*Farther*

思い出という記憶の話

朝はどんな場所にもやって来る。陽の光はこの殺風景な部屋にも射し入る。
ベッドの置かれたすぐ脇に小振りの出窓がある。何故かカーテンは掛かっていない。
薄い朝日はそこに横になる男の上にも遠慮なく降り注いでいた。
瞼が微かに震え、ソロソロと開き不思議な色の瞳が現れた。
その時、彼の目尻から一筋の涙が零れた。それが頬を伝いながら光を受け、キラと輝いた。
男はゆっくりと身を起こす。
恐らく、もうずっと長いこと同じようにしてきたと思われる仕草で両足を床に降ろし、そのままスッと立ち上がり寝床を離れた。
無造作に椅子に置かれた衣服に着替える時も彼の顔には何の感情も表れず、あの涙の理由(わけ)を図ることも出来ない。
部屋を横切り男は隣室へと消えていった。
身に付けた淡い砂色の衣服がハラリと揺れる。背に垂らした黒髪は肩の少し下あたりで切りそろえられていた。
朝の光は溢れるほども輝き、今は誰も居ない寝室に温もりを運んだ。



木漏れ日の中を男は歩いている。
常緑樹と思われる木々が道の両側に並び、甘い若葉の香に包まれ男は前を見据えたまま歩き続ける。
小径は間もなく二手に分かれる。二筋に伸びる先に数度視線を運び彼はどちらに行こうかと僅かの間考えていた。
そして左の道を選んだ。その先には池がある。
昨日も、その前も男はこの道を選んだ。先に池のある小径を。
もしかしたら彼は決めていたのかも知れない。池に続く道を行こうと。
何故なら彼は昨日も、その前の日も、この地にやって来てからずっと同じ道を選んできたからだ。
男の艶やかな髪に木々の間から洩れる陽の光が絡み、まるで濡れた様な黒に見えた。肩の下あたりで揃えられたそれが今は細い紐で一つに束ねられていた。
道の少し先から歩いてくる人が見えた。その人は老齢の男性で真っ白な服を着ていた。
男性は幾分ノンビリとした歩調で男の来た方に向かい歩いて来る。
そして二人がすれ違う時、老人はにこやかに笑んで「おはようございます。」と声を掛けた。男は笑みこそ浮かべなかったが丁寧に頭を下げ、「おはようございます。」と返した。そのまま同じ足取りでそれぞれの先に向かい離れていった。
道の先には池がある。其処には白や薄桃色の花が咲いている。
男は相変わらず真っ直ぐ前を見据えたまま木漏れ日の中を歩いて行く。



池は木立の切れた先にあった。大きな池である。水面にも光が落ち、細かな煌めきが揺れていた。
男は池の縁に立ち、一度辺りをぐるりと見渡した。
昨日と、その前の日と、この地に来てからずっと変わらぬ眺めが在った。
一頻りそうしていた男は不意にその場に腰を下ろした。
両足を組み、膝の上に軽く手を置いて今度は頭上に広がる蒼い空に視線を移した。上空にも風はないようで、幾つも浮かぶ雲は同じ形のまま動く様子もない。
顔を上に向け、それらをじっと見つめたいた男は、まるで吸い込まれそうだと声に出さず呟いた。
空を眺めながら彼は今朝方に見た夢を思い出す。
彼はもうずっと長いこと同じ夢しか見ていなかった。同じ夢しか知らなかった。
鬱蒼とした森を拝した、其処は庭と思える場所であった。
真昼の光に溢れた庭には日溜まりがあった。
人が一人佇んでいて、しかしその人は男に背を向けている。
腰に届くほども長い髪が揺れていて、波打つそれ自身が光を放っていると思えるくらい美しい黄金色に輝いていた。
純白の衣装を纏うその人が男なのか女なのか分からなかったが、ゆったりとした薄い布越しに窺える身体の線から男性ではないかと思われた。
光の庭に風が吹き抜ける。蜜色の髪が巻上がり、その人がふと男を振り返る。
夢はいつもそこで終わる。
だから、その人がどんな顔なのかを男は知らない。
それが誰なのか、何処に居るのか、何と言う名なのかも彼は知らなかった。
いや、嘗て男が名を持ち、恋人や友人らと生を生きていた頃は知っていた筈だ。
しかし、彼はこの地に来た時にそれらを無くした。
正確に述べれば、この地の入り口にある受付の様な場所で彼はそれまで持っていた全てを返した。
差し出された真っ白い紙に自分の名前を記した途端、彼は名前も持ち物も思い出も何もかもを失い、この後開ける新しい生を受け入れる準備に入ったのだ。
名を記した紙片を受け取った役人風の男がこう言った。
「一つだけ持っていけるものを選んで下さい。」
思い出か持ち物か、それとも身体の特徴か、何れか一つを持っていくことが出来るのだと言いながら、受付の男性はどれを望むかと訊ねた。
男はほんの少し考えて瞳の色をと答えた。
彼の瞳はとても不思議な色で、日が沈む刹那の空にも似た深い紫であった。
自分はこの瞳の色を持っていきたいと望み、受付の役人はそれを承認した。
持っていけるのは、たった一つの筈だった。
それなのに男はもう一つ思い出を残してしまっていた。
ある朝見た夢が残ってしまった思い出なのだと、彼の話を聞いた世話役の若い男が教えてくれた。
ごく希にあるのだと言っていた。
自身は手放したはずが、心の奥底に刻まれた忘れたくない記憶が消えずに残るのだと世話役は説明し、それが薄れいつしか無くなるまで新たな扉は開かれないと少し残念そうに語っていた。
だから男は随分と長い間、この地で思い出が消えるのを待っている。
別に彼はその記憶が消えるのを拒んでいるつもりはない。
そのつもりもないのに、何故か記憶は少しも薄れてはいかなかった。
今朝も彼は同じ夢を見た。そして、目が覚めると必ず涙が一滴零れていた。
どうして自分が涙を流すのかも分からなかった。
夢はとても美しく、決して哀しい思い出には思えなかったからだ。



「おはようございます。」
空にあった視線を水面に落とし、そんな事を考えていると後から声が聞こえた。
声の主は彼の世話係を受け持つ青年だった。
「また、此処にいらしたんですね。」
にこやかに笑いながら青年は男の隣りに腰を下ろした。
おはようございますと返した後、男は小さな声でええ…と答えた。
「また、夢を見ましたか?」
青年は男の顔を覗き込んで訊ねた。
男は軽く頷いてみせた。
「そうですか…。」
世話係はやはり残念そうに言いながら「消してしまう事もできますよ。」と、今度は池に浮かぶ白い花に顔を向けて静かに告げた。
男は何も答えなかった。
それは今までに何度も言われた事だった。
どうしても消えない記憶は存在し、いくら待っても新しい扉を開けない場合に、本人が希望すれば作為的に記憶を消し去ることも出来るのだ。
男がこの地に来てから、大層長い時間が過ぎている。
そろそろ、頃合いではないのかと周囲から言われ、男もそうかもしれないと思った事もある。
しかし、思い出を消してしまうのには、どうしても首を縦に振れなかった。
今も彼は黙ったまま、良いとも悪いとも答えない。
「貴方が望めば…の話ですが。」
何も言わない男を気遣って青年はすまなそうに微笑んだ。
視線を水面から青年の顔に移して男は押さえた声音で、
「もう少し…待ってみます。」
そう言って本当に微かな笑みを浮かべた。
「そうですね。消してしまうのはいつでも出来ますから。」
世話係は立ち上がりながら一度伸びをして、それでは…と言って歩み去った。



再び一人になった男はこんなことを考えた。
もしかしたら、今も何処かにあの夢の中の人がいて、光の庭に立っているのではないだろうか。
そして、これは恐らく単なる願いか、儚い望みだと分かっているが、その人も自分を同じ様に思いだしているのかもしれない。
だから、この美しく何処か切ない夢が消えないのではないのか。
いつか時が来て、夢も色あせ失っていくのなら、もう少しだけ見ていても良いと思った。
名も知らぬあの人を、あと僅かの間だけでも。



空の高見から鳥の音が聞こえる。
振り仰ぐと頭上に広がる紺碧があまりに鮮やかで、男は吸い込まれそうだと小さく呟いた。
緩い風が吹き抜ける。
水面にさざ波が立ち、キラキラと輝く光が踊る。
男はゆるりと立ち上がると、来た道を戻って行く。
長身の影が木立の中に消えて行った。





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