*緋色の丘*

現代パラレル/転生もの

 吹いてくる風は埃と太陽の匂いがした。
ジュリアスは盛大に巻き上げられ乱れる髪を片手で押さえる。それでも風は止むことがなく押さえきれない髪は五月蠅いくらい宙に躍った。左手に提げた鞄を一度地面に下ろし、彼はジャケットのポケットを探る。確か髪を纏める何かがあったように思ったからだ。胸ポケットまで捜したが適当なものは見つからない。やれやれと乱れる髪を諦め、下ろした鞄を持ち上げた。
「探しもの?」
直ぐ後ろから訊ねられ其方へ振り向く。此処まで車に乗せてくれた男が連れていた子供が不思議そうな顔で此方を見ていた。



 もっとも近い街から車で二時間弱を費やし此の場所へとやってきた。彼の本来の目的からは随分と横道に逸れた場所である。仕事の合間とは言え、生来の生真面目な性格からは考えられない行動であった。星の南側にある大陸のそれも中央に長く続く国は其処此処に過去の遺産が佇んでいる。ジュリアスはそれら遺跡から掘り出された古の文字を集め読み解くのが仕事だ。丁寧に保管されているものもあれば、無造作に木箱へと投げ入れられているものもある。欠片になってしまっていれば、元の形へと復元する為に塵とも思える残骸を集めて持ち帰る場合もあった。100以上を集めても解読できるのは一割にも満たず、それでも丹念に足を運び彼は古代の言葉を探して歩いた。
 一つの街を離れると次ぎまで数時間掛かるなど良い方で、下手をすると数日バスや車のシートに座るはめになる。出来る限り効率よく、無駄のないタイムテーブルを組み上げるのも彼の仕事の一つであった。それが全く無関係なこの草原に来ようと思いついたのはホテルのロビーにあった冊子のグラビアを見たからで、なだらかな丘陵に沈む嘘のように赤い夕日に心を惹かれた為である。部屋にやってきたボーイに場所を訊ねるも判らないと言う。街から離れれば大概こんな景色なのだと返された。是が非でも行きたいかと自問すれば、到底そんな執着はない。ただ行けるなら行ってみたい程度の望みだった。
 きっと絶妙の偶然が重なったのだとジュリアスは考えた。列車を乗り継いで南西を目指す途中、次の路線のステーションまでどうしてもバスを利用せねばならない区間があり、彼は仕方なしに今にも止まりそうなバスでの移動を余儀なくされた。しかも其れが直通ではなかった。二度ばかりの乗り換えは必須である。交通事情が恐ろしく悪いのは事前に承知していたから別段不満を覚えることはなかったが、地図で見れば高々数センチの距離に幾日も掛かることに小さく溜息を零したのは事実だった。
 二度目に止まった街は思ったよりずっと大きく、中心にはバザールのテントが並び近隣からも様々な人種が集っていた。目的地へ向かうバスは次の朝に出発する。今日は此処で一泊するつもりで街をブラつき、ずっと同じ姿勢で過ごした憂さを晴らそうとホテルを後にした。賑やかな売り子の声や、売り物として繋がれた山羊の鳴き声の溢れる通りを目的もなく漫ろ歩く。独特の文様を織り込んだ布は鮮やかすぎる色彩を周囲にまき散らす。耳慣れた言葉、全く初めての言語、何処かで聞いた憶えがあると耳を峙てると実は己の母国語だったりする。物質と情報が広場に渦巻き、ここ暫くあまり人と会話をして来なかった彼は何処か酔ったような高揚感を抱く。荷台に零れるくらいオレンジを積んだ男から数個を買おうと思ったのも、オブジェの如き山盛りの果実が不思議な美しさで目を奪ったからだった。
「少し欲しいのだが。」
「一個2ペソ。」
「三個分けてくれ。」
「好きなのを選べよ。」
ところが此が難しい。みっしりと積み上げられた何処を取っても山が崩れてしまいそうでジュリアスは荷台を見つめるばかりだ。しかたないと思ったのだろう。
「おい、上から三個寄越せ。」
荷台に向かい声を上げた。すると何処からともなくオレンジが降ってくる。男は器用に其れを受け取りジュリアスへ差し出した。どうした仕掛けかとオレンジと荷台を交互に眺めるジュリアスに男は笑って種明かしした。
「上に餓鬼が居るんだ。」
聞こえていたらしく、オレンジ色の山の端から小さな頭が覗いた。ジュリアスは成る程と頷き声を上げて笑う。
「旅行者か?」
金を受け取り男が訊いた。
「そうだ、列車に乗るので明日の朝出るバスに乗るつもりだ。」
「今夜は此処で一泊か。」
「ああ。」
「明日の一番のバスに乗ったら昼の列車には間に合わねぇな。」
「そんな筈はない。さっきホテルで確認したばかりだ。」
「アンタ、この辺りは初めてか?」
「いや、もう少し北側には何度か来ている。」
「じゃぁ、初めてと同じだ。この辺のバスを舐めちゃ駄目だ。」
「予定通りではないのか?」
「まぁ、そうだな。昼に着くって言われたら到着は夕方だ。」
「それは…困ったな。」
昼の列車に乗らなければ明後日に予定している研究者達との合流が難しくなる。現地で会う段取りになっていて、街に着いてから連絡を入れようにも相手も別の遺跡を廻って其方へ向かうのだから何処へ知らせを送って良いのかも判らない。最悪の場合本国へ一度その由を伝え、其処から相手を捜して貰うしか方法がない。それでも掴まらなければ何も伝わらない確率は高い。
「困ったな…。」
思わず呟いてしまうほどジュリアスは策を持たなかった。
「夜中中車に乗る覚悟はあるかい?」
不意に寄越された質問の意味が図れずジュリアスは怪訝さを顔いっぱいに張り付けた。
「オレらはこの後次ぎの街へ行く。ちょいと足を伸ばせばアンタの行く街へ寄れる。」
「幾らだ?」
男は片手を大きく開いて見せた。
「500か?」
「馬鹿言うな!そんな追いはぎみたいな値段を吹っかけるかよ!」
「50で良いのか?」
「まぁ、余分のガス代出してくれりゃぁ御の字だ。」
昼過ぎに大口の客がオレンジを粗方買い取りに来ると言う。その頃、もう一度此処へ来れば乗せていくと男は断言した。
「その頃はシエスタだろう?」
「そりゃ、金と余裕のある奴らの台詞だ。」
「それでは宜しく頼む。」
「ああ、遅れたら置いてくがな。」
商談を成立させホテルへ戻るジュリアスの背に甲高い声が降ってきた。
「名前、何て言うの?」
荷台で子供が叫んでいた。
「ジュリアス!」
「ジュリアス、あとでね!」
人なつっこい笑顔が遠慮のない陽射しを受け輝いていた。



 道の悪さは予想を裏切らずオンボロのバスに慣れていても更に凄まじい乗り心地の悪さを堪えジュリアスはシートに座り続けた。どれくらい昔に舗装したのかと首を捻りたくなる道路は、所々に陥没や亀裂が走る。余程のギャップは回避しても其れ以外は何ら構いもせずトラックは疾走する。轟々と唸るエンジンは次の瞬間白煙を吹き上げ息の根を止めても不思議ではない。ラジオからひっきりなしに音楽が流れるが、全開の窓から吹き込む風の音と馬鹿でかいエキゾーストでさっぱり聞き取れない。隣でハンドルを握る男が何か言うたび大袈裟なくらい声を張り上げて聞き返した。  街を離れると直ぐさま乾燥した草原になる。短く刈り込まれたような草と貧相な灌木が延々と窓外を流れていく。約束を違えるのは何としても避けたい。此が何より最良だと判っていても、この選択は間違っていたかもしれないと数分おきに後悔が湧き上がった。午後の陽射しは無遠慮にフロントグラスから車内を直撃する。足を踏ん張るだけでは振動に対抗できず、ジュリアスはしがみつくかに窓枠を掴んでいた。気づくと片腕が酷く痺れている。このまま延々休みもせず走って行くのかと疑い、もしもその予想が当たってしまったらと考えた途端首筋に嫌な汗が滲んだ。
「眩しくねぇか?」
ボンネットの照り返しもなかなかに強烈だ。ジュリアスは大声で眩しいと返す。
「そこら辺にメガネが転がってるから使ってもイイぜ。」
指さす先はダッシュボードだ。ジュリアスは礼を言いつつ手を伸ばした。強く引っ張ると蓋が取れてしまいそうだと恐る恐る開けた中にはしゃれっ気の欠片もないサングラスが放り込まれている。掴んで持ち上げるとき何かがヒラリと床へ舞い落ちた。慌てて拾い上げた其れは少し色の褪せたスナップだった。
 「此は何処で取ったのだ?」
手にしたそこにあのグラビアと同じ風景が写っている。
「そりゃ、この少し先だな。」
「其処を通って行くのか?」
「いや、道はその手前で西っかわへ曲がるから通りはしないな。」
「其処に寄ったら随分大回りになるだろうか?」
「そうだなぁ、小一時間ロスするくらいだ。」
「寄って貰えないか?」
「別に構わねぇけど、割り増しを貰うぜ。」
「了解した。」
男は何故とかどうしてと訊かない。別に迷惑そうな顔でもない。迂回する分の割り増し料を貰えるから文句を言わないのか、でも元からそんな細かい事を気にしないように思えた。
 太陽が西へ僅かに傾き始めた頃、本道との分岐に辿り着く。脇道はトラックが一台通るのがやっとと言った道幅で、固い土が践み固まっただけの未舗装路だ。男はハンドルを切り其方へ入った。今までも最低の乗り心地だったが、それより下が在ることをジュリアスは瞬く間に知らされる。ゴツゴツとした振動に細かな突き上げが加わり、下手に口をきこうものなら強かに舌を噛んでしまいそうだ。
「無駄口たたくと口んなか血だらけになるぜ!」
助言を最後に男は口を閉じる。ジュリアスもそれに習う。ふっと気づけば荷台でずっと歌を歌っていた子供の声も聞こえなくなっていた。
 それから三十分ほど埃まみれの道をトラックは走り抜ける。少し先に道がないと気が付いた次の瞬間、トラックは大きく身震いしてエンジンを止めた。
「あの写真撮ったのは此処だ。」
じんと痺れる耳に滲んだ声が届いた。少し休憩だと言いながら男は先に外へと出る。踏ん張っていた所為で上手く動かない足を車外に踏み出してみれば、其処にはなだらかな丘陵が幾つも続く草原が広がっていた。
 いつも地面の近くへ目を向けているから、こんな風に空をひたすらに眺めるのは久しぶりだとジュリアスは眩しさで双眸を細めて巨大な弧を描くかの空を見上げる。地平線近くが薄く霞んでいるのは乾いた風が巻き上げる砂の所為かもしれない。隣国ほどではないけれど、この国の空気はとても乾燥していて少しの風でも砂や細かな土が吹き上げられる。だから強い風の中に立っていると埃の匂いがするように思えた。
 草原は果てがないくらい何処までも続いている。徐々に大地へと近づいていく太陽が白い輝きからトラックの荷台に積まれたオレンジの色へと変わっていけば、その色を受ける草の広がりも少し掠れた彩に変化する。一切の遮蔽物がない、視線を走らせただけ遠くまでが見通せる場所に突っ立ってジュリアスは飽きることなく景観を楽しんでいた。
 ホテルのボーイが言ったように、この景色は何処にでもあるものに違いない。列車で移動している時も、バスの窓からボンヤリと眺めていた時も同じ様な地形を幾度も見かけた。でも何かが足りない気がして、だから彼は近い眺めに遭遇しても足を止めたり途中で乗り物から降りたりしなかった。今、草を渡る風に吹かれこうしていると、あれらとこの場所の違いが判ってくる。足りなかったのは一日の終わりへ向かう太陽なのだ。数分ごとに色彩を変えていく其れが必要だったのだと確信した。
 でも未だ理解できないことがある。何故、心惹かれたのかが判らない。無性に見たいと望んだ、あの乾きにも似た欲求が何だったのかは未だ知れない。自分の事であるのに全く不可解だとジュリアスは少しだけ眉を寄せた。



 夕刻に近づくとそれまで真正面から吹き付けてきた風が変わった。丘陵を下から駆け上り、そのまま空の高見へと一気に抜けていく風向きへと変化したのだ。丁度丘の頂上近くに立つジュリアスは下方からの其れに大きく煽られる形になった。笑えるほど巻き上がる髪をくくるものも見つからず、仕方なしにそのまま佇んでいると背後から子供の声がした。
「探し物?」
「ああ、髪を纏めたいと思ったのだが何も持ち合わせていなかった。」
「ジュリアスの髪の毛はキラキラして綺麗だから風が羨ましがってるんだよ。」
如何にも子供らしい発想に知らず頬が綻ぶ。
「僕は父さんと同じで固くてごわごわした髪の毛だからジュリアスみたいになりたい。」
「だが、風に遊ばれて大変だぞ? 私は外で遺跡を調査する仕事をしているから、君の髪が羨ましい。」
「そうかな?」
「そうだ。洗うとなかなか乾かないし色々と手間がかかる。」
「僕はすぐ乾くから楽チンだ。」
じゃぁ、このままでイイ!と子供は顔いっぱいに笑顔を浮かべる。その時記憶の片隅に踞る何かが微かに動いた。誰かにキラキラした髪が羨ましいと言われた事があった気がする。いや、羨ましいのではなく好きだと言われたように思う。それが誰なのかは全く憶えていない。きっと目の前の子供くらい自分が幼かった頃のことなのだろう。
 するとこの場所への拘りも同じ様なものかもしれない。例えば幼い時分に此処によく似た場所へ来たことがあって、其れを思い出しただけな気がしてきた。そう考えると合点がいく。きっとそうに違いないとジュリアスは得心した。
 太陽はどんどん地平線へ近づいていく。空気がはっきりと感じ取れるくらい冷たさを孕み始めていた。
「そろそろ行こうか?」
少年へ問いかけると子供も頷く。二人して車へむかい歩き始めた。父親はボンネットに寄りかかって煙草をふかしている。もう行こうと身振りで促そうとジュリアスが片手を上げる。ところが父親は遠くに放った視線を戻そうとしない。ジュリアスもつられて同じ辺りへ顔を向けた。
 緩やかな曲線を描く丘陵の先に緋色を背にしたシルエットが見える。その形から人だとは判るが到底顔やら衣服が見えるほども近くない。だが此方へ歩いてくるのだろうことは察せる。少しずつハッキリとしてくるその姿から相手が男なのは見て取れた。更に近づいてくるとその人の周りに何やら蠢く塊があり、それらも一緒に移動している。一体何なのか?とジュリアスは食い入るように見つめた。
 とうとう黒い影だった形がキチンとした人間だと判別出来る距離まで来ると、モゾモゾとした塊にしか見えなかったものが羊の群だとわかった。ここまで距離が縮まると羊たちの泣き声が高く低く耳に届く。
「やっぱり来たか!」
父親がそう言ってボンネットから離れ、其処まできている相手に大きく手を振った。
「あの人を待っていたのか?」
「別にアイツを待ってたわけじゃないんだけどな。此処は遊牧民の通り道になってるんだ。もしも誰か来れば商売になるから、来ればイイと思ってたワケだよ。」
「抜け目ないな。」
ジュリアスは苦笑しつつ父親を振り返る。更に大袈裟なくらい手を振り、こっちへ来いとこの国の言葉で声を飛ばす父親に気づいたのかひょろりとしたシルエットの男も手を上げている。商売が上手くいくかは何とも言えないが、少なくとも客は真っ直ぐ此方へやって来る。どうせ商いが終わらなければ車も出発しないのだ。ジュリアスは父親の思惑に付き合うことを決め、そう決めた事をとても自分が楽しんでいると感じていた。
 遊牧民の中には、未だ研究者が発見していない遺産の在処を知っている者が居ると聞いたことがある。間もなくやってくる男が新たな情報をもたらしてくれるかもしれない期待が自分に高揚感を与えているのだとジュリアスは考えていた。ところが数十匹の羊を従えた其の姿が眼前に現れた時、彼はもっと異なる自分では微塵も整理のつかない感情が湧き上がるのを知る。
 ジュリアスの見知った遊牧民より男は遙かに背が高かった。太陽の下をずっと歩き続ける彼らの肌はどれも褐色に近い黄味色であるはずが、間近をすり抜けていく横顔は嘘かと疑うくらい色白で目鼻立ちも随分違っていた。この辺りには北側とは異なる民族が居留しているのかもしれない。それとも他民族との交流の末に派生した者達がいる可能性もある。学者としての好奇心から彼の目は男に釘づけられた。でも数メートル先で父親と言葉を交わす男が気になるのは、そうした理由だけでないことも感づいている。風の音が騒がしく、男の抑えた声が少しも聞こえない。ただそれだけの事で苛立ちを覚える自分が可笑しくてたまらない。一体何が自分を掻き立てるのだろうと、相変わらず男から目を離せないままジュリアスは誰にともなく呟いた。



 商談はあっと言う間に終了した。最初から売る側は残ったオレンジしか手持ちがなく、買う方も選ぶものがないのだから首を縦に下ろすか横に振るかしかない。五個のオレンジに数枚のコインを手渡して全てが丸く収まったというわけだった。男は肩から下げた皮の袋へ無造作に果実を放り込み、軽く会釈をして立ち去ろうとした。買い物をしている間に連れていた羊は彼方此方へ散らばっている。それらをどうやって集めるのかと三人が見守る中、男が歩き始めると羊は再び塊になってその後を追う。言葉にしない合図が双方に存在しているかの眺めだった。
 ゆっくりと歩き出した男が足を止めたのは子供が声をかけたからだ。単なる挨拶を送ったのである。振り返った男が子供の声に何某かを返そうとした時、また下からごぅと呻りを上げて風が丘を駆け上った。其れまでよりずっと大きな風波で、一旦落ち着いていたジュリアスの髪はどうにもならないほど乱れ宙を踊る。もう押さえる間もない。金の煌めきが今にも消えていく残照を受け眩い輝きを放った。
 男が急に背を返し自分に歩み寄って来るのをジュリアスは不思議なものを見るように眺めていた。真正面まで来ると男は立ち止まり、両手を頭の後ろへと廻して自分の髪を括っていた紐を解いた。鮮やかな細い糸を幾本も編んで作った其れを懐から取りだしたナイフで惜しげもなく二つに切り分け、一本はそのままそして残る一本をずぃとジュリアスへ差し出した。手を伸べ受け取ったのは咄嗟の行動で、彼は寄越された組みひもの意味を直ぐには理解できない様子である。相手が手元に残った一本で再び自分の髪を束ねるのを目にし、漸く其れで髪を纏めろと言われたと納得する。
「Gracias.(ありがとう)」
ジュリアスはこの国の言語を数えるほどしか覚えていない。幾つかの挨拶とホテルの予約をする時の決まり文句くらいのものだ。反射的に礼が飛び出したのは出来すぎと言える。其れまでニコリともしなかった男が薄く笑い、ジュリアスの謝礼へと答えた。
「De nada.」
気にするなと男は言った。夜の気配を孕みだした空気に放たれたその声はジュリアスへ確かに届いた。耳管に響き、体内へと滑り込んだ声音が胸の奥深くを揺らす。彼は男の声を知っていた。いや、知っていると思えてならない。まさか以前に会ったなどは決してない。少なくとも記憶にはない人間だ。でも、確かに何処かで聞いた筈なのだ。
 彼はあと二言三言の言葉を交わしたいと切望する。そうすれば何かを思い出すかもしれない。欠片くらいは頭の中から引き出せる気がした。
「何処から来たのだ?」
思わず口を突いて出たのは共通言語とされる彼の母国語だった。男は何を言われたのか判らないと言った風に眉を顰める。すると真横から甲高い声が飛んだ。
「De donde eres?」
少年がジュリアスの言葉を伝えた。男は何も言わず、腕を差し上げ陽の沈む地平辺りを指さした。そして上げた手を軽く振ると既に夜の降り始めている方角へ足を踏み出した。
 あと一言、何でも良いから声が聞きたい。必ず答えてくれる言葉を彼は必死に探す。
「名前を、名前を教えてくれは何と言えば良いのだ?」
上擦った声が少年に訊ねる。
「Como te llamas…って言うよ。」
「Como te llamas!!」
遠ざかる背に投げつける。
「llave!」
徐に振り向き男は確かな声音でそう返した。
「llave?」
「Si, llave.」
すると同じ台詞が戻ってきた。
「Como te llamas?」
「Julious!」
男は瞬間、酷く驚いた顔をして次ぎに随分と納得した風に頷き、最後に染みいるほども柔らかな笑みを浮かべこう言った。
「Chau, Julious.」
真横の子供が呟く。
「変なの…。」
「何故、変なのだ?」
「だって、さよならじゃなくてまたネって言ったよ。」
別れの言葉ではなく再会を意味するそれが、ジュリアスのぼやけていた記憶の一部を鮮明に照らし出した。
『そう…なのか…。』
きっとあの男と自分は何処かで会っている。何年前とか何十年前とか子供の頃とか、そうした明確な時間の隔たりではなく、もっと大きな流れの中で出会っていたのだとジュリアスは確信しこの後再び時間やら場所やら空間さえも越えた処で出会うに違いないと理解した。まるで夢物語と一笑に伏されるそんな戯れ言をジュリアスは今心から信じようと思った。思い出と言う括りには収まりきらない、もっと深く細胞に刻み込まれた記憶が彼にそう囁いたからであった。



 西の空に最後の緋色が残っている。あの一言を残した男は、二度と振り返ることなく夜の色へと歩いていった。輪郭が少しずつ曖昧になり、間もなく黒い塊にしか見えなくなって、最後には小さな点になったと思うと丘陵の先へ消えてしまった。ジュリアスは欠片も視認できなくなっても暫く同じ場所から動かなかった。
「行こうか?」
辛抱強く待っていた子供に漸く声を掛ければ、少年はさっきと変わらぬ笑顔でジュリアスを見上げる。
「うん、急がないと食堂が閉まっちゃうかもしれない。」
「それは困るな。」
「じゃ、急いで出発だね。」
肩を並べ車へと急ぐ。不意に浮かんだ疑問をジュリアスは少年へ問う。
「llaveとはどういう意味なのだろうな?」
「うーんと、僕らの言葉で『鍵』って意味だよ。」
「鍵……か。」
いつか、何処かの空の下で自分は『鍵』と言う名を持つ男と出会うのだと、ジュリアスは深く自身へ言い聞かせる。
 その時も、今日と同じ緋色の空で乾いた風の吹く場所なら良いと仄かに頬を緩め胸の内に言葉を落とした。



--Gracias!!



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