*黄昏の手*
アンジェリークトロアより
此処は宮殿ではないから、背後で閉じた扉の音がいつまでも回廊に響き残ることはなかった。声高に語り合う甲高い声達は各の屋敷に続く路の両側に繁る緑の上に拡散して消えてゆく。此処は聖地ではないから、彼らの上に広がる空は確かに青いが気の遠くなる透明な蒼天ではなかった。
「実際よぉ、アイツが何考えてるのかぜっっっんぜん理解できねぇーー。」
「僕だって分からないよ〜〜。」
「オレも分からないけど、住む所と仕事場は別が良いってコトなんだろ?」
「つぅか、そりゃマンマだろ?」
「そうだよ〜、ランディ。だから、どうしてそんな事をわざわざ会議の席で仰ったかの意味が解らないって話してるんだよ?」
「そんなのは、オレにも判らないさ!」
「分からネェのに偉そうなんだよ!」
こづいたのが合図だったらしい。子犬の様にじゃれ合いながら彼らは道の先へ走り去った。
此の地に一時の住まいを決め、執事と秘書官の役割を兼任する人間を選び、職場と住居を同じくしてから彼人が訪れたのは初めての事だった。その前に顔を合わせたのは既に七日以上も前で、それも緊急に招集した会議の席であり、しかも自分はあの時彼人を怒鳴りつけたのだと思い出しながらジュリアスはきつく唇を噛んだ。その場に相応しくないどころか、まるで言いがかりの様な言を向けられ自分では抑えたつもりが知らず荒々しい声音になり、最後は怒声を叩きつけていた。
一瞬己の視線と交わった其れは酷く痛々しい色を帯びている気がして、瞬く間に怒りは収束し直ぐさま謝罪を述べようとしたのに叶わなかった。何時もと同じに彼人は一度芳眉を寄せて、小さく嘆息した後これも常と全く同じ台詞を残して席を立つと後を振り向きもせずに部屋から出ていったのだ。
『…それなら仕方がない。』
それはジュリアスが殊更に聞きたくない言葉だ。呆れられたと言うより、何やら打ち捨てられて気分になるから、出来れば言って欲しくない一言だった。けれど其れを寄越される確率が最も高いのが自分だとも知っていた。
『…それなら仕方がない。』
そう言って遠ざかる背をただ見つめるだけしかしない自分が嫌いだった。取りなそうと名を呼ぶ声が二つ上がったが、既にそんなものは彼人の耳には届いていない。音もなく開く扉に吸い込まれるかに消えてゆく姿を引き留められる者はあの場には一人も居なかった。
入り口に立ったままの秘書官は如何なさいますかと言った後所在なげに待っている。執務室となるこの部屋に通してよいのか、或いは隣接する応接室に通すのかの指示を仰いでいる。相手が確かに職務に関しての用件を携えて来たのが明白ならこの部屋で構わない。が、彼人に限りその辺りが判然としないのだ。私事であるにも関わらず頭から個人的な話などと言えばジュリアスがあからさまに嫌な顔をするのを知っているから、取り敢えずは仕事の話だと述べてやって来るのが常の事だった。少し迷ったのち、ジュリアスは来訪の目的を訊いて来るよう言い渡す。軽く礼をし、畏まりましたと退室した秘書官が戻るのに五分もかかりはしなかった。彼は酷く困った風な顔で首座に告げられた通りを申し述べる。
「大した用事ではないと仰っておられます。」
「ならば…、此方に通してくれ。」
言いながらジュリアスは机上に広げた幾枚もの紙片を眺めた。
何を言いに来たのかは分からぬが、出来れば簡潔に話が終わる事を願った。定められた執務終了の時刻は既に過ぎているが、手元にある諸々を終わらせるにはあと数時間は必要だったし、至急ではないにしろ熟考せねばならない案件には明日予定する会議までに何らかの意見を纏めておきたかった。現在己らの置かれた状況を完璧に理解するのが無理だと知っていても、手中にある僅かな事象を手がかりに可能な限りの術を導き出すのは必至である。
突然、未知の空間に放り込まれ今自分が何処に在って、これから何が起こるのか予想もつかぬのだから誰もが不安と焦りを感じて当然であった。それ故に、何事も見誤ってはならない。一見、無関係とも思える事象をも見過ごす事は出来ない。臨時に設けられた研究院から送られてくる数枚の報告書を検討するだけに何時間も要する。時間など幾らあっても足りなかった。
『何か重要な事象を見いだしたのだろうか?』
彼人の能力なら其れもあり得ると考えるその一方で、ジュリアスは今浮かんだ一言を否定した。仮に何某かがあの濃紫の眸に映ったとしても、あの男がおいそれと報告に来ない事を良く知っているからだ。不確定要素が微塵でもあったなら、彼人は何も言うまい。
『あれはそう言う人間ではないか…。』
自らに言い聞かせる様にジュリアスは胸中で呟いた。
三度扉が鳴った。入室を許可すると扉を押し開けたのは秘書官だった。大きく開いた其処からうっそりと黒衣の長身が入って来た。静やかに扉が閉まる。彼は大きく視線を動かして室内をざっと見渡した。
「久しぶりだな。」
ジュリアスの声が聞こえている筈なのにクラヴィスは何も返さず、それより主の顔を見ようともせず部屋を横切ると壁一面を大きく切り取った窓辺に立つ。
聖地より遙かに早く落ちる太陽は大きく西に傾き、重い緋色が空を染め上げている。射し入る陽光の色に佇む人の外郭が黄金色に浮き上がって見えた。身に纏う濃墨色の衣と漆黒の頭髪が残光の中に訪れる宵の影を描いているかに思える。飲み込まんとする陽の光さえ取り込んでしまうほどの底知れぬ闇が其処に在った。
「クラヴィス!」
何も発しない相手に焦れたと言うより、彼を取り巻く夜の気配を一掃したかった故に上げた声だった。次ぎの瞬間、目の前の姿すら深い影の内に隠してしまいそうな気がしたからである。きっと抗う間もなく消えてゆくに違いない。埒のない想像だと分かっていながら、背を這い上る冷たさに躯を震わせた。
「無駄に明るい部屋だ……。」
漸く背を返したクラヴィスが小馬鹿にした様に呟いた。
「私の屋敷の評価など頼んだ覚えはない。」
何と返して良いかが量れずそんな事を言ってからジュリアスは己の虚けた一言に小さく唇を噛んだ。
「話があるなら聞いてやる。そなたの気まぐれならさっさと帰れ。」
クラヴィスの思惑など幾ら考えても知れぬと諦め、ジュリアスは最も自分らしくある台詞を向けた。
思った通り、クラヴィスは何を言われようと気にも留めず窓を背にしてジュリアスを見つめている。後からの陽光で一体彼がどんな表情を作っているのかは分からない。再び黙してしまった相手に今一度ジュリアスから声が上がる。
「私は未だ執務中なのだ。用が無いなら出て行って貰おう。」
「用は…ある。」
「ならばさっさと済ませろ。」
「今、その最中だ……。」
「冗談につき合う暇はない。」
ジュリアスは自身に向けられているであろう視線から目を下ろし、半ばまで読み進んだ書類に手を伸ばした。真意を明かさぬクラヴィスにこれ以上関わったところでどうにもならないと悟ったのである。気が済んだら帰れと言い放ち、意識を執務へと戻すことにした。
張りつめていたという程ではない。それはもっと居心地の悪い圧迫感を含んだ空気だった。殊更に集中しようと努めれば、逆に寄越される視線を意識してしまい、辿る文字の伝える意味を三分の一も理解できない自分が腹立たしくあった。それでもジュリアスは決して視線を上げるなどしない。恐らくクラヴィスには見破られているに違いなかったけれど、苛立ちにも似た不安定さを取り繕う努力を続けていた。
ゆらりと空気が揺れる。水音より密やかな衣擦れが起こる。クラヴィスが歩み寄って来るのだと知れた。
「それは何時(いつ)まで続けるのだ?」
「終わるまでだ。」
「終わるのは何時(いつ)だ?」
「そなたには関係ないだろう!」
顔を上げるとクラヴィスはデスクのすぐ横に立っていた。見下ろす双眸にはやはり意思の色はない。ただひたすらに己を見る深い菫があるだけだ。と、その眸がうっすらと細められる。薄唇の端が緩やかに上がった。彼ははっきりと笑みを浮かべる。益々クラヴィスの想いが解せぬとジュリアスは些か腹立たしく思え、蒼天の眸で射るほども睨み付けた。綻んだ唇から声が落ちる。
「思ったほど参ってはいないのだな…。」
謎かけよりも更に質が悪い。からかっているのか馬鹿にしているのか。机上に置いたジュリアスの両手が固く握りしめられる。ふっと唇からこぼれ落ちたのは嘆息か吐息か判然としない。そんな仔細な物にまで沸々と湧きだした怒りを煽られているようで、ジュリアスは今すぐ出て行けと喉元に迫り上がった台詞を一気に放出するために息を吸い込んだ。
「邪魔をした……。」
まさに出鼻を挫かれたとはこの事である。部屋に響き渡る筈だったその怒声は行き場を失い、飲み込まれ消えてしまった。クラヴィスは薄い笑みを浮かべたままくるりと背を返して戸口へと歩んでゆく。来訪の理由も、目的も、発した言葉の意味も理解できていないのに、ジュリアスは置き去りにされてしまうのである。出ていけと怒鳴りつけようとした桜色の其処から別の言が飛び出した。
「待て!クラヴィス!!」
びしりと背に投げられた其れに流石のクラヴィスも立ち止まり振り返る。
「何だ…?」
「一体、私に何の用事があったのだ?!突然やって来て、意味の解らぬ事を言うだけ言って出てゆくなど不愉快だ。来訪の理由を説明しろ!」
やれやれと肩を竦める仕草に新たな怒りが膨らむ。仕方がないと言いたげな表情が如何にも馬鹿にしている風に見えた。変わらぬ流れるかの足取りで進んだ分を戻り、更に数歩を重ねてジュリアスのすぐ傍らに寄り添った。少し腰を屈め、座したままのジュリアスを覗き込むと黒髪がさらりと胸の前に流れた。
「お前はわたしの言う事など聞かぬからな……。」
その先に何が続くのかとジュリアスは澄んだ瞳を瞠りクラヴィスの口元を凝眸した。紡ぎ出される言葉に含まれるのが愚弄ではないと身勝手な予測を立てながら、薄く開いては吐息に乗せて綴られる言に耳を傾ける。
「私と公を同じにしすぎるのだ…お前は。だからあの時、屋敷と執務室を別にしろと言ったのだがな…。」
ジュリアスは『あの時』をくっきりと思い出した。会議の席でクラヴィスは確かにそう提言していた。しかし自分を含めた誰しもが、職を私邸に持ち込むのを嫌うクラヴィスの至極個人的な要望だとしか考えなかった。
一喝の後に其れを却下したのは自分であった。あれに込められたクラヴィスの想いなど微塵も気付かず頭ごなしに怒声を浴びせた己を腹の底で激しく責める。そして深い後悔を覚えた。
「きっと自分の手に余る執務を抱え込んでいると思った…。さぞかし情けない顔をしているだろうとわざわざ見に来てやったのだ。」
「見て…どうしようと思っていたのだ?」
ジュリアスの声音から怒りの色は失せている。やけに神妙な言い回しで少し気まずい顔をしながらそう訊た。
「馬鹿だと言ってやろうと思った。」
そう告げるクラヴィスは少し前と同じ穏やかな顔をしている。
「馬鹿だと言って笑おうとでも考えていたのか?」
「……いや。」
こうしようと思っていた…。
言いながら音もなく腕が上がり、長い指が金絹の髪を分け掌がジュリアスの頬を包む。ひんやりとした其れを振り払おうともせず、彼は小さく問う。
「こうしたら…、私が止すとでも?」
「それは無かろう。お前は頑固者だから…な。」
もう一方の腕が動くのにジュリアスは気づいていない。
「あっ……。」
其れがゆっくりと頭を撫でると一度だけ驚きの声が上がったが、それでもジュリアスから拒絶は起こらない。まるで子供にする様に幾度も撫でる手に全てを委ねて彼は眸を閉じた。
『私は子供ではない。』とか『巫山戯るのも大概にしろ。』とか、言うべき台詞は幾つでもあった。けれど、どれも薄い桜色の唇から放たれる事はない。たった一つだけ零れたのは、安堵を思わせる微かな吐息だけだった。
心の片隅では求めていたのかもしれない。何処かで酷く欲していたに違いない。自分でも自覚などしてはいなかった。でも、此が欲しかったのだ。労いや気遣いとは違う。言葉に出来ない、すれば陳腐になってしまう。そんな何かを望んでいた。
クラヴィスは飽くことなく同じ動作を繰り返す。もう何も語らない。指先と掌から伝わる温もりだけが、ジュリアスの内に染み渡る。彼の宿す癒しの力の所為では無いと思えた。
『いつからだろうか…?』
彼はぼんやりと記憶を辿る。誰にでもない、己にだけ差し出される手が在るのだと気づいたのは一体いつの事なのかと幾重にも重なる想い出の襞をなぞってみた。幼い頃、己の後から伸べられた其れではない。もっと明確な意志を持って寄越されたのは数年前からのような気もするし、途方もなく以前の事だったのではないかと自らに問うた。己が気づかなかっただけで、クラヴィスはずっと昔から同じ手を差し出していたのではないだろうか。
仔細な事象ですら記憶しておく自身にしては甚だ情けないと胸中で苦笑するジュリアスが、どれ程記憶を手繰ってみても結局答えは見つからなかった。
『この手が私を許し、諫め、解かすのだと知ったのはいつの事であったのだろうか…。』
決して得られぬ答えだと分かっていながらジュリアスは又同じ言葉を脳裏に浮かべた。
うっすらと開いた眸に映ったのは、薄い蜜柑色に染まった床と己を包む黄昏の手だった。
もう間もなくこの地にも宵が訪れる。
了