*Blue Sky,True Mind*

=6=

Phoneから聞こえたのは女性の声で少し鼻に掛かったそれは「アロー?」と何処かの訛りかその人
のクセかと思える言い回しであった。ジュリアスは一呼吸を置いてから自分が何故この番号に通話
をしているかを説明し始める。もちろん彼の事だから話始める前に幾分込み入った内容であるが、
不都合はないか?と訊ねるのを忘れなかった。相手は一瞬黙り込んだ。突然の連絡、誰だか分から
ない相手、口調は丁寧だし礼儀もわきまえている。けれど簡単に了解を返すには手駒が足りなすぎ
る。案の定、彼女は難色を示す。今は困るとハッキリ返された。ジュリアスは食い下がる。
「何時なら都合が良いかを教えて戴きたい。その頃にこちらからかけ直す。」
言いながらおかしな言い方ではなかっただろうか?と頭の中で今告げた文句を繰り返してみた。多
分問題はない筈なのだが、知らぬうちに自分は随分と尊大な言い回しをするから他者に何かを頼む
時は殊更に注意を払わねばならないと気に掛けているのだ。
「いつ頃かは何とも言えない。それに急ぎならこれから言う場所まで来て貰った方が都合が良いん
 だけど。」
「それならその様にしよう。場所を…。」
手近にあったメモを引き寄せ言われるままを書き記した。住所と恐らく店舗の名称だと思えるそれ
を一度復唱したのちに通信を切った。椅子に掛けてあった上着を取り、袖を通しながら扉に向かう。
この部屋はオートロックだからうっかり鍵を持たずに出たら大層な難儀になる。上着の前を合わせ
つつ彼は確かにそれを持ったかを確認した。硬質なカードの手触りがポケットに滑り込ませた指先
に当たる。ジュリアスは一人頷いてドアを開けた。
この街の大体は頭に入っている。一人部屋に居る時、手に入れた地図の細部にまで目を通して頭に
叩き込んだ。ホテルの周辺ならまるでずっと以前からの住人の如く説明できる。交通機関にしても
大概の場所なら脳裡に描くルートマップによりまごつく事はないと思えた。あの女性が述べた住所
は徒歩で行くには少し時間が掛かりすぎる。ジュリアスは迷わず市内を巡回する路面交通を利用し
ようと決めた。依頼すればホテル付きの送迎車がある。しかし、彼は出来る限り『一般』であるこ
とを心がけているのだ。普通であろうとしていた。何処へ行くにも送迎車を使うのは普通ではない
と考えている。普通の一般的な人々と同じ目線で暮らすのが、彼が外界に降りて最初に立てた目標
であった。今まであまりにその位置とはかけ離れた場所に在った事実が少々拘りすぎるかもしれな
い彼の行動を裏付けているのだろう。市井の者達の中で生活すると言うことが、漠然としすぎるか
ら何らかの形を求めたのかもしれない。
乗り込んだ車両の窓外には普通の何でもない人々の暮らしが流れてゆく。ジュリアスは食い入るよ
うに見つめる。紺碧の空を映した瞳にそれらを全て焼き付けてしまおうとでもいうかに。



手にしたメモの住所とその建物にあるプレートに書かれたそれが確かに同じであるかと何度も見直
した。手元の紙片と壁の小さな金属板を鋭い視線が幾度も行き来したのち、確信したかに小さくだ
がハッキリと頷いたジュリアスは徐に入口の扉を押し開けた。そこは恐らく『ダイナー』と呼ばれ
る軽食やら飲み物やらを提供する店舗であるらしい。昼と夕刻の間にあたる今の時間店内に客の姿
は皆無であった。横に長いカウンターと窓際に並ぶ椅子とテーブルには誰一人掛ける者も居ないの
だが、其処には芳ばしい食物の香りが漂っていた。微かに流れる音楽を遮るように、ブーーンと異
音が聞こえる。何かの設備が発てる機械音だと分かった。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から唐突と上がった声に一瞬身体が竦んだ。陽光に溢れる戸外から入り込んだ彼の
双眸は灯りを落とした室内の全てを把握できずにいた。影になる辺りから不意に声を掛けられ、驚
嘆したのも仕方がない事である。
「どうぞ。」
声の主は彼をカウンターに招く。未だジュリアスが誰だか分からない為、一応の接客を行っている
のだ。
「先ほど連絡を入れた者だが。」
店主は別段驚きもせず「ああ、やっぱり…」と呟きながら水の入ったグラスを彼の前に置いた。
「夜の仕込みがあるから、出来れば手っ取り早く話して貰いたいんだけど。」
歯に衣を着せぬタイプの相手であると分かればジュリアスも気が楽になる。それでは…とばかりに
完結に事の次第を話し始めた。
どこまでを曖昧に、どこまでを正確に話せば良いかは心得ている。外界に出るまでの詳細は上手く
ぼかして語った。とある職務で辺境の施設に長年在ったこと、其処で自分は幼なじみと共に同じ仕
事に就いていたこと、彼は自分より数ヶ月先に任務が終了しその場所を出ていったこと。店主はさ
して興味もないと言った様子で聞いている。先に退職した幼なじみとは自分が任を終えたのちに逢
おうと約束を交わしていた、ところが僅かの行き違いから彼の行方を見失ってしまう。様々な手段
で捜した結果、この街に居る事を突き止める。ジュリアスはクラヴィスの滞在していたホテルの名
を告げた。
「確かに其処には居たのだが…。」
言葉を切ったジュリアスが置かれたグラスを取り半分ほどを喉に流し込んだ。この後が己の語らね
ばならぬ核心だと分かっていた。けれど、言わねばならぬ言葉が出てこない。彼女は訝しげにその
顔を覗き込みどうかしたのか?と細く整えられた眉を上げて見せた。
「いや……。何でもない。」
あれが現実なのだから、あれを伝えなければ先へは進めないから、それが自分に架せられた為すべ
き事なのだから。ジュリアスはそう自らに言い聞かせる。今、この時も脳裡に焼き付いてしまった
あのクラヴィスの姿を言葉にするのは己しかいないのだと、膝に軽く置いていた両の手を握りしめ
た。



抵抗なく開いた客室の扉はジュリアスを室内に迎え入れる。踏み入った瞬間彼は無意識に顔を顰め
た。クラヴィスが住まう場所には必ずあの仄かに甘やかな香があると思いこんでいた、しかしその
鼻腔に流れ込んだのは淀んだ空気に滲む不愉快な臭いだった。今まで感じたことのない、覚えのな
いそれにジュリアスは思わず不快感を顕わにしたのだ。狭い廊下を挟んで両側に二部屋があり、そ
の奥に扉の開いた一室が見えた。手前の二つは扉が閉じている。恐らく最も奥まった其処にクラヴ
ィスが居ると踏んだ。大股に歩を進め、開いたドアを軽く叩くが返事はなかった。そっと内部を窺
えば、中央に大きなテーブルと壁際に寄せて長椅子が置かれているのが分かる。室内は薄暗く、壁
にある照明がたった一つの灯りであった。窓は全てシェードが降ろされている。
「クラヴィス……?」
掛けた声にもやはり何も返らない。一歩を踏み出しながら目を凝らすと長椅子に寝そべるシルエッ
トが在る。相変わらずのうたた寝か…ジュリアスは薄く笑いながらその傍らに歩み寄った。
「クラヴィス。」
真上から名を呼ぶ。それでも返事はない。
「こんな薄暗い部屋では目も覚めぬか?」
おかしそうに言いつつ窓を覆うシェードを一気に引き上げた。どうだ?目が覚めただろうと振り返
ったジュリアスの瞳に映ったのはだらしなく横になったままのクラヴィスだった。
「そなた、まだ………。」
言いかけたそれはプツリと途切れたまま先が続く事はない。窓を背に立ち竦むジュリアスが次を発
するまで、凡そ十秒ほどの時間を要した。
クラヴィスは眠ってなどいなかった。半ば開いた瞳は確かにジュリアスに向けられており、うっす
らと開いた口元には意味のない笑みが浮かんでいる。だが、向けられたそれには何も映っていない
と分かる。眼前にある姿に彼の焦点はあっていない。どこか中空をぼんやりと眺めているとしか思
えなかった。
「……クラヴィス。」
漸く唇を割ったのは囁き声よりもか細い一筋の音。しかし、それも送った相手には届いていない。
動きを止めていた思考が軋みながら何事かを理解する。尋常ではない、ただそれだけが浮かんだ。
恐らく自らが何処かしらに連絡を入れたに違いない。フロントに何某かを告げたのかもしれぬ。
ところが、どんなに思い返してみてもその後に己が何をしたのかを記憶していなかった。
肩を掴まれ揺すられるまで、ジュリアスは床に座り込んで在らぬ彼方に視線を投げるクラヴィスを
眺めていた。
「どうされました?」
ジュリアスを引き戻したのは見たこともない男で、その人が此処に急行してきた緊急医療隊である
と咄嗟には分からなかった。男は一人ではなく、同じ制服を着用した別の男が簡単にクラヴィスの
様子を看るが早いか「こりゃ、あっちだな?」と相方を振り返りそう言った。
「それで、アンタの友達はセンターに送られちゃった訳…か。」
彼女が先を遮ったのでジュリアスは俯いていた顔を上げる。彼を見る彼女の顔はそんな事は少しも
珍しくはないと語っていた。
「で、ワタシに何が聞きたいの?」
ジュリアスはクラヴィスの収監先で自分の対応に当たった職員の述べたままを告げる。
「抽出された成分を検証し、それに見合った薬品を投与する必要があるらしいのだが、
 その成分の中にこれまで取り扱ったことのない物が含まれていたと言われたのだ。」
それをクラヴィスに渡した誰かを捜しているとジュリアスは言った。サンプルとして僅かでも分け
て貰えれば、それだけ迅速に中和が行えるとも続けた。
「悪いけど、それにイイ返事は出来ないわね。」
「何故?」
「多分、アンタの友達って背の高い…髪の長い人でしょ?
 確かにワタシは一人紹介してるし、アンタが捜したい気持ちも分かるけど…。
 こっちにも色々と都合があるのよ。」
わかるでしょ?と彼女はジュリアスの瞳に語る。
「しかし…。」
強くは懇願できないと頭では分かっているが、それでも簡単に引き下がれず彼は言い淀む。クラヴ
ィスの部屋に残されていた数少ない手がかりである紙片の走り書きで、唯一意味を為すものがあの
連絡先だったのだ。此処で諦めれば全てが無になる。
「そなたに迷惑を掛けるつもりはない。相手の居場所か連絡を取る方法だけでも教えてくれぬか?」
青空の瞳が切迫した状況を物語るかに強い光を宿す。
「悪いんだけど…。」
それまで殊更に感情を顕わにしなかった彼女が初めて哀れみを込めて謝罪を寄越した。
『成分の解析が早期であればあるほど効果は顕著に現れます。逆に時間が掛かってしまえば、それ
 なりの結果にしかならないとご理解下さい。』
職員の声が脳裡に蘇る。もう一度、彼女に頼むしかないとジュリアスは決する。気持ちを込め、例
えば深く頭を下げ、或いは跪いて懇願しても構わないと思った。しかし…。
「もう、帰ってくれない?」
彼女がそれ以上を制する一言を投げたのだ。彼に強要など出来るはずもなかった。ゆるゆると立ち
上がり、力無く非礼を詫び合わせて礼を述べたのちジュリアスは出口へと歩いた。扉に掛けた己の
手が痺れているのに気付く。自分がよほどきつく手を握りしめていたのだと今更に実感した。



「何を渡したかだけなら…聞いても良いけど…。」
背にかかった言葉に勢い良く振り向く。カウンターの中の女性は仕方ないとばかりに肩をすくめて
いた。
「適当に連絡してみて。」
「感謝する。」
ジュリアスが大袈裟に頭を下げたので、彼女は呆れて少し笑った。





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