝入ってしまった。酒精特有の香とその後の行為による汗と精液の匂いに違いない。焚きしめた香でも拭えぬそれは普通に接すれば気づかぬ程度である。が、これほど身体を密着させれば気にもなろう。
「お前も同じだろう…?」
クラヴィスは首筋に鼻を近づけ大げさに一息を吸う。ところがジュリアスからは仄かに甘い香りがするだけで、情事の名残など全く窺えぬ。おかしいと柳眉が上がるのを見てジュリアスは笑う。
「私は明け方に目が覚めた時、簡単に湯を使った。」
そなたとは違うのだと言わんばかりに言い放つ言葉から何故か子供っぽい得意さが滲む。
さぁ!早くしろと嬉々として腕を引くジュリアスに、つい今し方己が呈した生誕の祝いを撤回は出来ぬものかと策を巡らすクラヴィスは渋々付いてゆく他なかった。
天井に開く天窓からはまだ早い午前の陽光が薄い輝きとなって浴室を充たしていた。湯を張った浴槽からは温もりが白い湯気となり立ち上る。夜半には漆黒の空と瞬く星々を切り取る高い窓は、深い碧色の空だけを見せる。戸外には僅かばかりの風があるらしい。屋敷のすぐ脇に在る樹木の葉が時折動いて細かな影が湯面でチラチラと揺れた。
脱衣所まで付いてきたジュリアスが着衣を外すのを不思議そうに眺めていると、何をぼんやりしている!と又叱責された。のろのろと服を脱ぐクラヴィスを置いて彼はさっさと湯殿の扉を開けた。大して時間も掛からぬ筈の脱衣が遅いと、暫し遅れて浴室に入ったクラヴィスに彼は笑顔を浮かべ苦言を言う。共に湯船に浸かりながらクラヴィスは相変わらずの面でぼそぼそと問いを向ける。
「何故、お前まで入るのだ?」
「そなたは一人で入るとあっという間に上がってしまうからな。」
「それが不味いと?」
「当たり前だ。」
いい大人が一人で満足に身体を洗わずに出てくるなど言語道断だと尊大な言が放たれる。もうクラヴィスには逃げる策も引き返す道も皆無であった。だから文句の一つも言わず次々に寄越される命令に従った。自らの言い出した事だ、これを反故にしたらきっとジュリアスは何日も口をきいてはくれない。
ゆっくりと暖まれと言われその通りにする、そろそろ上がらぬとのぼせると言われ湯船からでる、次は身体を洗えと指示が飛ぶ、その前に髪を何とかしろとの命に洗面所から髪留めを取り一つに纏めた。ただこの時はジュリアスが手際よく長い髪を留めてくれた。身体を洗っている間も指令は途切れることはない。やれ首の後ろがまだだとか、指の間もちゃんと洗えとか、手の指だけではない足の指の間を忘れるなとか。浴室の床に座り込んだジュリアスは何とも楽しそうに続けざまに言葉を投げた。シャワーで身体を流し終え、これで終わりだとクラヴィスが振り返るとすぐ後ろにジュリアスが立っていた。
「次は洗髪だ。」
既に彼は腰掛けを二つ並べ一つを指さし座れと促している。聞こえぬほどの微かな嘆息を落とし、クラヴィスはドカリと腰を下ろした。
ジュリアスの細い指が丹念に髪を洗ってゆく。細かな泡を盛大にたて腰まで届く髪の先までも丁寧に指を滑らせる。大振りの房に分け左右に流すといつも隠れているうなじが露わになった。ただでさえ色の白い肌、まして其処は陽に晒されるも少ない。肌理の細やかな白さに知らず目を奪われた。
「どうした…?」
指の動きが止まったのを怪訝に思ったのか、うつむいたままのクラヴィスが尋ねる。
「いや…何でもない。」
見とれていた等とは死んでも言えない。ジュリアスは泡だらけの指を動かしながらそれだけを答えた。誰かに髪を洗われるのは、きっと大層気持ちの良いものなのだろう。ジュリアスの指示に従いながらも、不本意さを隠せないクラヴィスは何やかやと皮肉を言ったり揶揄を返したりしていた。それがこうして腰掛けに座ったのちは、随分と大人しくしている。
もう、気の遠くなるくらい以前。まだ二人が幼い子供だった頃、ジュリアスは常にクラヴィスに何かを示していた。礼儀作法に始まり執務への姿勢、宮殿の帰りや休日はどちらかの屋敷で共に過ごすのが当たり前であったから、日常の些細な物事についてもジュリアスが教えた。当時のクラヴィスは凡そ今からは想像も出来ぬくらい素直で、大げさではなくジュリアスが右だと言えばその通りに進むのを当然と思っていた。体格もジュリアスが勝っていたから、彼はクラヴィスの保護者を気取りどこか誇らしげに世話を焼いていた。髪を洗ってやったのも一度や二度ではなかった。
休日の朝に湯を使ったかどうかは覚えてはいない。確か二人庭で盛大に水遊びをした後、今日と同じ光に溢れた浴室でふざけあった事もあった筈だ。やはりクラヴィスは大人しく俯いて自分に細いうなじを見せていた様に思う。それは永遠に続く日々なのだと信じていた。クラヴィスの菫色には己が映り、自分の空色には彼しかいない。其処に翳りが降りたり、誰か別の者が映ったり、ましてや自分の姿が映されぬ日が来るなどと微塵も考えはしなかった。常春の聖地が恒久の平穏に満たされるのと同様に、互いの間に越えられぬ壁が築かれるとは夢にも思う筈がないのだった。吹き込む突風に煽られ、身を切る冷風に晒され、気づけば菫色は濃紫に変わっていた。そして、其処には誰の姿も映されてはいなかった。
あの冷え切った毎日に終わりがあるとは、再び彼の瞳が己を捉えるなど、これも又思いもよらない事実であった。ある日、決して崩れる筈のない壁に小さな亀裂が走り、其れをうち破って手を差し伸べてきたクラヴィスを見るまで、自身の都合の良い夢を詮無い望みと幾度捨ててきただろう。伸べられた腕を取ったのちもクラヴィスの想いが信じられず、疑い拒み否定さえも試みたがそれこそ無駄な足掻きだったと幾分の羞恥を覚えながらもハッキリと言える。
あの幼かった頃、互いの想いは甘く柔らかな信頼と憧憬だった。再び巡り来た今、あの頃の其れとは別の想いがあるのだと知った。もっと熱く、強く、しなやかで、けれど時に苦しく、やるせなく、そして切ない想いが互いの胸を灼くのだと。狂おしく求め合うその感情の名を告げたのは……。
「もう…良いだろう?」
いつまでも終わらぬ洗髪に業を煮やしたクラヴィスから漸く声が上がった。
「ああ…。そうだな…。」
流すから耳を塞げと言われ、彼は苦笑を洩らす。ジュリアスは楽しげに、さっさとしろと命じる。馬鹿馬鹿しいと更に苦い笑みを浮かべながらクラヴィスは言に従い耳を塞ぐ。真上から落ちるシャワーを受けながら、彼はこの祝いを贈ったのは正解だったと胸中で呟く。
「クラ……、上がったら……んと乾かして………。」
間断なく落ちる水音にかき消されジュリアスの言葉は途切れ途切れにしか聞こえてこない。だが、きっと彼は笑っているのだろうとクラヴィスは信じる。遙か昔、まだ小さかった自分が髪を洗って貰う時、彼はいつも楽しそうに笑っていたから。
天の高見に向かい昇る陽の光は、煌めく輝きとなって窓から降り注いでいた。甘やかな記憶に残るあの日と同じように…。
了