*Blue Sky,True Mind*

=9=

耳に押し当てた小さなスピーカーの中の声が簡素な語句でクラヴィスの解収を知らせてきた。収監
の期間はきっかり一月だった。ジュリアスの奔走は功を奏さず施設が求めてきた未確認成分の解析
が行われぬまま、規定内での中和と取り込んだ薬品による身体への影響を治癒させる一連の施しが
漸く終了したのだった。内耳に響く声は彼者の引き取りを請い、日時を指定するようジュリアスに
求めた。彼は翌日の早い時間を告げる。職員は無機的に時間厳守を念押すと通話を切った。
静かな夜であった。元から窓外の喧噪など聞こえるべくもないが、部屋に充ちた空気も静謐な匂い
を漂わせているかに思えた。朝日が向かいに並ぶビルの群れに降り注げば、あの者がこの場所に戻
って来る。胸の奥がザワリと騒ぐのを感じ、ジュリアスはシーツの中で一度大きく寝返りを打った。



翌朝も白く薄い雲がうっすらと空を飾る程度の晴れやかな天候であった。
時間厳守など言われなくともジュリアスが指定時刻に遅れるなどあり得なかった。彼はかかる時間
を計り、施設に到着すべき時刻より更に十分ほどの余裕をもって部屋を後にした。丁度、職場への
通勤時間帯と重なり路面交通は満席を通り越して満杯の状態で彼は見ず知らずの人間とこれほど密
着して空間を共有するなど生まれて初めてだと微かに口元を緩めた。子供じみた自分の感情がおか
しくて、それは気を抜けばハッキリとした笑みになってしまいそうであった。最寄りの停車場に近
づく前に乗り合わせた大半は降車してしまった為、彼と供に車両を降りたのは恐らくあの施設の職
員と思われる男性一人だった。通りを渡り対面にある大きなビルの入口を目指す。受け付けで来訪
の目的を告げると係の女性が『面会者』と書いたプレートを渡してくる。それを胸に付ける様告げ
ながら彼女はにっこりと笑ってみせた。
真っ白な壁に真っ白な天井、そして今ジュリアスが歩む真っ直ぐな廊下もやはり白と言う色以外は
存在していない。途中すれ違う職員の誰もが同じ白色の上着を着用していた。この一月の間に彼は
週に二度はここを訪れている。だが只の一度もクラヴィスに逢う事は叶わなかった。収容された日
に担当となった職員がどこまでも仕事の一端であると言いたげな無機的な声音で幾つかの規則を説
明した。収監者との面会は一切許可されていないのもその一つであった。それは治療の為に必要な
事柄であり、大概の収監者は著しく精神の不安定が見られる故に外部との接触はよほどの例外を除
いて許されないのだと言い渡された。面会にやって来た家族や友人は分厚い扉で仕切られた治療棟
の手前にある小さな部屋で現在の様子を聞き帰るのが決まりだったのだ。当然ジュリアスも例外で
はないので、四方を同じ白色に囲まれた息も詰まるような部屋で前回からその日までのクラヴィス
の状態を簡潔に説明され幾つかの質問とその答えを受ければ踵を返して扉を出ることの繰り返しで
あった。担当は、経過は良好だと毎回同じセリフを寄越した。全ては順調に行われていると言って
はくるが、ジュリアスが詳細を求めても大概は特に問題は見受けられないと返すばかりだった。
だからこれから顔を合わせるクラヴィスの様子が全く想像できなかった。不安でないわけがない。
あの時の彼が果たして今日どの様な姿で現れ自分を見てどんな表情を浮かべるのかが分からないだ
け、小さく凝る苦い塊が彼の元に近づくにつれ徐々に大きくなるのだと思えた。
何時もと同じ様に廊下の先にある窓口で氏名を告げる。係は無言ですぐ並びにあるドアを指さす。
入室してほどなくすれば担当が入ってくる。この日もそれは変わらなかった。担当は軽く会釈をす
ると徐に手元の書類から数枚を抜き取りジュリアスの前に広げる。収監者を引き取るに当たり、必
要な書類であるから、内容を熟読したのちに同意の署名を行うようにと言った。一枚は確かに収監
者を引き取る意志があるかに関する同意書、残りは細々とした今後も施設の指定した様々な設備や
治療を継続することへの同意と誓約を綴ったものであった。渡されたペンで丁寧に自分の名前を記
す。担当は一度書かれた署名を確認すると続けてこれからクラヴィスと生活する上での具体的な注
意事項を語り始めた。
「この患者は当施設に於いてはいたって模範的でした。」
手に持った紙片に目を遣りながら担当は続ける。
「ただ、施設内では外的刺激が尽く押さえられています。ですからこちらで優良であったからと言
 って何の危惧もないとは言い切れません。」
さしあたり室内でクラヴィスの手の届く範囲に刃物、それと同等の使用が可能な器具、そしてライ
ターなどの発火装置は絶対に置かないようにと言い渡す。彼が予測も付かない行動に出る可能性は
随分と低い。だが、皆無とは言えないのだ。何故こんなことで?と思う原因であり得ないと信じて
いた行動をとるのである。担当はこれが一番重要なのだと言わんばかりに何度も念を押した。次に
彼を必ずジュリアスの視界の中に入れるよう言い含める。誰かの監視下に在るよう働きかけるのは
必至なのだと強く述べた。間違いなくこの二点が最も伝えなければならない事項であったのだろう。
これを話した後は所謂常識的な注意が並ぶこととなった。
「それでは、ご案内しましょう。」
一通りの説明と注意が終了し、担当は漸く自分の義務を果たしたとばかりにジュリアスをクラヴィ
スに引き合わせるべく促すのだった。



白い廊下の両側に並ぶ扉はみな薄い青色に塗られていた。無機質にジュリアスを阻むジュラルミン
の厚いドアの先に踏み行ったのは初めてであったから、この恐ろしく整然とした眺めが彼にしては
些か拍子抜けする景観に映った。もっと殺伐とした何かを想像していたからだ。厳かな空間だと感
じられた。手前から数えて六番目の扉の前で担当が止まる。その内にクラヴィスがいるのだ。軽く
金属のドアを叩くと内側から錠を外す音が聞こえた。扉が開く。内部は思っていたよりも遙かに狭
く、だが壁の色がごく薄い若草色である為か殊更な圧迫感や閉塞感は感じなかった。
中央にポツンと置かれたベッドの端にクラヴィスが腰掛けている。ジュリアスとの距離は3メート
ルと離れていない。が、そのクラヴィスの横には小柄な男が立っており、入ってきた二人ににこや
かに挨拶を寄越した。担当がその男をケースワーカーだと紹介した。
「ベッツと言います。」
目の前まで歩み寄った男は握手を求め手を差し出した。それに答えながらジュリアスは怪訝そうな
表情を無意識に浮かべている。何の為にこの男がここにいるのかが分からない。ケースワーカーと
はどうした意味なのかと男の柔和な顔を眺めながら自らに問うた。
「ご自宅に戻られたあと、何か困ったコトが起こった場合はわたくしがご相談にのります。
 今はまだ何のことだか分からないと思います。でも、こうしたケースではご家族の方が対処でき
 ない問題も起こることがあるのです。そうした時に本人も含めて皆さんがどうされるのが良いか
 を一緒に考える役割なのだとご理解ください。」
言い終わると彼はクラヴィスの傍らに戻り、二人が入室してきてからずっと視線を床に落としてい
るその肩に軽く触れながら耳元に何かを囁きかけた。彼は無反応のまま同じ辺りを見つめている。
ベッツはジュリアスに向けまず視線でその反応を見たか?と問い、そしてゆっくりと口を開いた。
「わたくしの声が聞こえないのではありません。もちろん、視覚的な問題もないのです。
 彼は他者からの接触にあまり興味がないらしいのです。」
言い終わるともう一度何かクラヴィスに語りかけた。声は小さく何を言っているのかは聞き取れな
かった。二度目のそれを受け、やっと一つの反応が返る。顔に掛かっていた髪がサラリと流れ、ゆ
っくりとした動きで彼は自分に何かを語る相手の顔を見上げた。
「お迎えが来ていますよ。」
ベッツは言いながらジュリアスの存在を知らせる。クラヴィスはやはり緩慢な動作で顔を巡らせ、
戸口に立つジュリアスに視線を向けた。双方のそれが中空で絡み、確かに濃紫の瞳は其処に居るジ
ュリアスを見た筈である。しかし、彼の双眸には一欠片の感情も表れては来ない。単にその場所に
人間が立っているのだと確認しただけだった。ジュリアスがあからさまな驚きを見せたからだろう。
ベッツがとりなす様に言った。
「もしかしたら未だ薬物の影響が残っているのかもしれません。彼の態度は一時的なものだと判断
 しています。あまり…気にされない方が良いですよ。」
こうしたケースは珍しくないのだと付け加えるのも忘れなかった。
この後はまた先ほどと同じ様な今後への細かな注意と事が起きた場合への対処に関する説明が行わ
れた。人の良さそうなケースワーカーの、それは職業柄彼が身に着けた所作かもしれないが、困惑
を覚えているに違いないジュリアスに対する心遣いがその言葉の端々に伺えた。
時間が大概の問題を解決していくのだとか、もっと重症な状態から元の生活に戻った人間を多数知
っているとか、日常生活の中では驚くほども回復が見られる実例が多いとか。
けれどジュリアスにそんな顔をさせた理由などその男は微塵も知らなかったのである。



正面玄関に向かい長い廊下を歩きながら、少し前をゆくクラヴィスの背を眺めていた。
自宅に戻るのだと言われた時もクラヴィスは特別な感情を全く見せなかった。促されるままに立ち
上がり、導かれるままに扉を出て、今はジュリアスの数歩前を歩いている。一つに束ねた髪がゆら
ゆらと揺れている。少し痩せたかと思える身体の線を除けば、どこにも違和感のない昔から見知っ
た後ろ姿だった。
つい数分前にクラヴィスが自分を見た眼差しの意味を天井の青白い灯りの下ですら濡れたように艶
やかな黒髪を見つめながらずっと考えていた。自身の思うところはきっと間違いないだろう。職員
が慰めに並べた一時的な行動でも何らかの影響によるものでもないと確信する。彼は忘れたに違い
ない。あの常春の楽園の記憶を捨ててしまったのだ。そうする事を望んだ結果なのである。
宙で絡んだ視線を外し、クラヴィスが己から目を逸らせる時ほんの一瞬浮かんだその色が彼の真意
なのだと思う。もう随分以前のことであった。彼が自分を嫌っていると思いこんでいた頃、顔を合
わせれば必ず向けてきた視線の意味が今本当になったのだと言える。
『お前には一片の興味もない…。』
あの時のそれは真を隠す虚であったと後から知らされた。けれど今はそれこそが真なのだと輝石の
瞳が語ったのである。
それでも彼と離れるなど決して出来ない。明日からの暮らしに例え何が待っていようと、自分はも
うあの腕を放すことだけは二度としまいとジュリアスは胸の内で強く誓った。





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