*夜の音*

=3=

 避けられているのだろうかと胸の内側がざわめいたのは水の曜日の夕刻であった。思い過ごしだと即座に否定するのも、逆に爪の先程度の事象を拾ってそう決めつけるのも軽率な気がして、ジュリアスはどちらとも決めかね少しだけ当惑した。前日、彼は大層珍しい事に執務を欠勤した。二時間と四十分ばかり残業し、一応のきりを付けて私邸に戻り食事も取らぬまま寝台へと潜り込んだ。翌日に疲労と情事の痕を引きずりたくなかったからだ。けれど上手く事が運ばない時は如何様に足掻いても流れは上向きにはならないらしく、夜半を過ぎた頃から上がりだした熱が朝を迎えても下がらなかったのだから仕方がない。微熱程度なら薬と気力で誤魔化してしまう筈が、頭を僅かに持ち上げただけで視界が歪んでしまうほども其れは軽微でなく、屋敷付きの主治医をして安静を言い渡されてしまったのである。
 直ぐさま宮殿へ使者が飛んだ。ジュリアスが欠勤となれば次席であるクラヴィスがその補佐に付く決まりだ。当然闇の館へも知らせが行ったに違いない。だが、平素なら執務を中途で放り出しても顔を見せる男がやって来なかったばかりか、夕刻になり随分とマシな状態に復調した彼の元へ実に事務的な次席からの報告書が届いたのである。まさに何処から見ても報告書以外の何物でもない幾枚かの書類を受け取り、ジュリアスは裏まで返して何か認めてはないかと捜したが、職務に関する記載の他は一切みとめる事が出来なかった。何もなければ、あんな事を言わなければ、クラヴィスが腹を立てる様な真似をしなければ…、仮に執務が立て込んで訪ねる事が叶わなかったとしても何某かの文字を書き加えてくると思えた。この考えは決してジュリアスが慢心している故ではない。クラヴィスはそう言う配慮--此はジュリアスに対してだけであるが--を怠らない人間なのだ。数枚の紙片を手にしてジュリアスはきっと未だ腹を立てているのだろうと溜息を落とし、明日には出仕出来るであろうから謝罪して機嫌を直させねばと僅かばかり気が急いたのであった。



 定刻より半時間程早く出仕するのが慣わしである。丸一日を寝台で過ごしたお陰で気分は悪くない。少しだけ違和感があるのは、例えて言うと必要以上に睡眠時間を取ってしまった朝に感じる爽快感の片隅にある気怠さに近い、僅かばかりの心許なさであった。躯が慣れていないと言うのが最も適切な気がする。だがそんなものも動いて、普段通りに過ごしていれば直に感じなくなることも知っていた。執務室に入りデスクにつく。たった一日の不在であるのに、幾日も離れていたように思える。実際にはその前の数日を外界にあったのだから、強ち間違った感覚ではない。だが其処から戻った直後よりも今の方が在るべき場所に収まった安堵を強く感じている。不思議なことだ。取り留めもなくそうした感触を味わいつつ机上に届く諸々に伸ばした腕がひたと止まった。重なるファイルの一番上に乗る其れをまるで何か酷く熱いものでも触るかにそっと手に取る。引き寄せ、慎重に綴じられる紙片にしめされた文字を読み始めた。表題を見れば内容など一目瞭然であるにも拘わらず、彼は一文字を噛みしめるかに熟読する。既に一度目を通した事のある資料を外せば高々五〜六枚の書類に数十分を掛けた。読み終えるや否や、秘書官へ向け声を発した。
「此は今朝届いたものか?」
「左様でございます。」
秘書官は件のファイルが届いたのはジュリアスが部屋に現れる数分前だと述べた。
「少し外す。」
それだけを残し彼は離席すると、軽やかに部屋を出て隣室へと向かった。
 ところが幾つかの扉を挟む闇の執務室は鍵が下りていて、ノックの音には何の応えも戻らない。訝しげにノブを廻してみたところで、其れは硬質な金属音を発てるばかりで開く素振りの欠片すらなかった。あの報告書には確かにクラヴィスの署名があった。日付は本日になっていた。聡明な思考が瞬く間に結論を叩き出す。つまり彼は未だ研究院に詰めているのである。院内であの書類を認め、末尾に署名を施し、使者がジュリアスの元へ届けたということだ。半瞬、このまま研究院へと足を運ぶか迷った。が、直ぐさまその考えは排除される。星の最後を見取ったのである。その後も周囲への影響を確認する任が残っているに違いなく、故に全てが終了すれば此方に戻ってくるのが明かであるから、下手に訪ねるのは邪魔になりかねないと判断したのであった。事は恙なく穏やかに済んだと書面に記されていた。不安要素も懸念する事象も浮かばない。戻ってきたクラヴィスに労いと先日の謝罪をしようと彼は決した。昼になる前に一度顔を出すことにし、来たばかりの廊下を軽い足取りで自室へと引き返した。
 昼まで凡そ半時間となった頃、恐らく午前の間に届く最後の書類がジュリアスの元に寄越された。宇宙の安定は、やってくる書類の量にも如実に反映している。以前ならこの時間でも両手に余るほどが届いたものが、この数年でその数は取るに足らぬものとなった。喜ばしい事である。首座への案件が激減したことは、つまり問題となる事象が少なくなったとイクォールであり、数量だけではなく内容も火急を要する又は世界の明暗を左右するものではなくなったのである。些か拍子抜けする程度の紙束をそれでもジュリアスは僅かに眉を寄せ真摯な眼差しで読み下すのだ。今回も簡単な確認事項や決まりとなっている報告が主であるらしく、彼は次々に読み終えては己の名を記していった。
 五枚目を読み終え次ぎに視線を落としたところで彼の動きが止まる。ジュリアスは其れを読みもせず其の下と更にもう一枚を捲る。今朝ほど両筆頭の署名が必要だと隣室に廻したものが戻ってきているのだ。しかもきちんと署名がされている。意外すぎて我が目を疑った。本当は此が当たり前であるが、もう何年もこんな書類にお目に掛かった事がないだけに、ジュリアスは驚嘆を通り越して驚愕すら覚えてしまった。しかし、そんな惚けた顔をしていたのはものの一分程度であり、こうして書類が戻った意味に彼はすぐ気づいたのである。隣室の主が帰室している。今なら労いと謝罪を述べられる。控えの間に声を掛け、ジュリアスは再び忙しげな足取りで部屋を出ていった。
 隣室は常と変わらぬ薄暗さが立ちこめている。真昼の空間から一歩足を踏み入れる際、そのあまりに激しい落差にジュリアスは無意識にその場で立ち止まる。恰も其処が無音の虚無であるかの錯覚に堕ちたからであるが、数度瞬きをしたれ込めた暗がりに目が慣れれば机上に灯されたランプの仄明かりに浮かぶ、部屋の主が確かに見えた。どうやらチラチラと瞬く球体を覗き見ているらしい。視線を其方に向けたまま、クラヴィスは何だと抑揚のない声音で訊いた。
「早くからの任、ご苦労だった。」
漸く上げた白皙は、そんなことかと実につまらなそうな表情を浮かべている。
「恙なく終了したようだな?」
「報告書を届けた筈だが…。」
「ああ、見せてもらった。」
「ならば、あれに書いた通りだ。」
言い終わらぬうちに双眸が球体へと戻る。次を拒んでいるような、干渉を避けている風な素振りに思えた。
「何事もなかったのなら何よりだ。」
次ぎを発しかねるジュリアスは、繋ぎに相応しい語句を捜した。
 月の曜日の夕刻、己の不用意な言に対する謝罪を言うのが此処を訪ねた最もの理由である。簡素に、飾り立てること無く、其れを述べるだけで良いと判っているが思うように言葉が見つからない。職務であれば幾らでも適切な文句が浮かぶものが、何故かクラヴィスと関わると途端に聡明さを失ってしまう。今も木偶の坊の如くデスクの前に直立したまま目線だけをフラフラと彷徨わせている。
「未だ…、何か用か?」
焦れた風に問われ、更に思考が遅滞する。愚鈍極まりないと自身を叱咤し、兎に角次をと何某かを述べようとする先手を取られる。前触れもなく立ち上がったクラヴィスが言った。
「悪いが席を外す。」
「何処へ?」
「院に今一度呼び出されている…。」
ああ…と気の抜けた返事を落とすジュリアスの脇をすり抜け、主は衣擦れだけを残し部屋を出ていった。無人の室内に止まったのは数分の事で、幾分肩を落としたジュリアスが気を取り直し自室に戻るため闇の執務室から廊下に出れば、やはり其処には溢れるほどの眩い陽光が煌めいていた。
 夕刻、漸く退室すべく終了した諸々を整えてながら、避けられているのかもしれぬと不確かな思いに顔を曇らせたのである。



 翌木の曜日もクラヴィスと顔を合わせたが私事を語るもならず、更に金の曜日には廊下にてすれ違う機会さえ無かった。元来、個々の執務室を何某かの用事で訪ねなければ、場合によっては一週間だろうが十日だろうが顔を見ずに過ごすことも可能である。部屋が隣接している事は殆ど無関係と言っても過言ではない。それに平素からジュリアスとクラヴィスは宮殿に於いて同席するのも間々あることではなかった。故意にそうし向けなければ全く姿を視界の端に捉えないのも珍しくはないのである。今まで彼らが職務を仲介として顔を合わせる事があったのは、互いが敢えてそうした偶然を作り出していたからであった。クラヴィスが署名をせず書類を戻せばジュリアスが其れを手に持ち部屋へとやって来る。最もありがちな此の情景の幾度かは故意に作り出された事象であったのだ。
 今週になってから、クラヴィスは極端に遅れて出仕しないし、署名を忘れることもない。そして何の用事もなくジュリアスが隣室へ足を運ぶのもあり得ぬ事だ。故に彼らが対面し、言葉を交わさなかったのある。わざわざの事か、或いは単なる偶然であるのかが図れず、ジュリアスが「避けられている」と感じた事象が全くの懸念なのか仕組まれた事実なのかは杳として知れない。ただ、もしもクラヴィスがそうし向けているなら、理由は一つしか思い当たらないのである。
 以前から互いが諍いを起こし、激しい口論の末に口をきかず幾日も過ごす事はあった。その時々により、自らに否があると承知している方が先に折れ謝罪をし事なきを得ている。謝るのは簡単だと思う。まして今回のように己の発した言が相手を怒らせたと分かり切っているならさっさと頭を下げてしまうのが正しいと理解している。だがジュリアスは、時が経ち互いの仲が深まるにつれ、謝罪の言葉を簡単に口に出来なくなったと感じている。意地やプライドではない。クラヴィスに対して、そんなものは端から持ち合わせていなかった。それでは何故に形にしづらいのかと言えば、済まなかったの一言で赦されてしまう事実に慣れているのではないかとする疑問が頭を掠めるからである。愛する気持ちには全く変わりがない。いや、相手を知れば知っただけ其れは深く激しいものに変化している。けれど己の気持ちやら想いやらが変わっていくのと、相手が己に向ける感情が必ずしも同等である筈がないとする考えを抱くから、臆病になっているのではないかと思うのだ。
 更に、より密接な関係になることにより、自身が慢心してはいまいかと時折自らを疑ってしまうのも原因の一つだと考えられる。つまり、気づかぬうちになれ合いが生じ、其れが当たり前だと思いこんでいるが為、以前なら吐き出さなかった愚言を簡単に発しており、彼なら謝れば赦してくれると知らぬうちに甘えきっている可能性を懸念してしまうのだ。クラヴィスは余程の事でない限り怒りを顕わにしない。そんな彼があからさまな怒気を見せたと言う事は、しては成らぬ行い、言っては成らぬ言葉を馴れ合いのうちにぶつけていたとしても不思議ではないのだ。直ぐさま謝らねばならない、しかし其れを単なる形式にしてはならぬ。この二つが時間の経過と共にせめぎ合っていた。切欠を作ろうとしつつ、次の瞬間訪れる自問の前に、二の足を踏んで事を長引かせてしまった。
 誰かと関わりを持ち続ける難しさをこうした時に強く感じる。断ち切ってしまいたくはない相手であればある程、己の愚言や愚行が許せなくなる。だからといって以前の、想いだけが募り決して届かぬものと諦めていた頃に戻りたくはない。翻弄され、感情を突き上げられる喜びを知ってしまった今、あの穏やかな孤独に立ち返るなど決して出来ぬ相談である。早く、今すぐにでも彼の元を訪ねたいと欲する。それなのに肉体はデスクから離れようとしない。又、離れ隣室の扉を叩いたところで、如何なる言葉で幾重にも重なった心を伝えたら良いのかが判らない。そうして居る間にも、時はズルズルと移ろってしまい気づけば定刻など随分前に過ぎていた。いつの間にか隣室に感じていた彼の波動も遠くなり、微かな残り香ほども漂ってはこないのであった。



 夜半、やはりジュリアスを訪ねようと屋敷を出るとすっかり失念していたが夜空に青白い月の姿がなかった。新月である。空の綻びであるかの砕いた光の粒が五月蠅いほども瞬いている。普段なら薄い月光に浮かぶ小径も濃い鼠色に塗り込められ、数歩先に何があるかも判ぜられない。通り慣れた道でなければ凡そ歩こうとは思えなかった。馬車の通う本道に出れば道の端に外灯が並び、人工の白味がかった灯りが行く先を照らすも、己の行く場所を決められてしまうようで彼は敢えて木立の間を縫う薄暗い其方を選んだ。靴の裏に砂利の細かい感触を覚えつつ、午後に部屋を訪れた水の守護聖が洩らした言葉を反復していた。それも又彼が炎の守護聖から伝え聞いただけのもので、特に深い意味もなく天気やら気温やらを話の枕に語る如く、会話の中途に差し挟んだていどの話題だった。
 首座がここ数日、気にしなければ判らぬくらいではあるが、何かを思い悩んでいると思しき仕草をすると言うのである。紙の上を滑るペンの発てる音がふっと止まるので、何かあるのかと様子を伺うと有らぬ方に視線を送り物思いにふけっているらしい。職務の手を止めてしまう込み入った案件を抱えているとは思えず、しかもその時に浮かべる表情が酷く曖昧なものと見受けられる。訊いたところで答があるとは考えられぬが、一体に何を憂いておられるのかとオスカーが首を捻っているのだと、リュミエールは可笑しそうに言った。
『あれは、欠片ほどの異点を憂うのも職務だと思っている……。』
そう言うとリュミエールはクラヴィス様もお人が悪いと小さく声を零し肩を震わせていた。
 実際、吉とも凶ともつかぬ事象にすら眉根を寄せるのがジュリアスである。が、今回の其れが何に起因するかなど確かめるまでもない。先日の『あれ』が原因なのは明確でありすぎる。何かを言ってくるまで待っているつもりだったが、これだけ間が空いてしまうと言い淀んだまま膠着している可能性が高い。よくある思考の深みに堕ちていると思えた。仕方がないと腰を上げつつどうにも口元が緩んでしまうのは、このままだと週末を一人で無為に過ごさねばならないと考えた己の身勝手な言い分の所為である。そしてジュリアスに対してだけは、如何に冷静さを保とうとしても感情を抑えるのがままならなくなってしまう、己らしからぬ部分に笑えたからでもあった。
 小径から更に奥へと踏み入れば、夜目の効かぬ者なら次を出すのも躊躇ってしまう闇が足下を覆う。クラヴィスにしても、八割以上が単なる勘で残りをうっすらとした視覚に頼っているだけである。予想外の何某かが在ったなら簡単に足を掬われている筈だ。木立の合間から仄かな灯火が見える。林を回り込んだ先に在るジュリアスの私室の灯りである。其れだけを頼りに歩を進めた。薄く流れる夜の風と、遙かから耳に届く夜鳴きの鳥の音。時刻は既に今日を僅かに残す頃だと思われた。
 シルエットが動き、硝子扉の掛け金が外されると開いたその中に灯りを背にしたジュリアスが現れた。影になり顔は判らぬ。何も発しないのは少なからず驚いているのではないかと察せられた。クラヴィスが一歩前に踏み出す。ジュリアスは動かない。
「もう、言ってはどうだ……?」
低く零した其れを拾い、身構えるかに一つ息を飲む気配がした。



 再び一歩、クラヴィスが前に出る。
「何も言う事はないか?」
言には何の含みもないと思える。だが、ジュリアスは答えられず棒立ちのまま微動だにしない。
「それなら…、わたしから言わせて貰う。」
次ぎを進めるクラヴィスの靴音が微かに地を擦る。
「どうもお前が何かを伝えあぐねている風に思えてならぬ…。先日も中途で辞めてしまったのではないか?」
恐らく何も戻らないと知っているらしく、クラヴィスは相手が返す間合いを待たずに先を続けた。
「一体何を…と一応は考えてみたが、わたしには良く判らぬのだ…。」
それ故……。言葉を発しながら更に歩を進める。
「気になって仕方がない…。それでこうしてやって来たのだ。」
一旦言葉を切り、軽く息を整え言を重ねた。
「もう、好い加減に言ってはどうだ…?」
果たしてクラヴィスの語る全てが真実なのかとジュリアスが訝ったのは当然かもしれない。訝ったと言うより、明かに方便だと読みとっていた。
 彼が時として使う手だと即座に理解できたし、これまでも何度か其れに乗った事がある。わざわざ知らぬ、分からぬと言いながら、別の逃げ道を知らせているのは間違いない。そしてクラヴィス自身もジュリアスが察知していると重々承知してこのやり方を使っているのだと分かっている筈である。時には此が煩わしく、払いのけたり意味の分からぬ振りをした事もあった。今回はどうすべきなのか、徐々に距離を詰めるシルエットを凝眸するジュリアスは逡巡する。また差し伸べられた腕を取ってしまうのは、少しも進歩がないようで又いつもそうして彼に負うてしまうようで即答など出来なかった。無関心を装っていながら、何もかもを見透かされているのが悔しくもある。謝罪を述べる事、あの夕刻に発した暴言に謝るのは容易い。それ自体を己の愚言だと認識しているから、頭を下げるのは当たり前だと思う。が、何故かと聞かれると再び口が重くなるのも明白だった。あの、クラヴィスが稀に見せるやるせない顔が見たくなかったとは言えない。だが、其れを繕う別の方便も思いつかぬ。ジュリアスは、やはり動けぬまま同じ場所に立ちつくすしかなかった。
 暫し双方の時が止まる。膠着とは言えぬ、互いが次を待っているかの合間である。少し前、クラヴィスの髪先を踊らせた微風も凪いでしまった。一時、音すらも逸してしまったかの空間が支配する。どちらが先に踏み出すのか、全く判ぜられぬ時が過ぎた。
「ジュリアス……。」
進めたのはクラヴィスであった。相手を探るかの声音で名を囁き、彼はそれまでより大きく歩を前に出した。部屋の灯りがテラスから長い帯となり夜露に濡れた地面まで届いている。薄闇を切り取るかにその場所だけが黄味色に染まる。クラヴィスが灯りの帯の内に践み入った。それまで判然としなかった彼の姿がくっきりと浮かび上がった。
「クラヴィス。」
思わず名を呟いたのは、眼前に立つ男が豪く情けない顔をしていたからだ。お前の胸の内など全部お見通しだとでも言うしたり顔だと勝手に思っていたジュリアスは、現れた其れに少なからず驚き、慌て、そして愛しさを覚えた。
「何だ…、その情けない顔は…。」
頬が緩むのを感じる。それは理性では止められない。闇の守護聖が感情を持たず表情に乏しいなどと言ったのは誰だろうかと思っただけで、穏やかな笑いが溢れてきた。
 白皙が見る間に崩れ零れるほどの笑みが現れるのを知っている。子供じみた困惑に眉を顰めるのも、背筋が凍るかと竦み上がる静かな怒りも、こうして寄る辺ない幼子を思わせる情けない顔も、己にだけ赦した彼の姿だと教えられた気がする。あの、拒んでしまったやるせない表情も自分にしか顕わにしない秘事なのかと気づいた途端、ジュリアスの唇から数多の語句が流れ出した。
「意地を張っていた。そなたの気遣いを受けるのを恥じていたのだと思う。私事を職務に持ち込む事を認めたくなかったのだ。だから…、あんな事を言ってしまった。」
済まなかった…。一気に吐き出した直後、蜜の色がふわりと舞った。部屋履きのままテラスを離れたジュリアスが勢いをつけ胸に飛び込んで来る。一瞬の出来事に受け止めるのを忘れるところだった。
「なんだ……、いきなり……。」
鼻先を黒髪に埋めるジュリアスの耳元に届いた声音ははやり困惑を孕む響きであった。怒っているか?と問いかけると、端から怒って等いなかったと返ってくる。其れは真実に違いない。少しだけ腹を立てたかもしれないが、きっと直ぐに呆れたと苦笑していたのだろう。
「一時の高ぶりで、あんな事を言ってしまったから…。どう言おうか考えている間に分からなくなってしまった。」
そんな事だろうと思ったと、答えた其れには微かな笑いが滲んでいる。
「それから……。」
「……?」
しかしその後は続かなかった。クラヴィスの無意識に浮かべるあの面は、この先も自分の胸に納めると即座に決したからだ。進歩がないのかもしれない。感情にまかせ不要な愚言をこれからも放ってしまうかもしれない。一人で勝手に思い悩み、またクラヴィスの手を煩わせる事があるに違いない。ただ何も変わらないのではないとジュリアスは学ぶ。胸に秘めた言葉を発する代わりに、こうして抱き合って何かを伝えるても良いのだと確信した。彼の腕は己にだけ伸べられるのを忘れるなと自身に言った。
「クラヴィス…。」
それでも虚ろが胸に忍び込んだなら、其処を埋める術を互いが知っているのを思い出せば良い。己らにだけ赦された術がそれだけだと嘆くのではなく、唯一与えられた幸だと感謝を込めてかわせば良いのだ。
 ジュリアスの口唇がクラヴィスを求める。ひっそりと重なるそれが互いの熱と形にしない想いを伝え合うのに、未だ暫くの時を要するのだろう。離れるのを忘れた二つの影の上、新月の夜空を渡る夜の音が遠く聞こえた。





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