*橋の上で*
現代パラレル/リーマンもの
夏の始まりの夕暮れが一番好きだと思う。秋になりかけると太陽は、地上になんぞ全く未練がないとでも言いたげに見る間に沈んでしまう。けれど夏の頃だけは実に名残惜しそうに空の端に引っかかったままでなかなか隠れようとしないので、鮮やかなオレンジから熟れきった緋色へまた其れに目を奪われているともっと高い天の上の辺りは青と藍と紺とそして群青のグラデーションに塗られており、どれくらい眺めていても飽きることがない。
地上との境目で嫌々をするように山の稜線を山火事の如き燃える朱色に染めているのを、気の早い月やらとっくの昔から瞬きを開始している星が其の思い切りの悪さを馬鹿にしているかの様も嫌いではなかった。もうお前の出番は終わったと口々に囃し立てて、夜の空間を誇示している風で少しばかり寂寥を覚えるのが良いのかもしれない。
昼間あれだけ傍若無人に振る舞っていた存在感が瞬く間に失われていくのを、どこかで哀れんでいるからだろうかと自分に訊いてみたりするのだ。弱いモノが弱くなるのは大したことではない気がするが、酷く強いモノが弱くなってしまうのが悲しいに違いない。
だから夏の夕暮れ時は空から目が離せなくなるのだ。決して自分に重ねているとは思わないが、心の隅の方では幾ばくかの共感に近い感情を抱いているのだと指摘されたら、頭からは否定できないと訝っている。近すぎて嫌いになれない事もきっとある筈だ。
彼は今橋の丁度真ん中に居る。錆び臭い欄干に凭れ暮れゆく空を見上げている。本来ここは彼の居場所ではない。駅から商店街を抜けバス通りに沿って歩くとこの橋に辿り着く。対岸へ渡り、更に歩き続けた先に彼の住まいがある。定時の五時になっても直ぐには帰らない彼の職場は最寄り駅から二つだけ各駅に揺られた処にある。そしていつもなら今彼の立つ此処でぼんやりと河面や天を眺めている男が、薄暗くなった道を歩いてくる姿を待っているのだ。
今日、午後から入っていた報告会が取りやめになった。だから彼は年に何度かしかない定時の退社をすることになった。途中で買い物を済ませ、さっさと帰宅してしまっても構わなかった。構わないどころか、そうした方が良いのだと判っていながら彼は橋の中央まで来たところで立ち止まり、あと少しすればやって来るだろう相手を待つことにした。
偶には良いような気がしたのと、立ち止まった彼の眸に映った夕空のもの悲しい色がそんな発想を呼び起こしたのだ。背広の袖を僅かにずらし腕の時計を見る。六時半を過ぎているから、あと三十分も経たずに待ち人は来るのだろう。
一キロばかり上流に掛かる鉄橋を抜ける電車の音が土手の上を走り間近に聞こえる。薄闇の降りた鉄橋のアーチの間をチラチラと規則的に連なる光が右から左へと動いていくのが見えた。あの電車に乗っていたならもう間もなくやって来ると践んだ。
待ち人は彼より長く列車に揺られ、しかも急行で四つも離れた駅まで通っている。ただ殆どと言って良いくらい残業のない職場なので遙かに早く戻って来る。今日のような例外的な事がない限り彼はいつも待たれる立場なのだ。待っていて欲しいとか、まして何時にどこそこと約束をした覚えもない。ところが同じ家に住むようになったある日から其処でぼんやりと突っ立っている姿があった。
あまりに寒かったり大雪や台風の最中は別として、毎日とは言わないまでも特に何もなければ欄干に並ぶ水銀灯の下に長身の影は待っている。だからといってジュリアスの帰りが普段より格別遅い時は飽きてしまうのかさっさと先に戻っている。それは有り難いことだ。遅れたと焦る気持ちはあるにせよ、心の何処かできっと帰っているだろうと思える逃げ場を与えられているからである。
中には其れを乾いているとか冷めている等と言う人間もあるだろうが、絶対を欲しがる時もあれば曖昧さを望む時だってある。ずっと一人の男と暮らしていて、彼はごく最近そう思えるようになった。そんな事をつらつら考えている間に、駅からの流れだと思しき人の波が橋を渡って行く。今日一日の諸々を引きずる勤め人の群れの中に、彼の思う顔は混じってはいなかった。
次ぎだろうかともう一度時計を覗き込む。急行は最寄り駅には止まらないから、もしかしたら二つ離れた駅で乗り換えると今度の列車に乗っているのかもしれないと思えてきた。長い手足を持て余し気味に歩く、特徴があるのかないのか判らない男のシルエットをもう少し待ってみようと、彼は既に夜色に塗り変わった真上の空に目線を持ち上げた。
考えてみればジュリアスは相手から確かな約束めいた言葉を寄越された記憶がない。橋の上で待つ事もそうだが、もっと以前互いが十にもなっていない頃から近くに居すぎたからなのか、当たり前に手を繋いで当然の如く肩を組みその延長で抱き合ってキスをしたのではないかと疑ってしまうくらいに区切りや切欠になる台詞を聞いた試しがなかった。一緒に暮らす時にしても単に『住もうか…』と零したのを拾ったにすぎない。好きだとか、一緒に居たいとか、まさか愛している等は自分らには無関係な語句だと信じてしまうほどだ。
勿論好きだから一緒に居るわけで、愛している故に抱き合いSEXをするのだけれど、もしかしたら自分だけがそう思いこんでいるだけかもしれないと滅多に表情も変えない相手の顔に何か印があるかの如く見つめてしまうこともあった。浅はかだと知っているし、逆に胡散臭い軽薄な睦言みたいな愛の囁きこそ紛い物だと判っているのに、例えばこうして一人で埒のない考えを転がしている時などとてつもなく不確定な自分たちの関係に確固たる何かを欲しがってしまう。そして其れを押さえられなくなったりする。実に阿呆らしいと自覚しているにも拘わらずに…だ。
次ぎの電車が今は真っ暗な闇に取り込まれた空間を駆け抜けていくのが見えた。今度こそと、彼は車両から吐き出された人の波を待ちかまえる。もう、誰が何と言おうと周囲は夜になりかわっていた。
とっぷりと暮れた橋の上で何処を見るともなしに目線を宙に向けていた。次ぎも、その次ぎにも乗っていなかったらしく、此処に来てから実に一時間以上が経過しようとしているのに待ち人は姿を現さない。もしかしたら自分が来るよりももっと以前にこの場所を通り越して家に帰ってしまったのではと、電車の合間を見計らって橋の袂にある電話BOXから自宅へ連絡を入れてみた。だが虚しく呼び出しのコールが繰り返されるだけで応えはなかった。
時折鼻孔に流れ込んでいた夕餉の香も匂ってこない。家々の窓から漏れる灯りの下では、数多の団らんが持たれているに違いなかった。勝手に待っているのだから腹を立てる謂われなどなく、実際怒りなど微塵も感じてはいない。ただ何故来ないのかと言う疑問の裏側に潜む良からぬ想像が知らぬ間にむくむくと実像を結びそうになっている。外を歩き回る営業と違い、待ち人は事務職なのだから何某かの事故に巻き込まれる可能性は低い。一番確実なのは帰りがけに誘われ、断り切れずに付き合いで呑みに行く事である。滅多にないがあり得ないわけではない。そうした時も知らせてくる習慣がないから、電話もして来ないに決まっていた。
次ぎを待って、それでも駄目なら帰ってしまおうと決する。今すぐ立ち去ってしまわないのは、次ぎと言う切欠が欲しかっただけだった。
満天にはほど遠い星空に規則的な枕木に車輪の触れる音が駆け上がって行く。彼にとっての最終電車が無機質な光の帯になって走り去っていった。頭の中に車両から流れ出る人の群れを思う。ゾワゾワと蠢きながら改札を抜け駅前の道を動くその塊の中には何故か思う姿を描けない。多分もう自分は諦めているのだと悟る。諦めているから、此方に向かう様を想像できないのだ。それなら早々にこんな処から歩き出してしまえば良いものを、確認という区切りにしがみついて駅の方角に視線を据えている自分が情けないくらい諦めが悪いと苦笑する。
もう、とうに帰宅ラッシュは終わっているからバス通りを橋に向けて進む人の数も疎らになっていた。もう気が済んだだろうと自らに念を押す。寄りかかっていた欄干から背を離し家の方向に躯を返した時後ろから惚けた風な声が聞こえた。
「何だ…、今帰りか?」
振り返らずとも誰だかが判る。殊更にゆっくりと振り向くと、一つ離れた水銀灯の下にスーパーの白い袋をぶら下げた男が立って呆れたような顔をしていた。
「そっちこそ…、随分遅いのだな。」
待っていたとは言えなかった。自分の勝手でした事を、相手に押しつける気がして本来出るべき言葉を飲み込んだ。
「残業だ…。」
珍しい台詞にジュリアスは驚いて思わず本当か?と訊ねてしまった。馬鹿にするなと相手は嫌そうな顔を張り付ける。
「発注書の届け先を新入りが間違えた…。納品書と中身が違うと豪い剣幕で電話がかかってきた。」
クレームの対応は顧客を受け持つ営業の仕事だが、昼休みの明けた時間担当だけでなく部署の全てが外回りに出て不在だったから仕方がない。残っている事務が事の処理に当たった。
大きな企業ではない。倉庫と隣接するプレハブの事務所があるだけの小さな会社だ。営業にしても全部が顔を揃えてたった六人しかいない。在庫から顧客に収めるべき商品をかき集め、残っていた配送用の軽トラに積んで届けることになった。免許があり、席を離れても問題のない商品管理から二名が事に当たった。
「市内だから助かった…。県外だったらもっと遅くなっただろう。」
「それで残業か…。」
「しかも、帰りにバイパスで渋滞に巻き込まれて散々だ…。」
「大変だったな。」
「まぁ…な。」
並んで歩き始める。ふと気づいたのかクラヴィスが足を止めた。
「お前、飯は?」
「未だだ。」
「偶には食って帰るか?」
「そうだな。」
この時間なら帰り道に何軒かある飲食も閉まっていないだろう。
再び歩き出した時、ぶら下げた袋がガサリと音を発てた。
「何を買った?」
「ビール……。」
そう言えば切れていたなと思い至る。妙なところに気の付く男だ。少し前、カーテンを全部新調した時は一週間経っても気づかなかったのに…。
だからといって、もっと小さな事柄を目ざとく拾い上げるわけではない。結局、偶々見つけたか或いは単に其れが欲しかっただけなのかもしれない。橋の上で待っているのも、きっと其れに近い至極個人的な思いつきなのだろう。例えば空が綺麗だったとか、風が心地よかったとか。ずっと近くに居たからキスをするのと似ている気がした。
相手が言わないなら自分が言えば良いのだと、そんな事はずっと前から判っている。好きだと言わないなら自分から言えば良い。暮れてゆく空が泣けるほども綺麗だったのを見て、直ぐにでも会いたくなったならハッキリと此処でずっと待っていたのだと話せば良い。飲み込んでばかりいて其れを察して欲しがるのは身勝手だし、相手に不安を感じるなど理不尽すぎる。全く自分は意気地がないと呆れた途端、其れが微かな笑いになって口の端から零れた。
「何か言ったか…?」
「別に、何も…。」
耳ざとく拾われ言い繕ったが、耳がかっと熱く火照った。顔にも出たかもしれないと思わず俯いてしまった。
その時、手にした袋を持ち替えたクラヴィスの空いた掌がジュリアスの手を握ってきた。
「何だ、急に…。」
下を向いたままで抗議めいた事を吐き出したが勢いはなかった。
「別に…。」
前を見据えながら軽く握られている其れを解いて指を絡めようとする。手を繋ぐのなど子供じみている。実に恥ずかしい。ところが振り解きたくもなかった。だからそのままで何も言わなかった。
「お前、何が食いたい?」
無関係な話題を発したのは相手の胸中を図っての事か、それとも単なる疑問なのかは知れなかった。何でも構わないと返しながらジュリアスは言ってしまおうかと考えていた。実はずっと彼処で待っていたのだと。
笑われるか、呆れられるか、何だそうかと流されてしまうか。恐らく彼の反応は予想から大幅には外れない筈だ。あの時、次の列車を切欠にしようとしたのと同じに、其れを言葉に乗せる事が新しい何かへの区切りになるように思えた。そして、今なら言える気がしたのだ。
「クラヴィス…。」
「ん……?」
「実は、さっき…………。」
墨色の空を映した川面には、幾つもの光の粒と薄い黄味色の真円が微かに揺れていた。
了