*学ラン*
現代パラレル/『キスマーク』その後
夕方のラッシュから少しだけずれた時間だからか、車内はまるで休日の夕刻とでもいうくらいに空いており、ジュリアスは帰宅の車中で座席に座ったのなど今の生活サイクルになってから初めてのことかもしれないと考えていた。彼が揺られているのは普段は使わない環状線で、途中のターミナル駅で私鉄に乗り換えなければならない。最寄り駅は急行が止まらないので、始発に当たるターミナル駅から延々各駅停車で発車と停車を繰り返して行くか、又は二つ手前まで急行で行き各駅に乗り換えるかの二通りが選べる。
ベタベタと駅を嘗めて止まる各駅停車だと間で二つか三つの急行に追い越されたり、運が悪いと特急をやりすごしたりするから同じ距離を行くのに倍以上の時間がかかる。だから利用する際は急行と各駅を乗り継ぐ方を使っていた。
彼は会社員ではなく、今は大学院への試験枠を待ちながら研究室に席を置いている。この春、一度そのチャンスに近づいたのだが、彼より以前から推薦を待っていた男が先に其の枠を得た。だから又彼は待つ者になったのだ。収入は同年代の就職組から比べれば半分にも満たない程度だけれど、研究助手という立場で雇われながら自分の探求を続けることができ、彼の師事する恩師が実はかなり高名な人物である為、周囲から見れば大層恵まれた境遇だと言える。
ずっと待ち続けていた男が選ばれた事に特別な感情はなかった。次は自分だと判っているし、それも大して先の話ではないと知っていたからだ。
「申し訳ないが、今回は彼に譲ってやってくれ。」
発表の前々日、恩師が直接こう言った。ジュリアスも異存はなく、異存どころか順当な結果だと大きく頷いた。
自分が来るよりずっと以前から其処で待ち続けていた男が枠を得たのは当然で、真っ当で妬みも嫉みも覚えはしない。ただ
己が先だと聞かされた日、珍しくその男に誘われて酒を呑んだ時、ジュリアスは全く別の部分で男を羨んだのである。正確に言えば羨ましかったのは男ではなく、その男が待たせているとほろ酔いの顔で照れながら語った相手だった。
『これでやっと先を二人で考えられる。』
そう言ってゆるゆると顔を綻ばせた男に、情けない笑顔を向けるしか出来なかった。相手がどんな人なのか知らない。会ったことも見たことも、男なのか女なのかも。そんな想像すら浮かばない誰かが無性に羨ましくて仕方がなかった。
次が乗り換え駅だと車内放送のひび割れた音声が言っている。でもジュリアスから何のリアクションも起きない。座ったままで、自分の膝のあたりに視線を落としている。程なく車体は掠れた軋みを引きずってホームへと滑り込む。圧縮した空気の音と共にドアが開いた。流石にターミナル駅だけあって降りる人間も乗り込んでくる人間も一際数が多い。一瞬、中身がそっくり入れ替わったような錯覚さえ覚えた。
発車のベルがけたたましくホームに轟き、ドアが閉まると苦しげな身震いをしてまた電車は走り出し、結局ジュリアスはその席に座り続けた。
実はほぼ1時間くらい前から彼はそうしている。同じ駅を通過したのは2度目だった。私鉄に乗り換える為に環状線を降りる気になれず、2回目のチャンスを見送ったのだ。家に帰りたくなかった。玄関のドアを開けた先に何があるのかを見るのが嫌だった。だから彼は終点のない列車に当てもなく乗り続けている。
昨日の夜のこと、ジュリアスは同居人から妙に厚く膨らんだ封筒を差し出された。相手は何も言わない。一体何だ?と目線で問いかけても自分に向けた顔には何ら変化はない。仕方なしに中身を見た。封筒には束になった札がぎっしりと詰まっていた。五十枚か、もしかしたらそれより多いかもしれない。
「どういうつもりだ?!」
「家賃とか…、光熱費とか…、それで2〜3ヶ月なら足りるだろう。」
「意味が分からん。」
「暫く留守にする…。足りない分は帰ってから返すつもりだ。…貸しておいてくれ。」
「仕事……か?」
「いや。」
「では、何だ?」
「ネパールに行こうと思う。」
「…????」
会話は其処で途切れた。
彼らは子供の頃からの知り合いだ。所謂幼なじみと言う奴である。家が近所だったのと同じ歳の子供が他に居なかったから自然と遊ぶようになった。小中学校は同じ、高校と大学は別だった。ジュリアスは少し家から離れた私立の共学高を選び、相手は歩いても通える公立に進んだ。学力的には私立の方が上で、周囲はジュリアスと同じ高校を薦めたのだが本人はがんとして承知せず、結果最初から言い通した進路を選択したのだ。
後でジュリアスが理由を訊いた。相手は事も無げに『近いから。』と答えた。彼の理由は小さな頃からいつも変わらない。実に簡単で、それなのに一度言い出したら決して曲げない。そして、子供なら子供なりの少年なら少年なりの人生の岐路に立った場合でも、他人に相談したり意見を求めたりしないのだ。
これほど近しい処に在って、兄弟と言っても過言ではないくらいの時間を共に過ごしたにも関わらず、ジュリアスは一度として彼から相談を受けた記憶がない。逆にジュリアスは何くれとなく彼の意見を仰いできたのにだ。何時も一人で決めて一人で行ってしまう。そのたびにジュリアスは悔しさの拳を握ってきた。
大学を卒業する直前、ジュリアスが就職を持ち出した時も同じだった。旅行に行くとだけ言い、何某かの企業に収まるつもりなどサラサラないようだった。バイトで金を貯めて旅行に行く計画は予定通り敢行され、一年ほどアジアの何処かをふらついて戻って来た。足りない単位を消化し、半年遅れで卒業を果たした。出立する前、身勝手な相手はジュリアスに卒業したら一緒に住みたい等と更に身勝手な事を垂れた。でもジュリアスはこの掴み所のない男が好きだったから、自分でも馬鹿だと思いながら其れに頷いた。それ以来彼らは同じ部屋に住んでいる。
こんな調子だから就職などは難しいと践んでいたのに、相手は中途採用の口をあっさりと見つけてきた。知り合いだか誰だかに紹介されたと、近隣ではそこそこに大きな店舗の商品管理だと思われる部署で職を得たのだ。丁度、スーパーとショッピングセンターの中間に当たる店を鉄道の沿線に幾つも出している会社の本部で、相手の素っ気ない説明から察するにどうやら商品管理部に在籍したのだと理解した。
普段着の様な格好で出かけていくから、当初は本採用ではなくバイトなのではと訝しんでいたが、揃いの上着が制服として決まっているから畏まった服で行く必要がないのだと後になってから知った。それから一年半、彼は淡々と勤めに出ていた。
「仕事はどうするのだ?」
「辞めた。」
「辞めた??」
「ああ、辞表と言うのを初めて書いた。」
漸く再開した会話も其処でジュリアスが絶句してしまったから続かなくなった。その後、相手は少しの間何か言葉を探していたが諦めたのかそのうち黙り込み、ジュリアスはジュリアスで何も言う気が失せてしまった為、有耶無耶なまま終いになる。
脱力感が押し寄せてきて、先にベッドへと潜り込んでしまった。後から相手がやって来たのに気づいていたが、知らん顔で寝たふりを通した。本当は聞きたいことも、言いたい言葉も唸るくらい腹の内に溢れていて、ただどれを持ちだしても相手の決意を揺るがせたり、まして覆すなど到底無理だと分かり切っていたから全部飲み込んで忘れたふりをしたのだ。
一緒に住めば何かが変わるかと思った自分が全く考えたらずだったと思う。物理的な距離が掴みきれない相手の内面を僅かでも見せてくれる気がした軽率さに呆れかえった。心が離れたとか、そうした意味ではなくて、最初から近くに在ると思いこんでいたのは自分だけなのだと改めて言われた気分だ。いつも置いて行かれると悔しく思うのは実は錯覚で、元から立っている場所や歩いていく道が全然違っているのを同じだと勘違いしていただけなのだ。
今朝眼を覚ました時、部屋には誰も居なかった。まさか昨日の今日で出発してしまう筈などあり得ない。でも、家に帰っても真っ暗な部屋が自分を待っている想像しか浮かばない。そして、まさかとした予想が当たってしまい、彼の荷物がなくなっていたらと考えたら、乗り換え駅で降りるタイミングを外していた。
電車はゴトゴトと鼓動の様な音を引きつれて次の駅へと向かっている。もうすっかり窓の外は夜になり果てており、道路より高くなった高架の上を走っているから、同じスピードで後ろへと飛び去っていく風景は、丁度二階屋の窓が並んでいるのが見える。黄色や白や薄いミルク色や、カーテンの引かれた窓はオレンジだったり緑だったり、未だ家人が帰っていないのかぽっかりと穴の空いたような灯りの消えたのもある。不規則に散らばったそれらが、短い光の帯を引いて流れていく。でも、ジュリアスは窓を見てはいなかった。相変わらず揃えた膝の近くへ視線を向け、しかし澄んだ青色の眸は特に何も映してはいない。心は遠く、今頃何処で何をしているのかわからない相手の面影を追っていた。
昨夜、封筒を差し出した時の何だか自慢げな顔、其れがどうした意味かをジュリアスが悟りまるで詰問するかの問いを向けた時の困ったような顔、テーブルの反対側で畏まって正座しながら賢明に言葉を探す真剣な顔、それからベッドに入って来たとき、実際には背を向けていたから見えはしなかったけれど、小さく『ジュリアス…?』と呼びかけて来た時にしていた筈の情けない子供がするかの顔。つい昨日の事なのに、浮かんでは消えていく彼の姿は日に焼けたスナップ写真の様に薄く色が抜けていた。
あの時、様子を伺う風にかけた声の後には何が続いたのだろうと、自分が狸寝入りをしたのを棚に上げジュリアスは幾つかの台詞を思った。「悪かった」なのか「済まなかった」なのか、それとも前振りもなく伝えたい言葉を真っ直ぐに吐き出すつもりだったのか、そんな事を今更色々と考えたところで正しい答えなぞわかるわけではない。
『聞いてやれば良かった…。』
電車の音にかき消され、誰にも届かないのを承知で呟いた。他の人間には歯に衣を着せぬ物言いが出来るのに、どうしてもあの男の前だと上手く振る舞えないのを、また改めて思い知った。
ガクンと車体が揺れる。もう次の駅へと到着したのだ。ブレーキがかかり、車輪と線路の擦れる金属の悲鳴が幾度が鳴った。目線だけを上にあげれば、ホームの蛍光灯が妙に白く眩しかった。ゆっくりと落ちる速度、駅名を告げるひび割れたアナウンス、少しがたついたドアの開く音。降りるより乗り込む人の数が多い。数人の女子高生は硬質な不協和音で喋りながら乗ってきてドアの近くを陣取る。
持ち上げていた目線の先、向かいのシートにぽつりとある空席に黒っぽい塊が座るのが見えた。覚えのある布地の質感が気になって其れを確認する。詰め襟の学生服が窮屈そうに収まっていた。自分が其れを身につけていたのは別に五十年も六十年もむかしのことではない。たった十年前のことだ。子供と大人の狭間で、どちらへ行ったら良いのか迷いながらゆらゆらと揺れていた十代の頃だ。
最初から身長のそこそこあったジュリアスは誂えたように、真新しい制服を着こなした。新品の学ランが肌に馴染み、首に当たるカラーが少し草臥れて、摺れて痛かったのが気にならなくなって、がちがちとした軍服の様なそれが自分の一部になったと思えたのが嬉しかったのを覚えている。でも、入学時からは予想もつかないくらい爆発的に背の伸びてしまった彼の場合は、制服が馴染むどころか誰かからの貰い物のように全くサイズが合わなくなってしまい、年中きつそうに背を丸めていた。
思い返すと、どうもその頃から彼の考えや気持ちが分からなくなった。数年前までは訊ねれば短いなりにも戻った言葉が、『別に…』とか『さぁ…』とか意味を持たないいらえに変わって、時には五月蠅そうな視線しか返らなくなり、はっきりと子供だった時なら明確な返事があるまで食い下がった自分が、何故か答えを諦めるようになっていた。
言いたくないものを無理矢理に聞き出すのは大人することではない。それ以上を聞くまいと口を閉ざす時、ジュリアスは自らにそう言い聞かせた。これは真意であるし、建前でもある。本当は知りたい気持ちに対する折り合いだ。浅ましく相手の内を暴きたい欲望と、まさかそんな事を考えてなどいない顔を作って、彼を自由にさせる物わかりの良い自分を作る為に、生み出した言い訳のようなものだろう。そう考えると、己はこの十年間同じことを繰り返したいたわけだ。子供のくせに大人びた考えを早くから身につけたと言えば聞こえが良いが、実のところ十代の小僧から全く進歩していないのである。そう思ったら急に自分が馬鹿に見えてきた。
昨晩、彼は様子を伺う風に自分の名を一度だけ呼んだ。あの響きと同じものをこれまでも幾度か聞いた記憶がある。相手の態度に続きを逸してしまった折り、困惑しどう返したら良いのかと口を噤んでしまった折り、体の良い台詞を捜して押し黙った折り、そして其の実相手を問いつめても聞き出そうとする己を押さようと敢えて言葉を納めた折り。いつも聞こえてきたのが、あの躊躇いがちな声音だった。
本当のところ相手は聞いて欲しかったのではないのだろうか?
不意に今まで考えもしなかった仮説生まれる。もっと踏み込んで、上手く出せずにいる言を引き出してくれと願っていたのなら、己は見当違いな対応を続けていたことになる。ただの仮説、単なる『もしも』でしかない筈が、脳みそに薄く浮かんだ其れが見る間に思考の隅々へ広がって、するとこうしては居られないとするゾワゾワとした焦りが全身を支配した。さっきまで、暗い部屋だとかなくなった>荷物だとか置き忘れられたような数行の手紙等という、在りもしない想像が意識を占有していたのが嘘のようである。
随分と勝手な事だと自らを笑う。今までに飲み込んで無かったことにしていた無数の問いやら台詞やらが、腹の底でむくむくと膨らんで出口を探し始めている。
『早く…帰らなければ…。』
ジュリアスの気持ちを察したとでも言うかに、車両は丁度次の駅へ入ろうとしている。未だ停車もしていないのに彼は席を立ちドアの近くへ向かう。相変わらずノイズの如き会話を続けている女子高生の横をすり抜けながら、己の思考を見事に転換してくれた件の学生をチラと確認した。自分にもクラヴィスにも全く似ていない、錆びたような髪色の学生が座席に収まり携帯の画面を凝視していた。
車内放送が停まる駅名をガサガサと告げる。ドアが開いたら直ぐに降りてさっき通過した乗り換え駅へ戻る電車に乗らなければと思う。今の時刻、私鉄の急行はホームにいるだろうかと腕の時計に目を落とす。この環状線は確か二分か三分の間隔で運行していた筈だ。其れだけは有り難いなと、滑り込んだ駅のホームを眺めながらずっと引き結んでいた口元を微かに緩めた。
都市部から私鉄に乗って暫く行くと丁度県境に川が流れている。線路は鉄橋を渡り其処を越える。更にそのまま幾つかの駅をやり過ごせば、急行は通り過ぎてしまう駅が数個並んでいる。他の路線への連絡がないそれらの一つ、十数年前までは郊外の住宅地と括られていた街の最寄り駅に当たる、其処の改札を出た処に男が独り突っ立っている。彼がその場所に来たのはまさに帰宅ラッシュ真っ最中の時間帯だった。
二本の急行に挟まれた各駅停車が停まると、一塊りの人間達が改札から吐き出されてくる。男は塊の中を泳ぐかの眼差しでざっと眺めるが、どうやら待ち人は居ないようで、見つからないのを確認するたび少し肩を竦めたりした。元から表情に乏しいのか、乗っていないのを予め念頭においているからか、ほっそりとした顔には殊更の落胆は昇らない。少しだけ眉を寄せる程度の変化を、しかもほんの一瞬見せただけで又駅舎の壁に寄りかかって次を待つ。
日が落ちるともう涼しいと言うよりは肌寒い気候にも拘わらず、男はコットンの薄手のシャツを一枚羽織っているだけだ。上着を持っていないし、足下を見ると素足にサンダルを突っ掛けている。此処で誰かと待ち合わせをして何処かへ行く風には決して思えない。近所に住んでいて、これからやって来る人を待っているに違いない。約束の時刻の間近に来たから直ぐに待ち人に会えると践んで、だからシャツ一枚という薄着のままなのではないだろうか。ところが相手はなかなかやって来ない。恐らくそんな事だと想像がつく。
電車が出ていってしまうと駅は急に音の数が減る。人のざわめきが通り過ぎて、刹那の喧噪を逸すると後は線路に
沿ってぽつぽつと並ぶ飲み屋から聞こえるラジオだかテレビの音と、駅前のロータリーに時折入ってくる車の音、あ
とは客待ちのタクシーのエンジン音くらいが薄く発っているくらいだ。
彼が来た頃は、それでもホームに電車を待つ人間が何人も居たから、何某かの会話が聞こえもしたがもう間もなく八時になるとする今になると改札を出た其処には彼以外に人は居らず、何だか薄ら寂しい空気が流れるだけになっていた。
急に思いついて家を飛び出して来た事を少しだけ後悔する。普段なら待ち人はほぼ決まった時間に帰ってくる。けれど何故か今日はその時刻に到着した電車から降りてこなかった。可笑しいと首を捻りながら、そう言えば今日は所用でどこだかに資料を貰いに行くと昨日の夕食で言っていたのを思い出す。行った先の場所を知らないから何とも言えないが、それで遅いのだろうかと考えた。
話したい事があったのだ。でもわざわざ駅で待っている必要はない。家でテレビでも見ていればそのうち帰ってく
る相手である。戻って来たなら、夕飯の席で話しても全く問題はなかった。最初はそうするつもりで、ゴロゴロと新
聞を読んでいたのだが、不意に思いついて駅まで来てしまったのだ。
昨夜、結局言い出せなかった諸々をきちんと説明したかった。自分はどうも会話を上手く繋げるのが苦手だと自覚している為、待っている間に頭の中で言うべき内容を纏めたりもしていた。だが、面と向かい改めて話し始めると折角脳みそに覚え込ませた単語が上手に並ばなくなってしまう。
きっとその場の雰囲気に気圧されてしまい、思考が空回りするから悪いのではないかと思えば、もうその時点で尻が落ち着かなくなった。もっと違う場所で、さり気なく何気ない流れの中でなら流ちょうでないにしても幾分マシに話せる気がした。その時思いついたのである。駅で待って、降りてきたジュリアスと肩を並べてブラブラと歩き、何でもない世間話をする気安さで語れば良いのだと言うことを。
妙案だと一人で納得した。頃合いを見計らって駅へと向かった。予想では待っても所詮十分かそこいらだと読んだのに、その姿は二時間近く経た今になっても現れない。しかし今更家に戻っても仕方がなく、それにここまで待ったのだからと少しだけ意地にもなっていた。失敗したのは上着を着てこなかったくらいのものだ。次の電車には乗っていそうな気がする。男の勘はどうしたわけか当たることが多い。きっと次だと根拠のない確信を抱いて彼はそれを待った。
ペンキの禿かかった壁に凭れて、もう一度伝えなければならない事柄を整理する。以前、一年を費やして廻った旅の途中に知り合った人間が、これから行こうとしている土地でガイドの様なことをしている。其の国は現在内政が酷く不安定で、もしかすると海外からの旅行者を受け入れなくなる可能性がある。その前にどうしても行きたい場所があり、旅費の貯まった今を逃したくなかった。
『神の住む山があるのだ…。』
連なる頂きの中でも一際高い其処は、何処よりも早く暁光の一筋が射すと言う。彼の国の山々は世界で最も標高が高く、その中で一番早く明けを迎える山の頂には神が住むと言い伝えられているらしい。先ず己の眼で見たかった。そして、それが想像した通りの神々しい美しさであったなら、次は二人で行かないかと誘いたかったのである。
昨夜は押し黙った相手の様子に真意の一欠片も伝えられなかった。これまではそうなると気後れして中途半端なまま終わらせていた。しかし今回は違う。一つのけじめを付けたかった。習慣のように身に付いてしまったなれ合いを捨て、自分と相手の為に新たな関係を作りたかったのだ。出来れば神の山に臨みながら、物理的に其れが無理であったなら別の場所でも仕方がないけれども、必ず言おうと決めていることがある。それは『約束』だ。そう遠くない未来への約束を告げたかった。単なる幼なじみから、もっと深い結びつきになる為に相手へ贈りたい一言だった。
遠くから微かに電車の警笛が聞こえる。よし!とばかりに男は壁から離れた。ホームに到着を知らせるアナウンス
が流れる。脳裡に、改札から出てくる彼の姿を描いてみた。自分を見つけた時、出来れば笑ってくれれば良いと腹の
底で小さく願った。
了