*Esta lloviendo*
退任モノ/舞台はアルゼンチン
その朝、ジュリアスは何時になく緊張した面もちで宮殿の回廊を急いでいた。
誰よりも早く出仕したのは言うまでもなく、自身の執務室へと出向いたあと直ぐさま王立研究院へと足を運び、用件 を伝えた後に女王への謁見を行い、漸く昼も間近になった頃自室へ戻ると思われた彼は、執務室の前を素通りして隣 接する闇の執務室を訪ねたのであった。
見慣れた扉を叩く折り、もしも部屋の主が未だ出てきて居らぬならこのまま彼の屋敷へと出向く所存だった。だが幸いにも室内から返答がある。彼にしては珍しくぞんざいとも思える所作で扉を開けた。
「何だ…、お前か。」
扉の音がした時点で来訪者が誰であるかを知っていたにも拘わらずクラヴィスはそう言った。ズカズカと踏み入って 来た相手に、面倒くささをあからさまにした顔を向けて用向きを訊ねる。が、ジュリアスはキリと口元を引き結んで直ぐには何某かを発しなかった。
「恐ろしい顔だな…?」
くっと喉の奥を震わせて笑う。けれどジュリアスはそれにも全く反応を示さない。デスクの真ん前に仁王立ちした彼が漸く口を開いた。
「クラヴィス、たった今次代の手配を済ませてきた。」
重苦しい声音だった。クラヴィスは半瞬だけ狐に摘まれた風の驚嘆を浮かべたが、直ぐさま普段と変わらぬ興味のなさを取り戻し、ジュリアスの双眸をしかと捉えてこう言った。
「偶然だな。わたしもだ…。」
今度はジュリアスが動きを止める。唖然としたのか、呆然としたのか、彼は暫くの間木偶の坊の如く突っ立ったままとなる。
「今…、何と言った?」
精々数分だったろうが、ようやっと口を開いた彼から出たのは信じられない心持ちを如実に顕すそんな台詞だった。
「だから、わたしも同じだ。先ほど次代の手配を依頼してきた。」
「そなたも…、次代を?」
「ああ…。」
不意にジュリアスの顔に疑の色が射す。怒りまではいかぬ、強いて言えば苛立ちに近い其れは瞬く間に彼の愁眉を寄せる元となった。
「クラヴィス、私はそなたの質の悪い冗談に付き合う気分ではないのだ。」
言い終わるやいなや深い嘆息が落ちる。するとクラヴィスが語気を強め言い返した。
「冗談でも虚言でもない。昨日の夜半、サクリアに翳りが降りた。」
「真…なのか?」
「当たり前だ。」
こんな事を冗談で言うかとクラヴィスは鼻白んだ。済まなかったとジュリアスが神妙な顔をする。再び彼らは見つめ合い、先ほどより幾分長い間何も発しなかった。
安堵を含んだ長い息を吐いたのはジュリアスで、それを拾ったクラヴィスが薄い笑みを浮かべた。聖地に遠き古より語り伝えられる一つの噂。『光と闇は表裏一体。互いに引き合い、互いを疎む。光が翳ればその時闇が、そして其の逆もまた確かな真。』確実に在る「約束の日」を思うたび、彼らは幾度胸の内で唱えたことか。そして今、此の言い伝えが単なる戯れ言でなかったのだと知った。
この日から三月ののち、彼らは並び聖地の門より外界へと放たれる。只人となり、終生を共に在る為に。
雨が降っている。この貧相な街に足を踏み入れる前から、雨は止むことを忘れたかに降っていた。霧雨と呼ぶほど細かくもなく、しかし夕立のような強さはなく、まして嵐の如き猛々しさもない。空間をびっしりと埋めるような、そんな雨である。
クラヴィスは木製の椅子に掛け、外を眺めている。ジュリアスは彼との間に丸い、これも木製の古びたテーブルを挟んでずっと窓外を見つめている男を眺めていた。彼らは待っているのである。本当は今の時間、彼らの在るべきは長距離を行き来するバスの車中であったはずだ。ところが、首都に当たる都市を出て半日ほど走りこの街に入ったところで彼らは降車を余儀なくされた。街を出て数キロ先にある渓谷の道が雨による陥没で通行不能となったらしい。乗ってきたバスは折り返し、街の人間と希望者を首都まで運ぶと教えられた。道路は現在復旧に向け工事の真っ最中だと言う。早口で捲し立てる運転手は首都に戻るならさっさとバスに乗れと待合所に屯する幾人かに大声で伝える。
「どうする?」
ジュリアスは少しだけ不安そうな顔で訊ねた。
「戻っても仕方あるまい。」
そう言い残すと、クラヴィスは固いベンチから腰を上げ人々を急かす運転手に何某かを訊きにいった。土地の言語に堪能でもないくせに、何故か彼は他人と簡単に言葉を交わす。今も、何食わぬ顔で相手と会話を行っている。ジュリアスは其れを見ながら不思議なことだと思っていた。実のところ、ジュリアスはこの地を訪れるに当たり使用言語の基本程度を我流ではあるが調べてあった。簡単な日常会話なら習得していたのである。それなのに、いざ会話を行う段になると文法の誤りやら発音の正誤やらが気になって上手く話せない。
ところがクラヴィスは基本どころか、一体どんな言語が使われているのかも知らずに来た。でも彼は気負うでもなく其処此処で誰かと普通に話している。知らぬ間に学んでいたのかと訊ねたのは、此の地へ入って直ぐのことだった。
『いや、何となく判る…。』
彼は当たり前の顔でそう言った。クラヴィスと己の違いを見せつけられるのはこうした場面だ。彼は流れるかに其の土地の空気を読むように思われる。そしてジュリアスは読むべき空気を見つけるのに苦労する。
そんな事をつらつらと考えているうちに、クラヴィスは用件が済んだらしく戻って来た。
「泊まる事のできる場所は二軒だけだそうだ。一軒は一応のホテル、もう一軒は下がバーの簡易宿らしい。」
「此処で待つのか?」
「道が直ればバスは出ると言われた。」
「首都まで戻って宿を探す方が選択肢は広がると思うが?」
「彼処は五月蠅い。」
好きではないと重ねる。この町から出るつもりがないのだとジュリアスは理解した。既に決めてしまった場合、クラヴィスを説得するのは至極難儀だ。ジュリアスは首都にある快適であろう筈のホテルを諦めることにした。
「行くぞ。」
そうと決まればジュリアスの行動は早い。足下の荷物を引き寄せると、直ぐに立ち上がった。
「何処へ…?」
惚けたようなクラヴィスが惚けた問いを発した。
「宿を決めにだ。」
ああ…、何やら間の抜けた声で応えつつ彼も荷物を手に持った。
それから一時間以上、彼らはうらぶれたバーの片隅に座っている。ホテルの看板を掲げていた宿は全て満室だと断られ、バーの上にあると言う簡易宿に空室を求めると、雨で足止めされた客で客室は満杯だと返された。だが、応対した男は彼らの事情を察したらしく、少し待つなら普段は使っていない部屋を空けてやっても良いと言う。選ぶ余裕はない。通常は空き部屋で、雑多な荷物を置くだけに使用している部屋が片づくのをぼんやりと待つしかなかった。
守護聖を降りた者がその後を如何に過ごすかの明確な決まりはない。親族が残っている場合は其処に身を寄せるだろうし、大概は既に縁者も絶えているがそれでも故郷となる土地に居宅を構える者が多い。全く縁もゆかりもない場所を敢えて選び新たなる人生に踏み出す者もある。それは人の数だけその道があると言うことだ。
ジュリアスは最初からクラヴィスに任せるつもりでいた。確信はなかったが、多分彼なら過ごしやすい穏やかな気候の星を選び、人里から離れた土地に二人で住まうに足る程度の簡素な家宅を構えると言うに違いないと考えていた。ところが、退任を間近に控えたある日ジュリアスがその話しを向けるとクラヴィスは思いも寄らぬ事を口にした。
「暫く、一つ処に止まらずに在ろうかと思っている。」
「居場所を定めぬと言うことか?」
「ああ、家宅を持たず様々な土地を訪ねてみたい…。」
ジュリアスは全く考えもしなかった提案に面食らった。少しの間、次を続けるのを忘れたほどだ。その様子に気づいたクラヴィスが滅多にない怖ず怖ずとした言い様で、
「お前が厭なら…、わたしはお前の良いようにする。」
と顔を覗き込んだ。
良いとか悪いとか、そうした事ではなかった。端から頭の中になかった選択肢を急に持ち出されて驚いただけだ。クラヴィスの突飛な行動や常道からは些か外れた発想には慣れているつもりでいた。が、彼は常にジュリアスの思考を飛び越して先を示してくる。何と応えて良いのかが思いつかず、従って黙り込んだ形になったジュリアスが己の提案に難色を示したと勘違いしたのだろう。クラヴィスは更に神妙な顔でボソリと言を零した。
「やはり、家を探そう…。」
其れが耳に飛び込んだ途端ジュリアスは非常に慌てる。否定したつもりがないから当然であるが、彼は共に此の地を出ると決まってからずっとクラヴィスの意志を優先させたいと願っていたからだ。
もう明確には思い出せぬくらい以前からクラヴィスは聖地から出る事を懇願していた。単なる希望やささやかな夢ではない。彼の内から湧き起こる其れは、ある種逆らえぬ使命にも似ていた。ジュリアスは彼の心が解き放たれぬ現実に軋むのを、幾度耳にしたかしれない。そして其の想いを知っていながら、守護聖の責を枷に気の遠くなる時間、常春の牢獄へと繋ぎ止めてきたのだ。実際にクラヴィスを拘束したものがあるとしたら、宇宙であり女王であり身に宿したサクリアに違いないけれど、誰よりも守護聖で在ろうとした己も彼を留め置いた元凶であると確信していた。だからこそ彼が彼であるよう、思うままに行く事をジュリアスは強く望んだのである。其れを否定などする筈がない。ジュリアスは必死で言葉を探した。
「そうではない、クラヴィス。私は、そなたと共に在れば何処ででも構わぬ。」
一気に吐き出した其れを受けたクラヴィスは些か怪訝そうに相手を見つめていた。だが、この真っ正直が服を着たような男がこんなにも真剣な面もちで発した言葉である。素直にそうかと頷くべきだと察する。それでも未だジュリアスはどこか必死さを漂わせながら続けている。
「そなたの思うままで良い。私はずっとそうすべきだと思っていた。ただ…、あまりにも唐突であったから少し驚いたのだ。」
「良いのか…?」
「当然だ。」
こうして彼らは一つ処に留まらぬ暮らしを選んだ。
外界に降り、この移動を主とする暮らしを始めた当初は列車をその手段としていた。どの惑星に降りるかを選んだのはジュリアスで、彼は主星系でも随分と外れになる小さな星に決めた。大きな二つの大陸が北から南へと繋がって広がる、最も北よりを出発点と定めた。慣れぬ外界で、まして移動を繰り返す毎日に些か不安はあったが、この列車での旅は存外快適なものであった。長距離を走る列車に設けられた個室を利用すれば、ささやかなプライバシーを確立することが出来た。飽きれば展望デッキもあり、食事は専用の車両があり、クラヴィスに合わせてはみたものの、どうしても先の見通せぬ心許なさを拭えなかったジュリアスが一所に寄らぬ生活に慣れる為には最適な選択であったようだ。また北側の大陸では列車のダイヤも驚くほど不規則でなく、幾分の遅れはあったにしても駅舎の待合い室で夜を明かす羽目になったりはしなかった。
ところが南へと下り、大陸を移ると全てが大きく異なってしまう。長距離走行の列車はあったのだが、運行時間が酷くまちまちでガイドブックに示された時刻表は全然役に立たず、直接駅の券売で確認すると予定より数時間もずれがあったりした。特別に急ぐわけではない。けれどこうした状況はジュリアスをとても苛立たせたり或いは意味もなく不安がらせたりした。
「バスで行くか…?」
中継の上手く運ばぬ事が三度続いた時クラヴィスがそう言い出した。確かにバスはあった。長距離とは言っても列車ほど長く乗る事はなく、中途で異なる路線へと簡単に変更できる。南側の大陸は山岳地帯と草原地帯に大きく別れ、山ばかりを越えるルートに飽きれば草原やら海沿いへと向かう路線に切り替えるのも可能だった。但し、その気安さの反対には列車よりも更に時間がルーズであると言う難点がある。
「急ぐ訳でもない。上手く乗り継げなければ停まった土地に暫し留まっても構わぬだろう…。」
ジュリアスの指摘を事も無げにこの一言が納めた。
「そう…だな。急ぐ事などないのだった。」
何もかもをスムーズに進めようと足掻く自分が酷く浅はかに思え、ジュリアスは自嘲にも似た笑いを薄く浮かべて、クラヴィスの意見に頷いたのであった。
最初は勝手が分からず乗り継ぎに手間取ったりもした。闇雲に長い距離を行く便を選んでしまい、二日間夜も硬いシートに座り続ける羽目にもなった。そのうち、幾つかの街を廻る中距離やら短距離の路線を使う方が時間はかかるが、遙かに便がよいのだと知る。宛にならない時刻表に目を通すのを止めたのは、何日目の事だったろうか。思いつきで、名も知らぬ町に降りて、今まで知り得なかった土地土地の習わしを目にしたり、頼りない会話の末に他人の気遣いを感じたこともあった。ジュリアスが腕に嵌めた時計に目を落とす回数の減少を実感したのは、こうした次をその場で決めていく日々を始めて八日を数えた辺りだったと思う。
確かに気持ちは緩やかになった。それでも躯はそれなりに疲労するものだ。この国の首都である都市に入った時、流石にクラヴィスから此処で少しの間宿を取ろうと持ちかけられる。もしも彼が言い出さなければジュリアスは同じ台詞を向けようと考えていた。だから二つ返事で落ち着いた宿を決めた。七日くらいを予定し、形ばかりではあったが観光の真似事をして過ごした。大都市の中、嘗て視察などで出向いた外地とは異なる時間を共に過ごす。
ジュリアスは七日が過ぎても未だ少しの間その都市に居ても良いかと思っていた。が、クラヴィスは違ったらしい。六日目の夜、そろそろ出立したいと洩らした。恐らくジュリアスがもう少し此処に居たいと言えば彼も無理に腰を上げなかったろう。しかしジュリアスは其れを発しなかった。同じ部屋、同じ宿、同じ街に在る間、クラヴィスは大層退屈そうであり、時折どこか空の彼方に目を向ける横顔があの閉ざされた場所に居た彼を思わせたからだ。確とした根拠があるわけではなかった。其れを何某かの形にして表現できるほども判然としてはいない。けれどジュリアスはそんなクラヴィスの様に何かを見た気がしたのだ。それで彼への異論を飲み込んだのである。
巨大なバスステーションから出発した時は晴れていた。だが、街を離れ其程険しくもない丘陵に差し掛かった辺りから雨が降り出した。静かな雨であった。いつ止むとも知れない、ひっそりと全てを濡らす雨の中をバスは走った。
バーの中にはずっと音楽が流れている。何処から聞こえるのかと見回せば、カウンタの上に古びたラジオが乗っていて其処からずっと物悲しいメロディが流れ出ていたのだ。楽曲自体は別段悲しげな旋律ではない。でも耳に染みるそれらが何故か胸の奥まった辺りに届いては切ない気持ちを引き出してくる。草臥れたスピーカーがやけに掠れた音を発てるからか、それとも郷愁を誘う楽器の音色がそう感じさせるのか、窓の外を覆う暗がりに降る雨と相まって、ジュリアスを些か沈んだ気分にさせてならなかった。
することもなく、窓の外から目を外さない相手を眺めているのにも腰の座りの悪さを感じていた。もう一度店内に目線を走らせるとカウンタの横に雑誌の並ぶラックが在り、妙に派手な色彩の表紙を読むとどうやら観光客に向けた広報誌らしい。ジュリアスは徐に腰を上げると、その中から一冊を選び席に戻った。写真をメインとした観光の見所のような記事の載る雑誌をテーブルの上に広げる。バスの車窓から眺めた見覚えのある景観が頁を捲るたびに現れた。
幾枚かを過ぎたところでジュリアスの指が次を繰るのを止めた。頁の中央に一枚の風景写真があり、彼は其れに見入っていた。首都に入る前日か前々日の事だ。夜通しバスに揺られた明け方、パンパと呼ばれる草原の真っ直中にポツンと置き忘れられたかの村があった。彼らは其処で首都へ向かうバスに乗り換える予定だった。村に一つある教会の脇がバスストップで、二人が降り立った時薄く降りていた夜の帳が昇り始めた朝日にゆっくりと切り裂かれていく。地平線まで隈無く見渡せる広大な視界の全てが、大いなる空の営みを映した。群青が徐々に薄まり、高見に残る星の瞬きが見る間に朝の明かりで消されていく。大地との境目が燃える緋色の帯を纏ったと思う間もなく、濡れたかの朱が姿を現した。未だ諦めの悪い夜の端が空にしがみついている。熟れた朱色は、其の最後の足掻きをたおやかに包み込んで、一日の始まりを世界へ知らしめた。荘厳な彼の地の明けとは異なる、もっと生々しくそれでいて慈しむかの大きな夜明けであった。ジュリアスは塗り変わる空の色を、たった一枚のブランケットにクラヴィスとくるまって見つめたのである。昼間はチリチリと大地を灼く太陽の熱のもたらした高すぎる気温で汗ばむくらいだが、一度其れが姿を消すと途端に身震いするほどもの冷気がやってくる。遮蔽物のない草原の上で、鞄から取り出した毛織りの布を纏い躯を寄せ合って突っ立ったまま、ジュリアスは時も忘れ夜が朝へと移りゆく様を眺め続けた。密着したクラヴィスの体温が衣服を越して伝わってきた。間近にある口元から温もりを含んだ呼吸が同じ感覚で頬を撫でる。常に香る焚きしめた香とは異なる、彼の匂いが妙にくっきりと鼻孔を刺激した。不意に躯が震えるほどの何かが胸に昇った。其れは性欲とか感傷とかの確固たる名を持った感情ではなく、もっと曖昧でとても大きな心の驚きのようなものであった。クラヴィスとこの場に居る。そんな当たり前の事を激しく実感していると思えた。
雑誌に印刷されたたった一枚から、記憶に新しいそれらの全てが鮮明な像を結ぶ。あまり一心に見入っていたから、ずっと外を見遣っていた相手が自分へ視線を向けているのにも気づかなかった。
「何が載っている?」
急に話しかけられ、ジュリアスは絵に描いた様に驚いたようで、比喩ではなく本当にビクリと飛び上がった。思わず薄い口元から笑いが洩れた。何を驚いていると揺れる声で訊ねられ、心底照れた彼は怒った風に何でもないと返した。
「ただ、先日の夜明けと良く似た写真があっただけだ。」
そうか…と、今度は穏やかに頬を緩め次いであれは美しかったとクラヴィスは言った。柔らかく細めた眸にも、ジュリアスが描いたのと同じ夜明けが映っていたのかもしれない。数日前のことなのに、彼は随分と懐かしそうな顔をした。クラヴィスの聖地ではあまりお目にかかった事のないこの手の表情を、共に過ごすようになってから屡々目にする。するとジュリアスはどうした理由か不要に胸が騒ぐのである。見てはならないものを眼で捉えてしまったのに似た感じだと言えば良いのか、兎に角躯の深くがゾワゾワと蠢いて居心地が悪くて仕方がないのだ。今も同じざわめきが湧いてきた。だから、何の脈略もなく口を開き訊かずとも良い事を発した。
「そなた、グラスが空になっているな。何か頼むか?同じもので良いならそう言うが?」
「……。」
「どうした?」
「いや…、同じものを…。」
急に訊ねられたからだろう。一瞬怪訝そうに口を閉ざしたが、クラヴィス直ぐに思い直しそう返した。
ジュリアスはカウンタへ振り向き声を掛ける。テーブルの上のグラスを指して同じ物をと注文する。ギシリと椅子が鳴く。バーテンが立ち上がり、了解を仕草で寄越した。瓶を棚から取る。触れあった硝子の硬質な響きがキンと小さく鳴った。
「クラヴィス…。」
微かに空いた空間を埋めるよう、ジュリアスが呼びかける。
「ん…?」
「ずっと何を見ていた?」
「何……とは?」
「其処から外を眺めていて、何が見えたのかと訊いているのだ。」
「ああ…。」
ジュリアスに向けていた顔を一度だけ窓へと戻した後、クラヴィスは僅かに声を落としこんな事を言った。
「お前を…見ていた。」
「え?」
「硝子に映っていたから…。」
今度はジュリアスが次を逸した。其れはそうだろう、窓外に在る何某かを見ているとばかり思っていた相手から実はずっとお前のことを見ていたのだと言われたら、他者はどうか判らないがジュリアスの場合は軽く『そうか。』等とは返せぬのである。もしも逆の立場だったら、彼は決してそなたを見ていたとは言わない。咄嗟に思いついた適当な台詞を向けるだけだ。はっきりとは言わないのは、やはり気恥ずかしさからだと思われる。でも、クラヴィスはこうした事を臆面もなく言ってのける。
「私など見ても…面白くもなかろう。」
視線を泳がせ取り繕うように答えると、聞き慣れた密やかな笑い声が店内に流れ続けるラジオの音に紛れて耳に届く。
「いや、なかなか面白かった…。」
「つまらぬ冗談を…。」
「お前がずっとわたしを見ているのは……。」
「見ているのは、何だ?」
「……楽しい。」
耳がカッと火照るのを感じた。が、ジュリアスは其れまでと同じ普通の素振りを続けた。
「そなたは…可笑しな事を言う。」
自分が盗み見られていたのは癪に障る。少しばかり腹も立った。だが、この不可思議な気分の原因はそうした事ではない。相手が当たり前の顔で「楽しい」などと言うからだ。微塵も巫山戯て居らず、欠片も冗談ではないと判ったからである。己がクラヴィスを見つめている時、其の思考の全部が彼で埋め尽くされている。微かに眉が動けば何を考えているのかと想像し、濃紫の眸が何かを追えば其処に映る物を知りたいと思う。白皙に憂いが昇ればそれを払ってやりたいと願うし、口元を刹那の笑みが掠めれば自分まで嬉しいような気分になる。人は自らを基準に物事を量る生き物だから、彼も硝子に映る己を眺めながら頭の中で同じように思考を動かしていたのではないかと想像してしまうのだ。そんな馬鹿な事は有るはずがないと頭では判っている。クラヴィスは自分とは異なる人間で、きっと自分が彼を想うほども此方の事など想ってはいないと理解しているつもりなのに、もしかしたらと言う意味のない仮想が脳内に浮かび、阿呆らしい其れに反応して頬を赤らめたり慌てたりするのだ。己自身を上手く制する事が出来ず、胸中で狼狽する自分が酷く恥ずかしかった。
「楽しいものは…楽しい。」
ジュリアスの心中などお構いなしにクラヴィスが追い打ちを掛けた。
「もう良い。そなたの悪ふざけに付き合うつもりはない…。」
伏し目がちにそう言うと彼は口を閉ざした。真意こそ分からないが、これ以上続けるのは得策ではないと践んだようでクラヴィスも言葉を納める。少しばかりの静けさが彼らの間に降りてきた。
頃合いを計っていたかである。二人がどちらも口を噤んでしまった途端、カウンタの奥にあるドアが開き男が顔を覗かせた。例の客室をどうにかすると言った男だ。手振りを交えた早口で用意が出来たと伝え、付いてこいと身振りで促す。彼らは若干の気まずさと荷物を手に持ち、男のあとを追った。
確かに急ごしらえなのだと部屋の全てが語っていた。ベッドだけは客用なのだろうが、申し訳に置かれたソファは煤けて所々に染みが滲む。その前に置かれた小振りのテーブルは高さが明らかに釣り合っていない。適当に持ってきたのがありありと判る。しかもご丁寧なことに、何処にも持っていけなかったと思しき荷物が角の方に積まれていた。しかし此処がなかったら、バスの待合所か下のバーで夜を明かすしか手がなかったわけで、横になり躯を伸ばして休める現実を有り難いと思わねばならない。ただ一つだけ予想に反して部屋にシャワーがあった。どうやら其れを使えるようにする為に時間がかかったらしい。案内される間に食事を摂れるかどうかを訊ねたところ、下のバーは明け方近くまで開いているから行けば何か食べられるとの事だった。湯を使え、食事が約束されたのは随分と幸運だと考えるべきである。
手持ちの荷物を置き、ジュリアスはシャワーを浴びると言う。そなたは?と訊かれたがクラヴィスは首を横に振った。今朝方ホテルを出る際に風呂に入ったから、自分は浴びぬと言って服も着替えずベッドにゴロリと寝ころんだ。彼のそうした態度にも慣れているから、ジュリアスもその辺りを指摘せず薄い扉で仕切られた浴室へと入っていった。壁に在る古ぼけた照明がぼやっとした光で天井を照らしている。視線を向けてはいるがクラヴィスの眸には染みだらけの天井も剥がれかかった壁紙の端も映ってはいなかった。彼は考えていた。ついさっきジュリアスに向けた自分の台詞についてと、其れに反応した彼の仕草についてをだ。恐らくこうした風な態度を取ると思ったが、あまりに予想と違わなかったので何とも可笑しかった。でもジュリアスが言ったようにからかうつもりも無く巫山戯てもおらず、至極真っ当な気持ちで発したのである。だが本当はもっと違う言葉が頭にあった。もっと単純で簡潔でそれこそ微塵の偽りもない言葉だ。
『嬉しい…。』
此の一言がポツンと脳裡に浮かんだのである。そして、その直後に目の前の男を抱きたいと思った。彼の内側で最初の嬉しいと次に生まれた抱きたい衝動はとても近しい意味合いになっていた為、口にする直前異なった台詞にすり替えたのだ。
彼の地に在った時、ジュリアスは数え切れぬくらいクラヴィスを見つめていた。しかし彼の熱い眼差しのすぐ横には宇宙と言う巨大な存在が控えていて、あの聡明な思考の全部を己が埋めるなど叶わないのが現実であった。だが今は違う。明日の天気を気に掛けていても、次のバスの時刻に気を取られていたとしても、一度美しい顔に並ぶ蒼天の色が自分に向けられれば其処にはたった一人しか映らないのである。ジュリアスが己に視線をくれる回数が増えたと感じた時、もう彼の大半を占めていた宇宙やら女王やら執務やらがそこにはないのだと気づいた。故に見つめられるのが嬉しい。そして、一心に視線を向ける相手を抱きたくて仕方が無くなるのだ。
ただ先ほどのような状況であからさまに意を伝えるのは逆効果だと熟知していて、だから有りの儘を発しなかった。それでもジュリアスはとても狼狽えたらしく、明らかに照れて恥ずかしげに見えた。そうした様が、より一層クラヴィスの性欲をそそるのだとジュリアスも知っている筈なのだが、咄嗟にそこまで考えが廻らないに違いない。仰向けに寝ころびそれらを反芻するかに頭の中で転がしながら、クラヴィスは早くジュリアスがシャワーを終わらせて出てくればよいと考えていた。うっすらと上気した躯を抱き締めたいとぼんやり思っていたのである。
扉の向こうでだらしなく寝転がった男がそんな事を思いめぐらしているとジュリアスは欠片も知らず、彼は彼で別の事を様々に考えつつシャワーを浴びていた。コックを捻ると、湯量はそこそこに落ちてきたが湯温は全くと言っていいほど足りなかった。日向水と呼ぶ冷たさではなかったにしても、躯の芯から暖まるには相当長く当たっていなければならないぬるい湯である。半端に終わらせると逆に風邪をひきかねないと、彼は既に躯を洗い終えているにも拘わらず、湯を止める素振りを見せないでいた。狭い浴室にはひたすら湯の落ちる音しかない。閉塞された空間にあるからこそ、独り自分の内側を覗く行為に没頭したのだろう。
家宅を持たず、流れゆく暮らしをしたいと望んだクラヴィスの真意を、彼はいつか話す時がくるのだろうか。また、このいつ終わるとも知れない旅の終点は何処にあるのだろう。最初の問いの答を知らぬから、次へのいらえも聞こえてこない。全てはクラヴィスの中にある。訊ねたら真摯に返してくるのか、或いは良いようにはぐらかされるのか、そして己はどんな答を期待しているのか?。頭の中でいくら繰り返しても何ら知りうるなどないと判っているが、それを止めようとしないのは自分の悪い癖だと、相変わらず半端な温度の湯を浴びながら彼はどうにもならない思考を中断した。
ドアが開くと共に、只でさえ湿気を含んだ室内の空気が更に重くなる。湿度と一緒に蒸れた温度が流れ込んできたからだ。ジュリアスはさすがにタオルを巻き付けた姿ではなく、一応の服を身につけている。ベッドの上、さっきジュリアスが扉の向こうに消えた時と同じ仰向けのまま、クラヴィスは視線だけでその様を盗み見て何だ服を着ているとばかりに小さく舌打ちをした。
「本当に使わぬのか?」
備え付けの安物のタオルで髪を拭いながらジュリアスが訊ねる。顔をむけもせずクラヴィスは『ああ…。』とだけ答えた。
待っていたに違いない男の脇に腰を下ろしたジュリアスはもう一度同じ事を訊く。
「シャワーを使わずに寝てしまうのか?」
「今は良い。」
「今は?」
「後で使う。」
そこに潜む意味合いをジュリアスはくみ取った。そうか…と頷く。ベッドの上に広がる黒色の髪を避けて両手をつき、真上を仰ぐ白皙を間近まで顔を寄せて見つめた。天井の辺りを彷徨っていた視線が動いたかと思うと、深紫がジュリアスを映す。ベッドサイドの頼りない灯りとそれに照らされたシルエットがクラヴィスの眸の中に在った。
無造作に投げ出された両腕がつぃと上がる。長い指を持つほっそりとした両手がジュリアスの肩を掴み、さほどの力を入れず胸へと手繰り寄せた。逆らうつもりも、抗う気もないからか、ふわりと体重を感じさせない動きでジュリアスは引かれるまま腕の内へと落ちた。上着はとうに脱いでしまい、薄い綿のシャツ一枚だけの胸に頬を預ける。緩慢に上下するそこに耳を付ければ酷く遠い鼓動が聞こえた。穏やかな規則正しいそれが鼓膜を震わせ、ジュリアスの内部へと染みこみ、彼の体内へ共鳴を促す。同じ音を打てと誘っているようだ。少しのあいだ、彼は眸を閉じて互いの生命が寄り添う音に全身を委ねていた。
ヒクリと反応したのは手首にひんやりとした指が絡んだからで、目蓋を開けるのと同時に持ち上げられた手が相手の口元へと運ばれる。薄唇が指先を軽く食んだ刹那、零れそうになった得も言われぬ声を飲み込んだのは、ずっとそうしてきた習い性の為だった。理性が殺され、躯の隅々が解放されなければ声を上げてはならない気がしていた。彼の地を包み込む荘厳で静粛な空気が、欲に駆られるのを許さないと思いこんでいたからに違いない。反射的に声を納めた自分に気づき、ジュリアスは溜息を一つ落とす。もう、誰も自身を咎めもしなければ、責めもしない。それでも身に染みついたそれらを簡単に忘れるなど出来はしないのだ。ある日を境に、思うままに生きろと言われても逆に途方に暮れてしまう。ジュリアスは、西の門を潜った時からそうした曖昧な不安定さを幾度も感じていた。今も、無意識の行動に僅かばかりの揺らぎを覚える。ただ、この暮らしの中で一つだけ学んだ事があった。それは、漠然とした不安に苛まれたならば、すぐ傍らに在る腕を掴めば良いのだと言うことだ。腕は別段何も与えてはくれない。何処かへと導くもしない。しかし、手を伸ばせば必ずそこにあり、決してジュリアスを拒まないのであった。だから彼は迷いもなく手を伸ばし、シーツの上にだらしなく投げ置かれたそれへそっと掌を当てた。
「何だ…?」
柔らかく指先を弄んでいた唇が訊ねる。抑揚のない声音は特に答えなど期待していない風だった。
「なんでもない。」
期待はしなかったが、予想に違わぬいらえが返る。ふっと鼻先で笑い、再び口唇が指に触れる。今度は軽く歯を立ててきた。皮膚にあたる硬質な感触が心地よかった。包むかに唇が閉じる。取り込まれた指先だけが、クラヴィスの体温を感じている。舌が含んだ先端を擽るように舐めた。喉元を駆け上がる甘すぎる声を、今度は飲み込まず素直に吐き出す。情欲を帯びたそれを耳で拾い、己の発したものであるにも関わらず、ジュリアスはとても厭らしい心持ちになった。
指を捉えている唇に自分のそこを押しつけたくて貯まらなくなる。唇は特別な場所に思え、心がざわつくと先ずその部位に触れたくなる。いつもしっとりと濡れていて、人の内側へ続く最も無防備な場所だからだろうか。ジュリアスは取り込まれた感のある自分の指をゆっくりと引いた。名残惜しそうに口唇がまとわりつくが、すぐに諦めたのか離れていった。胸にある頭を上げ、躙るような動作でクラヴィスの顔へ頬を寄せる。薄く触れた時だ。ジュリアスは突如の違和感に貯まらず跳ね起きた。そしてまじまじと面を眺める。視界の中で見慣れた仏頂面が俄に驚嘆を張り付けていった。
「どうした?」
つい先ほどと違い声音には驚きが溢れている。
「クラヴィス……。」
「なんだ、一体?」
「そなた、今朝も髭をあたらなかったのか…。」
諦めた言いようだ。年長者が下の者へ向けたかに聞こえる。まったくお前は…と続くに違いない音だった。
「忘れた…。」
また適当な言い訳を…とジュリアスは腹の底で悪態を吐く。実際忘れるとか忘れないとかの問題ではない筈だ。人前に出るなら顔を洗い髭をあたるものだと決まっている。
「明日は、何とかしろ…。」
ジュリアスは頬から顎の辺りを掌で撫でながらポツリと言葉を零した。酷く寂しげに聞こえた。
「嫌いか?」
「そう言う事ではない。」
「汚らしいか?」
「別に、そうは思わぬ。」
言い方を変え、違う角度から問い重ねてもジュリアスは曖昧な台詞を並べるだけだった。クラヴィスはそのうち諦める。言いたいなら言う男で、言わないとなったら頑として真意を吐露しない。無駄に食い下がるのはジュリアスを余計かたくなにするだけだ。
「一度、伸ばしてみようかと思う…。」
「え?」
「駄目か?」
「さぁ……、見てみぬと判らぬ。」
気のない返事を最後にジュリアスは黙り込んだ。数分前、今にもSEXへ雪崩れ込みそうに熱くなっていた二人の気持ちが急速に冷めていくのを感じた。
クラヴィスが溜息を吐いた。長く共に在れば、特に意識せずとも上手い方へ物事が流れる時もあり、今のように手を尽くし言葉を選んでもギクシャクとして駄目になる場合もある。バスの中で明かす夜が続けば、折角宿で休めるとなれば抱き合いたいと願うのは必然だ。実際、クラヴィスは完全にそのつもりだったし、途中まではジュリアスもその気だったに違いない。でも、一旦褪めてしまった昂ぶりを元のスタンスへ戻すのは意外にも難しいのだ。もっと自分が言葉に巧みであったなら、雰囲気を和ませ若干の強引さでSEXへ誘う手管に長けていたらとクラヴィスは己の不器用さを不甲斐なく思う。けれども自分はそうした人間で、今更あれこれぼやいても仕方がない。今宵は大人しく休むしかないと、上着を脱ぐ為のそりと起きあがった。
「誰か…別の人間と抱き合っているようで落ち着かぬ…。」
背にかかったジュリアスの言葉がクラヴィスの奥まった辺りへストンと落ちた。
「そうした誰かと抱き合った事があるのか…?」
「まさか…。」
「抱き合った事もないのに、良く判るな。」
「そなたらしくないと言う意味だ。」
ふん…と鼻先を鳴らすクラヴィスは少しばかり相手を小馬鹿にした風である。
「お前がそう言うなら…、そう言う事にしておいてやる。」
「ああ、そうしておいてくれ。」
クラヴィスはもっとジュリアスが声を上げたり、懸命に否定してくるかと思った。けれど彼はまるでその思惑に気づいている風に穏やかないらえを寄越しただけであった。ジュリアスが平静を僅かでも逸したら、其処をからかってやろうとしたが全く当てが外れてしまった。
結局、流れは何処か違う方向へと行き先を決めたようで、つまり今宵は何事もなく穏やかな眠りに就くのだと状況全てが示唆しているとクラヴィスは理解した。偶にはこんなこともある。彼らにはこの先も長い生活と言う名の日常が続いていくわけで、だから決まり事であるかにSEXをしなければならない謂われもないのである。彼は何も言わずブランケットを引き上げる。特に理由はなかったがジュリアスへ背を向ける形で横になった。部屋は普通にツィンを用意されている。クラヴィスがそうすれば自ずとジュリアスは隣のベッドへと潜り込む筈だった。だが端に腰を掛けた彼は動くつもりがない風で、勝手に幕を下ろした男を暫し見つめていたと思うと、上掛けから少し覗く首筋に緩く接吻を落とした。
ジュリアスは殊更に強請ったりはしなかった。一度だけ首に唇を当て軽くその場所を吸ったにすぎず、言葉にして求めもしないしクラヴィスの性器へ腕を伸ばしもしなかった。でも確かに誘ったのは事実であった。先に横になった相手を振り向かせるには充分な行為を一つ送り、クラヴィスも其れをしっかりと受け取ったのである。
求め合うと言うより、分け合うが如きのSEXであった。顔を向けたクラヴィスの唇へ己の口唇を重ねれば、待ちかまえていたかに其処を吸われ、答を返す仕草で同じだけ貪ると体温を移した唇が少しだけ欲深げにその部位を食んだ。舌を入れてきたのはクラヴィスだった。迎える舌先がからかうように奥へと逃げる。後を追い、口内へ忍び込んだそれをジュリアスは瞬く間に捉え根本から吸い上げた。絡んでは解れる二つの舌が、互いの呼吸すら奪うほども貪欲に求め合い湿った猥雑な音を室内の暗がりに響かせる。夢中で接吻を続けながら、クラヴィスの手は別の意思を宿しているらしく、留められた釦を外し肌を撫で乳首を捜した。触れてみれば未だ柔らかな突起でしかないそれも、幾度か指先で転がし押しつぶすかに愛撫すれば、あっけないくらいに硬く凝る。摘み上げ指の腹でさする。するとジュリアスは熱い喘ぎをクラヴィスの口内へと送り、それだけでは足りぬとばかりに躯を捩って感じ始めた悦を顕した。
下に在ったクラヴィスがジュリアスを引き寄せた途端、彼らはその位置を入れ替わる。シーツに広がる黄金色の波が貧相な灯りすらも豪奢な煌めきに変えている。半瞬、クラヴィスは其れに見入った。眩しげに二三度眸を瞬かせ、直後急いたかに次を踏み出す。
唇が大きくはだけた胸前を分けて勃起した乳首にしゃぶりついた時、それまで闇雲にクラヴィスの背を彷徨っていた腕が相手の股間へと伸ばされた。初めの頃、聖地での衣装とは異なる衣服の、特にピッタリとしたズボンを緩めるのに手間取ったジュリアスも今は手探りで戒めを解く術を会得している。既に服の上からでも形がわかるクラヴィスの性器は、忍ばせた指先が触れただけでも熱く滾っていた。下着の上から一度だけ掌で押さえる。乳首に吸い付いている男から呻くような声が洩れた。同時に熱を孕む息が肌にかかる。その淫猥な感触にジュリアスはまた喘いだ。
下着と衣服を同時に下ろす。全て取り去る事は叶わない。膝の辺りで撓み留まったそれらをクラヴィスは片手で器用に脱ぎ捨てた。ジュリアスの指に灼けた淫茎が触れる。完全に勃起していないが、強張った硬さで勃ちかけている。片手で包む風に竿を捉え、細い指を絡ませた。ゆっくりと掻く。努めて緩やかに、握りこみはせず、軽く絡んだ指を丁寧に上下させる。クラヴィスから再び声が落ちた。だがそれは呻きではなく、長く密やかな吐息に乗せた快楽の序章を思わせる微かな音であった。ジュリアスを見下ろす白皙は、随分と満足そうである。細められた双眸の所為なのか、それとも薄く開いた口唇がそう見えるのかは判らない。あと少し、充足と悦を与えたいとジュリアスは気持ち指の力を強め同じ早さで掻き上げた。
ビクビクと震えながらクラヴィスのペニスは見る間にいきり勃つ。集まった血流で深い紅に色を変える。竿は弾力を増し、今にも腹に付きそうな勢いである。もうさっきから呼吸が不規則に忙しなくなっていた。それは性器の打つ鼓動の早さに呼応しているようだ。少しの間、クラヴィスはされるがままに在った。ジュリアスに全部を任せ、自分はひたすら下に在る躯をまさぐっていた。だが、それだけでは収まらなくなったらしい。唐突とジュリアスの衣服を剥がし、彼の股間を外気に晒した。露出した部位を半瞬見つめる。己の性器とあまり変わらない変化を遂げているそれがくすぐったいような感情をクラヴィスへ与えた。自分が欲情していく様を視覚で捉えながら、ジュリアスも同様に扇情を覚えていたのが嬉しい。普段は己が彼の乱れる姿に情を昂ぶらせている。ジュリアスの喘ぎや苦悶を思わせる表情やあからさまな快楽の声だけで股間が痺れるのである。そして今、ジュリアスも同質の悦を感じていたのかと思えば、単なる情動だけでない愛おしさが込み上げる。彼は其れを形にした。自分の股間に絡みつくジュリアスの手をやんわりと取りシーツの上に留める。徐にかがみ込み、勃ち上がった眼前のペニスを口に含んだ。
ジュリアスの両手をシーツへと縫い止める為、彼は口だけで愛撫を施した。舌で竿を舐め、亀頭を細やかに擽り、突如吸い上げ幾度も窄めた口唇で淫茎を刺激する。常になく丁寧な、追い上げると言うよりは徐々に深く愛すると顕したい、そんなフェラチオに没頭した。ジュリアスが呻くかの喘ぎを洩らし始めるのに其程はかからず、適度な拘束を受ける両腕がもどかしげに動き肩を震わせ、背が幾度か反り返って終いには腰が焦れた風な動きを見せる。舌を竿に張り付かせ咽喉付近まで取り込んだ時、じわりと口内に特有の味が広がった。鼻孔の奥に抜ける青臭い匂いが、ジュリアスの切迫した様子をクラヴィスへと伝える。粘膜へ擦りつけること数度、啜り上げ雁首に歯列を当てればペニスが生き物のように脈打ち先刻よりも明確な射精の予感が吐き出された。
「ぁっ…。」
小さな声の直後、ジュリアスは確かに『達く…。』と発した。クラヴィスが聞き漏らすなどあり得ず、当然と言わんばかりに強く吸い上げた。吐き出されるぬるい温度を彼はゆっくりと飲み込む。けれど残滓の全てを吐出させはせず、未だ出し切れずにヒクヒクと震える性器を簡単に解放した。ローションの持ち合わせがなかったわけではない。部屋の隅に寄せておいた小振りの荷物を捜せば瞬く間に手にできる筈である。でもクラヴィスは其れをしない。相変わらずジクジクと染み出す精液を丹念に指に塗りつけ、グイと両膝を開かせた奥へと片手を差し入れた。最初の射精で半ば虚ろになるジュリアスの内部へと己のペニスを衝き入れたい衝動がローションを取る手間を省かせたに違いない。善がり、身をくねらせ、懇願するかに自分の名を呼ぶジュリアスの姿を直ぐにでも見たくなったのかもしれない。
鳥羽口を解すのは容易い。もう幾度したかも覚えていないSEXの数だけ其処はクラヴィスを受け入れてきた。故に大した労もなく弛まって迎える準備を知らせるが如くに薄く開くのである。常は堅く閉じ、まるでジュリアスの心根を映すかに身構えるアナルが解され微かに色を変えたのを確認し、クラヴィスは徐に指を差し入れる。指に吸い付く感触は酷く柔らかく、其れまでの頑なさが嘘に思えた。中はいつも湿っている。何かが染み出しての湿り気でなく、内壁が潤いを秘めていると感じる。入り込んだ異物に驚き、内部が一度大きくうねる。その時ジュリアスも潜めた声を洩らす。少し詰まった、苦鳴とは異なる、強いて言えば驚嘆に思わず発してしまった音に聞こえた。
ゆっくりと指を進める事もあり、早急に奥へと衝き入れる場合もある。其れはクラヴィスの気分と迎えるジュリアスの反応で決まる。今は半ば強引とも思える勢いで最奥を狙う。取り込もうと蠢く内壁が、突如引き絞る動きをする合間を縫って彼は性感帯を探る。途中、粘膜の襞を指の腹が擦ったりするとジュリアスはか細く悲鳴し、場所によって酷く感じて立てた膝を震わせ両足の指を極端に伸ばして、其れがどれだけ善いのかを体現して見せる。意識下での仕草でなく単なる躯の反応なのは判っていても、クラヴィスはそうした様を視覚で捉える度に随分と欲情するのである。
探ると言っても、既に其の場所を感覚が覚え込んでいるから彼の長い指は難なく辿り着く。前立腺の裏側、筋の様な凝りとも感じる感性の核を指先で軽く擦った。シーツに預ける肢体がバネ仕掛けの人形のように跳ね、軽く閉じていた双眸が驚愕を覚えたかに瞠目し、肩先や脇腹や膝頭がワラワラと震える。
「っ…あぁ……あぁぁぁ…。」
真上に向け発せられる声音には理性の欠片もない。己の意志ではどうにもならぬ本能の仕業だからだ。形の良い唇が惜しげもなく開き、喉をひくつかせて発する其れは大層淫猥でクラヴィスの欲を大いに掻き立てる。だから続けざまに指の腹で擦り、指先で衝くのである。
「うっ……あぁ…ぁぁあぁ…。」
背を撓らせ、少し浮き上がった腰を淫らに振って引き絞るかに声を上げる。シーツに投げた両腕が何かを捜す風に宙を彷徨った。同時にペニスが一気に勢いを増し、中途まで持ち上がっていた頭は腹に付きそうな程も勃ち上がる。最前のフェラチオで幾分柔らかく萎れていたのが嘘のように勃起して、先端からはドクドクと精液が滴った。しかし内側は未だ少しも弛まってはいない。クラヴィスは空かさず指の数を二本へと増やした。
二つの指を大きく折り曲げたり、曲げた節の辺りで壁をさすったり又は執拗に広げたり。焦りもあったのは確かなようで、クラヴィスの行為は内側を程良く開いただけでなく少しばかり早急な動きであった為、ジュリアスを普段よりずっと追い立てていた。焦れた腰がくねるように動き、時折堪らないと言う風に眉を寄せては聡明な額に幾本もの皺を刻む。勿論、善がる声を抑えもしないから淫猥な音は始終聞こえていた。口は閉じ忘れてしまったらしく、喘ぎを発していない時も薄く開いたままになっており、唾液を嚥下する暇もないのか其れは口の端から滴っては細い糸の如く顎から首筋を這って襟元辺りをも濡らした。華奢な十本の指はシーツに食い込むほども強張り、しかし何かの拍子に自らのペニスへ伸ばされるも行き着く前に新たな刺激を受けまた元の場所に落ちるのであった。本当はもう性器を埋めてしまいたくて仕方がないにも拘わらず、クラヴィスはこの時のジュリアスをあと少し眺めていたい欲望に勝てず、既に解きほぐされた内部をしつこいくらい掻き回すのである。
「もっ……いい…っ……あぁ…。」
とうとう先を望む切れ切れの言葉がジュリアスから溢れ出た。それは当然の結果で、勃起した彼のペニスは充分すぎるまで滾りを集めており、張りつめた竿は今にも弾けそうに見えた。精液はじくじくと途切れることなく亀頭を濡らし、触れた途端すべてを吐き出しても可笑しくないと思えた。漸くクラヴィスは指を引き抜く。視覚からずっと彼を欲情させ続けた姿の所為で、クラヴィスのペニスからも白い粘液が竿を伝い落ちていた。
アナルに己の性器を押し当てた瞬間、ジュリアスの全身が強張るのはいつものことである。皮膚に触れる質量への反射だと判っている。実際ジュリアスに一度だけだが尋ねたことがあった。戦くかに力を入れるほども挿入は辛いかとクラヴィスには珍しく直接的な言い回しで問うたのである。ジュリアスは恐らくその時自分は何も考えていないと言い、だから単なる反射行動であろうと結んだ。躯が覚えているのだろう。次に来る大きな波を細胞が記憶しているからこの上もなく全身が固くなるのだ。ただその同じ時ジュリアスはこうも言った。
『あの瞬間、酷く熱いのだ…。』
まるで灼けた何かを押しつけられたかと訝るくらいにクラヴィスのペニスが熱く感じ、それで不要な力が入ってしまう気がすると彼はあやふやな笑みを微かに浮かべて呟いた。其れがジュリアスの慰めなのか、気遣いなのかまでは考えなかった。其程辛くはないと伝える為の方便かもしれない。でもクラヴィスは其れを素直に受ける事にした。互いの肉体を繋ぐ行為を続ける限り避けて通れないのは仕方なくも、ジュリアスのリスクを済まないと思う気持ちを忘れたことなど無い。だがリスクを負わせる己の立場に殊更の自責を覚えすぎてもどうにもならず、ならば少なくとも負担を軽減させるよう進める方へと思考を向けなければ同性間でのSEXなど成立しないのである。強張った躯を一度ゆるりと撫でた後、深く息を吸い込んだクラヴィスは随分と神妙な顔を作り先端をジュリアスの内へと衝き入れた。
ずぶずぶと埋まっていく自分のペニスを眺めながらクラヴィスの耳はジュリアスが発する音を拾っている。呼吸とは同調しない、其れは細切れの声である。『んっ…。』と『うっ…。』と音にもならない『っ…。』という声音が、規則を持たず入り交じって内耳を揺らすのを注意深く捉えていた。内壁の動きは必ずしもジュリアスの意思とは同じでないから、そして眉を顰める彼の表情からも歴とした何某かを読みとれぬ故に、唯一彼の言葉に近い呻きに込められた今を感じようとするのである。途中、喉を引きつらせ呼吸を詰めたジュリアスにクラヴィスは侵蝕を止める。あれほどいきり勃っていたペニスも勢いを逸している。数度掻き上げてやろうと幾分萎えた淫茎に手を伸ばした時、頼りない光源の放つ薄い灯りにジュリアスの陰毛が儚げに煌めくのを見た。頭髪よりずっと柔らかな蜜色が股間を覆っている。普段は気にも留めない其処が、安っぽい電灯の明かりを弾いて微かに輝く様をクラヴィスは惚けた面で眺めていた。性器の根本に密集する其れすらも美しいと思う。指先がそっと陰毛に触れ、感触を確かめるかに撫でたのち彼は徐にペニスを握り指を幾度か上下させた。
「あっ、あっ、あぁっ…。」
性器への刺激はジュリアスへと伝わったらしい。再び勢いを取り戻すペニスと、鼻に掛かった快楽の音がクラヴィスへ先を許しているようである。彼はすかさず侵蝕を再会する。ずるりとした感触にジュリアスはまた声を漏らした。けれど其処には直前までの苦悶だけでない徐々に膨らみ始めた悦の色があった。間もなく全部がみっしりと収まる。ほっとクラヴィスが息を抜き、ジュリアスからも細い吐息が零れた。この後始まる狂おしい時へ雪崩れていく前の、音のない数分間だけは何故か緩やかに時が流れる。互いの呼吸音を確かめながら、彼らは次に訪れる熱を予感した。
閉じようとする両膝をこじ開けつつ引いた腰を強引に押し込んだ。ジュリアスがビクリと跳ねる。深くまで届いてはいない筈だから、恐らく内壁にペニスが擦れた刺激に反応したのだろう。再び腰を引く。今度は中程までに留め、其処から深くを目指した。内側が密着している為、竿の皮が予想より強く引き上げられた気がする。根芯がジンと痺れ血流が集まるのを感じた。グッと奥を衝く折り、皮が急激に持ち上がり芯を激しく刺激する。腰から背筋を駆け上がる快感にクラヴィスは思わず低い声を漏らした。衝き入れた先が秘所に届く。シーツから浮き上がった腰が確かに触れたと教えている。だからその場所からもっと奥に向けてペニスを衝き入れた。
「ひっ…!」
眼前が真っ白に霞むほどの快感だと聞く。今、ジュリアスは其れを味わったに違いない。クラヴィスは間を置かず直ぐさまペニスを引いた。次は今よりもっと激しく刺激したいと思う。それで抜け落ちるギリギリまで引き寄せ、一気に最奥を衝いた。一瞬、横たわる肢体が宙に浮いたかと見まごうほども躯を撓らせ、大きく背を仰け反らせたジュリアスは悲鳴の形に口を開いたが其処からは何も出てはこない。強すぎる快感は彼らか嬌声すらも奪ったようである。
強弱をつけ、時に抉るかに腰を使い、襞に張り出したカリを擦りつけ、内部を淫らに掻き回していたのも半ば頃までであった。急激にうごめき締め付けを強めた内壁に追い立てられ、いつしかクラヴィスはただひたすらに腰を打ち付ける動作を繰り返していた。千切れるくらい竿を圧迫する壁に絞られ、それから逃れる如く性器を動かせば根芯はこの上もない快感を覚え今にも射精してしまいそうな切迫感に煽られる。己が感じているのが悦なのか苦痛なのか、或いは快楽なのか痛みなのかも判然とせず、本能は吐出の二文字だけを追い始めるのである。律動の果てに待ちかまえる吐精だけを求め、闇雲に腰を動かしていたクラヴィスは視界の端で己とは別の動きを捉えた。焦れた末の行為だと瞬時に理解する。ジュリアスが片手を自身の性器に宛い、狂ったかに淫茎を扱いていたのだ。もう、待ちきれないのだと思った。直ぐにでも果ててしまいたいと望んでいるのだと得心した。何時までも己の快楽に溺れている自らを情けなく思い、彼はジュリアスの望みと自身の欲を満たさねばならないと決した。大きく引いた腰を容赦なく衝き入れる。抉り込み、それでも足りぬと激しく奥を犯した。ジュリアスから獣にも似た嬌声が上がる。互いの熱で淀んだ室内の空気が裂けるほどの歓喜を放ち、ジュリアスはきつく握り込んだペニスの先端から夥しい精液を吐き出した。己だけが果ててはならぬと、内部に巨大な蠢きが起こる。クラヴィスは最後の熱に絞られ、全身を激しく震わせながら根芯に充ち満ちていた全てをその場に吐出したのである。性器を抜くのも忘れ横臥する躯の上へ落ちていくと、互いの腹に挟まれたジュリアスのペニスがヒクリと震えて残滓を放ち、二人の肌を猥雑な滑りが汚した。
痺れ、虚ろになった思考で此のままジュリアスを抱き締めて眠ってしまおうかと考える。するとそんなクラヴィスの思いを読みとったかにジュリアスの唇があまり聞きたくない台詞を紡ぐ。
「クラヴィス…、眠る前に湯を使ってしまえ…。」
聞こえない振りをした。何も答えず、耳に届くのは触れた皮膚を通して伝わるジュリアスの鼓動だけだと勝手な言い分を腹の底で転がしていた。しかし、しなやかな指が顔に掛かる黒髪を分け、聞こえているのだろう?と念を押されては答えずにはおられない。仕方なしにあと少しと返した。
「あと少しこうしていたなら、湯を使うのだな?」
容赦のない追い打ちに無反応を決め込もうとした矢先、ジュリアスが穏やかな声音でこういった。
「私も、共に使うから……。」
相変わらず倒れ込んだまま、半瞬の間を置いてクラヴィスは返答する。
「ああ…、共に使おう。」
目覚める時の急速な浮上感と共にジュリアスは唐突とした覚醒を覚えた。肉体の目覚めに付いて来られない意識は己の置かれた状況を的確に判断できない。ゆるゆると開いた双眸に映った見慣れぬ煤けた天井の持つ意味を図りかね、彼は放心した風に其処を眺めていた。
「起きたのか…。」
少し距離を感じる声がすぐ横から聞こえた。緩慢に顔を向けると並ぶベッドの上で横になるクラヴィスと目があった。
「おはよう。」
発した声がガサガサと掠れている。それがジュリアスに昨晩の行為を思い出させた。連れだって入った浴室で、相変わらず熱くならないシャワーを浴びながら、彼らは再びSEXをした。あの時壁に押しつけた頬に触れたタイルの冷たさがハッキリと蘇る。抱き合って互いの性器を弄った。接吻をしながら躯をまさぐり合い、瞬く間にSEXへと雪崩れ込んだ。一度果てたのちもクラヴィスが躯を離さず、噎せ返る湿度の中で三度目をした。あまりに声を上げた所為で喉の奥が乾いた痛みを宿している。努めて慎重に腰を動かそうとしてみるが、予想に違わぬ鈍痛と疼きが起こりジュリアスは起きあがるのを諦めた。
「動くのは無理だろう…?」
クラヴィスが呆れて訊ねる。
「そのようだ…。」
失笑混じりに答えるジュリアスに、どうせ雨がやまぬから今日は出立しないとクラヴィスは言った。
「未だ、降っているのか?」
「さっき窓を開けてみたが、夕べと変わらぬようだ。」
「明日も雨だろうか?」
「どうだかな…。」
一旦互いが口を閉ざすと、降り続く雨のか細い音が聞こえた。遠くに鐘の音が流れる。小さな村にも必ず設けられる教会の鐘だと思えた。
「クラヴィス……。」
不意にジュリアスは今まで幾度も訊ねようとして何故か出来ずにいた問いを向けたくなった。
「このまま南を目指した先に何があるのだろう…。」
「世界の果てがあるらしい。」
「世界の……果て?」
大陸の最南端にそう呼ばれる場所があるのだとクラヴィスは答えた。
「その果てまで行ったら、どうするのだ?」
「さぁ…な。」
其処へ辿り着いた時に考えるとクラヴィスは妙にぼんやりとした声音で言う。別の大陸へ移るかもしれぬし、全く違う星へと飛ぶのも良いと彼は返した。
「ずっと移動を続けるのか?」
「もう…、厭になったか?」
「そうではない。一所に留まらぬ理由が気になっただけだ。」
「人の……暮らしが見たい。」
「見て、どうするのだ?」
「覚える…。」
「覚える?」
「わたしは、只人の暮らしを知らぬし…、書物で読んでも上手く理解が出来ぬ。だから、見て…覚えたい。」
ずっと気になっていた疑問が半ば氷解した。思えば、移動を開始した当初など列車のチケットを買うだけでも手間取った。食事を摂る場所も、衣類を買い足すのさえ一々人に尋ねては怪訝そうな顔を向けられた。知識として持っていても、其れが実際に出来るわけではないと幾度も思い知らされた。
「しかし、一つ処に留まっても人の暮らしを見聞きはできる。」
「ああ…。確かにな…。」
けれど、一カ所に家宅を構えればその周囲しか見られないし、見ようと思わない。人の数だけ暮らしが在るなら、飽きる迄は見たいのだとクラヴィスは結んだ。
「そなた、存外に欲が深いな。」
「お前よりは深くない。」
失礼な奴だとジュリアスは芳眉を寄せ、大袈裟に顔を顰めて見せた。
「まぁ、それも雨が止まねばどうにも為らぬがな…。」
つぃと向けた視線の先、お世辞にも綺麗だとは言い難い硝子を透かし広がる鈍色からは細い雨の糸が落ち続けていた。
了