*Blue Sky,True Mind*

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記憶に刻まれた諸々はいつしか薄れ、曖昧になり、自分に都合の良い件や甘やかな思い出だけが残
るよう出来ていると言う。それが辛く、過酷であっても時の流れが鋭利な切っ先を知らぬ間に滑ら
かな曲線へと変える如く、哀しみや苦痛さえ懐かしさと言うフィルターの向こうに揺れる陽炎にも
似た儚く愛おしい想い出にすり替えてしまうのである。
それでもジュリアスは自身の生を全うする瞬間まで、あの日の微かな空気の香まで鮮明に描き出せ
る自信があった。早朝の薄い日射しと、宮殿を吹き抜けた少し湿り気のある風。長い回廊から執務
室に向かい伸びる廊下の白大理石が瞳に痛いほど輝く刹那の煌めき、無人の屋内に張りつめたどこ
か虚無を感じさせる空気のよそよそしさ。何もかも、忘れるなど出来ようもない。



彼は常に同じ時刻に床を離れる。身支度をし、朝食を摂り、一度私室で必要な書類に目を通し、そ
の日にすべき諸々を纏め思考に刻み、馬車に乗り込んで屋敷を後にするのは凡そ定刻より遙かに早
い時間と決まっている。当然、二頭立ての馬車が滑り込む時、朝日に浮かぶ白亜の宮殿に人の気配
などない。仕える文官でさえ、主より先に扉の鍵を開けるなど至極稀なことであった。
その日もそれは同じであり、天井の高い廊下に響くのは彼の靴音のみである。乾いたそれが微かな
残響を伴い、徐々に自室が近づく間に彼は己の纏うべき姿を完全なものとするのだ。他の誰もがそ
うである様に、ジュリアスも人の子である。時に前日の疲労を残してもいるし、決しかねる案件を
引きずり迷う気持ちの揺れが蒼碧の瞳を曇らせることもある。屋敷の門をくぐる頃、それらが彼の
美しい面に僅かながら翳りを落としていても、車寄せから中庭の小径を抜け回廊を通り自身の執務
室に辿り着くまでに、彼は長き間に身につけた自制をもって胸中深くに隠すを常としていた。
その朝も彼は同様に守護聖として在るべき面を作り上げ、自室に続く最後の角を曲がったのだ。
壁を切り取った窓から等間隔に射し入る光の帯の先に己の執務室の扉が見えた。だが、今日だけは
それまでと異なるものがジュリアスの双眸に飛び込んだ。神鳥を模した飾りのかかる扉に凭れ、腕
を組み半ば俯き加減に佇む人が在る。驚きはしたが声をあげるほどではなかった。瞬時にそれが誰
であるかが解ったのだ。俄に歩速を上げジュリアスはその元へと急いだ。
高い靴音が鳴る。真っ直ぐに落ちる髪が動き顔が上がる。自らの元へと駆け寄る姿に上げた白皙が
綻ぶのが見えた。
「どうした風の吹き回しだ?」
正面に立ちジュリアスは幾分おかしそうに訊ねる。それはそうであろう。こんな時刻にこの場所に
最も居る筈のない人物が待っていたのだ。これが以前の聖地が終末の風に揺らいでいた頃なら、如
何なる凶事が彼の瞳に映ったのかと慌てたに違いないが今は違う。たおやかに過ぎる微風に微睡み
すら覚える平穏が此処にはあるのだ。
「散歩の帰りか?」
これには揶揄が含まれている。相変わらず夜の静寂に紛れ宛てもなく散策をした挙げ句朝を迎えた
クラヴィスが気まぐれに自分を訪ねて来たと考えるのが最も適切な読みであり、そんな事ばかりし
て執務をサボるなと軽い嫌みの一つも言ってみたくなったのだ。
「いや、話があって来た。」
クラヴィスは変わらず薄く微笑っている。ならば聞こうとジュリアスは扉の鍵を取り出す。が、そ
れを軽くいなしクラヴィスは此処で構わぬ、すぐ済むことだと言った。
「ジュリアス…。サクリアに翳りが降りた。」
たった一言がジュリアスの動きを全て封じた。ほんの数秒息をするのも忘れていたかもしれない。
窓から射す光が眩しいのかクラヴィスが何度も瞳を瞬かせる様を、朝霧のなごりを含む肌に少しま
とわる風がその黒髪を小さく揺らすのを、薄唇が動き吐息にも似た声音が己の名を囁くのを、ジュ
リアスは瞠目したまま凍り付いたかに身体を強張らせて見つめていた。
それに引き替えクラヴィスはと言えば、ジュリアスのそうした反応など端から知っていたかに殊更
に気遣いをみせるもせず淡々と次を発した。
「次代の手配を頼む。」
ジュリアスを現実に引き戻すにはこれだけで充分だった。彼は今宮殿におり、これは守護聖の長に
託された依頼だったからである。
「ああ…。研究院に伝えておく。」
「わたしは屋敷へ戻る。何かあれば其方に使いを寄越してくれ。」
扉から離れるとクラヴィスはくるりと背を返し自身の執務室に寄ることもなく立ち去ろうとした。
常と変わらぬ静やかな靴音が徐々に遠ざかる。ジュリアスはいつになく厳しい眼差しを黒衣を纏う
背に送っていた。不意にクラヴィスが立ち止まり振り返った。
「一緒に来るか?」
言の意は確かに理解していた。それは一度として告げられなかった言葉である。
「いや…、私は行かぬ。」
「……だろうな。」
そう答えることも予測していたとクラヴィスは笑った。それ以外が返るなどあり得ないと。
「では……な。」
そう言い残し、もう振り返ることなくクラヴィスは回廊に向かい歩いていった。研究院が次代の闇
の守護聖を確認したと知らせて来たのは、その日も暮れる間近のことであった。



クラヴィスが聖地を降りるまでの二月半は本当に瞬く間のことだった。確認された次代は十五にな
ったばかりの少年で、赤茶けた癖毛と鳶色の大きな瞳を持っていた。特に目立つ特徴はなかったが
、素直に自身に訪れた激変を受け入れようとしているのが見て取れた。宮殿や執務室、集いの間や
時に昼の庭園でクラヴィスと並び歩く姿が見られた。常時連れだっていたのは聖地に上がってから
の十日ほどで、それを過ぎた頃からは年少の守護聖達に連れられ子供らしい歓声を上げながら回廊
を駆け抜ける様が増えていった。一度ジュリアスは次代と研究院で場を共にした事があった。
両手から零れるほども沢山の書類を抱え、惑星観測のモニタを覗き込み傍らの職員に幾度も質問を
投げかける後ろ姿を眺めていると、彼はジュリアスに気付いた様子で自ら首座の元へと駆け寄って
来たのだ。
「何かご用でしょうか?」
見開いた瞳が次を待ち煌めいた。不安や懸念など持ち合わせていないとそれは語る。
「いや、そなたの熱心に執務に取り組む姿を見せてもらっていた。
 間もなく正式な交代となる。そうなれば…そなたが私の対だ。とても頼もしく思っている。」
「ありがとございます。」
僅かに頬に赤味が射し、照れたように目を伏せた少年は踵を返すと再びモニタの前へと戻っていっ
た。自らが発した言葉が少年の背を見つめるジュリアスの脳裡に木霊する。
『間もなく正式な交代となる。』『そなたが私の対だ。』
己に臆することなく接してくる次代は本当に僅かの間を置いて闇の守護聖となる。きっと宇宙に数
多の安らぎを施す慈愛に満ちた守護聖が誕生するに違いない。首座は心から喜ばしいと感じている。
そして長きに渡り聖地から出てゆきたいと望んでいたクラヴィスは、漸くその願いを成就できるの
だ。あの朝以来、彼らは私事で言葉を交わしていない。闇の館には次代が居る。宮殿に於いても、
クラヴィスは引き継ぎに追われ席を温める暇もない。恐らく最後に何かを言うとしたら彼が門をく
ぐるその日だけであろう。ジュリアスは晴れやかな顔で送り出したいと願っている。そして、一つ
だけ何としても伝えたい言葉があるのだった。



夜が過ぎ、朝が巡る。『約束の日』に向かって、それは滞ることなく流れていく。昨日と同じ朝日
が昇り、何ら変わらぬ一日が始まると思えた。けれどその日、次代の予定を確認する為に開いた隣
室の扉の先でジュリアスを迎えたのは、鳶色の瞳を持つ少年だけであった。いや、この朝をもって
彼が闇の守護聖となったのだ。クラヴィスの所在を訊ねる前に彼は一通の書簡をジュリアスに指し
出す。それが何かなど聞く必要はなかった。
開いた紙片には見慣れた流麗な文字で形ばかりの謝礼と落ち着いたら連絡をする由が書かれていた。
そして最後に出立を知らせなかった詫びがあり、見送られればきっと連れていきたくなるからと冗
談めいた一文で結ばれていた。
ジュリアスはずっとクラヴィスに告げたかった一言が伝えられなかったのだと悟った。





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