*風に吹かれて* -3-
現代パラレル/70年安保
待ち望んだ春は瞬く間に過ぎていった。
薄紅の花びらが落ちてしまうより早くその優しい季節は学舎の上を駆け抜けていった気がする。何が多忙だったのかも思い起こせないくらいに、クラヴィスをめぐる周囲の状況は気ぜわしく動いた。気が付けば学期末が目の前にあり、その間にジュリアスと語らった時間は余りにも少なかった。けれど、一つだけ彼らの関係に変化があったのは確かな事実である。
春から初夏に移ろう、夕暮れの空気に甘すぎる新緑の香が溢れる頃、クラヴィスはジュリアスと一夜を過ごしたのだ。それまでの様に語り合っている間に夜が明けてしまったのではない。抱き合い、互いの性根を擦り合って夜の狭間に漂ったのである。どちらが望んだのか判然とはしない。最初に事を匂わせたのはクラヴィスだったが、ジュリアスにしてもその場の雰囲気に流されたのではなかった。いや、彼に限ってそんな曖昧な動機でSEXをする人間ではないから、やはりどちらからともなく欲したと言って間違いないだろう。
クラヴィスの住まう狭い一室で、磨りガラスの填る窓から入る薄ぼんやりとした月光に照らされ、相手の肌を舐め、時に歯を立て、唇を啜り、感情と欲望を昇華させた後、クラヴィスがジュリアスの体内に高ぶる根芯を埋めたのだ。
確かあの時も下宿には誰もいなかった。突き上げられ、感極まったジュリアスの獣の咆哮にも似た歓喜の声は、淀んだ室内の空気を揺らしただけであった。後は、ゆるゆると天を動く月の輝きが残ったに過ぎない。その後もジュリアスは幾度かクラヴィスの部屋を訪れ、唇を求め合って終わる夜もあれば貪る様に躯をまさぐる一夜もあった。一度外れた理性のたがは激しく緩む事はなかったが、もう二度と元には戻らない。単に性欲が満たされるだけでない、相手が自分を欲しがっていると実感できる事はつまらない言い方だが幸福に違いなかった。
自分だけが知り得るジュリアスの顔は、クラヴィスにとっての密事であり同時に禁忌でもあった。決して安直に手を伸ばしてはならない、だが求めれば其処にあるものとなり得たのだ。クラヴィスは自身の何もかもをジュリアスに晒した。きっとジュリアスもそうであるのだろうと、確認などと無粋な真似はしなかったが密かにクラヴィスは信じた。慢心ではなく、それはもしかしたら彼の願いだったのかもしれない。
それが自分の勝手な思いこみだと知らされたのは、風に掠れた秋の気配が混じり始めた夕暮れのことだった。
茹だる様な圧迫感を伴う夏の日々は今にもクラヴィスを押しつぶしてしまいそうに明けては暮れていった。夏期休暇が始まるとジュリアスとは全く逢えなくなる。多忙なのだと言われれば、それを押し返してまで時間を共有する強硬さなどクラヴィスには持ち合わせがない。そうか…と頷くしか知らない。まして、逢えぬ理由を尋ねるつもりもなかった。重苦しい夏の陽光の下を日々の糧を得る為のバイトに通い、湿度にまみれた部屋でただ天井を見つめるだけの夜を過ごして、鬱々とした日常に流されていくしかなかった。
元来、率先して何か目新しい事を始めようとする人間ではない。彼は受け入れる事に慣れすぎてしまっていたのだ。唯一の変化も入学当初に決めた書店のバイトを時給が高い理由から飲食のそれに移っただけで、帰り道で鼻先を掠めるのが衣服に染み込んだ紙と埃の匂いから、油と調味料の臭いに変わっただけのことだった。
学舎は休暇中でも開いており、中庭は常時サークルやら同好会やらの学生達の溜まり場になっていた。クラヴィスはこれと言ったサークルに所属していなかったが、格安の昼食を摂る為に週に何度かは其処に足を運んだ。声を掛けられたのはやはり変わり映えのない昼飯をつついていた時であった。男は比較的言葉を交わすクラスメイトで、いつもの軽い調子で『よぉ!』と肩を叩いてきた。
「お前、明後日って暇か?」
唐突と訊ねられあからさまに怪訝さを顕わすクラヴィスに男は更に浮ついた口調で、デモにいかないか?と続けた。正確には都心部にある公園で催される集会の後にデモがあるのだと言う。
「何の集会だ?」
「アレだ。例の学費が上がるのを反対するってヤツだ。」
どうやら男が世話になる先輩かなにかが中心となり参加者を集めているらしい。
「人数が集まらないとカッコつかないからな。」
男はヘラヘラと笑いながらそう言った。
それなら…とクラヴィスは首を縦に振る。明後日は本当に何もすることがない。正午から夕方までの暇つぶしが約束された。
1度目は本当に暇を潰すつもりで参加した。勿論、不当な学費の値上げが阻止できれば言うこともなく、だがそれを声高に叫んだとしてどれ程の実行力があるのかは甚だ疑問ではあった。2度目は半ば強引に連れて行かれた感ではあり、3度目は断る理由を考えるのが面倒だったから顔を出した。そのうち参加するのが当たり前だと思われる様になり、実際に用事で出られなかった時は顔なじみになった数人から後日エラク残念がられもした。
不思議な事だとクラヴィスは思う。他の人間と違い自分は殊更何かを主張した訳でもなく、デモの後に流れた酒の席では完全な聞き役であった。学費値上げから労働者のあり方に移り、果てはこの国の行く末に及ぶ彼らの理想やら理念やらに諸手を上げて賛同を表したコトもなければ、それこそ崇高な改革論を声高に論じた記憶もない。それぞれの主張に意見を求められれば思ったままを述べただけで、一部の急進派に傾向する輩が極論を翳したのを持ち合わせの常識で論破したコトが数度あったに過ぎない。そんな自分を周囲が迎えてくれるのが本気で解せず、顔見知りの男にあからさまに聞いたりもした。
「普段喋らないヤツの一喝は得てして効くってことだろう? お前は図体もデカイから殊更威力があるんじゃないのか?」
そう言って笑われたが、それならそれで構わないとクラヴィスは得心する。
其処に居ても良いのだと誰ともなくに認められた気がしたからだ。ジュリアスの居ない時間をその場所で過ごそうと決めた。恐ろしく不遜な行為だと分かっていたが、この時他のやり方をクラヴィスは知らなかった。空しく流れる時間を虚しいと感じる暇(いとま)を埋める場所を手に入れると、彼は出来るだけ其処に在ろうとした。学舎がバリケード封鎖され、授業が尽く休講になった新学期が始まればその頻度は更に増えていくのだった。
十月の声を聞いたある日、クラヴィスの居場所に若干の変化が訪れる。それまで彼が所属するセクトはどちらかと言うと学生サークルの延長に位置し、不当な学費値上げに始まる日常から派生した部分への拘りを基本とした、外部の革新派や急進派から言わせれば「緩い」「甘い」「脆弱」な集まりであった。党首を務める青年の耳にもそれは届いていたろうが、逆に彼からすれば地に足の付かない理想論を振りかざすのこそ「夢見がちな空論」だと一笑に伏した。角材を振り回したり、警官隊や機動隊と衝突を重ねるのが改革ではないと彼は静かな語り口で言った事がある。ごり押しやまして力に任せる強行は先頭に立つ者には一時(いっとき)の夢を見せるが、一度(ひとたび)後方を振り返れば後に続く者など居ないのだと確信に充ちた強さで論じた。
人は日々を暮らすコトからは離れられない。生活から切り離された革命など、強者の幻想でしかないのだと。それだからかもしれないが、彼の元に集う者達の中には二部に席を置く昼間は労働に従事する輩が多く目に付いた。基本はあくまでも日常をより良く暮らす為の運動であり、その延長上にこの国の先行きが大きく広がっているのだ。
バイトからのその足で以前は何某かのサークルの部室に使われていた本部に現れたクラヴィスに、党首は今まで見たこともない上気した笑顔を向けて大きく手招きをした。
「お前も一緒に行こう!」
彼は事の真意どころか、何を言われているのかすら理解していないクラヴィスに赤らんだ顔を崩しそう言った。
「何処へ…?」
「弁論集会がある。今夜だ。凄いヤツを見付けた。 そいつが今夜も集会で論じる筈なんだ。 とにかく一緒に行って聞いてみろ!」
やたらと興奮して熱弁を振るう党首に首を傾げながらもクラヴィスは「ああ、行こう」と応じる。どちらかと言うと物事を静観するを好む男がこれ程熱くなる相手を見てみたいと思った。そして、大概の主張を生活から隔絶された夢想と鼻で笑うヤツを、ここまで魅了するその論旨には少なからず興味があった。
入口のドアが開き、又別の顔が現れる。再び党首は大袈裟な身振りでソイツを誘う。結局、この部屋にやって来たほとんどがその集会とやらに行くことになった。
「何時頃に出る?」
誰かが訊ねるのを聞きながらクラヴィスは定位置となっているロッカーの脇にあるパイプ椅子に腰を下ろし、積んである雑誌の中から適当な一冊を選び広げた。
「会場までは四十分とかからないだろう。 あと、1時間もしたら出れば良いんじゃないか?」
「…1時間かぁ?」
半端だなと呟いた一人が数人に声を掛ける。ガタガタと4〜5人が部屋を出ていく。
「遅れるなよ!」
釘を刺す声が上がる。天井の高い廊下にゲラゲラと笑いを響かせて数人が消えると部屋の中は妙に静かになってしまった。
「アイツら、何処へ行ったんだ?」
クラヴィスのスグ横で床に座り込んで新聞に読みふけっていた男が間抜けな声を発する。
「…麻雀だろう。恐らく…な。」
雑誌から目を上げもせずクラヴィスは答えた。
入口近くで話し込んでいるうちの一人が「そうだ!」と素っ頓狂な声を上げる。ガサガサと袋を探る音のあと、彼は部屋に置かれたポータブルプレイヤーに一枚の円盤を乗せた。攻撃的なギターのサウンドを組み敷しく叫びにも似たボーカルが室内の濁った空気を震わせる。
『PAINTED BLACK!!!!!』
ミック・ジャガーは「黒く塗れ」と繰り返す。「クダラナイ世界など黒く塗りつぶしてしまえ!」と。
「ストーンズ…か。」
クラヴィスのつまらなそうな呟きを拾い隣りの男が問いかける。
「イイよな?ストーンズ!」
「まぁ…な。」
どちらでも構わない風に答えながらクラヴィスは唐突と「夢のカリフォルニア」が聴きたいと思った。目を開けていられないくらいに眩しい太陽の光と蒼い空を歌った、あの歌が無性に聴きたくて仕方がなかった。
ホールの扉を開き薄暗さに慣れぬ目で見渡せば、座席はそこそこに埋まっているようだった。二階席もある筈だったが会場最後部の扉から覗いただけではそこにどれ程の人が座っているのかまでは分からない。壇上には前にも集会で顔を合わせた覚えのある男が勢いをつけ、興奮に半ば上擦った声で何某かを叫んでいる。クラヴィスは前を行く党首に続き丁度中央にあたる席に腰を下ろした。前の列に座る数人が後を振り向き、うち二人ほどが『ヨォ!』と顰めた声で挨拶を寄越した。無言で会釈だけを返しクラヴィスは固い座席に深く背を預ける。ステージに貼られた進行表を眺めた党首が耳打ちしてきた。
「間に合ったらしい。」
「お前がそこまで心酔するとは、些か意外だった。」
クラヴィスのどこかからかう囁きに彼は自分もそう思うと苦笑した。
この日は、どちらかと言うと穏やかな集まりである。下品なヤジが飛ぶこともなく、屁理屈とも取れる扱き下ろしもなく、罵声以外には聞こえないシュプレヒコールが上がるでもない。会場は正に静聴と呼べる厳かな雰囲気に包まれていた。基本的に急進派や武闘派の連中が紛れ込んでこなければ、聴衆は礼儀正しくあるものだ。今夜は、突如決まった集会であるが故にそうした輩が雪崩れ込んで来ることもないのだろう。この所、そんなヤツらの傍若無人な振る舞いの末に会場が荒らされ、集会と聞いただけで会場を貸し渋る管理者が増えてきている。だから主催者は極力多数の参加者を募るのを避け、口コミで開催を伝える小規模の集まりを催す傾向になっていた。
「次だぞ。」
脇を小突かれ俯いて目を閉じていたクラヴィスは徐に顔を上げた。
沸き上がる拍手に進行役が述べた筈の弁論者の名前を聞き漏らしてしまった。俄に盛り上がる聴衆の様子から、その論じ手を目的とした参加者が隣りに座る男の他にも随分といるのだと察せられた。薄黄色いライトに浮かび上がるステージの上に、問題の論者が現れる。更に会場からは大きくうねる拍手が生まれた。誰もが期待に両手を打ち鳴らしている。歓声すら聞こえる会場の中でただ一人惚けた様に動く事も忘れ、膝に置いた掌を固く握りしめるのは恐らくクラヴィスだけに違いない。
呆気にとられ、半分ほど開けた口元から落ちたのは思いも寄らぬ名前だった。
「……ジュリアス?」
彼は常に先に立つ者で、前を行く者で、高見を目指す者だった。ならば自分はどうか?と自問すれば、戻るそれはお前は何もかもが逆だのだと冷酷な響きすら伴って脳内に木霊する。高尚な理想もなければ崇高な理念もなく、恐ろしく仔細なプライドもない。日々を適当に暮らせればそれで良かった。一つだけあるとすればちっぽけな、他人から見れば一笑に伏される願いだけだ。出来れば彼と同じ辺りに漂っていたい。同じ立ち位置などではない。彼の立つ、その付近に在りたかった。ただ在るだけなら理想も理念もプライドも必要なく、それでいて極く間近に彼の姿を眺める事が出来るからである。
自分の居場所を確保した時、それが単に転がり込んできただけであっても、クラヴィスはささやかな悦を覚えていた。誰かから与えられたのでない、自らの意志が働き得た場所だと言える安っぽい自信があった。夏季休暇の前から連絡の途絶えていたジュリアスに、次に逢った時にはそれを話そうと考えていた。自分を迎えてくれる他人を見付けたと、少し自慢気に伝えても良い気がしていたのだ。
ところが…だ。既にジュリアスは途方もない先に居て、ずっと上の方から自分を見下ろしている。これはあくまでクラヴィスの感じたままであり、ジュリアスに限って他者を見下すなどする筈もないが、薄暗い会場の一山幾らで数えられるその他大勢の片隅から見上げた壇上の姿はそうとしか見えなかったに他ならない。
ジュリアスの声は絶え間なく耳に届いていた。けれど彼が如何なる意を唱えているのかは微塵も理解できなかった。落とした視線が捉えているのは自分の薄汚れた靴の先だけで、万人を魅了するその高い志は俯いた頭の上を通り越して消えていった。
「おい!」
肩を軽く叩かれるまでクラヴィスは集会が終わったのを知らなかった。暗闇に覆われていた会場には灯りが点き、見回すと半分以上の参加者はもうロビーへと流れ空席だけが整然と並んでいる。
「早く来い。」
「…何処へ?」
聞いてなかったのかと党首は呆れた顔をする。
「ヤツの所に行くんだよ。」
「…何故?」
おいおい!しっかりしてくれよ…。苦笑混じりに頭を振り、件の男にセクト間の相互同意を交わしその上で友好関係を協議したいと持ちかけるのだと説明した。
「オレも漠然とは考えていたが、ヤツはそれを形にしたんだ。 これからはセクト間の結束が必要不可欠になる。今日はどうしてもヤツに会うべきだと思わんか?」
クラヴィスは答えない。運動の目的とかセクト間の協議とか、そんなモノは関係なく今はジュリアスに会いたくない。だから是とも否とも答えられない。
「早くしろよ。」
腰すら上げないクラヴィスに焦れ、党首はやにわにこの動かない男の腕を掴んだ。
「お前だけで行けば良い。」
「何言ってんだ! お前なら絶対に共感すると思ったから誘ったんだ。」
他の誰かではなく、党首はクラヴィスだから来て欲しいのだとやけに熱く言葉を繋ぐ。本部で繰り広げられる議論の最中も、他党と主張を戦わせる席でも、お前はいつも中立を崩さない。それが出来るヤツはそう居ないから、オレはお前を信頼しているのだと彼は懇願とも思える口調で話し続けた。クラヴィスが溜め息混じりに腰を上げるのに、思ったほど時間は掛からなかった。
控え室に向かう廊下を前を歩く男の背を眺めながら、クラヴィスはやっと自分の置かれた立場を理解するのだった。中立などと大層な風に取られていたなど、全く気づきもしなかった。どの主張にも心から賛同できぬ代わりに、愚鈍としか思えぬ意見を尽く論破した結果がこれをもたらしたのだ。理性を忘れ狂犬の様に噛みついてくる輩を黙らせるのが面白かっただけだったのに…。まさか、次期幹部に推されるなどとは…。
真っ直ぐに伸びる廊下の先に『関係者以外立入禁止』の札が貼り付けられたドアがある。安っぽい合皮の貼られたドアを開ければジュリアスが居る。自分を見てどんな顔をするだろうかとクラヴィスは想像する。きっと驚くだろう。そして呆れるか、或いは笑うかもしれない。そして、自分は如何なる態度をとるのかと考えてみたが、それは全く形にはならなかった。いや、一つだけなら想像がつく。間違いなく卑屈な笑いを浮かべるのだ。厭らしい、卑下した笑いを張り付けて何らかの挨拶をするに違いなかった。
続