*キスマーク*
現代パラレル/大学四年の夏/作中のゲームはPケモン
灼けたアスファルトは白く、真夏の陽射しを写して目蓋を閉じてもその裏に光の影を焼きつけていた。
コンビニのバイトを決めたと聞いた時、まさか…と思った。けれど実際足を運んでその様子をみたなら瞬時に納得してしまった。昼の最中であるにも拘わらず、客は一人か二人でカウンタに置かれた弁当をレンジに入れるのも余裕の有様だ。ただでさえ愛想などとは縁遠い男が、訪れた客に笑顔で『ありがとう』等と言うのは想像を絶する。が、実際の現場に立ち会ってみれば客も伏し目がちに手元のコインパースを見つめたままだし、レジに立つ男が泣いていようが、笑っていようが無関係極まりない。
ボソボソと何か言っても、適当に『ああ…』とか『うん…』とか返せばそれで成立してしまうのが馬鹿らしくも思えた。結局、12時からの一時間でやって来た客は五人だった。店長は一度も顔を出さず、ドアを一枚隔てた奥に引きこもったままなのが実に不思議だった。バイト初日の夜、アパートを訪ねると何だか満足そうな顔をしている。暇な店だから選んだのだろうとからかうと、如何にもそうだと言う。昼間に覗いたのだと振ると、知っていたと答えが返る。大した接客もしないでバイト代を貰う魂胆だなと突っ込めば、これは否定された。
「暇な店だと、残った弁当が貰える。」
実に嬉しそうにそう言われ、ジュリアスは盛大に脱力した。
四年になりそれぞれが進路を模索し始めた時、ジュリアスは早々に研究室に残ると決めた。そのまま時期を待って大学院に進むのだと、至極当然の顔で言いながらお前はどうするのか?と小さなテーブルを挟んで向き合う相手に訊ねた。彼は少し考えたあと、旅行に行こうかと思っていると見当違いな事を呟いた。
「そうではなくて、この先の身の振り方を訊いているのだ。」
「……、バイトして金が貯まったら旅行に行く。」
どうやら其れが彼の近い将来にむけたビジョンらしい。長い付き合いだから、大概のことには驚かないし彼の我が道を行く的行動には慣れているつもりだったが、此には流石に面食らった。
「旅行に行って、その後はどうするのだ?」
「帰って来て、またバイトして金が貯まったら別のところに行く。」
「仕事はどうする?」
「だから…、バイトをする。」
其れ以外に確固たる先を考えていないのは明かで、いくら問うたところで堂々巡りになると判ったから、その不毛な会話を切り上げる事にした。
「それで、何処に行くつもりなのだ?」
「最初は……、チベット。」
何処からそうした発想が出るのかが皆目理解できなかった。
彼の専攻は経済で、それを選んだのは倍率が低いからと言う、実に分かり易い理由である。普通に卒業して特に高望みをしなければそこそこの就職先もある筈だ。ところが四月が終わり五月が過ぎても学生課に顔さえ出さないのが気になって訊いた結果がそんな答えだ。
だいたい小さい頃から一つ処にジッとしていられない子供だった。いや、椅子に座らせておけば大人しくしているのだが、気づくと寝こけている。ただ、何かに曳かれる様にある日突然フラフラと居なくなる事があり、周りが大騒ぎをしているとヒョッコリ帰ってくるのだ。刹那的な思いつきで出かけるらしく、一晩戻って来なかった時は捜索願まで出されて、翌朝ミルク色の朝霧の中から急に姿を現ししかも自分の家に帰る前にジュリアスの自宅に寄ったりしたものだから、帰宅した途端養父母にみっちりと説教をくらっていた。
何処に行っていたときつく問いただされても、悪びれもせずに『山』とだけ答える。根気よく訊ねるうち、暇なので屋根に上ってみたら遠くに山が見えたらしい。真っ直ぐ歩いて行くと充分たどり着けそうに思えたので試しに行ってみたのだと言う。それで山はどうだったのか?と聞いてやると、途中で思ったよりもずっと遠いのに気づき、更に腹が減って喉も渇いたから諦めて帰ってきたと、普通の顔で語る。別段残念そうでもなかった。それなら次ぎは一緒にキチンと用意をしていこうとジュリアスが誘うが、気が済んだからもう行かないとにべもなく断られた。
ジュリアスはそんな時、酷く怒って彼の周囲へ配慮しない態度を責めた。でも、今考えてみれば常識とか予定とかに縛られない彼の有り様が羨ましかっただけだと思う。
不思議な子供はそのまま不思議な大人になって、今はジュリアスの前にだらしなく座ってビールを飲んでいる。そして未だ二日目だと言うのに、明日もバイトがあって面倒だとつまらなそうに一人ごちた。
「クラヴィス…。」
「ん?」
「何故、旅行で、どうしてチベットなのだ?」
「さぁ…。」
「理由くらいあるだろう?」
1〜2分考え込んだあと、行ったことがないからとだけ返ってきた。それなら世界中、何処も彼処も行ったことのない場所だらけだと思ったが言わずにおいた。不思議な大人になった男は、相変わらずジュリアスをやりきれない不確かな気分にさせる。昔は憧れと悔しさだった其れが、最近は寂寥かもしれないと考えている。いつも勝手に一人で決めてしまい、自分は取り残されてばかりいるからだろう。
長続きしないと践んでいたのに、夏休みになってもバイトは続いていた。ジュリアスは三日に一度研究室に行く用事があるので、途中少し迂回して顔を出すようにしていた。昼時からずれた一時過ぎに行くと、店の裏手にある猫の額ほどの資材置き場で弁当を食っていたり昼寝をしている。菓子パンを搬入する時に置いていく青い樹脂で出来た箱を並べ、その上に潰した段ボールを広げて横になっている事が多い。丁度建物の影になるから、アスファルトの照り返しはあっても直接の陽射しは避けられる。
また店の裏側は畑になっており、今はトウモロコシの尖った葉先が空に向かって一斉に伸び上がり、その間を抜けてくる風が案外涼しいので格好の休憩所になっているのだ。来客用の駐車スペースを回り込んで建物の影からそっと覗くと、思った通り読みかけの雑誌を顔の上に広げてすっかり眠り込んでいる姿があった。長い手足が箱の上からずり落ちて、束ねていない髪が吹いてくる風にながされてサラサラと揺れている。時折強く吹いてくると、其れは誘われた如く舞い上がり暫く乱れるままに踊っていた。
もしかしたらずっと以前から就職など考えていなかったのかと、真っ直ぐなクセのない髪が随分長くなっているのを見て気づいた。突飛な行動で驚かせる割りに、普段は寡黙で目立たない男だから、案外堅実な道を選ぶと勝手に思いこんでいた自分の洞察力の無さが笑える。言われてみれば毎朝決まった時刻に同じ電車に乗り、ネクタイをきっちりと結んで通勤する姿など想像できなかった。もしも自分がちゃんとした仕事に就いてくれと懇願したら彼は願いを聞き入れてくれるだろうかと偶に頭の中でツマラナイ考えを浮かべることがある。でも、どう捻って様々な可能性を持ち出しても心躍る結果を引っ張りだせず、嫌な気分になるだけだから最近は意識して考えない事にしている。彼は、きっとそんな風に誰かに縛られるのを一番嫌うだろうし、それに自分が彼にとってそうした特別な存在とは思えないから、想像ですらしてはならないのだろう。たった一度だけ『好きだ』と言われた程度の、単なる幼なじみなのだから。
足音を忍ばせて近づこうとした。子供じみたやり口で突然声をかけて驚かせようと息を潜める。こんな場所で熟睡する方が悪いとか、そんな風にからかってやりたかった。ところが残り二歩まで詰めた辺りで地面に付きそうに投げ下ろされていた腕が上がって顔を覆う雑誌を持ち上げた。無性に悔しく思えた。建物に隠れてそっと覗いていたのも知っていたかもしれない。巧妙すぎる狸寝入りだったのだろうか。
「狡いな。」
だから率直に責めみた。
「何が…?」
「寝たフリは狡い。」
「フリなどしていない。」
「嘘までつく。」
「嘘じゃない…。」
今、丁度目が覚めたと大きく伸びをしながら欠伸をした。真昼の陽射しが眩しいから、目がしょぼついている。本当に眠っていたのかもしれない。
普段よりもっとぼやけた顔を向け、何を考えているのかさっぱり判らない表情の男が唐突と腕を掴んだ。引き寄せながら囁く様にジュリアスと呼ぶ。嫌がって離れようとする身体を力任せに抱き込んで膝の上に拘束する。逃げる顔を両手で包み、あっという間に唇を重ねた。
「ん……。」
鼻に掛かった声がジュリアスから洩れるのは、もう観念してしまった証拠だ。拒む素振りも離れたがる仕草も忘れたかに、口唇を滑る舌を迎え入れようとしている。力無く下ろしていた筈の腕が、気づけば腰に廻っていた。そして、しっかりと目蓋を閉じ、徐々に口内を浸食する舌の感触を辿っている。その柔らかさとか、ざらついた表面とか、粘膜を擽る弾力感とかを、覚え込もうとしているようだ。ある日、自分の前から消えてしまっても忘れない為に。
「今夜…、行っても良いか?」
離れた薄唇が耳元に問いかける。断れるわけがない。こくりと首を動かす。
「何時に帰る…?」
「七時過ぎには…。」
ならばその頃にと言い終わった瞬間、大きく開いたシャツの胸元に唇が降りた。鎖骨の少し下あたりをきつく吸われた。
「あっ…。」
身を引くより先に唇が離れていったのがとても残念だったなどジュリアスには言えなかった。
バタバタと騒がしい足音が聞こえる。だからあんなにもサッサと止めてしまったのかと気づいた。
「あ!!いたーーー!」
数人の子供が現れる。七〜八歳くらいの小学生は、無遠慮に駆け寄ると手にした四角い箱状の物を差し出した。
「やっぱり、捕まえられない!」
「やって!!」
「すぐ逃げちゃうんだモン!」
「スッゲー、むずかしいヨー!」
やれやれと肩を竦めたクセに、受け取ったゲーム機のスウィッチを入れた途端えらく真剣な顔で画面を見つめている。慣れた手つきでセーブデータを呼び出し、ドットで描かれた子供の姿を器用に操る。
「そこ!その樹の近くで逃げた!」
「途中まで上手くいったのにちょームカつくんだ。」
「コイツ捕まえないとリーグ戦で勝てないからサァ〜」
「この前みたいにゲットしてよ!」
少し前、近所の小学生に懐かれたと言っていたのを思い出す。なんとか言うゲームで誰も捕まえられないモンスターを捕まえてやったからだ。自分らでは不可能なマップに行き詰まると数人で押し掛けてくるのだと苦笑していた。
ギャラリーが余りに騒々しいと、少し黙ってろなどと気のない声で叱りつつ、しかし小さな液晶モニタを食い入るように凝視し、完璧にのめり込んでいるのは見え見えだった。ジュリアスが立ち上がり帰ろうとしているのにも気づいていない。数分前、あれほど深いキスをしていたのに、彼の興味は既にゲームの中に移ってしまっていた。また置いていかれたのだとジュリアスは溜息を吐いて歩き出した。建物を回り込もうとした刹那、後ろから大きく呼ばれた。
「ジュリアス!」
驚いて振り返ると子供らに囲まれた男が自分の胸元を指さしている。意味が図れず首を傾げた。
「お前、丸見えだぞ。」
可笑しくて仕方がないと声を出して笑う相手の指が指し示す辺りに視線を落とし驚愕した。白い胸元、鎖骨の少し下に朱色の痕がくっきりと残り、襟元を広く開けているから向き合えば丸見えになっていた。大慌てで釦を止める。襟足にジワと汗が浮かんだ。足早にその場を離れるジュリアスは大層怒ったような顔をしていた。
店舗の前に広がる駐車スペースは何の遮蔽物もないから真昼の陽射しが容赦なく降り注いで真っ白に見えた。何処かから今年最初の蝉の声がする。目眩を覚えるくらい眩しい光の下で目蓋を閉じてもその裏には光の影が映る。急いで研究室に向かわねばと時計の針を確認して歩速を速めた。
もう自分の事など忘れてしまい、何とか言うモンスターを必死で捕まえようとしている筈の男が、この日の夜に何を言うつもりかなどジュリアスは知らない。
『卒業したら一緒に住もう…。』
まさか、そんな言葉があの不機嫌な面から告げられるなど奇跡でも起こらない限り欠片も思いつかなくても仕方なかった。不思議な大人になった男は、どうやらジュリアスが思うよりはずっと彼のことが好きらしい。
了