*Blue Sky,True Mind*
=8=
喧噪の渦巻く中、件の男は本当に店の最奥にヒッソリと座っていた。何故かそこだけが周囲から取
り残されたかに見え、かえって男の姿を浮き上がらせている錯覚を呼んだ。ジュリアスが想像した
のとは異なり男の風貌はいたって普通である。例えば眉を顰めてしまうような薄汚い形でもなく、
顔を背けるほど世間から逸脱した様相にも見えなかった。ただすぐ脇にまで近づいて声をかけた時
どことなく饐えた臭いが気になったくらいのものだ。ジュリアスに気付いた男がゆっくりと顔を上
げる。もっと身構えるとかぎょっとするのではないか?とした予想に反し、彼は特出した感情を表
すこともなく嗄れた声で何の用か?と訊ねてきた。
「友人の事で聞きたいことがあるのだが…。」
色々と切り出し方を考えてきたにも関わらず一切の修飾や立て前を省いた言葉でジュリアスは問う。
「あんたの友達なんかオレが知ってるわけないだろう?」
男はあまりに馬鹿らしい話だと笑いながら言った。ジュリアスがどんなにとけ込もうと努力したと
ころで、その高貴さやどこから見ても場末にはあり得ない上品さは隠せるものではなく、そんな相
手から友人について聞きたいと言われても『そんなお方に心当たりなどない』と男は取り合おうと
しないのだ。
「友人が何度かそなたと席を共にしていたと聞いてきた。
その友に関して早急に調べなければならない事がある。もし何か…小さな事でも構わない。
思い当たることがあったら教えて欲しいのだ。」
ジュリアスは男の反応に頓着する余裕などないと先を続けた。クラヴィスの風貌、身体の特徴、そ
の語り口調。彼を特定するに必要と考え得る事柄を簡潔に伝える。そして現在彼の置かれている状
況も躊躇うことなく語った。ジュリアスが言葉を重ねるたびに男の顔にはハッキリした驚嘆が強く
昇る。
「まさか…、アイツがあんたの友達だとは驚きだな。」
掠れた声を震わせて男は言った。ジュリアスの顔をまじまじと覗き込み、それから恐らくクラヴィ
スの姿を思いだしている風に遠く視線を泳がせ、もう一度ジュリアスを凝視してから何度も驚いた
と繰り返した。男の反応にジュリアスも少なからず驚嘆を覚えた。自身とクラヴィスにどれほども
の違いがあるのかさっぱり分からない。幼少から共に育ち、同じ任につき、僅かの差こそあれ時期
を同じくして外界に降りた互いが友であることに男が必要以上の驚きを発するが理解できなかった。
「まず言っておく。オレはアンタの友達だっていうアイツに何も渡しちゃいない。
その逆はあったがね。会ったのは三回か…四回くらいだと思うが、そのたんびにアイツは酒を奢
ってくれた。あと…一回だけだが、持ってるブツを少し分けてくれたな。
金を持ってるんだと分かった。えらく上物だったからな…。
断っとくが、たかりや強請りなんかしちゃいない!アイツが勝手に寄越したんだ…。」
男の話は嘘ではないようだ。確かにお世辞にも立派な人物ではない。けれど、相手の懐具合を計り
そこにつけ込む度量の低さは感じなかった。ジュリアスはこれでも人間の本質を見抜く才をある程
度は持ち合わせている。守護聖を束ね、宇宙の求める数多の願いを叶え、星に住む民に平穏を与え
続けるにはそれなりの力が無ければ勤まる筈もない。だから男が虚栄や虚言を発していないと即座
に見てとった。
「何がきっかけだったのだろうか?」
クラヴィスがこの男と知り合う経緯が知りたいとジュリアスは躊躇いがちに問いを向けた。
「なんだったかなぁ…、オレがここで飲んでいて…、気がつくとアイツがそこの席に座って…。」
暫し考え込んだのちに男はああ…と顔を上げ、自分が誘ったんだと言葉を繋いだ。
「一人で飲んでたんだよ、初めて見る顔だった…。薄ら寂しそうに背中丸めて座ってたからこっち
に来ないかって声を掛けてやったんだ。」
見かけない面(つら)だからどこから来たのか聞いても辺境からだと言うだけで、それ以上は語ろ
うとしないクラヴィスにならばこの街に住み着くのか?と訊ねれば、彼は軽く頭(かぶり)を振っ
て少しの間だけと答えた。男が流れ者かと呟いたのを拾い、まぁそんなものだと笑ったと言う。
「しけた面してるから仕事がねぇなら紹介してやるって言っても断りやがるし、金も持ってる素振
りだしな?
それでも何か訳ありだろうとオレはピンときたな。話したくねぇヤツから無理矢理聞き出す趣味
もないし、まぁ話の流れで故郷(くに)は何処だって聞いたらナイって言いやがる。親も随分前
に死んじまったらしいじゃねぇか。
どっかに尻を落ち着けた方が良いって言ってやったよ。そしたら人を待ってるって言ってたが…。
それがアンタだったのか。」
男はまたジュリアスの顔を舐めるように見つめた。
「もしかしたらアイツもどっか塀の中に居たんじゃないかと思って少しカマ掛けて聞いてみたら、
違うともそうだとも答えねぇ。
いや、オレはアレだよ。居たんだよ…塀の中に。」
先ほどより飲み続けている酒の所為で男は随分と饒舌になっていた。目の前に座るジュリアスが僅
かの間でも杯を酌み交わしたクラヴィスの懇意であるとした安心感もあったのかもしれない。軽く
相づちを打つジュリアスに更に雄弁に語りだした。
「事故だったんだ。でも…人が死んじまったんだからしょうがねぇのさ。
十年と何ヶ月か…あそこに居たんだ。」
手元のグラスを飲み干すと男は大きく息を吐き出した。
「アンタ…、まさかそんなトコに居たわけはねぇよな?」
「ああ…。」
そうだよなぁ…。男は自分が向けた問いがあまりに馬鹿馬鹿しいと大袈裟に声を上げて笑う。
「あそこに居たヤツは…、それが長けりゃ長いほどコッチに出てくるのがおっかなくなるんだ。
普通の暮らしをしたいのは山々なんだが、何て言うんだ?その…居場所が見つからねぇ。
人と話したり、仕事したり、関わるのが怖いって思っちまうんだよ。」
帰る場所もなく、しかし行く当てもなく、何処に行っても誰かが自分の前を知っている気がする。
それでいて誰も自分を知らないのは不安でならないのだと男は徐々に声を落としながら言った。
「あそこに居た時は早く出たくてたまらなかった。だから波風立たねぇようにしてきたんだ。
ほんとはもっと長く居る筈だったんだが、恩赦だか特赦もあって早くに出られるって聞いた時に
ゃ小躍りしたもんだ。
それが、出て来た途端に又あそこに行きたくなっちまった。……違うな、あそこしか居場所がね
ぇと思えてきちまったんだ。でも…、二度と入りたくないのも本当だ…。」
乱暴な手つきで瓶からグラスに注いだそれを男は一息に流し込む。
「この話をアイツに言ったことがあって…。そしたら何て返したと思う?」
ジュリアスには分かっていた。今自分の脳裡に浮かんだ答えに恐らく間違いなどないと確信してい
た。しかし彼は頭を振って否と返す。
「自分も同じだとヌカしやがった……。
自分も同じで、忘れたいのに思いだしてしょうがねぇって言ってたよ。だから酒飲んだり、ブツ
買ったりするんだって……な。」
ジュリアスには掛ける言葉どころか、軽く頷いてやる余裕すらない。
「ヤリすぎるなって、オレも偉そうに言ったんだがなぁ…。」
ポツリと零れた言葉尻が微かに震えている気がした。
男の分も含めて勘定を支払い店を後にしたのは、夜半をかなり過ぎた頃であった。五月蠅かった街
の通りにも人影は数えるほどしかない。路面交通は既に終わっている。ジュリアスは仕方なく賃走
の車両を掴まえた。彼が店を出る時もあの男はまだ席に座り飲み続けていた。聞き出したかった事
は何一つ得られず、だが別の答えを男はジュリアスに教えたのである。
クラヴィスが手に入れてしまった幾つもの過ちは、彼の忘れたい欲望を満たす鍵だったのだ。先へ
の不安でも、己と逢えぬ焦りでもなくクラヴィスは彼の地の全てを忘れ去ろうとしていたのである。
聖地に纏わる何もかもをひとときでも無にしたいと望んだ結果、彼はあんな結末を余儀なくされた
のだ。
『聖地に関わる全て…?』
浮かんだそれを否定しようと思わず払いのけんとした己の思考は悲しいかな一つの形を結んでしま
う。クラヴィスが捨てたかったその中に果たして自分も含まれているのではないのか、言葉にこそ
しなかったがそれは自身の声となり胸の奥に重く残った。
飛び去ってゆく深夜の街を眺めながら、ジュリアスはこの時初めて朝の宮殿で差し伸べられたクラ
ヴィスの腕を取らなかった己の決を深く悔いたのである。
続