*Blue Sky,True Mind*
=7=
彼女の好意に甘え、あの店を後にしてからジュリアスは一つの困惑を覚える事となった。
『適当に連絡してみて。』
あの女店主の寄越した言葉は確かに約束であったのだが、彼はその『適当』をどの様に解釈して良
いのかが分からなかったのだ。それまでジュリアスの暮らしの中に『適当』は存在しなかった。
報告書や指示書やその他の書類には全て確固たる期限が在り、例えばそれは「本日定時まで」であ
ったり「明朝執務開始まで」だったりし、執務の予定も同様であった。会議の開始は午前10時か
らと伝えられ又視察の日時は聖地の暦で何月何日と決定されるのが常識である。そして彼が職務を
離れ私邸に在ってすら食事は入浴を済ませてから、つまり今から半刻の後に用意されるべきものと
決まっていたのだ。彼が誰かに「適当に用意せよ」等と指示を出した覚えは一度としてない。仮に
そんな言葉を伝えれば「それは一体何時の事でございましょうか?」と反対に問われる結果となっ
ただろう。
だからジュリアスはどれ程の時間を空けて連絡をすれば良いのか判断できず、さりとて部屋付きの
ボーイを呼んで適当な頃合いとは何日後を指すのか?とは間違っても問えなかった。どれ程気にな
っていようとも、半日も空けずに連絡をするのは無礼に当たるとは考えたし、では何日後にあの番
号へ通信を行うのが適切なのかの基準が思い当たらずにいた。結局、彼女が仕事の合間に相手を探
しだし上手く連絡が取れたと仮定するなら中一日と踏み、もしも何かで滞った場合を想定するとす
れば中三日くらいが『適当』なのではないかと決したのである。その答えに到達するまでに半日ほ
ど要したのは仕方のない事だと思われた。
そして彼女と別れてから4日目の午後にジュリアスは例の番号に通信を入れた。
「良かった。夕べ遅くに連絡が取れたのよ。
今なら忙しくないから直ぐに来られるなら待ってるけど?」
先日と同じ砕けた言い回しであったが、声の調子はあの時より随分と柔らな気がした。彼女にして
も初対面の相手ではなくなったジュリアスに幾らかは警戒を解いたに違いない。直ぐに伺うと答え
たのは当然のことである。同じ路面交通に乗り、客の一人も居ない店内に入ったのは通話を切って
から三十分も経たぬ頃であった。
ドアを開けて入って来たジュリアスに彼女は一枚のメモを寄越した。初めて目にする単語が数個な
らんでいる。食い入るように見つめる彼に店主は声をかけた。
「それだけみたい。別に珍しいヤツじゃないと思うけど…。」
そうした物事に彼女はある程度の知識があるらしく、言いながら少し残念そうな表情を浮かべてい
た。
「珍しい…とは?」
「つまり、アンタが言ってた今まで取り扱ったことがない成分ってのがここには書いてないって事
よ。」
「そうなのか?」
「そうなのよ。」
ジュリアスの零した嘆息に彼女が洩らした溜息が重なる。途切れた会話を埋めるかに、また耳障り
な機械音が低く聞こえた。
「私が紹介した以外の誰かから手に入れたんじゃないかな?」
恐らくそうなのだろうとジュリアスも考えていた。手がかりの糸は此処で途切れた事となる。あの
後も彼はクラヴィスが逗留していた部屋に留まっている。済まないと心中で詫びながら部屋に残さ
れた少ない手荷物やら設えの家具に僅かでも手がかりが隠れてはいないかと調べてみた。けれど、
この店を探し当てた以上の何かは欠片も出てこなかった。
「色々と手数を掛けて…済まなかった。……感謝する。」
前と同様の慇懃な謝礼を告げ席を立とうとする彼に、彼女はもう一枚の紙片を差し出した。
「全然関係ないかもしれないけど…。そこに書いてある店に行ってみたらどうかと思って。
毎晩ってわけじゃないけど、かなり頻繁に入り浸ってる客がいるらしいの。夜の九時を過ぎると
一番奥の壁際の席で飲んでるから行けば分かるって話しよ。」
紙片を受け取りながら紺碧の瞳が彼女の言葉の意味を察しかねて僅かに細くなる。
「アンタの友達って、ウチに来た時だって用件だけ聞くとなんにも言わないで帰るような人でしょ?
紹介したヤツもブツの受け渡しが終わるとサッサと店を出て行ったと言ってたし…。
なのに、その常客と何度か一緒に居るところを見かけた奴がいるのよ。
だから何か役に立つかと思ってさ。」
ジュリアスが書かれた所在を頭の中に収めるMAPから引き出していると、店主が少し笑いながら言
を続けた。
「もし行くなら、もうちょっとラフな格好にした方が良いわね。ヘタすると逃げられるかもよ。」
「この形(なり)では不都合だと言うのか?」
「そう…。ワタシも最初店に入って来た時当局の取り締まりかと思ったしね。」
彼女の適切なアドバイスにも丁寧な礼を返したのは言うまでもない。しかし又してもジュリアスは
思案せねばならない課題を与えられたのだと思った。相応しい、違和感のない、周囲から殊更に浮
き上がらぬ服装を出来る限りイメージしながら店を後にした。
通りに出れば先ほどより夕刻に近づいた街は、強い朱に染め上げられていた。
本当なら例の店から直接そこに向かう方がずっと効率的だとは分かっていた。指定された時刻まで
には随分と時間があったが、近隣でそれを潰す方法ももちろんあった。だがジュリアスは一度ホテ
ルに戻ったのである。女店主が言った「適切な服装」に着替えるのが目的であった。
部屋に帰り、己の手持ちを全てベッドの上に並べ彼は少しの間それらを眺めていた。どれも今自分
が身に着けている装束と大して変わらないと思える。最も軽装に見える組み合わせも、袖を通して
姿見に映して見れば「ラフ」とはほど遠い格好に違いない。ここに戻る道すがら街を行き交う人々
を何気なく観察してみた。自らの着衣は恐らく職場に向かう、或いはこれから仕事絡みで何処かに
行くのであろう人間に近いのだと理解した。ところがジュリアスはその手の服装以外の持ち合わせ
がない。様々な組み合わせを試みてみたが、同系のスタイルと押さえた色であるが故に決して一つ
の印象を踏み越えるには至らないのだった。
困り果てたジュリアスが思い付いたのは、クロゼットに残されているクラヴィスの衣服を借りるこ
とであった。両開きの扉の先には何着かの上着やらパンツが無造作に放り込んである。どれもジュ
リアスが所持しているのとは違う、何気ない平服である。僅かに逡巡したのち彼は砂色のシャツと
黒色のパンツと膝丈のジャケットを選んだ。クラヴィスがそうした場所に出入りするのに、これら
を纏っていったのは間違いない。ならば、どれを選んでも問題はなのだろうと考えた。きっと違和
感のない周囲から浮き上がらない服装なのだろう。
着衣が決定したところで壁の時計を確認するも、目指す相手が来るであろう時刻まではまだ2時間
以上もある。軽く食事を摂ろうかとも考えたが、何やら気持ちが高ぶっているようで物を食する気
分にはなれない。少し考えを纏めるが賢明であると、彼はテーブルに向かい椅子に腰を下ろした。
ジュリアスにはあの日からどうしても納得のいかない事がある。様々な可能性を構築してみたけれ
ど、どれも同じ疑問に阻まれ確かな結論には届かない。何故、どうしてが繰り返し思考に浮かんで
は消えてゆくだけなのだ。
守護聖の任が解け、聖地を去り、外界で只人として暮らすと言う事はそれまで幾度も脳裡に浮かべ
た想像を遙かに越えてしまう新しい驚きや事実をもたらした。仮に何人(なんびと)とも交わるこ
となく生活を送るならば、それほどの驚嘆やら違和感を感じなかったかもしれない。しかし、彼は
そんな世間から隔絶した暮らしを望んではいなかった。それはクラヴィスも同様であった。人の通
わぬ辺境に家宅を持ち、己ら二人きりの生活を送るのは聖地に在った頃と何ら変わらぬからである。
人は人の中にあってこそ、本来の姿で暮らしていけると信じている。最初は戸惑いもあろうが、そ
れも時が解決すると確信していた。
こうしてたった何日かを外界で過ごしただけで数々の戸惑いに幾度首を傾げ眉根を寄せたかしれぬ。
他者との会話、衆人の中にあっての振る舞い、与えられた機器を如何に利用するか、数えだしたら
きりがない。ただ戸惑いや困惑を覚えはするが次の一歩を踏み出すを躊躇うほどの不安を抱いては
いない。微少なそれは確かにある。今のところそれは全てクラヴィスに関してではあるが、それに
しても進む道を完全に閉ざされたと嘆くようなものではない。だから一人この部屋で夜を過ごす折
りに殊更に強い酒精を摂るもせずにきた。だいたい守護聖として彼の地で任についていた頃は、己
の判断一つで惑星が簡単に消失してしまったのだ。そうせざる得なかったと重々承知していながら
も、自身の決済の末に訪れた不本意極まりない結果を抱え、苦しい夜を越えてきたのだから自分と
クラヴィスの今後を憂いて嘆息を落としこそすれ何かに一時の安息を求め、まして其れに溺れるな
どあり得ないと思う。
それなら何故クラヴィスはあの様な施設に収監される羽目になったのだろうか?
これがジュリアスの決して解けない疑問なのである。先に降りてしまった事による、今後に一切の
確約が存在しない故の不安だろうか?残された先人達の私記に例外がないとは言い切れず、もしか
したらたった一人で待ち続けるままに終焉を迎えるかもしれない可能性への不安だったのか?
それとも只人として生きることへの不安か?
浮かんでは消えてゆくそれらに確証の二文字は記せない。そうかもしれぬ…とどれかに手をのばし
ても、次には否定が現れる。何故なら自分がそうであったと同じに、いやそれ以上にクラヴィスが
弱い人間だとは到底思えないのだ。人であれば確かに弱さや脆さを持ってはいる。他者には顕わに
しなくとも己にだけは見せるそうした一面を彼が有していたのも知っている。けれど自身がそれら
を身の奥深くに隠す術に比べれば、クラヴィスがそうした脆弱性を自らの一部として内に置く生き
方は遙かに無理のないものに思えた。彼は自分と言うものを理解しており、執着もあれば諦めも必
要だと知っていた。外界に在った数が月の間に、それまで彼が長きを掛けて身に着けたであろう其
が崩れてしまった理由が全く考えつかなかった。思い付く可能性のどれにも頷けないのは、それ故
なのである。果たして其れを彼から聞き出す日がやって来るのかは分からない。そうした事を言い
たがらない質であるから、訊ねても適当に流されてしまうかもしれない。それでも食い下がると、
お前はしつこいとか言いながらもポツリと洩らす時も来るのではないかとジュリアスは願う。
気付けば時計の針はもう頃合いだと告げている。立ち上がりドアに向かい部屋を横切ると、淀んで
いた室内の空気がジュリアスの動きに合わせてゆっくりと流れた。椅子に掛けてあった上着を掴み
歩きながら袖を通す。忘れていた彼の香りが仄かに鼻腔を掠めた。ジュリアスは歩を止めて、ほん
の数秒まとったジャケットの合わせを引き寄せそこに鼻先を埋めた。
続