*Shine*
03'ジュリ誕-前夜-
グッと茎を握りこまれ汗ばんだ肢体に震えが走ると同時に今まで押さえていた欲望が一気に放出されるのをとうとう堪える事が出来なかったのだと、背骨に沿って駆け上がる快感に高い嬌声を発しながら彼は薄ぼんやりした思考の片隅で理解していた。意識がそれまで性器を弄られる方に傾いていたから、射精による一瞬の快楽が駆け抜けてしまった今になって埋め込まれた指が知らぬ間に数を増していたのにやっと気付いた。
ずっと以前に初めて本来入れられる筈のない場所に指先を挿し入れられた時、まさかと思うのと同様にこれが限界に違いないと考えたのが嘘のようである。複数の指を飲み込んでいる其処がほんの少しの間をおいて途方もなく質量を増した肉塊をいとも容易く迎え入れてしまうのを、その苦痛を知りつつも待ちわびている己に腹の中で嘲笑を送らざる得なかった。痛いと悲鳴を上げるのは単に本能の為せる行為である。それに幾ら悲痛な声が室内に響いたところで、相手が中止しないのも承知しているから遠慮なく叫びを上げるに違いなかった。
稀に『ならば…止すか?』などと意地悪い含みをもつ囁きが耳元に忍び寄る時もあるが、そんな事を言いつつも中途で放り出す方が相手にとっても遙かに至難の業だと得心してる。逆にヤメられてはジュリアスにとっても大いに不都合なのである。
埋め込まれていた物が少しの衒いもなく引き抜かれるのを阻止する術はない。以前はこの時の気持ちを損失感だと思っていた。実はそれが欠落感だと気付いたのはつい最近のことだと思う。長い指の関節が内側に触れるのが好きだと感じたのは割と前で、整えられた滑らかな爪が時折内壁を擦るのはずっと嫌だった筈なのに、本当はその刺激に高ぶってしまうと知ったのはこの数ヶ月だったか或いはもっと最初の頃だったかが思い出せない。
己の意志ではどうにもならぬ内部の動きをどうにかしたくて、ジュリアスは殊更に何かを考えようとした。けれど、それも無意味な足掻きだと分かり切っている。クラヴィスの指に絡みついて名残を惜しむ肉壁の収縮など、自分では何とも出来ぬのだと知りすぎていた。勿論、それは全くお構いなしにジュリアスの内より去っていったのだ。
耳たぶを食みながら胸の突起を指先で軽く摘んでいたクラヴィスから声が洩れた。密着した躯よりもっと解けぬくらいに絡み合う互いの足。耳を柔らかく咬まれたから無意識に身を捩ったジュリアスの何処かがクラヴィスの根芯に強く触れたに違いない。『……ん』と鼻先からせり上がった欲を逃そうとした彼の声が耳元を掠めた途端、ジュリアスの内部に大きなうねりが起きた。肌に触れたクラヴィスの熱が予想よりずっと熱く滾っていたのもある。直接性器を嬲られる(なぶられる)以上にそれはジュリアスの情動を激しく煽った。
今にも弾けてしまいそうだ。つい今し方それは尖端から白濁した汁を吐き出したばかりなのに、一度解き放ってしまうと逆に肌はより敏感になり肩先を爪が軽く触れただけでも身悶えするほどの快感を覚えてしまう。秘処の鳥羽口は解きほぐされ、もう次を強請るように細かな痙攣を繰り返している。クラヴィスの不規則な息づかいや、時折漏れる密やかな呻きだけでも達ってしまうには充分だと思えた。そこに滾りを充たす根芯が触れたのだから、ジュリアスが耐え切れぬ焦燥に身を震わせても仕方がないのかもしれない。
「クラ……ス…もう……」
『達きたいのか』『達ってしまいそう』なのか、戦慄く唇が続けようと哀れな足掻きを試みる前に、既に耐える事を諦めたクラヴィスが高ぶりを衝き入れた。常より強引な己の行為にクラヴィスはやはり酔っているのだと腹の内で苦笑する。衝撃に一度強く躯を強張らせたジュリアスが、ついで全身を痙攣させ背を撓らせたのちに高く声を上げた。室内に蔓延る隠微で淫らな空気が長く尾を引く嬌声に暫し揺らいだ。
それは週末に首座の生誕を控えた火の曜日の事。光の執務室より書類の束を手にしたオスカーは、それらの一番上に乗った回状を見て首を傾げた。其を手渡しつつ彼の尊敬してやまない首座の守護聖は幾分不機嫌そうに隣室には廻さずとも良いと告げた。オスカーも当然だと分かり切っていたので了解を返しつつ退室したのである。
『それにしても……。』
今一度書面を眺め、いかにも軍人然とした立ち居振る舞いで歩を進めつつ彼はまた首を傾げるのだった。回状にはこう記されている。
<本日より今週末までを期限とし、闇の守護聖クラヴィスに私邸での謹慎を申し渡す。>
クラヴィスがこの次席としては甚だ恥じるべき処遇を喰らった経緯は実に稚拙な行動からであった。言い訳や申し開きも通じぬその原因は至極個人的理由により、畏れ多くも王立研究院管理下に在る次元回廊を無断使用した故である。書面には彼の『個人的理由』に関する詳細は書かれていない。だから余計にオスカーが怪訝に感じるのだ。そしてこれが守護聖全員の目に晒されたなら、間違いなく記されていない件について詮索する輩が出てくるに違いない。
実際、オスカーを含む数人の守護聖が禁制を破り聖地から外界に出るのは事実である。彼らも当然見つかればそれなりの処罰を受けると承知しているから、人目を忍び夜に紛れてコッソリと抜け出すを心がけていた。目的の場所に向かう手段はシャトルを利用するのが最も安全で、常なら決して使わぬ一般のスペースポートに足を運ぶのが暗黙の了解となっていた。シャトルでは勿論時間的な制約は仕方のない事であるから、本当はもっと聖地から離れて羽を伸ばしたいと望んでも出来る範囲で良しとするが賢明なのである。
彼にしても何度か次元回廊と言う名の甘い誘惑を頭に浮かべた事はあった。けれど、其れを利用すれば付いてくる多大なリスクを背負ってまで一時の歓楽を得ようとなど思わないのだ。ところが、事も在ろうに首座の片翼たる闇の守護聖がその禁を犯したらしい。あと小一時間もすれば騒ぎ出すであろう数名の顔を頭に描き、炎の守護聖は闇の執務室の前を通り過ぎた。
退室して行ったオスカーを着座したまま見送ったジュリアスは、ほとほと困ったとばかりに大仰なため息を零す。彼もまたそれほど時を有せず現れるであろう幾人かの守護聖の事を考えていた。当然彼は事の詳細など明らかにするつもりもない。と言うより出来ないのが実のところである。クラヴィスが彼個人としてこの不祥事を働いたなら誰憚ることなく其れを公表したかもしれない。厳しい表情を面に浮かべ、これこれの理由で謹慎となったと伝え最後に更に力を入れて皆もこうした不遜を行わぬ様心しろと言い放った筈である。実は今の時点でジュリアスもハッキリとした理由を聞いたわけではないのだが、昨日の夜半に闇の館を訪れた折りにのらりくらりと言をかわすクラヴィスに『私の生誕に関わることか?』と訊ねたのを受けた闇の守護聖が薄い笑いを口の端に刻み、『まぁ…そんなところだ。』と返したのを確かに聞いている。
端からそんな事だろうと予想はしていたが、面と向かって肯定されれば俄に腹も立つと言うことだ。明日一番にでもそなたの処罰が決まると告げた直後、生真面目な首座は声を張り「いい加減にしろ!」と怒鳴りつけて部屋を出た際の怒りは、時間と共に得も言われぬ悔しさに変わっていた。
実行したのはクラヴィスである。けれど彼にその行動を起こさせた理由の一端が己にあるのだと分かっていれば、おいそれと詳細を公言できるわけもない。自身の生誕が近づくとクラヴィスは取り敢えずといった風に何か欲しいか?と尋ねてくる。これも習い性となったかにジュリアスは別段欲しい物などないと答えるのが常であった。大概、クラヴィスはどこから見付けて来たのか分からぬ装飾品やら珍しい布地やらを携えて当日の夜光の館にやって来る。今年もそれは変わらぬ習わしだろうとジュリアスも考えていた。
聖地に出入りする商人は守護聖が所望すれば大抵の物は用立てできる才を持つ。彼らのつてを使わずとも、何らかの手段でこの地を離れずして求めた品を手にするは可能だ。地の守護聖が貴重な古書を、夢の守護聖が見たこともない宝石を入手しているのがその証拠である。ならば一体どうした理由でクラヴィスがわざわざ謹慎まで喰らい禁を破ったのかが分からない。いつもより更に眉根を寄せ、滑らかな額に深い縦皺を刻みながらジュリアスは又深い嘆息を落とした。
それから数時間ののち、彼の予想に違わず思った通りの顔ぶれが入れ替わり立ち替わり執務室の扉を叩いた。そして訪れた誰もがすっかりと肩を落とし退室していった。首座は平素と変わらぬ凛とした声音でたった二言を返すのみだったからだ。
「私も詳細は知らぬ。それほど気になるなら本人に聞けば良かろう。」
その本人が素直に教えてなどくれぬのを百も承知している面々は、それ以上無駄な時間を過ごすほど暇ではないと各々の執務室へと引き上げていったのである。週末に首座の生誕を控えたその週の残りの日々は、特に目立った事件もなく平穏に過ぎていった。
翌日が彼の生誕となる金の曜日の夕刻、ジュリアスは一枚の書簡を懐に闇の館を訪ねた。守護聖の執務と王立研究院の通常業務は月の曜日から金の曜日までを一つの括りとし、週末に当たる土と日の曜日は基本的に休業日となる。週の初めに申し渡されたクラヴィスの謹慎は、この日の終業時刻である午後五時をもって解かれた事になる。首座であるジュリアスはその由を認めた書簡を件の守護聖に届けるべく私邸を訪ねたのだ。
周囲がどの様に見ているかは別として、既に定時を過ぎた時刻である。ジュリアスがその紙片を相手に渡し、口頭で謹慎は現時刻を持ち効力を解かれたと宣言すればその日の業務は全て終わる。そのあと首座が館の主と休日を如何に過ごそうが誰に咎め立てされるわけもなかった。主は私室に居ると聞いた首座は軽く頷くとそのまま長い廊下の先にあるその部屋に向かった。相変わらず灯りを落とした廊下に並ぶ幾つもの扉を過ぎて、目指す一つを軽く叩いた。
果たして入れと言ったのか、それとも別の何かを発したのかも聞き取れない特有の声音に招かれジュリアスは静かに室内へと入っていった。クラヴィスは壁際に寄せて置かれた寝椅子にだらしなく横になったまま顔だけを向けて『来たのか…。』と小さく笑った。ジュリアスは携えた書簡を広げクラヴィスに示す。
「これをそなたに伝えるまで、本日の執務は終わらぬ。」
そう言えば未だ彼は執務服を纏っていると気付いたクラヴィスが今度は面白そうな表情を浮かべながらも起き上がる素振りを見せぬので首座は肩を竦めて起きろと言った。渋々の体で寝椅子に座るクラヴィスにジュリアスは良く通る守護聖然とした声で次のように伝えるのだった。
「火の曜日に発令された闇の守護聖クラヴィスの謹慎を、現時刻をもって解くものとする。」
言い終わると手にした書簡をテーブルの上に乗せ、署名欄に確かに受けた由のサインをしろと命じた。のろのろと立ち上がり、部屋の奥に置かれた小振りの棚からペンを取ったクラヴィスが署名を行う様を眺めていたジュリアスは、やっと全てが終わったとでも言いたげに細く息を吐いた。テーブルから書簡を拾い、書かれたサインを確認する。丁寧にそれを畳み、指定のファイルに収めたのち彼はテーブルの中央にそっと置いた。
不意に衣擦れが発った。ジュリアスが気付いた時既に彼の直ぐ傍らにクラヴィスが立つ。ついと上がる腕を何するでもなく見遣れば、長い指が彼の額から紺碧を埋めた戒めを外した。ハラリと髪が落ち、それが合図でもあるかにジュリアスが瞳を閉じた。口付けは一度だけで、しかし理性を崩す間際まで深く重なり貪り合う。舌の絡まる密やかに淫らな音が湿り気を伴って互いの耳に忍び込んだ。クラヴィスが捉えた舌を強く吸うたび、背に廻された細い指先が黒色の衣装に幾つもの皺を刻む。漸く離れた時、呼吸を求めて戦慄いた唇は濡れた朱に染まっていた。ジュリアスから安堵にも似たため息が零れた。
「食事は…?」
「まだだ。」
宮殿から直行したのである。そんな当たり前の事を聞くなと空色の瞳がキリとクラヴィスを睨む。
「用意してある。」
ダイニングに移動するのだと扉に向かう黒衣の背が言っている。ジュリアスもその後に従おうとしたその時、振り返りもせずクラヴィスが続く者に手を差し出した。幾ら広い屋敷だといえ、子供でもあるまいし手など繋いで行くなど馬鹿らしい事だ。ジュリアスは誘う掌と長くしなやかな指を、呆れた顔で見ていた。ほっそりとした手がゆらゆらと揺れる。早くしろと催促している様であった。口の端を僅かに引き上げ、仄かな笑みを刻んだジュリアスは己を待つそれに自らの指を絡めた。
食事の始まった頃、オードブルがテーブルに置かれた時に一度尋ねた。
「何の為に次元回廊を使ったのか、まだ教えては貰えぬのか?」
皿の上に小さく並ぶ色彩をホークの先で崩しながらクラヴィスは『未だだ。』とだけ返した。
「何時なら…?」
ジュリアスは優雅に両手を動かしながらそう問うた。
「後で……。」
その後、この話題が食卓の上を行き交う事はなかった。食後のカップを口に運びながらジュリアスが物問いたげな眼差しを送って来たと気付いたが、クラヴィスはそれを無視した。ダイニングルームから私室に戻る時、廊下に出たクラヴィスの腕に華奢な指先が触れて、そのまま彼の手を握ってきた。顔を巡らせすぐ後に居るその人を見れば、悪戯な笑顔を浮かべたジュリアスと目があった。そのまま彼らは手を繋いでクラヴィスの私室へと帰っていった。
各々が定位置に腰を下ろす。ジュリアスは本当は今すぐにでも尋ねたいそれを、すっかり忘れてしまった顔を作っている。教えて欲しい、教えてくれ、教えろは禁句かもしれない。この状況なら、クラヴィスがそろそろ頃合いかと思うまで待つのが賢明なのだ。別段彼が言い渋っているのではないのは分かっている。単にこの幼少から時を共にする寡黙な男は、相手がジュリアスに限り時によると恐ろしくクダラナイ子供だましの仕掛けを試そうとしたがる。ジュリアスがそれにどう反応するかが面白くてしかたないらしい。週の初めに『謹慎』を言い渡された時、彼の濃紫にどれ程の感情が浮かんだかをジュリアスは知っていた。クラヴィスは予定外の処罰を含めて現時点の状況をたいへん楽しんでいる。彼が手品師よろしくその種明かしをするまで観客はクラヴィスの袖の内に仕込んだ兎やら鳩やらを覗き込んだり、まして見せろなどと言ってはならないのだ。
素知らぬ顔を崩さぬよう平然を装うジュリアスが焦れ始めているのが窺える。本人は全く気づいていないらしいが、彼は己では解決できぬ何某かを胸に納めた時、それが聖地を揺るがす凶事であるかはたまた彼個人の端から見れば子細な迷いであっても、無意識に細い指先で唇に触れる癖がある。いつの頃からの事かクラヴィスも覚えてはいない。けれど、それはジュリアスが確かに思いを持て余している証拠であった。もう少し焦らしても良いかと迷う。いや、今が頃合いだと長きを共にしたクラヴィスの経験が小さく囁いた。彼は掛けていた椅子から立ち上がると何を発するでもなく、続く奥の間に消えていった。再び戻って来るまでの数分、ジュリアスは隣室へと繋がる扉から目を離すことなく待っているしかなかった。
間もなく部屋に現れたその手には大振りの瓶が握られていた。ワインのそれよりも大きい。漆黒の色ガラスで出来た瓶の中身は容易には知れない。テーブルの上に置いた時、ゴトリと重量を感じさせる音が鳴った。
「これは…?」
振り仰ぐ蒼天の瞳が怪訝さを満たしてクラヴィスを捉える。
「これを求める為にアレを使った。」
答えを紡ぐ口元には苦い笑みが浮かぶ。ジュリアスは心から呆れた風に頭(かぶり)を振った。それは彼だけの反応では無かっただろう。この場にもし他の者が同席したならきっと同じ様に呆れ果てた表情を面に貼り付け、どうしようもないとでも言いたげに溜息の一つも落とした筈である。
「こんな物を求めるだけに次元回廊を開いたのか?」
「……ああ。」
どうも具合が悪い。雲行きは果てしなく良くない方に向かっているとクラヴィスは殊更に小さく返した。
「これにどれ程の価値があるのか…、私には全く見当も付かぬが…。」
呆れてはいたが怒りはなかった。もし此処が宮殿の、仮にどちらかの執務室で、彼らが正衣を纏っていたらな話は別だが、今は違う。ジュリアスは相変わらず訝しげな顔をしてはいるが、眼前でばつの悪そうに自分に視線を送る相手を叱りつける気もなければ、声を荒げてその失態を糾弾する気もない。ただ、その先が続くのを待った。
「ルヴァの処で見つけたのだ。」
常と変わらぬ話の本筋から幾分外れた辺りから話し始めるクラヴィスの言葉に軽く頷きつつ、ジュリアスはテーブルに乗った不可思議な瓶を見つめた。
主星系のそれは真に最端に当たるであろう極小さな惑星は、宇宙の大移動よりずっと以前からその空間に存在した。鉱物を多く算出する惑星の主なる構成物質は当たり前であるが鉱石を多量に含む綱土である。住める民が口にする食物の殆どを他惑星に求めるように、其処では農耕は行われてはおらず主産業は鉄鉱石などの輸出であった。ただ一つだけ細々と作られる生産品がその瓶の中身なのである。地中深くより汲み出される飲料水は鉱物質を含む為、そのままでは摂取には不向きであり、それ故に古くから独特の方法で濾過された後に飲料として供給されている。
ほぼ自給料だけを賄う少量の酒精も生産されている。農耕には適さない痩せた土地で唯一作られる果実を利用して醸造された酒精は最後に炭酸を注入して瓶に詰められるのである。
「恐らく、そうしなければ口当たりが悪いのだろうとルヴァが言っていた。」
硬水特有の癖を消す目的で加えられる炭酸が何の変哲もない液体に不思議な作用をもたらすらしい。いつの間にかクラヴィスは細く背の高いグラスを二つ手にしていた。慣れた手つきで封を開ける。コルクの爆ぜる音が響いた。わき上がる白い泡をゆっくりと拭うと並べたグラスにそれを注いだ。グラスを満たす薄黄味がかった液体に目を遣りジュリアスはいかにも腑に落ちぬとまゆを潜める。
「これが?」
クラヴィスは頷きつつグラスを取り、ジュリアスの前に置かれたままのそれに軽く当てる。乾いた高音が一つ鳴った。そのまま一口を含み、間をおかず全てを飲み干した。
「…ふむ。」
柳眉を上げる様が果たして何を意味するのかが計れなかった。ジュリアスもやや遅れて口元に運び、一度香を試してから一口をつけた。
「別段、変わった風味には思えぬが…。」
強いて言えば飲み込んだ後に苦みにも似た硬水の後味が残るくらいだ。
「特に美味くもない…か。」
クラヴィスは独り言のように呟いた。
「こんな珍しくもない酒で謹慎を喰らったとは…。」
ジュリアスが肩を震わせ失笑を洩らす。何か反論が上がるかと思ったが彼は無言のままついと腕を伸ばし、置かれた瓶を持ち上げた。ジュリアスの眼前に翳し『見てみろ…』とだけ述べる。
黒い色ガラスは室内灯の光を僅かに通している。透かし中を覗くと黒色の空間に細かな光の粒が踊っている。不思議な事にグラスに注がれた同じ液体にそれらは見られぬ。ジュリアスは目を見開き数度グラスと瓶の中身を見比べた。
「面白いだろう…?」
「ああ……。」
クラヴィスが漸く仕掛けを明かし始めた。
「水に含まれる鉱物の粒子が炭酸の成分で変化するのだそうだ。」
ならば何故グラスの中では見えないのかとジュリアスが問い返そうとするのを知ってか、次を己の杯に流し入れながらクラヴィスが続きを発した。いつになく雄弁だと彼は言葉を紡ぐ薄唇に視線を貼り付けた。
「液体に散らばる粒子が小さすぎるのだ。」
だから例え柔らかな室内の明かりを受けても煌めかず、落ちる光の内に埋没してしまうのだと言う。黒色の硝子を通過する光線は内部に届く前にずっとその輝きを抑えられ、それ故に粒子も微かな光源を纏いキラキラと舞い踊るのである。納得したとばかりにジュリアスが言を零す。
「なるほど…。」
言いながら彼は未だ合点のゆかぬもう一つの疑問を口にした。
「確かに珍しくはある。滅多に見られぬ物であろうが…。しかし、そなたが負った罰には見合わぬのではないか?」
「まぁ……な。」
「次元回廊を開いて赴くだけの謂われが他にもあるのか?」
「いや……。」
クラヴィスは笑っていた。笑いながらさらりとこんな事を言う。
「偶々だった…。」
「偶々?」
「所用で院に詰めていた。それも終わり屋敷に戻ろうと回廊に出た時…。あれを使えば簡単に行って戻れると思った。時間も遅く、職員も殆ど残って居ない。酒を所望し、直ぐに帰れば……。」
「誰にも見とがめられぬと思ったか?」
「そんなところだ。」
ジュリアスは何とも言えぬ表情を作る。馬鹿らしい、呆れかえる、凡そ子供じみた、けれどクラヴィスならあり得る。普段、書類への署名一つも億劫だと先延ばしにする者と同じ人間とは考えられぬ。だが思い立てば即座に動くのもこの男の質である。しかし、まだジュリアスが大きく頷くには足りないものがあった。思いつきで行動するかの彼ではあるが、その実もたらされる結果を既に見切っているのもクラヴィスなのだ。まさか、万に一つの咎めもないなどと本気で信じたとは考えがたい。
「あれを開けば履歴が残るのを知らなかったとは言わせぬが?」
「ほんの僅かな時間なら問題もなかろうと思ったのだが…な。」
「どういう意味だ?」
「始終ではないが、希に座標を入れ違う事もあろうと考えた。」
それは確かにあり得る。有ってはならぬのは承知している。誰もがそんな事は分かり切っている。が、入力座標を一桁でも入れ違えば全く予定とはかけ離れた場所に扉が開く。但し、そこをくぐり思いも寄らぬ惑星に誰ぞかを送ってしまわぬ為の設備も施されているのだ。出口側の扉が開く前に操作パネルには指定座標から割り出された所在地の名称が殊更に明確な文字で表される仕組みなのである。それすら確認せずに先を開く者などいない。
「間違えに気づき、扉を閉じるにかかる時間で戻れると踏んだのだな?」
「そうだ…。」
「だが、偶々監視モニタの前に誰かが居た。」
「らしい…な。」
ジュリアスが堪らぬと声を発てて笑った。
「そなたの思惑はまんまと外れた訳だ。」
「いや…、そうでもない。」
訝しげにジュリアスの眉が上がった。
「仮に見とがめられたとして…。せいぜいお前の小言を小一時間きかされるか、蟄居を命ぜられるくらいの事だと考えた。」
「その通りになったな…。」
「週の残りをのんびりと過ごせた。」
流石にこれにはジュリアスも笑いを収め、やれやれとばかりに大きく嘆息したのである。
腹に収めた夕食も適度にこなれ、大して美味くはないが口当たりの軽い酒精を飲む。仕掛けを明かされれば、全く持ってくだらないの一言であったが翌日が休日だとした気の緩みも手伝って普段なら節度をわきまえるジュリアスも流されるかに杯を重ねた。他愛もない会話が珍しく途切れもせずに続いている。
「ところで…。」
ふと思いついた風にジュリアスが話題を変える。クラヴィスはなにやら満足そうに白皙を崩しつつ、先を待った。
「この酒が今年の生誕の品か?」
「いや、違う。」
それはおかしな事だとジュリアスが瞳で語る。最初にクラヴィスの失態の事実を確認に行った折り、彼は確かに生誕に関わると言っていた。だから訝しいと眉根を寄せるのだ。
「最初は…そうも考えた。」
しかし、手に入れようと出入りの商人に調べさせたところ件の品は対外交易には出されておらず、八方手を尽くしてみたのだが直接出向いて求めなければ入手は不可能だと知らされた。
「そうなると…何としても見たくなった。」
結局自分が見てみたいとする望みが高じてあの所業に及んだらしい。その時点で既にジュリアスの生誕云々はどうでも良くなっていたとみえる。
「随分とあれにご執心だった言うことか…。」
酔いが程良く廻ったのか、ジュリアスの言葉尻が幾分怪しくなっている。そんな様を眺め、クラヴィスはまた口の端を緩めた。
実のところ興味を持ったのはルヴァの蔵書に書かれていた「外部からの直接光を遮った一種闇夜を思わせる空間に舞い踊る光の粒…」と言う一節を読んだからである。暗がりにあってこそ煌めく光をその目で見たいとする欲求と、閨所にあり互いに躯を繋げたその時室内にただ一つ灯された仄明かりを受け生き物の様にうねるあの金絹を重ね想ったのもあった。『闇にありて尚も輝く』それを彼の者の生誕にとした思惑がなかったかと問われれば否と言う他ない。だが、どれが真意かと更に問われてもクラヴィス自身、一体何故にあれほど拘ったのかは今になっても判然としないのだった。
ところがこの子供だましと一笑に伏される一本の酒が思いも寄らぬ魅景を運んで来た。蟄居を命ぜられ顔を合わせる機会が殊の外少なかったからかもしれぬ。また、今が大いなる平穏に満たされており、ジュリアスに掛かる責の重さが以前とは比較にならぬくらいに軽減しているからかもしれなかった。もしかしたら決して表面には現すなどしないが、こうして今年も同じ地で生誕の日を迎えられた安堵と幾ばくかの幸を感じているのかもしれない。ジュリアスが彼にしては大層珍しく声を上げて笑い、目眩く表情を変え、何より心のままに振る舞っているのである。呆れたと顔を顰め、馬鹿馬鹿しいと鼻先に薄い皺を寄せ、驚いたと目を丸くし、美しいと半ば心を奪われたかに目を細める。そしてクラヴィスの発する一言を拾い子供の様に笑う。
彼が彼で在って欲しい……。これは常にクラヴィスが抱く願望である。宇宙だとか聖地だとか世界だとか、そうした諸々の柵がジュリアスの心を縛り魂を蹂躙し守護聖と言う名の鎖で拘束する。彼がいくら当たり前の顔を作り、受け入れ、その身を捧げようとも、内にひた隠す自由な心根を消し去るなど出来ない。身に宿り、クラヴィスにしてみれば悪の根元とも思えるサクリアに翻弄されながらも、希に彼が見せる本来の姿をもっと顕わにして欲しいと望んでいるのだ。ジュリアスの笑顔が好きだ。彼の纏う其れが光りであるからではなく、ジュリアスが持ちうる真っ直ぐで翳りのない本来の姿を映したかの眩しい笑顔が好きなのだ。幼い頃、いつも後ろを歩くクラヴィスに腕を差し伸べる時のキラキラと輝く笑みをずっと見ていたかった。液体に散らばる鉱物の破片が引き起こす化学変化でしかない其れが、そんな彼の願いを叶えてくれるとは全く思いも寄らない事であった。
自身が思うよりずっと酔いが廻っているのだと立ち上がったクラヴィスは軽くふらついた足を踏みしめそう実感した。そして椅子に掛け、ゆるりと近寄る自分をどこかぼんやりとした眼差しで見つめるジュリアスもきっとかなり酔っているのだろうと思った。
跪き、身を寄せて抱き締めた時、ジュリアスが薄い吐息を漏らした。触れるだけの口づけが瞬く間に隠微な音を発て始める。絡め合う舌がそれ以上の何かを連想させ、何かに憑かれたかに正装の隙間から手を忍び込ませた。幾枚も重なる絹布を指が器用に剥がし、僅かに覗く素肌に唇を押しつけた。唇を離せば其処に刻まれたのは朱ではない。深く強欲な紅がクラヴィスの欲望の形をなし透け白さに徴と残る。黒髪をかき乱す指先が細かく震え、既に勃ちあがった胸の突起に歯を当てれば、微かな呻きが頭上から落ちた。もう、堕ちてゆく先は一つしかなかった。
「あぁぁぁ………。」
貫かれた躯を激しく揺さぶられ天を仰ぐほども背を撓らせたジュリアスから止めどない声が上がる。腰から下が熔けてしまったように痺れて感覚がない。ところがその内部は気が狂うほども感じており、含んだ肉塊がほんの数ミリ動いただけで背を駆け上がる情動の波をもう幾らも耐えるなど不可能に思えた。そんなジュリアスの焦燥など知らぬとばかりに、今度は僅かに引いた根芯を激しく衝き入れ、受けた衝撃に竦む躯を無慈悲に揺すり上げる。それは熱に満ちた内部を抉るほども掻き乱し、ジュリアスは襲い来る凶器にも似た歓喜の波動を逃そうと両の手にこの上もない力を込めた。肌に深く爪が食い込みクラヴィスは短い苦痛の音を発した。それでも全てを逃しきれず、立てた両膝がガクガクと震え始める。閉じ忘れた唇から絶え間ない喘ぎが溢れ出た。
きつく瞑る瞳が不意に開き、其処には天蓋の内に描かれた天上人の姿が飛び込んだはずである。けれど見開いた蒼色が果たしてそれらを認識しているかは怪しい。実際重い瞼を上げた途端、彼の視界は大きく回り例え何かを映していたとしても何某かなど分かりはしなかったろう。自身で上体を支えるも不可能であった。背骨が軋みを上げるかと疑うくらいジュリアスは半身を更に仰け反らせる。己が辛いのか苦しいのか、それとも快感に犯されているのか歓喜に震えているのかさえ判断できない。ただ躯の芯が途方もなく熱く、幾ら息を吸い込んでも虚しく喉が鳴るだけで肺は微塵も満たされる事はなかった。
今にも後方に倒れそうな躯を引き寄せると、ジュリアスはがくりと迎える腕の中に崩れ落ちる。強く抱き締めんとしたクラヴィスの動きが、彼を締め付ける内壁に更なる刺激を伝えてしまったに違いない。短い悲鳴が上がった。腕に抱く全身が激しく痙攣したと思う間もなく、クラヴィスを包む内部に収縮による巨大なうねりが起きた。
クラヴィス…と呼ばれた気がした。ジュリアスの濡れて艶やかな朱に染まる唇がそう言った様に感じたのは錯覚だったのだろうか。何かを返そうと息を吸い込んだ時、最後の波がクラヴィスを襲い埋めた体内に灼熱の滾りを解きはなった。
廻した腕を引くと、温もりが何の抵抗もなく胸に触れてきた。静寂の戻った室内に時を刻む音だけが鳴っている。永遠とも思えるそれが、一体あの後どれほどの時間を印したのかが気になりクラヴィスは少し頭をもたげ寝台の脇に目を遣った。しかし、其処に在る筈の時計も部屋に降りた薄闇に溶けてうっすらとも見えはしない。諦めてまた枕に頭を沈めると小さな声が囁いた。
「……どうした?」
「いや、時間を確かめようとしたのだが…。」
「何時だったのだ?」
「暗くて…良く見えなかった。」
ジュリアスにしてみれば今が何時などと知るつもりもなかったのだろう。そうか…と呟き、静かに瞳を閉じた。クラヴィスの背にあった腕から力が抜けるまで、それほど長くは掛からなかった。また先に眠ってしまったかなどと、呟くかに苦言を零しながらシーツに広がる黄金の波に指を滑らせる。酔っていたとは言え、今宵は幾度彼を貫いたのだろうかと思えば苦い笑いが浮かんだ。
どれほど躯を繋いだとしても、身のうちにあの熱塊を衝き入れられるのが苦しくない訳などない。声を殺し、その苦痛に耐える様にさえ高ぶる自分を恥じたこともあった。だが、胸に吹き込む明日への朧気な不安をぬぐい去る術を未だ知らぬ互いは、ああして狂った様に欲望を与えあうしかないのである。それとて、緩慢に流れるこの地の時間にすれば瞬くより僅かな刹那でしかない。ジュリアスが微かに身じろぎ、つられ蜜色の波がふわりと揺れた。明かりを落とした暗がりの中でも、其れは変わらぬ煌めきを放ち見つめる濃紫を魅了する。あれほど執拗に求め、禁忌さえ破って手に入れんとした己の欲はいったい何だったのだろうとクラヴィスは自問する。闇にあって尚も輝く光の乱舞を何故欲したのかは未だ解せぬ。閉塞された空間に舞う煌めきの粒は確かに美しく、仮に真昼にあっても眺め愛で得るを望んだのだろうか?
それとも……。
明日さえ知れぬ互いの日々を何かの形に変えてつかの間の安堵を手にしようとしたかもしれない。次の生誕を共に祝える保証など何処にもないのだと知っているから。
『違う…な。』
自分も眠ってしまおうと上掛けを引き上げながらクラヴィスは声にせずそう言った。禁忌すら恐れず、真に欲する何かを求めれば其れは不可能ではないのだと自らに確信させたかったのではないか?宇宙の定めや、守護聖の理を覆せる事実が欲しかったに違いない。いつか訪れるその日の為に、取るに足りぬ足掻きを形にしたいと望んだのである。
静かに下ろした瞼の裏に、外界への扉をくぐる己の姿が浮かぶ。その手には確かな輝きが抱かれていた。それが都合の良い幻想なのか、それとも確かな真実になるのかは誰にも断言などできない。が、不確かな可能性を確固たる現実にする為の小さな鍵が見つかった気がした。
『そんな事をすれば…、どれ程の小言を言われるか知れぬが…な。』
柔らかな頬に唇を落とすと、彼はそんな言葉を口にした。
了