*風に吹かれて* -2-

現代パラレル/70年安保

 唐突と知らされたジュリアスの帰国は何度も交わされたのと同じ薄い便せんに書かれていた。見慣れた几帳面な文字で其方の大学に通うことになったとあった。三月の中頃に戻るともあり、出来れば逢いたいと結ばれていた。
 折り返し番号を知らせた下宿の赤電話が鳴ったのは未だ春とも言えない薄ら寒い夜のことだった。クラヴィスの住まいはいかにも学生が間借りしていますという風情の木造の2階建てだ。繁華街からバスで少し離れた其処は、しかし住まう学生の数より水商売の男女の方が多く夜になれば廃屋ほども人の気配はしなくなる。ジュリアスが夜に電話をしてきたのは幸いだと思った。その日もクラヴィス以外には誰もいないようで、受話器を取りに廊下を早足で行く僅かの間も並ぶ引き戸がカタリとも動かなかったからだ。貧弱な合板の引き戸と薄いモルタルの壁越しにジュリアスとの会話が誰かの耳に入らないかと要らぬ気を使わないで済むのは有り難かった。
 別に他人に聞かれては不味い内容を語る訳でもなかったが、それでも久しぶりに聞く彼の声にもしかしたら自分はおかしな事を言ってしまうかもしれないと、やけに重く感じる受話器を握りしめてクラヴィスは思った。相手が今も外国に居るのではないと分かっていながら、何故か受話器の奥から聞こえるジュリアスの声は遠く滲んでいる気がする。自分の部屋から掛けているのか、それとも玄関の横か何処かに置いてある電話なのか、彼の後には静かな音楽が流れていた。ピアノの音が聞いたことのあるメロディーを奏でている。
「元気だったか?」
フィルターを通したようなジュリアスの声が訊ねる。
「ああ。」
どうしてこうも素っ気ない返事しか出来ないのかと腹の中で苦笑しながらクラヴィスは答える。
 簡単な近況を話し合った後でいつ会えるかとジュリアスが聞いてきた。四月の入学までクラヴィスには何の予定もない。いつでも構わないと言えば、それなら明後日の午後はどうか?と滲んだ声が聞く。
「大丈夫だ…。」
「良かった。」
大きなターミナル駅の脇にある喫茶店の名前をジュリアスが告げ、そこで待ち合わせすることになった。
 それで伝える全てが終わったにも関わらずお互いに受話器を置くタイミングが計れず、少しの間無言のまま相手が何か言うのを待った。けれど、もう今話すことは尽きてしまっておりややあってジュリアスが「それじゃぁ…」と発したのを合図にクラヴィスは電話を切った。
 部屋に戻り着替えもせずクラヴィスは敷きっぱなしの布団に仰向けに寝ころんだ。剥き出しの電球は痛いくらい眩しく、彼は目蓋を閉じた。春の終わり、夜半になって風が強く吹き出した。部屋に一つだけある木枠の窓は哀れなほど煽られ、ガタガタと五月蠅く鳴った。
 ついさっき聞いたジュリアスの声は中学を卒業した後一度だけ逢った時の彼のそれと大して変わらなく思えた。張りのある、しっかりした響きを持つあの声がその姿を思い出させる。脳裡に描くジュリアスの肩や腕や長くしなやかな足に促されてクラヴィスは、固く冷たい布団の中で一回きりの自慰に溺れる。
 轟と鳴く風とまた軋みを上げる窓枠の悲鳴を聞きながら彼は射精した。



 待ち合わせに指定された店の前をクラヴィスは幾度も通ったことはあったが、実際店内に入ったのはこの日が初めてだと、ぶち抜きのワンフロアーを埋める無数の椅子とテーブルを眺めながら改めて思った。待ち合わせにジュリアスが遅れる筈は決してない。だから彼が必ず居る事を仮定して散らばる客の顔を見渡した。
 一渡り視線が動く間にあの蜜色の髪が目に飛び込む。ジュリアスは大きな窓際の席に座り、歩道を見下ろしながらストローで何かを飲んでいた。まだクラヴィスには気付いていないらしい。遅れたと言っても凡そ五分程度だった。
「遅れて悪かった。」
一応の謝罪を述べながらクラヴィスは対面に腰を下ろす。
「いや、それほど待っていない。」
手にしていたグラスを置きジュリアスは笑顔でそう言った。通りの向こうに並ぶビルの窓に反射した陽の光が深緑に加工されたガラスを通して、それでも眩く(まばゆく)彼の髪を煌めかせる。クラヴィスは本当に眩しくて何度も瞬きをした。
「元気だったか?」
「ああ…。」
電話と同じ会話から全てが始まった。
 クラヴィスの知らない、想像すらできない外国での生活をジュリアスは彼らしい的確な言い回しで話す。時に大袈裟に、時にサラリと。クラヴィスはきっと真実の半分以下くらいしか頭に描けてはいないだろうと自覚しながら、薄桃色の唇から湧出する単語を頭の中で映像にしてみた。抜ける程の青い空とは、自分の知っている青空の何倍蒼いのか。制服を着ない高校の校庭にはどんな色が溢れているのか。放課後に立ち寄る聞いたこともない店は自分の知っている駅前の喫茶店とどれくらい違うのか。ジュリアスの口にした異世界語にも匹敵するクラスメイトの名前は一つも覚えられなかった。
 それでも、彼の語る何もかもが輝いている様で、クラヴィスは何度も頷きながら意味もなく笑顔を返した。相づちを打ちながら彼は情けないくらい楽しそうに笑って見せた。
「ところで…。」
とにかくジュリアスが自分の目の前に居るのが嬉しかったが、一つだけ聞いておきたい事があり、それは彼の語る「外国」の話を遮ってさえも訊ねたい事柄だったので、クラヴィスはあまり迷いもせずに自分の知りたい「それ」を切り出した。
「どうしてこっちに戻ってくる事になったのだ?」
「父の…、仕事の関係だ。」
当たり前の答えだった。高校を卒業したと言っても所詮自分たちは「半端」なのだ。親がこっちだと言えば、従うしかない。クラヴィスは「そうか…」と頷いた以降、二度と「それ」を話題にしなかった。
 親の仕事で戻ってきたと言ったジュリアスは、気のせいかも知れなかったが何処か釈然としていない風に見えた。これ以上聞いてはいけない気がしたのだ。



 一人、下宿の部屋で過ごす時間は途方もないくらいにゆっくりと流れる。机と布団と申し訳程度の衣類を入れる箪笥。
殺風景を絵に描いたかの部屋で、本を読んでいても、ぼんやり窓の外を眺めていても、取り留めもなく明日の事を考えていても、机の上に置かれた目覚ましの針は果たして動いているのかと疑いたくなるくらいに進んでいかない。それなのに、こうしてジュリアスと他愛もない話をしている時間は矢のように駆けてゆく。腕にはめた時計の文字盤の上を二つの針は滑るように動く。顔を合わせてからの2時間は瞬く間に過ぎていった。
 店内に視線を彷徨わせ何かを探している風だったジュリアスが唐突と言った。
「クラヴィス、こちらから呼び出しておいて申し訳ないのだが…。」
彼はこの後にも予定があると言う。楽しい時間は間もなく終わるのだ。もしかしたら自分は恐ろしく間抜けな顔をしたのかもしれない。これ見よがしに残念さを顔に張り付けたのかも。改まってもう一度謝罪を述べるジュリアスが本気で済まなそうな表情だったので、クラヴィスはそんな事を考えた。
 椅子に置いていた小振りの鞄からジュリアスは小さなメモ帳を取りだし何かを書き付けるとページを破ってクラヴィスに手渡した。電話番号が書いてあった。
「部屋に引いてある電話の番号だ。 私しか出ない。」
クラヴィスは受け取った七桁の番号をじっと見つめた。この数字の羅列がジュリアスに繋がる暗号なのだ。穴が空くほど凝視しながら、クラヴィスはそれを瞬時に暗記した。
「また…会えるだろうか?」
「入学式までは少し忙しいのだ。
 落ち着いたら必ず連絡する。」
約束は交わされた。単なる「連絡」ではないのだ。ジュリアスはその前に「必ず」と言った。それは決して違わない「約束」の証だ。
 店を出ると二人は左右に別れ歩み去る。ジュリアスは駅に向かい、クラヴィスは場外馬券売場の先にあるバス停を目指して。春の初めの夕暮れは、薄く霞んだ菫色の空を残してあっと言う間に夜へと落ちていった。次に逢うのはいつだろうかと、ポケットに両手を突っ込んで少し俯き加減に歩くクラヴィスは交わした約束を頭の中で膨らませていた。
 ジュリアスの入学した学舎とクラヴィスがこれから四年席を置く其処は、所在も違えば校風も違う。同じ大学に行けなかったのは甚だ残念だが間もなく開花する桜の下、どちらかの学舎を訪ねるのも楽しいかもしれないと、頭の中に描き出される鮮明な映像に心をときめかせながら彼は大通りに出る急な石段を登った。通りに上がると突然視界が開ける。回りに高い建物がないからだ。開けた視界には大きな空が飛び込んできた。
 既に陽が落ちた空は、やはり春と呼ぶには寒々しい暗い紺色に見えた。ビョウと風が鳴り、襟元を掠めた冷たさにクラヴィスは思わず背を丸める。春は遠いのか近いのか分からない。でも、あの薄桃色の花が開けばジュリアスと会える気がする。きっと会えるに違いない。手の届きそうに近い未来はほんのりと明るい日射しの中に在ると思えた。
 バス停に向かい歩を進める彼の口から、そんな気持ちが微かな旋律となってこぼれ落ちた。不確かなメロディーは歩道の敷石に散らばり、雑踏の中に消えていく。数十メートル先のバス停には帰宅時刻の為か長い人の列が出来ていた。





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