*夜の音*

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 最初に気づいたのが気配だったのか、或いは対のサクリアが放つ波動であったのかは分からない。そろそろ休もうかと私室から寝室へ移った時、ジュリアスは帳の引かれた硝子戸の先に彼が居る事を感じ取った。即座に帳を開け、天井まで切り取られた窓を押してテラスに出ると、新月の夜特有の深い暗さのただ中にひっそりと立つ姿が在った。頭上には満点の星空がある。しかし月のない夜の闇は、其処に在るはずの人を今にも飲み込んでしまう程に深とした静謐を孕み裏庭と言う空間全てを覆っていた。一瞬、彼を想うあまり虚ろな心が見せた幻覚かと疑ったほどである。
 けれど、開いた硝子戸から洩れる室内の薄い光に浮かぶジュリアスを確認した影がゆらりと動き、双眸が捉える其れが確かにクラヴィスなのだと伝えた。落とした墨の雫が水の揺らぎに流されるかの緩やかな動作で彼は一つ足を踏み出す。その様を凝眸するジュリアスに、漆黒を纏った声音が発する一言が届いた。
「もう、言ってはどうだ……?」
意味するところが分かりすぎるジュリアスは、しかし直ぐさま答える何某かを持たぬ故、微かに息を吸い込みほんの僅か躯に力を入れた。2人の間には歴然とした沈黙が降りる。そして、遠く遙かより聞こえる夜に鳴る音が墨色の空を静やかに流れた。



 閨を後にする時、全くとは言えぬにしても後悔と呼ばれるような気持ちを持ち合わせてはいなかった。日の曜日の夜を共に過ごす事が如何なる意味かなど熟知していたし、当然翌日の朝に定例となる会議が持たれているのは承知していた。普段ならこの日は行為に流れないと互いで暗黙の上了解していて、余程でなければ頃合いを見計らい屋敷を辞する慣わしになっている。もちろん例外はあり、年に幾度かは慣習が崩れる場合もあった。今回、席を立たなかったのはジュリアスで、クラヴィスが一度様子を窺う素振りを見せた時もサラリと受け流したのである。つまり何某かの不具合があったなら、言葉は悪いが双方の合意である以上ある種共犯と言ってしまえる行いであったわけだ。
 最初に仕掛けたのはジュリアスだった。2度目を促したのはクラヴィスで、三度目はどちらも何かに曳かれたかに堕ちていった。酒が入っていたのもある。だが実に珍しい視察によるジュリアスの不在が思ったよりも長引いたのが何よりの理由だと思われる。彼らは乾いていたのだろう。生理的な欲求を純粋に満たしたいと望んでおり、また距離と時間を隔てたことに因る精神の渇望を潤したいと願ったに違いない。特にジュリアスはそうした想いが強かったようで、それは視察とは名ばかりの有り体に言ってしまえば、終焉に向かいつつある惑星には如何なる救済の術も皆無であると蒼天の眸で確認するしかなかっただけに、人肌の温もりに包まれ彼の対となる相手に一時の解放と忘却を求めたのである。其れが心底愚かしい行為だと知っていても、抗えぬ時は確かにあるのだ。人でなければどれ程も楽であったかと冷えたシーツに躯を横たえるしかなかった頃には思いも寄らない、理性では割り切れぬ甘さと苦しさを同時にもたらす蜜事なのであった。ましてクラヴィスも其れを欲していると判っていれば尚のことである。絡み合った四肢を更に強く引き寄せ抱き合ったのちに訪れる、巨大な波にも似た快楽の二文字に全てを預けてしまうことで、彼らは人である己らを確かめ憂い赦しているのである。責める者など居るまい。そして自らを責める謂われもない筈であった。



 朝議の席に姿を見せないのは只の一人で、ある程度予想はしていたが己の隣の空席に視線をやってジュリアスは欠片ほどの落胆を覚えた。朝の気配を感じる頃彼の屋敷を後にする時、出来るだけソッと抜け出した寝台の中からまさかの声を掛けられ、一瞬ドキリと肩が跳ねたのを気取られぬよう落ち着きを装い振り向いたジュリアスを見上げてクラヴィスは何処へ行くのかと問うた。
「屋敷に戻る。」
サイドテーブルに顔を向け時刻を確認した彼は何とも呆れた風に言った。
「早すぎるだろう?」
「いや、朝議がある。」
「それにしても…。」
「一度戻って着替えをしたい。」
やれやれと肩を竦ませる。
「着替えなら…。」
顎をしゃくるような仕草で続きの間を示し、昨日の昼過ぎに唐突とやって来たジュリアスの身につけていた衣装は既に整えられていると教えた。視察先から何処にも寄らず真っ直ぐ此処に姿を現した彼の纏っていたものである。
「あれは略式だ。」
屋敷で正装に着替えるのだと当たり前の声が返った。
「略式でも問題などなかろう?」
「気持ちの問題だ。」
「身体の問題は良いのか?」
「どういう意味だ?」
察しの悪い奴だと鼻先で笑いつつ、昨晩の名残があるだろうとクラヴィスは向き合う顔を覗き込んだ。
「気遣いには及ばぬ。全く問題はない。」
毅然と言い切る。澄んだ瑠璃色の眸には意志の輝きが宿る。これ以上は無駄だとクラヴィスが悟るのに一分も要しなかった。
「そうか…。」
「ああ、そなたこそ今から寝込むと起きられぬのではないか?」
「…かもしれぬ。」
仕方のない奴だとジュリアスは苦笑した。兎に角、遅れぬように心がけよと言っても効き目のない台詞を残し部屋を出ていく姿をクラヴィスが寝台の中から見送った時、漸く空の色が変わり始めていた。
 案の定、集いの間の扉が定時を告げる触れと共に閉じられても、闇の守護聖は現れなかったのである。珍しくもないこと故に、集まった誰も其れに触れる者はなく首座の一声で定例の朝議は何事もなく始まった。変わり映えのしない前週の報告に続き今週の大まかな予定が述べられ、その次は各守護聖への研究院よりの申し送り、最後に首座がお決まりの訓辞的な幾つかを話しお開きになる筈が、今回は一つだけ異なる流れが組み込まれていた。あまりあり得ぬ首座の視察に絡む惑星の終焉に関する報告である。ジュリアスが自ら出向き、既に救う道はなしと決した由を院からのデータを交えて皆に語ったのだ。住民の移住は開始しており、此に伴う諍いなどは起きていない。完了を確認したのち再度検討を行い必要となれば物理的消滅を敢行すると伝えた。消滅に関しては首座または次席が行う慣わしであるので、他の者に特別な任が下ることはない。各、自らの責を全うするようとジュリアスは結んだ。
 新宇宙となり恒久とも思える安定が訪れてからもう数年が経っている。惑星の消滅と聞いた数人からはザワザワとした声が上がったが、ジュリアスの旧宇宙から移された極古い星であり、今回の事象は星がその寿命を全うしただけの自然な終わりなのだと言う補足を聞けば、成る程と瞬時に収まった。こうして通常よりは幾分時間の延びた会議も執務開始の5分前には恙なく終了したのである。最後までやって来なかったクラヴィスへは書面にて報告がなされるのも決まり事になっている。遅くとも午後一番には彼に届く筈であった。
 それぞれの執務室に向かい扉を出ていく背をジュリアスが見送るのも常の事だ。一人、また一人と廊下に消えていく姿に視線を送る。最後となった地の守護聖だけが扉を出るおりに振り返り、定位置から自分を眺める相手に軽く会釈した。ジュリアスもそれに応える。そして首座だけを一人残し、重厚な扉がゆっくりと閉じられた。



 室内には己以外の誰も居ないと知っている故からの事であった。いつもなら全員の退室を確認した直後、手元に在る書類すべてにざっと目を通し、研究院へ戻すもの、自らが自室に持ち帰るもの、資料として保管を必要とするものを分けると、それらを手に扉に向かうジュリアスである。ところが、脱力したかに着座すると深く息を吐き出し眼前に置かれた紙片を手に取るでもない。
『気遣いには及ばぬ。全く問題はない。』
今朝ほどクラヴィスに返した台詞を脳内で反芻する。自嘲気味の笑みが口元を緩めた。
「何が、問題はない……だ。」
他者が居らぬからか、声に出して呟いた。見栄でも虚勢でもなく、其れは自らに向けた戒めに近いものであった。
 一晩に三度が過ぎた行為なのかどうかは何とも言えない。実際、時と場合によると考えるのが普通であろう。今までにも、回数だけならもっと羽目を外したこととてある。ただ昨晩は少しばかり度が過ぎたかもしれないとジュリアスは思う。視察先での様々な事象が精神を安定から遠ざけていたのは事実で、現地の時間で2週間強の間心底休まった夜は一度としてなかった。数時間の浅い睡眠を繰り返すうちに夜が明ける。肉体に張り付いた疲労が解消されるどころか日々蓄積される毎日であった。最後の時に向かい、徐々に終末の影が浸食していく惑星の波動も影響していたのは否めず、日を追う毎に疲弊していく自身を目覚めるたびに感じていたのは確かなことだ。抱き合い、躯を繋ぐ行為で過度の緊張と不安に苛まれていた精神は癒されはしても、肉体にもたらされた物理的負荷は体内にしっかりと残ってしまったのである。クラヴィスの傍らで目覚め、上体を殊更ゆっくりと起こした時、全身に刻まれた倦怠感にやれやれと嘆息した。屋敷を後にして馬車に乗り込む際に感じていた腰の辺りの鈍痛は、己の私邸で身支度を整えた頃には怠さを伴う痛みに移行していた。朝議の半ばくらいには、全てがない交ぜとなり座しているのさえ辛く思えて仕方ない状態になり果て、周囲に気取られぬよう殊更に気を張っていたのであった。
 あの時、クラヴィスの言うように略式を身につけて宮殿に上がればもっとマシであったかもと頭の片隅では考えな
いではない。それに自分が聖地に戻り、直接闇の館を訪ねた事を知る者など居らぬから誰と顔を会わせても外界から
今戻りそのまま宮殿に参ったと考えるに違いなく、其れこそがジュリアスらしいと納得するのは分かり切っていた。
だから、彼の言に従わなかったのはジュリアスが己にたてた規律以外の何物でもないのだ。規律に反するくらいなら、
少しばかりの苦痛を受け入れる方を選ぶのが光の守護聖であるのだが、ただ今度ばかりは耐える自体が酷く難儀な状
況になっていた。
 朝議にクラヴィスが欠席して良かったと思う。昨夜の情事の当事者であるだけでも充分すぎるが、他者の目は誤魔化せても彼だけには見抜かれてしまうからだ。あからさまに馬鹿にされるのも癪に障るし、具合が悪いなら適当に切り上げろ等と言われるのも癇に障る。まして自らの意志で交わったにも拘わらず気遣われるのは真っ平である。また、私事を職の場に持ち込むのは自分が許せない。出来うるなら今日一日は顔を会わせずにいたいものだと、随分身勝手な希望さえ持っている。彼があのまま眠り込んでしまい、午後の遅い時刻にでも目覚めてくれれば恐らく宮殿にはやって来ない筈で、常ならそうした行為に口やかましい小言をくれてやる己が、今日に限ってはそうなる事を望んでいるのが妙に可笑しかった。
 それともう一つ…。時折見せるクラヴィスの得も言われぬ顔をこの日ばかりは目にしたくなかった。ジュリアスに対する気遣いや心配りとは異なる、強いて言えばクラヴィスが自分自身に向けるある種自戒を連想させる表情を、本人は気づいていないのかもしれないが、フッと浮かべるのが確かな気がしてならない。普段でも其れを垣間見てしまうのが苦手なのである。己が万全でない、こうした場合には尚更だった。いつもなら気づかぬフリでやり過ごしている。或いは気づいた故に唐突と触れてしまった事もあった。会って言葉を交わした際、何か予想も出来ぬ言を放ってしまうやもしれぬ。
「実に身勝手な話だ…。」
またしても自嘲を含む乾いた笑みを刻み、緩慢な動作で散らばった書類を手にすると何かを吹っ切るかに一息を吐いたのち、彼はそれらに視線を落とした。





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