*夜の音*

=2=

 執務室に戻った時、やはり其処には彼の片腕と唱われる炎の守護聖の顔があった。彼もまた勘の良い男である。クラヴィスの内面を覗き見るような其れとは異なる、欠片ほどの表面的変化も見逃さない鋭さだ。内なる焦燥や不安を隠すことには長けているジュリアスであるが、体調の不良が表層に現れてしまうのはどうにも出来ない。しかし、だからと言って極端に取り繕うのは得策でない事も承知している。あくまでも平素と変わらぬ有り様が好ましいのだ。予想通りオスカーは幾分様子を窺うかの仕草でジュリアスを見つめ、お疲れですか?と発した。
「ああ、昨晩遅くに戻ったからな。」
軽く笑みを浮かべ返す言葉に違和感はない。
「そうですか。特に急ぎがなければ早めに退出された方が良いかもしれませんね。」
成る程と思ったに違いない。オスカーはそれ以上詮索をするつもりもなく、屡々寄越す労いを向けただけであった。
「そうしたいのは山々だが、研究院より例の惑星に関して報告があるかもしれぬ。」
「物理的消滅ですか?」
「そうだ。」
「ジュリアス様が行われる事に?」
「いや、恐らくあれが任を受けるだろう。」
ふと思い出した風にオスカーが隣室との境になる壁の辺りに視線を送り、未だ見えられていらっしゃいませんねとクラヴィスの不在を伝える。
「何かあれば院より使いが出るだろう。そうなれば直ぐにでもやって来る。」
ですよね?と幾分軽い笑いを浮かべ同意したのち、彼は自らの執務室へと戻って行く。扉から出る間際、もう一度顔を向け、何かあれば申しつけくださいとやはり気遣いを贈った。ゆっくりと閉じていく扉を眺め、ジュリアスは小さく嘆息する。本当に早めに戻った方が賢明だと思えてきた。腰の奥が熱を持ったかに疼いている。頭の芯が痺れたようで、上手く思考が纏まらない。兎に角、手元に届いたものを至急片づけるに越したことはない。できるだけ負担に感じぬよう、椅子に掛ける姿勢を気に掛けつつ机上に積まれたファイルへ手を伸ばした。



 昼の休息になるまで、ジュリアスは出来うる限りの職務をこなした。幸いな事にこの時点まで研究院より火急の報告は入らず、正午を告げる鐘の音が遠く中庭を渡って流れ込む頃には、何とか八割弱の書類に末尾の署名を終えていた。本来なら、朝に届いた程度の量ならば既に終わらせていてもおかしくない。が、やはり不調の影響は確かなようで、どうしても集中力が欠けてしまう。文字を追ってはいるが、それが意味を持って届いてこない。一列に並ぶ印字の上を目線はただ滑るだけであり、途中で気づいては幾度も戻って読み直すのを繰り返していた。自ずと時間がかかり、意識を集める努力を殊更に続けなければならなかった。
 背後から声を掛けられ慌てて顔を返すと秘書官が昼はどうされますかと訊いてくる。未だきりがつかない、自分には構わず休息を取れと言い渡す。畏まりましたと一礼し、暫しののち彼らは執務室から退室していく。麗らかな陽射しの射し込む一時が部屋の中に舞い降りた。昼食を摂るよりも、その時間に身体を休めた方が良いだろうと考える。文官たちの戻るまで、執務室の奥に設けられた私室に下がるのは全く問題ではない。私邸に戻れず、幾日も宮殿に詰める場合を考慮して私室には簡素な寝室も設えられている。着座しているのが苦痛になっていたジュリアスは、迷わず自らの提案に頷いたのであった。秘書官に宛てたメモを書き記す。私室に下がる由を書き、戻った時に一声かけるよう認めた。デスクの中央に其れを置き、椅子から立ち上がろうとしたところで扉にノックの音が鳴った。入室の許可を返す前に開いた其れで、来訪者が誰であるかが判る。実に間の悪い事だと、今一度椅子にかけ直しつつ苦い笑いを浮かべた。
 部屋の主が如何なる返事を寄越そうが、その者はお構いなしに入室してくる。しかも自ら名乗りもせず適当に二三度扉に拳を当てるだけで其れを開いている。そんな振る舞いをする輩をジュリアスは一人しか知らない。今も、相手は押し開けた扉を抜け、ずかずかと歩を進めてデスクの真ん前に立っていた。クラヴィスがその位置まで歩み寄る間に、すかさずメモ書きの上へ読みかけていた書類を広げる。さり気ない仕草で並ぶ字面に視線を落とした。
「昼は…?」
訊きながら彼が自分の様子を探っているのを感じた。
「未だだ。」
「これからか?」
「まぁ…そうだ。」
「わたしもだ…。」
「それで?」
ここで漸くジュリアスが顔を上げる。見下ろす白皙はいつもの無表情のまま首座を眺めている。
「きりが良いなら共にするか?」
彼がジュリアスを昼に誘うことは珍しくない。気が向くと不意に現れて共に摂るかと訊いてくる。
「残念ながらきりが悪い。」
「ふむ…。」
執拗に誘う風は見せない。それならと、今にも踵を返すようである。が、黒曜石の眸から放たれる視線はそんな彼の態度とは裏腹に眼前のジュリアスをまるで吟味でもするかに張り付いて離れぬ。
「未だ何か?」
「いや…。」
きっとクラヴィスには見抜かれていると思った。オスカーが気遣いをみせたのであれば、きっと自分は平素よりは明らかに具合が悪そうに違いない。だからその程度を図っているのである。ジュリアスは堪える事にも長けている。限界の紙一重まで何もない顔を作る事が出来る。そしてクラヴィスはその頃合いを見定めるのに長けていた。口で如何に問題ないと言っても、他者から如何ほども異変を見とれなくとも、彼は瞬時にジュリアスの状態を見抜いてしまう。言葉を掛けるだけで引く時もあり、いい加減にしろと叱りとばす事もある。稀に有無を言わせず引き立てて私邸に連れ帰ることもあった。必要とあらば担いで馬車に押し込めるもやむなしと考えている。昼を誘いつつ、今現在ジュリアスがどのような辺りに在るのかを読んでいたのである。次ぎにクラヴィスがどんな反応を見せるのかが気になる。ジュリアスは彼の薄唇が何を発するのかと息を呑み待った。
「まぁ…、大概のところできりを付けるのだな…。」
クラヴィスは手を出さずにおく事を決したようだ。ジュリアスは気づかれぬ程に微かな息を吐く。もしも彼が直ぐさま止せと言ったなら、其程も不調に見えるに違いなく、今の様な台詞で済ませるならその程度に見えているのだと言うことだ。
「ああ、そうしよう。」
ジュリアスから瞬く間に視線を外し、クラヴィスは身体を返すと流れる身のこなしで扉へと向かう。何事もなかったかに廊下へと出ていく刹那、振り向きもせず一言を残した。
「大概にしろ…。」
ジュリアスが判ったと応えるのも待たず、扉は緩やかに閉じていった。そう言えば彼はいつ出仕したのかを聞き忘れていた。午前のうちに上がっていたのか、それとも来たばかりの足で此処に来たのか。どちらにしても様子を見にきたのには変わらない。彼があれ以上を述べなかった事が酷く喜ばしい。実情はともかく、未だ余裕があると践んだのだろう。それが僅かながらもジュリアスの自らに対する不安を和らげていた。



 結局半時間ほど横になっただけに留めた。頭はぼんやりとしていたが眠ってしまうには気分が高ぶっていた。院からの報告があるかもしれぬと気になっていたからもあり、休憩から戻る文官たちよりは早くデスクに戻りたいと考えていたのもあった。横臥して全身をゆっくりと伸ばしていただけだがそれなりに効果はあったようだ。腰の奥に燻っていた痛感はそこそこに収まっている。但し、全身の不快感は解消されておらず、逆に倦怠感は増した気がする。更に午前の間は感じなかった悪寒が時折背をぞわりと抜けていく。疲労と情事の名残が発熱を促したのは明確であった。早めに切り上げるのが賢明だと先ほどより強く思う。週が明けたばかりなのだ。明日も執務に就かねばならない。今夜の間に体調を戻すのは必須だと自らに言い聞かせた。デスクにつき、中途で置かれたファイルを手元に引き寄せた時、文官たちが戻って来た。其れを待ったかに、午後の執務開始を告げる鐘の音が遠くに聞こえた。
 午後は眠気を誘うくらい穏やかに過ぎていった。職務をこなす早さはそれまでと大して変わらなかったものの、痛みと不快感の二つから、痛感が引き上げたのは有り難いことであった。平素と比べれば確かに効率は悪く、一枚の書類を読み終えるのに倍ほども時を要した。うっかりすると読み違えているかもしれぬ、気づかぬうちに読み飛ばしをしてはいまいか。意識が散漫になっていると自覚する故に、一度で終わるものを二度三度と読み直すからである。それでも午後から届いたファイルの束を含め全体の八割がたを終わらせた頃定時が訪れた。ジュリアスがこんな時刻に退出するのは稀である。当然の如く仕える者たちへ先に上がるよう言いつける。受けた者も普段の通りに従った。ただ、秘書官だけは幾分遠慮がちに未だかかるのかと訊ねた。
「いや、あと少しの事だ。今日は早めに退出する。」
深々と礼を送る秘書官は『そうなさいますよう…。』と告げ部屋を後にする。向けた言葉に嘘はなく、残りを終わらせ早々に帰路につくつもりであった。耐えられぬではないが、夕刻が近づくにつれ首筋の辺りに悪寒が張り付いていた。頭の芯だけが膿んだかに熱く、だが身体は酷く寒さを覚える。掛かったとしてもあと二時間。不本意ではあるが、それでも終わらぬなら明日に残しても仕方がないかと考え始めていた。週末なら是が非でも片づけてしまっただろう。けれど、明日にも届くと思しき研究院よりの報告を思えば無理をすべきでないと理解していた。気を取り直し、幾分下腹に力を入れ意識を手元の紙面に集める。ぞくぞくと背を昇る感触を振り払うかに、ジュリアスは一度大きく息を
吸い込んだ。



 扉が開いたのがあまりに唐突であった為、ジュリアスは比喩ではなく本当にビクリと身体を浮かせてしまった。実はその前におざなりなノックの音はしており、何の前触れもなく其処が開けられたわけではなかった。紙束の丁度半ば辺りを読んでいて、其れは数多の惑星に住まう民から寄せられた声を聖地に伝える文書であり、週の初めに届く此を読み下す時彼は何よりも丹念にその内容を頭にたたき込もうとする。女王への感謝が大半ではあるが、中にはあからさまな苦言もあり、要望やら漠然とした希望、たった一言の糾弾が認められていたりする。良かれと行った行為がその実彼らには余計なお世話であったのだと教えられる事もあり、取るに足らぬと切り捨ててはおけない類のまさに生きている言葉だとジュリアスは考える。だから何よりも真摯に向き合うべきで、サラリと読み流すべきではないと認識している為、誇張ではなく全神経を集めて字面に当たっていたのである。それ故、静寂にすら消えてしまいそうな扉の音が届かなかったのも無理はない。弾かれたかに顔を上げ、戸口に投げた視線の先にはやはり思う相手が立っており、幾分呆れた顔で自分を見つめていた。先に口を開いたのはクラヴィスだった。
「未だ居たのか……。」
声音には充分すぎるくらいの驚嘆が滲んでいた。言いながら執務机の前まで歩み寄る。薄い黄味色の灯りが長い黒髪の上に落ち、まるで濡れた様な深い墨色に見えた。
「大概にしておけと言ったが、よもや聞こえていなかったらしい。」
ついと腕を伸ばし、ジュリアスの手元から紙片を一枚攫う。ざっと目を通し、鼻先でふっと笑うのが判った。酷く馬鹿にした風な態度である。それを裏付けるかの言葉が続いた。
「とても至急とは思えぬが……。」
定時を過ぎてまで関わる職務とは考えがたいとクラヴィスは柳眉を上げる。
「私の仕事に口出しは無用だ。」
其の言い回しに少しばかり腹が立ち、ジュリアスは取り上げられた一枚を乱暴に奪い返した。
「そなたこそ、こんな時刻まで何をしていた?」
実際、クラヴィスが定時を過ぎて現れるなど意外である。
「研究院に呼び出されていた…。」
「何の為に?」
答の代わりにクラヴィスはファイルを投げ寄越す。バサリと机上に落ちた其の表書きが目に入った途端ジュリアスが声を上げた。
「何故、そなたが此を!」
それだけを発するのももどかしいと、ジュリアスは挟まれた報告書を読み進める。暫しの沈黙が流れ、再び上がった顔には安堵にも似た色が射していた。
「物理的消滅は免れたか……。」
王立研究院の下した結論は惑星の自然消滅であったようだ。星が自らの終わりを自覚しており、其れによる近隣の惑星への影響が認められぬ場合、其の星が時の流れの中で何時しか消えていく道を選ぶ。今回、院の下した決はその自然消滅であったらしい。
「研究院から意見を求められた…。」
クラヴィスは其処に行き着く経緯を言葉少なに語り始める。
「もしも、星が己の末路を受け入れぬと言った時はサクリアで葬るもやむなしと思っていた…。」
しかし自身の内に惑星の意志を導いてみれば、星は全てを了解していた。朽ちていく終焉に星は微塵の悔いもないとクラヴィスに語ったと言う。
「このまま穏やかな終わりが訪れるのを待つと言う、星の声に従う事にした…。」
ただ、最期の時に穏やかなる終末を祈る意味も込めて闇のサクリアを送るつもりだと彼は結んだ。ジュリアスとて異存があるわけではない。むしろ理想的な結末だと喜ぶべき事である。が、どうにも納得のいかぬ部分があったと見え、彼は非常に険しい表情を作りクラヴィスを凝視している。
「経緯と結論は判った。だが、私に全く報告がなかったのはどうしたわけだ?」
「お前の手を煩わせる必要がないと考えたからだ。」
「そなたの判断か?」
「そうだ…。」
聞けばクラヴィスが要請を受けたのは執務開始から一時間も経たぬうちで、直ぐさま院へと出向き請われるまま惑星の状態を見続けたと言う。普段ならその場にジュリアスも同席する筈である。首座への使者を止まらせたのはクラヴィスの一存に他ならない。昼食の誘いに現れたのは、恐らくその途中であったのだろう。
「私への報告義務を怠った理由を聞きたい。」
意外な台詞にクラヴィスも怪訝さを隠せない様子であった。が、彼も昨日今日この男に関わりを持った人間ではない。ジュリアスの発した意味は充分すぎるほど理解しうるものである。
「お前の体調を留意した…では納得がいかぬか?」
「大きな世話だ!」
視察による過労はさておき、クラヴィスとの情事がもたらした不調であると自覚しているジュリアスは殊更に声を荒立たせる。
「余計な世話だと言うのか?」
「そうだ。」
「あんな様でよく言う……。」
口の端に嘲りに近い笑みを刻み、クラヴィスは吐き捨てるかに言った。
 この時、ジュリアスの頭の片隅に一つの願いがあった。時折クラヴィスの見せる得も言われぬ表情。その真意を確かめた事はなかった。けれど大凡の見当はついている。恐らく彼の内に踞る『自責』ではないかと思ん図っているのである。情事に於いてジュリアスは受ける側に在る。快楽と言う結末を同時に享受するのは違わないにしても、其処に到る過程で彼はクラヴィスが感じ得ない『苦痛』を耐えなければならない。事の終わったのち、クラヴィスが浮かべる『やるせない顔』は、きっとジュリアスばかりに苦を担わせている負い目であろうと思っているのだ。しかし、昇り詰めた先にある途方もない悦を感じるのだから、クラヴィスがそうした想いを抱くべきではないと考えているし、出来ればそんな風に自らを責めて欲しくはないと望んでいる。ただ、彼の本心を問いただしたことがないだけに、面と向かってそのことを語り合ったりはしていないのである。話の流れから彼自身の不調へと進んだ今、殊更に触れてクラヴィスにあの顔をさせたくないと欲したジュリアスは、敢えて蜜事を切り捨てる事を選んだのであった。
「確かに私は本調子ではない。だが、其れはあくまで視察先で自己管理を行えなかった結果でしかない。」
だから気遣いなど要らぬ世話だとジュリアスは言いきった。
「要らぬ事はするな……と?」
「そう願いたい。」
勿論これは詭弁だ。単にあの顔をして欲しくないとするジュリアスの願望が言わしめただけの台詞だった。ところが思惑とは別の方向に流れが変わることもある。
「わたしの勝手な判断は迷惑だったか…?」
「迷惑とは言わぬ。」
「ならば、なんだ?」
「気を回しすぎるなと言っているのだ。」
クラヴィスも執拗に食い下がっていると自覚していた。だが気がかりだったのは確かであり、ジュリアスの不調が昨晩の行為に起因すると知っていたから尚のことである。
「しかし、昨夜の事があれば…。」
「クラヴィス!!」
中途で遮り強く名を叫んだのは流れを戻したくなかっただけだった。不意に語気を荒げるジュリアスにクラヴィスは面くらい言葉を切る。まさに睨み付けるが如き眼光を放ち、それが要らぬ事なのだと重ねた。
「そなたには関係のない事だ。」
「わたしには…関係がない?」
結びに置いた一言がクラヴィスの癇に障ったのは明らかだった。深い意味などない。単にこの話題を終わらせたい気持ちがあっただけだ。
「いや…、そうではない。私はただ、執務の場であのような事を口にするのは…。」
「良く判った。無関係な者が差し出た真似をして悪かった。」
「話を聞け、クラヴィス!」
「神聖な場であのような愚劣な行為に触れぬ様心がける。」
「私は、愚劣などとは…。」
思いも寄らぬ結果にジュリアスが狼狽えたのは当然である。不用意に発した言の所為だと悔いたところで、一度唇を割った言葉は取り戻せない。無かった事に出来る筈もなかった。
「邪魔をした…。」
踵を返したクラヴィスを留めんとジュリアスは立ち上がり話を聞けと繰り返したが無駄なことだった。驚くほどの素早さで戸口に歩んだと思う間もなく扉が開き、そして閉じる。再び降りる静寂の中、惚けたように無人の戸口を見つめるジュリアスに、彼の者の残り香が微かに届いた。





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