*風に吹かれて* -4-

現代パラレル/70年安保

 『おい!!!!!!!』
きっと何度も呼びかけていたのだろう。振り返った先にあったのは緊張に強張った男の顔だった。
「岩澤を見たか?!」
唐突と問われクラヴィスは咄嗟に答えが返せなかった。男が居場所を尋ねたのは自党の党首であったのだが、こんな何千人いるか知れないデモのまっただ中で突然『見たか?』と聞かれても即座に答えなどできようもない。
「本部を出てからは見ていない。」
周囲の騒音にかき消されぬ様、クラヴィスは叫ぶかに答えた。
「見かけたら絶対に掴まえて伝えろ!」
有無を言わせぬ強さで男は命じる。そして言った。
「今夜のデモは急進派の連中のワナだ! 岩澤と…お前の知り合いの恐ろしく綺麗な顔のアイツ。他にも何人かをハメる目的でガセが流されている。警官隊と機動隊だけじゃない。刑事が紛れてアイツらを引っ張る為に張ってるんだ。」
既にそれが伝わっているなら問題ないが、もし知らずに居たら間違いなく放り込まれると彼は早口に捲し立てた。言い終わるや否や、男は再び蠢く人並みの中にツッコンで行く。人垣に消える間際、彼は振り向き思い出した様な笑顔でこう言い残した。
「安心しろ。お前の面は割れていない。」
「分かった。」
クラヴィスが返したそれが伝わったかは分からない。既に男の姿は黒い人の塊中に飲み込まれていた。



 闇雲に人並みの中を泳ぎ回った。見知った顔を見付ければ瞬時に声を掛け党首とそしてジュリアスの所在を問うた。知っていると答えた者は皆無で、その度にクラヴィスは事の危急を伝えた。当然、自らが言われた通りを命じる。掻い摘んだ言葉の断片から意の全てをくみ取れる輩もいたが、大概は何だか分からないが伝えてやると言った程度の反応だった。
 小一時間前より混乱は広範囲に広がっていた。黒煙はそこ此処で上がり、大きな集団体系を取っていた筈のデモの波は割り入る警官隊によって細かく分断されている。遙か先から風に乗って機動隊のスピーカーがこれ以上の進行を止めろとがなり立てる。火炎瓶の煙なのか、それとも何処かで催涙弾が使われているのか。何かが目に滲みて視界がにじむ。首にかけたタオルで何度も顔を拭った。
 一部のセクトが団結してジュリアスの主催する党派とそれに関わるセクトを潰そうとしている噂を耳にしたのは昨日今日ではなかった。実際、巨大に膨れ上がった集団が弱小のそれを傘下に入れようとする動きはあったし、趣旨が真っ向から対立するセクト同士が武力抗争を繰り広げているのも知っている。最初は皆が同じ目標を掲げて動き始めた筈が、いつしか己こそが誠の革命戦士だと力による主張を叫ぶ者達が活発に行動を起こすに至り、他主義の排除に明け暮れる党派が急増した事を否定できない。
 現在、膨大な参加者を抱える集団は武力による抗争を叫び、来るべき革命は市民戦による勝利以外にはあり得ないと拳を振り上げる武闘派である。彼らの対極にあるのがジュリアスの主催する党派であるなら、今ヤツらが一掃しなければならぬと考えるのは正に其処でしかないのだ。焦りが思考を追い立てる。クラヴィスは一度立ち止まり一渡り周囲を見回す。やはり彼の姿はない。忌々しげに舌打ちをしながら、今度は人の波を逆に戻り始める。
 ジュリアスが何故あの壇上に立ったのかを知っている。彼がそうするしかなかった、胸にしまう真意を聞いてしまった。自分だけがそれをうち明<けられているから、ジュリアスが自分にだけ晒した痛みを受け取ったのだから、彼を体制に渡してはならない。まして、薄汚くクダラナイ奴らに貶められるのなど以ての外だ。例え何千人がこの場所に在ろうとも、彼を見つけだし連れ出さなければいけない。何としても……。
 狂気に踊る人間をかき分けつつ、クラヴィスは焦燥と自戒にきつく唇を噛みしめた。



 あの日、壇上で呆れるほども流麗な語句で会場を魅了したジュリアスと対面したあの後。帰り道の途中で唐突と野暮用を告げて仲間から別れたクラヴィスは、会場から一人帰路につくジュリアスを掴まえる。何が聞きたいかか分かるか?と訊ねれば、その輝く髪をかき上げながら彼は戻って来ると思っていたと笑った。夜通し開いている店は何軒か知っていた。が、ジュリアスは事も無げにウチに来ないか?と誘った。終電には間に合っただろうに、彼らはバスでも有に三十分は掛かるジュリアスの自宅まで徒歩で向かう。
 互い以外の誰かが存在する空間に身を置きたくなかった。彼らが夜の街を2時間も掛けて歩いた理由はそれだけだった。道すがら二人の間に会話はなく、コンクリートの石畳に響く靴音と通りを走る車の排気音、どこからともなく聞こえる犬の遠吠えだけが全ての音であった。
 招かれるまま室内に入る。想像していたよりもずっと質素な造りの其処には簡素なベッドと二人掛けのソファと机と低いテーブル、一人用の安物のクロゼットがあるだけだった。本当にここが彼の住まいなのかとクラヴィスは舐めるかに室内に視線を這わせた。
「七月の最初だったのだが、以前の場所からここに移ったのだ。」
訝しげな様がありありとしていたのか、ジュリアスはそんな事を言う。
「ここは遠縁から借りている。」
ふと何かに気付き訊ねた。
「あの番号に電話をくれただろうか?」
「ああ…。」
「何度も?」
「そうだ。何度かけてもお前は居なかった。」
「済まなかった…。」
ここには電話は引いていない。ジュリアスは心から済まなそうに頭を下げた。
 本当に何度かけたか知れなかった。朝の慌ただしさを承知で、昼の僅かの空き時間から、間違いなく帰宅している筈の深夜に近い時間帯でも虚しくベルが鳴り続けるだけでジュリアスは決して電話には出なかった。其処に居ないのなら当然だと今更クラヴィスは納得する。
「何から話したら良いのか…。」
ソファをクラヴィスに勧め、自分はベッドの隅に腰を下ろしながらジュリアスは少しの間迷っていた。
「あの国に居る時、戦争とは直ぐ隣りにあるものだった。いくら声を上げて反対したところで、昨日一緒に署名を行っていた友人の兄が戦場にかり出されてゆく。 あそこは、それが普通で…だから殊更に声を上げなければと誰しもが感じていた。 仕方のない事だと分かってはいるが、ここはそうではない…。」
「ならば、何故戻って来た?」
「強引に押し切られた。あそこに居れば、当然そうした運動に傾倒すると思ったのだろう。」
「親が?強引に?……何故?」
「父の事業はこちらから技術を輸出している。 それが軍事に使われていると知ってしまった…。」
自らが阻止しようと抗っているそれに自身の肉親が荷担していると知れば、それが彼であったなら結果は目に見えている。
 以前にも増して運動に身を投じようとする息子を放っておく親などいないと言う事だ。
「この国にも運動があるとは知っていたろうが、それも対岸の火事に対する一時の饗宴だと踏んだのだろう。無理矢理に連れて戻れば、そのうちに熱も冷めるだろうと…。」
熱は冷めるどころか、俄に燃え上がった。稚拙な反発が拍車を掛けたのはジュリアス自身も認めている。休学届けを出したのが六月の半ば、親に与えられた家から今の場所に移ったのが七月。小さな灯火が瞬く間に巨大な猛火となる。知らせなければと何度思ったかしれない、ジュリアスはまるで許されぬ罪を悔いる罪人の顔でクラヴィスを見つめた。
「驚いたろう?」
そんな目を向けるなとばかりに、クラヴィスは唐突と口を開いた。あんなところに自分が居るとは思わなかっただろう?と薄っぺらな笑みを浮かべ空間に漂い始めた沈黙を破る。
「驚いた。」
扉の向こうから現れたクラヴィスを見た時の驚嘆を反芻しながらジュリアスは笑った。
「だが…。嬉しかった。」
同じ意志を持つ者が、ましてクラヴィスであった事が嬉しいと金絹を揺らし彼は美しい顔を笑みで飾る。
『それは…違う。』
ジュリアスの持ちうる意志とクラヴィスがあの場所に居続ける理由は天地ほども離れている。結果的に彼を支持する立場に在っても、それは違い過ぎるのだ。
 彼の笑顔をまともに見られず、クラヴィスは不意に口を噤み視線を足許に落とした。
「いや…、同じではない。」
クラヴィスの胸中に響いたそれが何故かジュリアスの口元から零れる。落ちていた視線が訝しさを伴って僅かに上がった。
「同じ筈がない。私が声を上げる理由は単なる反目と意地と……。 こうしていなければ自分の居場所を確保できないからだ。」
結果が欲しいのではなく、何かをし続けていないと自らを確立できない。自分が其処に在る意義を作らなければ、存在自体が虚ろになってしまいそうで不安で仕方がない。本当にせねばならないのかも、分からない。けれど他に思いつかなかった。
 誰しもを惹きつける言葉を紡いだ唇が、今は忙しげに自戒を吐き出している。何故こんな前触れもなく胸にしまい続けたそれらをぶちまけてしまうのか、ジュリアスは不思議だと考えている。相手がクラヴィスだからなのか?或いは蓄積された全てが、もうこれ以上は沈黙できぬと吹き出したのか定かではない。だが仮にここに座るのが他者だったなら、こんな風に喋ってしまわなかったかもしれない。同じでありたいと望むが故に、真実を吐露してしまいたくなった。きっとそうに違いないとジュリアスは更に忙しく言葉を放つ唇を微かに歪め、笑みともつかぬ表情を浮かべた。



 ジュリアスが言わんとする意は痛いほど理解できる。現実に向けた打破と自己の確立をそれにより手に入れようとしたのだと。彼が内面でそれらを恥じる潔癖さも知りすぎている。だから、もう何も言って欲しくなかった。ジュリアスが己を責める言の全てが同じ切っ先でクラヴィスをも責め立てるからだ。恥じるべきは自分だと、クラヴィスは叫びたかった。居場所を自ら作り出そうと足掻くジュリアスより、ただフラフラと日常を漂ったのち偶然から手に入れた自分こそが謝罪し、悔やみ、自戒せねばならない。自身のいい加減さに比べたらジュリアスの苦い思いなど誰からも糾弾されるわけがなかった。
 『もう、ヤメロ。』と言えば良かった。言葉にするだけで構わなかったものを、クラヴィスは無言で立ち上がり食らいつくかに、目の前の唇を塞いだ。咄嗟に抵抗する両手を押さえつけ、ベッドに押し倒す。本当に止めて貰いたいと思っただけなら、そんな行為に及ぶ必要などないのだ。しかし己の手も足も唇も、触れたいと望む心も制御できなかった。数ヶ月の時間と逢えない距離と埋められぬ互いの虚がSEXに駆り立てたのだろうか。ジュリアスの哀しみと己の愚かしさを紛らわす術はそれでしかないと思いこんだのかもしれない。
 拒絶は確かにあったが、それも数分でしかなかった。唇を無理矢理に合わせた故のかみ合わぬ歯のぶつかる音は数度鳴ったに過ぎない。生暖かいクラヴィスの息が頬を掠め、薄い唇がジュリアスのそれを強引でいながら柔らかく包むうちに抵抗とか拒否などは砂の城壁よりも脆く崩れた。歯列に沿って動く舌が僅かの隙間から更にその内へ忍び込もうと狙っている。細く窄めた尖端が歯茎に触れるたび、くすぐったいと感じるより妙な快感がうなじの辺りを泡立たせる。表皮を吸われるのとも違う、もっと末端を刺激されている感触がジュリアスの内側に小さな熱の凝りを作った。こじ開けるように口内へ突き入れられた舌先がジュリアスの舌を絡め取ろうと動く。それはどこか必死さを思わせ彼は鼻先で気付かぬくらい小さく笑った。
 抗いを止めた両手から離れたクラヴィスの掌が胸を撫で、そのまま股間へと滑り降りる。大して動いてもいないのに、どちらの肌もじんわりと汗に濡れていた。唇を吸いあったまま、股ぐらを探る掌がジュリアスのペニスをやんわりと包み込む。ただそれだけの事で自分の性器がひときわ熱を持ち固くなるのが分かった。触れた部分の変化にクラヴィスが気付かぬ筈もなく、彼の呼吸が一気に早まる。早まったそれに呼応するかに、もつれ合う舌を気が狂うほど吸い上げた。
 息が苦しいからなのか、それもと感じた故かは図れないがその時ジュリアスの躯がビクリと跳ねた。肌を密着させる。胸を腹をその下も勿論。互いの性器が互いの肌に触れ、圧迫され、擦れ、躯を少しずらしただけでも気が狂うくらいの快感が走る。ジュリアスは固く目蓋を閉じていた。その裏に何を映しているのかと訊ねたくなるほどにきつく下ろされた目蓋を飾る金の睫が不規則に震える。クラヴィスはそんな様を半ば焦点を失った瞳で捉えていた。
 閉じ忘れた唇が歪み、堪え切れぬ声が意味を成さぬ言葉となって溢れ出るのを眺めている。足の付け根に当たるジュリアスのペニスから滴る精液がその先を望んでいると訴える気がしてならない。
「アレは……ある…のか?」
耳元に吹き込まれるクラヴィスの声が内耳に木霊して、ジュリアスの官能を恐ろしく刺激する。
「ア……レ?」
何とか問い返すが、戻る答えを理解出来るかが甚だ怪しい。
「中に……何か塗らねば……。」
細い指先がベッドの横にある安っぽいサイドテーブルを指す。薄闇の中、それは異様に白くそして震えて見えた。弾かれたかに躯を離すクラヴィスが乱暴にたった二つしかない引きだしを開き、在るはずの物を探る。
「瓶か?」
「ああ……。」
いかにも軟膏の類が入っている半透明の小さな瓶はペンや紙片の間に転がっていた。精液に濡れた指先が滑って蓋が開かない。クラヴィスは焦れをあからさまに声に乗せる。
『クソッ』
忌々しげな断片が暗闇に落ちた。
 もっと慣らした方が良かったのかもしれないと思いながらも、鳥羽口にまで忍び寄った自分の性器を躊躇いもなく衝き入れる。ジュリアスの喉が震え、噛みしめた唇の端から低い呻きが漏れた。挿入は一種の儀式だ。受け入れる筈のない肉塊を無理矢理にねじ込まれるのだから痛くない訳がない。それは激痛と言っても良いだろう。だが、止められない。蠢く体内の壁がちぎれるかと疑うほどにペニスを圧迫し強く刺激を与える。振りほどくかに腰を動かし、内部の拒絶を快感に変える行為は狂気としか言い様もなかった。
 儀式だから中途で放り出したりしない。してはいけないのだ。だから、途方もない力で貫く。痛みが快感に移行する瞬間とはどんな感じなのだろうかと、バラバラになる思考をどうにか繋いで考えてみた。腰を引き、ズルリと擦れる感触に背を泡立たせながらクラヴィスは勢いをつけて腰を打ちつけた。
 シーツに横たわる仄白い躯が大きく跳ねて、懸命に結んでいた唇から悲鳴が上がった。確かに感じていると確信した途端、叫びを上げる朱を塞ぐ。呼吸と歓喜の声と溢れ出る唾液とそして拘束した舌を狂ったかに吸いながら、クラヴィスは射精した。我に返り、乱れた呼吸が落ち着いた時ジュリアスがいつ達ったのか分からなかった事に気付いた。



 SEXの終わった後はその前の焦燥感や最中の高揚感を越える充足を運ぶ。殊更に肌を密着させているでもないのに、互いの間にある隙間が何かに満たされて埋まっていると感じる。腕を少し触れあわせていたり、足だけを軽く絡めているだけで満足げな吐息が洩れる。
「私は…共感が欲しかったのではないのだ。ただ、分かったと言って欲しい。」
心からの理解や賛同などではなく、言葉にして欲しいだけだと天井に目線を向けたままジュリアスは言った。形にしてくれるだけで充分だし、逆に他の者達の如く手放しで共感を述べて欲しくもないと続ける。
「言うだけで良いのか?」
「そう…。言ってくれるだけで良い。」
ならば…とクラヴィスはすぐ横にある耳に告げる。
「お前の思うままにすれば良いと思う。そう在ってくれ。」
「有り難う…。」
満足したのだろう。ジュリアスは腕を伸べクラヴィスの躯にそれを廻す。そして小さく息を吐くと瞳を閉じた。



 視線を遙か先まで走らせていたクラヴィスは、数メートルの辺りにまた見知った顔が見え隠れしているのに気付く。泳ぐかに身体を動かし群衆をかき分けその男の肩を掴んだ。
「この近くで誰か見かけたか?」
「いや。党員は誰も見てない。」
言い終わらぬうちに男はハッとした風にクラヴィスに顔を向けて『アイツなら見た』と声を張った。
「誰?」
「ホラ!お前の知り合いの…。」
名前が思い出せないらしく男は2〜3度『ホラ、ホラ…』と繰り返した。
「ジュリアスか?」
「そうだ!!ソイツ!!」
「何処で?」
必死で身体を返すと男は後方を指し示した。
「あの茶色のビルの前辺りだ。」
其処は今居る場所から30メートルくらいの距離だった。
「分かった。」
礼を言うのも忘れてクラヴィスは人の波を逆に進む。
 只でさえ僅かの距離を移動できないものを、流れを溯ろうとすればそれは大層な苦労だ。数歩戻るのに恐ろしい労力を要した。何とか目標の前に辿り着いた時には、既にジュリアスは別の場所に移ってしまっている可能性は高い。それでも諦めもせずクラヴィスは周囲を具に見渡す。果たして黒い塊に押しつぶされそうになりながら、何事かを叫ぶジュリアスが確かに居た。
「ジュリアス!!」 1度目は喧噪にかき消され人垣の上に拡散する。歩を進めながらもう一度呼ぶ。
「ジュリアス!!!!!」
蜜色の波がフワリと揺れ、真剣な表情を張り付けたジュリアスがクラヴィスを認めた。
「クラヴィス!」
周囲の壁となる人間達を殴り倒す勢いでクラヴィスはその横に近づく。大きく腕を伸ばし更に名前を叫べば、ジュリアスもつられ手を差し伸べてきた。指先が触れるか否か、クラヴィスは上体を目一杯前に押し出し細い手首を掴んだ。
 渾身で引き寄せると倒れそうになりながらジュリアスが腕の中に飛び込んでくる。
「どうしたのだ??!!」
きっとクラヴィスは途方もなく不可思議な顔をしていたに違いない。一体なにがあったのか?とジュリアスは不安そうに白皙を覗きこんだ。言葉にするのももどかしくクラヴィスは掴んだ腕を強く引き、そのまま人垣の隙間を目指して走り出した。風を切る音にちぎれるジュリアスの声が甲高くクラヴィス!と呼ぶのが聞こえた。
 前方を塞ぐ人の壁を肩で押し退け、進路を確保しつつ歩道まで走った。一旦体勢を整えれば、並ぶ雑居ビルの間にある黒い隙間に見える狭い路地へと駆け込んだ。両側の壁が迫り通るのも難しいかと思えた路地は、予測より幅があり足を緩めることもなく走り抜けられた。裏路地を今度は駅と反対方向に駆ける。表通りの騒音がかなり小さくなる辺りまで上がる呼吸を我慢しながらクラヴィスは走り続けた。不本意に違いなかったろうが、ジュリアスは特に立ち止まろうとするでもなく同じ速度で後に従う。
 此処まで来れば…。何かの炸裂音が朧気にしか届かぬ距離まで来たのを確認したのち、漸く彼らは足を止める。外灯の灯りもない其処で向かい合い、激しく上下する両肩が収まるまでただ見つめ合っていた。
「本当に…何があった?」
まだ上がる息の合間に先を放ったのはジュリアスだった。その様子だと詳細は全く知らされてはいない。
「今夜のデモは仕組まれた…ワナだ。」
先頭が機動隊の作る最終防衛線に到達した時狼煙が上がる。武器を手にした一団が大仰な奇声を発し、ジュラルミンの盾に突っ込む。取り押さえられるのなど端から承知しており、捕まり所属を問われたらジュリアスの一派を名乗る。首謀者は彼なのだと押さえられた全員が口々に言う算段が組まれていた。しかもご丁寧に今夜のデモで暴動が起こると予告までされている。当然、そこにもジュリアスの名が上げられていた。
 事前に刑事が張り込んでいるのはその為であった。大凡を掻い摘んで話ながらクラヴィスは眼前の顔に如何なる色が昇るのか気がかりだった。驚くのは間違いない、問題はその次だ。悔しがるのか、落胆を顕わにするのか、それとも怒りか。ところが一瞬狐に摘まれた様に目を見開いた彼は、突如声を上げて笑い出した。気がふれたかと訝るほどにジュリアスの笑いは収まらず、そのうちに目元には涙まで浮かべ始める。クラヴィスはどうして良いか分からず惚けたようにただ眺めているばかりだった。



「どうして…そんな事を……。」
不意に消えた笑いの後、急に俯いたジュリアスから絞り出すかの言葉が落とされた。





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