*The Garden with Holy Light*

02'クラ誕『COMET』の後日談

突如頬を指で触れられクラヴィスは我に返り自身を見下ろす相手の顔を振り仰いだ。
眩い陽光を背にしたその顔は深い影に沈み一体どんな表情であるのかが見取れなかった。
指先がそっと頬を撫で、するりと離れる。ジュリアスが穏やかに訊ねた。
「どうしたのだ?」
怪訝そうに細い眉が上がる。何を問われたのが分からなかったのである。
ほっそりとした指先が目の前に差し出される。それが濡れているのを見て、クラヴィスは初めて自分が涙を流していた事に気づいた。どうして泣いているのかが自身でも分からない。彼はとても不思議そうに何故だろうか?と呟いた。
「私に聞かれても分からないが…。」
そう言ってジュリアスは小さく笑った。
柔らかな日射しに溢れる休日の午後。そこは闇の館の裏庭に面したテラスであった。
微かに風があり、けれどそれは肌寒くもなく。深い緑を湛えた森に囲まれた此処は、彼らが幼少から好んで集った暖かな安らぎの場なのだ。光の庭と呼んだのは果たしてどちらだったのかも思い出せぬくらい小さな頃から二人はその日溜まりを愛していた。
「何故だろうか…?」
もう一度クラヴィスが言葉を零した。
「さぁ……。」
ジュリアスは軽く頭を振りながら寒くはないか?と別の問いを向けた。そして答えを待たず何か羽織る物をと言いながら邸内に入ろうと身を返した。
返答の代わりに腕を引かれる。振り返ればクラヴィスが笑っていた。
「忙しないな。」
そう言って取った腕を心持ち強く引き、此処にいろと自分の隣りを目線で示した。
体重を感じさせない身のこなしでジュリアスが傍らに腰を下ろす。直ぐさま肩に腕が廻され抱き寄せられた。小さな頭を肩に預け、ジュリアスはほっと息を洩らす。
静かで、穏やかで、嘘のように暖かい。つかの間の休息に与えられた天の恵みかもしれぬと思った途端、不意に瞳の奥が熱く揺れた。
『ああ……そうなのか……。』
クラヴィスが自身でも意識せずに涙を零した理由が分かった気がした。
幸福だと思ったのかもしれない。この場にただ二人、こうして在るこの時がかけがえのない幸せだと感じたのではないかと間近にあるその横顔を黙したまま見つめた。



彼らがこうして誰憚るでもなく互いを感じる時を持つのは、随分と久しくある。
優に一月(ひとつき)以上もゆっくりと会話を交わしていないのだから、そう感じても不思議ではない。
最後に逢ったのはクラヴィスの生誕の日であった。しかし、あれはどう言おうとも互いを感じあうのとは違う。深く沈めた双方の葛藤と真の心根を吐露する対峙でしかなかった。
あれから今日まで正確に述べれば宮殿で顔を見たのはたったの二度で、それもすれ違ったにすぎない。実はクラヴィスがその二度しか執務に上がっていなかったのである。
何も彼が自身の生誕に起こった、二人にとっては忘れられぬ事件に拘り続けたのではなく、単にあれ以来酷く体調を崩し休みを取っていたからに他ならない。
折しも年の最後に当たる月にかかり、ジュリアスも平素の執務以外の諸々に日々を忙殺されてしまったのも会えぬ理由の一端となっていた。
漸くクラヴィスの屋敷を訪ねる時間を得られたのは、この年最後となる日の午後であった。
恒例となった職務の申し送りを兼ねた全員が集う朝議を終え、その後も細かな責を済ませてから昼を少しまわった時刻に訪れた。
クラヴィスは眠っていた。肩まで引き上げられた上掛けが静かに上下するを見取り、ジュリアスは安堵の吐息をもらす。伝え聞いた様子が正しかったのだと不要な懸念を思考から一掃した。椅子に掛けるでもなく、寝台の脇に立ち暫し彼は穏やかな眠りに在る者を眺めていた。
数分の間そうしていたジュリアスは靴音が発たぬよう密やかに足を運びその場を後にする。
その足で私室に移り大きく開いたガラス戸からテラスを抜け裏庭に出たのであった。
其処は光の庭である。遙か遠い過去から変わらず温もりを伝える優しい時が此処にあった。
優しかった日々が彼の脳裏を駆け抜けていった。



庭の中央に立ち空を仰ぐ。流れる雲は形を変えるでもなくゆったりとたゆたっていた。
目を凝らせば小さな黒点にも見える高見を渡る鳥の姿があった。風の香にどこか清々しさを感じながら間もなく明ける新しき年を思い、過ぎていった日々を懐かしく胸にしまう。
時折強く吹き抜ける風が木々を揺らす音に耳を貸していたからかもしれぬ。テラスに設えた長椅子にクラヴィスが掛けているのに気づかなかった。
もしかしたら意識を今はもう想い出と呼ぶあの頃に向けていた為に、寄せてくれば確かに分かる彼のサクリアにも心が騒がなかったのだろう。
きっかけは風向きが変わったその時に良く知った香りが鼻先を掠めたからで、振り返った先にその姿が在るのを知りジュリアスは弾かれたかに踵を返した。
長椅子の背に身をもたせクラヴィスは静かに座していた。ジュリアスに向けた視線は微塵も動かず、一心に近づく彼の者を見つめている。
その表情が見て取れる辺りまで距離が詰まった時、ジュリアスは俄に驚いた顔を作り慌ててその元へ駆け寄った。滑らかな白い頬に一筋の涙が伝う。
クラヴィスは間近に歩み寄るジュリアスを夕暮れ色の瞳で捉えたまま声もなく涙を流していたのである。
華奢な指先がそれを拭う。ジュリアスが声を掛けるまでクラヴィスは自身が泣いているのに気づいていなかった。
どうしたと訊ねると酷く驚いた様で、己が涙を零した事実を知れば大層不思議そうな顔をした。



肩に預ける顔を巡らせもう一度ほっそりとした横顔を見る。クラヴィスはもう泣いてはいなかった。彼自身もその理由(わけ)を理解してはいないのだ。ジュリアスはそれ以上なにか問うのをやめにした。
それより一つだけクラヴィスに訊ねたい事がある。実際言葉にして聞くつもりはなかったのだが、どうしても気に掛かり心の奥に落とせぬ問いがあったのだ。
それはあの夜、激しい情事のあと抱き合って眠りに落ちた後の事である。夜も明けぬ時刻にジュリアスは不意の覚醒を覚えた。誰かに呼ばれた気がしたのだ。
薄明かりの中に視線を彷徨わせればすぐ傍らで横になるクラヴィスが微かな声を発していた。しかし彼は目覚めていなかった。眠りの内に意識を漂わせながらも一言を零していた。
耳を傾ける。しんとした空気を揺らしたそれはたった一つの言葉であった。
「済まない………。」
クラヴィスは囁くほどの声音でそういったのである。
誰に向け、何を済まぬと伝えたかったのか。過去に一度だけ躯を重ねた名も知らぬその人にか、救えなかったあの少女への謝罪なのか、もしくは自分に向けたものなのか。
クラヴィスが夢に在って尚告げようとしたその心が知りたかった。
今更訊ねたところで、彼の記憶に残っているかも定かではない。だからジュリアスも聞かずにおこうと決めたのである。
けれど、わけもなく涙した姿を目の当たりにしてしまうとクラヴィスの流したそれとあの一言に繋がりがあるのではないかと胸がざわめくのであった。
明けの暁光が天を染める前の深遠なる大気に溶けていった彼の想いを辿りたいと欲してしまうのを止められずにいたのだ。
「クラヴィス…。」
ん…?
聞き返す者は蜜色の髪に滑らせる指先を止めるつもりはないらしい。柔らかなそれを飽きずに梳きながら軽く顔を向ける。
何かを伝える為の呼びかけではなかった。彼の抱く何某かに思考を巡らしているうちに、ふと彼の声が聞きたくなっただけなのだ。胸元にあった不確かな塊をジュリアスはそっと深くに置いた扉の内に収めた。
「その…具合はどうなのだ?」
降りかけた沈黙を拒み取り繕って発した問いが隠す真意にクラヴィスが気づいたかはわからないが、まるでジュリアスの胸中を知っているかに含みのある笑いを洩らしながら答えを返す。
「まぁ…そこそこと言ったところか…。」
「日頃の不摂生を今更正すとは思えぬが…。」
言いかけたそれなど聞きたくないと唇が素早く寄せてくる。しかしジュリアスも彼のそうした行為には慣れている。顔を離して軽くかわしてしまった。
「何でもそれで片を付けようとするのも正す気はないようだな。」
いなされてしまったにも関わらずクラヴィスは未だ隙を狙っている様である。
「毎回同じ台詞を吐く私の身にもなって欲しいものだな。」
「ならば…言わなければ良い。」
「言わせる様な事をするのはそなただ。」
こんなつまらぬ会話をしたいのではないとクラヴィスは鼻先で笑ったのちに唇を閉じる。
「そなたと居ると、気の休まる暇もない…。」
相手が返す気がないのだと理解しながらジュリアスはそんな苦言を零した。
『それは…こちらの台詞だ。』
喉元にあった一言をクラヴィスは飲み込んだ。
常に先陣を切り先に進む背をどんな想いで後方から見つめているのか、宇宙が請えばその身を差し出してしまうかもしれぬ潔さを、渾身で責を全うせんとする肩の細さにどれほど胸苦しさを覚えるのかを恐らくジュリアスは知らない。
そして、彼が己に寄越した様々な眩い色に戸惑い、歓喜し、翻弄されているかなど気づきもしないのだ。時に引き倒し、組み伏せ、壊してしまいたいとする衝動を何食わぬ顔の下に隠している事も。
そんな諸々を脳裏に広げていたからだろう。唐突と乾いた笑いが薄い唇を割った。
「何がおかしい?」
微かに大気を揺らすだけのささやかな笑い声を拾いジュリアスは訝しげに問う。きっと、思った通りが返るに決まっていると思いながら。
「別に……。」
やはり、予想を裏切らぬ律儀な答えであった。クラヴィスが次に何を語るか、今何を思うかが手に取るように分かる時がある。けれど内包する何某かは少しも見えない。
何時か透明なガラスを透かすかにそれが顕わになるのだろうか。そうすれば、誰知らず夜の居室で探せども手に出来ぬ心の欠片を求める埒のない行為を繰り返さずに済む。
『そんな事はあり得ない…』
あまりに馬鹿げた自身の思考を自ら遮る。
クラヴィスの胸に秘める何もかもがそんな風に知れたなら、かえって恐ろしいかもしれぬと今度はジュリアスが苦笑を声に出した。
「何だ?一体…。」
「別に…。」
顔を見合わせた途端、同時に可笑しそうな声が上がった。
下らない事が、つまらない事が、取るに足らない事が可笑しく、愛おしく、幸福に思え、そして恐ろしい。次に吹く突風にいとも容易く浚われてしまいそうで、二度と取り返せないと知っているからこんな普通のやりとりが耐え難い充足と欠落を同時に運ぶのだ。



互いの瞳に映る己の姿を確かめながら暫し見つめ合う。
「ジュリアス…。」
熱くなり始めた均衡を破ったのはクラヴィスだった。
「何だ?」
「口づけたいのだが。」
『何を今更…』
答えるのも馬鹿馬鹿しい問いである。このまま黙していたならクラヴィスはどうするつもりなのかとジュリアスは言葉を仕舞う。数秒も待たず唇が降りてくる。一応の反論が上がる。
「まだ何も答えていなが?」
「したそうな顔をしている…」
何時もそうだ、勝手な自分に都合の良い判断しかしないくせに……。
だがクラヴィスの読みは外れていなかったらしく、ジュリアスはすっと瞳を閉じた。
迎える舌先が薄く開いた唇からのぞいていた。



逃げる舌を追いながら、口蓋をそろりと舐め上げクラヴィスは少し強く腕に収まる躯を抱き寄せた。
閉じた目蓋の裏につい今し方庭に在ったジュリアスの姿を描いてみる。
彼はこちらに背を向けて一人佇んでいた。日の光が惜しげもなく降り注ぎ、背の中程まで届く髪自身が輝きを放っている錯覚を覚えるほどそれは煌めいていた。
何をそんなに熱心に見ているのかと声を掛けるのも忘れて眺めれば、彼は遠く空の彼方に視線を送っていた。鳥の音があったかもしれない。その姿を追っていたのだろうか?
時折吹き込む風に波打つ黄金が揺れていた。ゆったりとした純白の裾がはためく度に細い足首が見え隠れする。
美しく、静かな眺めだと思った。もし許されるなら時を忘れ永遠に見つめていたいと願った。
忘れたくない。緩慢な時間にすら流されてしまうなら例え二度と会えぬ距離に引き裂かれたのちも、こうして瞳を閉じれば細部まで鮮明に思い描ける様に記憶の奥に刻みつけねばならないと狂おしく望んだ。
その時、一陣の強風が日溜まりを駆け抜けた。
ジュリアスがゆっくりと振り返る。テラスに座すクラヴィスに気づいた途端、彼は足早に戻ろうと一歩を踏み出した。
彼の目指す先に己がいるのだと悟った刹那、瞳に映る姿が俄に滲んだ。
『ああ……そうか。』
この上もない幸福感に包まれた時、人は涙を流すのだと熱を孕み始めた意識がそう言った。



光射す庭に向いたテラスで、クラヴィスは口内に吹き込まれる濡れた吐息を受け止めたのち絡めた舌を強く吸った。



They were loving the garden with holy light.





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