*Blue Sky,True Mind*

=10=

「クラヴィス…。」
あれから何度この名を呼んだことだろうかとジュリアスは小さくため息をつく。幾度呼びかけても
相手は顔を向けるどころかピクリと動くもしない。この部屋に戻った最初の数日は環境の変化から
か眠ってばかりいた。一日の大半を夢の中で過ごし、時折ぼんやりと目を開けたかと思うと再び微
睡みに落ちてゆくを繰り返した。生理的な欲求は通常と変わらないと言った施設の担当は間違って
いなかったようで、空腹を覚えると寝室からリビングに現れテーブルに用意される食事を摂る。元
来大食ではないから、並ぶ皿の半分ほどしか口にしていなくても問題はないようだった。彼がベッ
ドの中に居る時ジュリアスはその脇に置いた椅子で本を読んで過ごし、リビングに移動すればその
後を追い、食事をしている様を少し離れたソファから見つめていた。何かを話しかけたところで、
その声は届かない。それにジュリアスの存在を完全に無視するかに行動するクラヴィスに話しかけ
る話題など見つからなかった。本当は相手が疎ましい様を顕わにしても、何某かの言葉を掛けるが
好ましいとも思えたが、実際にその場に置かれたジュリアスはせいぜい名を呼ぶしか出来ないのだ
った。しかし、それとてクラヴィスにとっては風の囁きよりも微かな異音でしかない様子である。
クラヴィスを引き取る際にしつこい程も念を押された『予想外の行動』やら『暴力的な行為』は一
切行われない。だからといって気を抜くつもりも無かったが、二人で過ごすようになった最初の幾
日かを大層緊張して送ったジュリアスは僅かばかり拍子抜けしたのも事実だった。
本当に穏やかな時間が流れている。彼らを縛るものなど有りはしない。穏やかな朝を迎えて、退屈
とも思える昼のひとときを過ごし、静やかに訪れる夜の内に包まれ眠りに落ちる。こんな毎日を夢
見ながらも諦めていた数ヶ月前が嘘だと思えてやまない。クラヴィスが己の存在を瞳に映さなくと
も、偶に絡む視線をあからさまに逸らされても、思わず触れた手を払われたとしても、ジュリアス
はそれを苦痛になど感じないよう自身に言い聞かせ続けた。共に在る現実を幸いと感じなくて、一
体なにを幸福と呼ぶのかと常に心に刻んでいた。それがくだらぬ虚栄だと分かりすぎていたが。



週に一度、施設からの派遣職員がやって来る。簡単な問診を行い、と言っても本人が何かを返すわ
けではないのであくまでジュリアスとの間でやりとりが交わされるだけだが、一応の診察をする。
やはりクラヴィスには特出する問題はないらしく、3人ほどが入れ替わりに訪れるたび同じセリフ
を告げられるだけであった。いたって順調です、さしたる問題はありません…と。ただ強いて上げ
るなら、一日の流れをもう少し規則正しいものにするのが好ましいといったことくらいである。
彼は好きな時刻までベッドから出てこないし、気に入れば何時間でも同じ行為を続ける、食事の時
間もまちまちで三食を摂る日もあればたった一度で済ませる日も珍しくなかった。早急にとは言わ
ないが、徐々に修正していくべきだと彼らは訪問の最後に必ず付け加えた。
ここ暫くクラヴィスは活字を追うことに没頭していた。その前は映像を観ることだった。更に以前
は外を眺める行為であった。飽きずにと言うのはまさにこの事に違いないと思わせる執着である。
そんな様を見ていると彼が今まで生きた証を一度白紙に戻し、新しく手に入れた本当の意味で人と
しての生活を手探りで作り上げているのではないかと思える。自身の心すら宇宙と言う巨大な枷に
縛られた生き方から漸く解き放たれ、一切の柵もなく自由に歩いてゆこうとしているに違いないと
しか見えなかった。そこは彼だけの世界だから、彼の望まない者は誰も居ないのだ。クラヴィスが
認めないものは何一つ存在を許されない世界なのだろう。
窓の外を眺め続けた数日で彼は現在じぶんの居る場所以外の空間に興味を抱いた。遙か下方に繰り
広げられる人々が生きる様を飽くことなく見つめて、其処に住まう他者を確認したのかもしれない。
次にはモニタに映し出される更に大きな括りを認識した。そしてそれらを補うかに今は手当たり次
第に活字の情報を取り込んでいる。乱読などと生やさしいものではなく、文学から天文に関する専
門書果てはそれらを調達してきたジュリアスが町中で手渡された広告のチラシに至るまで、目に付
く文字をひたすら読みふけっている。きっとそうして何時しか通常と呼ばれる暮らしに戻ってゆく
のだろう。そして、それをただ見つめ続けるジュリアスがいる。彼の居場所は今のところクラヴィ
スの紡ぎ出す未来に用意されていない。この先、彼の在所が其処に作られるのかは予想も出来ぬこ
とであった。



ジュリアスは毎夜その日に有った出来事を書き記している。始まりは派遣される職員への報告を口
頭で伝えるより効率的だとした考えからだった。クラヴィスがとった行動を時間に沿って書き留め
たメモを誰が見ても分かりやすいよう整理していた程度が、今は一つの書式に則りまるで何かの報
告書であるかに纏められている。一日の終わりにこれを書き終えなければ床に就かぬほどそれは彼
の日常の締めくくりとなっていた。聖地から持ち出した数少ない私物である使い慣れたペンを走ら
せ、彼はクラヴィスの行動を文字にしていた。
この日もベッドを離れてからずっと何かを読んでいた。時にリビングのソファで、幾度か場所を移
し夕方ふと気付くと毛足の長い絨毯の上に座り込んで膝に広げた書物に夢中になっていた。少し後
方からちらと覗き込むと、どうやらこの惑星を含む主星系に伝わる伝承文学のようであった。夕食
の後はソファに寝ころんで日に二度届けられる情報誌を丹念に読み下す姿があり、ジュリアスはそ
れを視界の端に見留ながらテーブルに向かいペンを取ったのである。普段ならクラヴィスが寝室に
入り、寝入ったのを確かめてからこの作業を開始するを常としていた。自分の僅か後に居る安心感
もあったろうし、当初に危惧した常軌を逸した行動が皆無であった気のゆるみもあったろう。紙面
に文字を書き連ねる行為に周囲の状況を気にとめるのも忘れて没頭してしまった。単に日記を認め
るのとは違い、クラヴィスの様子を思い描きながらその行動の意味を考えつつペンを動かす為、敢
えて思考から排除してきた事柄までもが浮かび上がりそれを消し去ろうとする足掻きもあって、ど
れほどの時間をそうしていたのか実感できずにいた。唐突と現実に戻り正面にある時計の針が目に
飛び込んだ時の驚きは隠しようもなく、慌てて振り返った先にあるソファが無人だったのを見た途
端鼓動が跳ね上がった。
初めに頭を掠めたのは戸外に出たのではないかと言う懸念だった。弾かれたかに廊下の先にあるド
アに向かった。が、3箇所に付けられた錠は全て掛かったままだった。手前にある洗面所と浴室を
覗くが電灯は消えており、もちろん使用した痕跡もない。残るは寝室だけだと思った途端に安堵が
沸き上がり、全身を支配していた怖れが両足から抜け落ちていくのを感じた。
先を急く気持ちを押さえ、音が発たぬよう細心を払って扉を開ける。室内は灯りが落とされてはい
ない。部屋の奥、大きな窓の横に置かれたベッドが戸口から見える。ブランケットを途中まで引き
上げたクラヴィスが横になっている。既に眠っていると思い、息を殺し気配を消すかにそっと一歩
を踏み入れようとした時ジュリアスの耳に何かを耐える様な押さえた声が聞こえた。思わず立ち止
まり、聞き耳を立てる。空調の微かな異音に混じる不規則な息づかいを捉えた。苦しげで忙しいそ
れに不安がかき立てられ、近寄ろうとした彼に今度は明確な呻き声が届いた。明らかな異変だと瞬
時に確信する。
「クラヴィス!!」
己の呼びかけが受け入れられぬなど構ってはいられない。ベッドの脇まで一気に部屋を進んだ。
柔らかな暖色の照明の下でクラヴィスは白いシーツに俯せに横たわっていた。薄い卵色のブランケ
ットが無造作に彼の下半身を包んでいる。うっすらと開いた唇から浅い呼吸音が絶え間なく零れて
いた。焦燥の中で無意識に伸ばした腕が寸でで止まる。ジュリアスはそこで何が行われているのか
気付いたのだった。クラヴィスは片腕をシーツと躯の隙間に差し入れていた。腰の辺りが一定の律
動を刻み動いている。時折、全身をブルと震わせる。彼が何をしているのかなど一目瞭然だった。
『生理的欲求は通常と変わりません。』
職員の発した機械的で硬質な声音が脳裡に蘇る。当然の事である。食欲や排泄や睡眠に対する欲求
があるなら性欲があるのは当たり前だ。湧き起こる性的な欲望を自ら治めるのは全く不自然でもな
んでもない。もしかしたら今までも気付かなかっただけで、ジュリアスが熟睡したのちに同じこと
をしていたのかもしれない。半ば呆然としながらクラヴィスの自慰を見下ろしているジュリアスの
双眸に声を抑えるもままならなくなったクラヴィスの上気した横顔が映っていた。
「……うっ。」
声を詰まらせた途端、全身が大きく震えた。ついで深く長い息が吐き出され、情欲に支配されてい
た躯から一気に力が抜けるのが分かった。きつく閉じられていた瞳が開き、虚ろなそれがジュリア
スの足許を眺めていた。そうしていたのは数分のことだったろう。のそりと上体を起こしたクラヴ
ィスは躯にまとわるブランケットをはぎ取り腰をずらすとベッドの端から両足を降ろした。
今まで自分が下腹部を押し付けていた辺りの湿り気を、腰掛けた姿勢から首だけ返して確認する。
別段気にする様子もなく、今度は己の性器を握っていたのだろう手を胸の辺りまで持ち上げゆっく
りと開いた。掌は精液でじっとりと濡れている。二呼吸するくらいの間、彼は白濁した粘液にまみ
れた自分の掌を見つめていた。
恐らく浴室に行こうとしたに違いない。汗と精液に汚れた躯にシャワーを浴びようと考えたのだろ
う。目と鼻の先にジュリアスが立ち竦んでいるなど無関係にクラヴィスは立ち上がろうと腰を浮か
した。刹那、室内に乾いた音が弾けた。一切の手加減を忘れた平手が頬に飛んだ。突然の事に加え
、不安定な姿勢にそれを喰らったクラヴィスは尻餅をつくようにベッドの上に腰を落とした。
上から白皙を凝視する紺碧には複雑な色が燃えるほども射している。怒りか、侮蔑か、悲しみか、
哀れみか、判別するも不可能な混然とした炎がジュリアスの瞳に渦巻いていた。クラヴィスの頬を
打った手は行き場を失って胸の辺りで固く握られている。そして見上げる濃紫には驚愕だけが宿っ
ていた。
ジュリアスが手を上げるなど、長い時を共に過ごした間にもたった一度きりであった。それとて、
クラヴィスが執拗にそうし向けた時以外にはあり得なかった事だ。ジュリアスの理性をいとも容
易く突き崩したのは怒りでも侮蔑でも哀れみでもありはしない。それは悲嘆だ。心の奥底に沈め
、まるで知らぬ顔の下に埋められた悲しみであった。自身を認めないのなら、この場所に存在す
らしないとクラヴィスが思うならそれも良いと思い続けた。欲求を処理する相手がないのだから
自慰も仕方ないと諦める。それでも、偶に呼んだ名に微かな反応を返す仕草を見逃してはいなか
った。殊更に声を張った時にだけ、その肩が小さく動くのに気付いていた。だから、何時の日か
彼の心の片隅にでも居られる場所を得られるかもしれないと仄かな期待を抱いていたのは否めな
い。けれどクラヴィスはたった今、この目の前で自らに慰めを与え、それを見られた事実に全く
頓着せず部屋を出てゆこうとした。捨てられた事実を体言されたのだと全身が泡だったと同時に
この上もない虚しさと哀しさが胸を塞いだ。あとは自分が何をしたのかなど理解を超えてしまい
部屋の空気を高い破裂音が震わせた瞬間も分かっていなかった。バランスを崩し、座りこんだク
ラヴィスの重みを受けたベッドが軋みを上げた音がやけに大きく響いたのが聞こえ、漸く自分が
しでかした行為を自覚したのだ。握った掌が熱を帯びてジンと痛む。ところが済まないの一言も
形に出来ずジュリアスはただ惚けたように突っ立ったままだった。
不意に自戒が突き上げる。忘れた理性が再び彼の内に舞い戻った。いたたまれない。クラヴィス
に掛ける言葉も逸してしまった。あの腕を放しておきながら、彼に怒りをぶつけたのは自分だと
思った途端、ジュリアスは出口に向かい駆け出そうとした。深い紫の瞳に次の感情が浮かぶのを
どうしても見たくなかった。それは間違いなく蔑みであるから。素速く一歩を踏み出そうとした。
が、後から何かに腕を掴まれ強く後方に引かれた。よもやの事に倒れそうになるが何とか踏みと
どまり勢い良く振り返る。ジュリアスを引き戻した者は何か言いたげに向けられた顔を見つめて
いた。
「……ジュリアス?」
彼の地を後にしてから初めて聞いた彼の声であった。



胸に抱き込まれた時、間近にある黒髪と細い顎が滲んで良く見えなかった。唇を塞がれた時、喉元
に昇る嗚咽をかみ殺すので必死だった。舌を絡められた時、呼吸の出来ぬ苦しさとは別の何かで全
身が震えた。背に腕を廻した時、強い力で抱き寄せられた。自分が感じたのが安堵なのか歓喜なの
かが判別できなかった。彼の名を囁いた時、耳元に届いた声音が何であったのか聞き取れなかった。
覚えているのは、その直ぐ後に首筋を強く吸われた事くらいだった。
狂ったように唇を求めて、躯を擦り寄せ、長い指に翻弄され、灼熱に灼かれ、叫び、震え、突き上
げられ、幾度その名を呼んだのかも微塵も覚えてはいなかった。気付いたのは、己の頬を伝う熱い
涙を唇が拭うのを感じた時であった。ゆっくりと目を開けると、触れるほども近くに彼の顔があり
、薄唇が緩やかに開いて吐息にも似た声が小さく呼んでいた。
「ジュリアス…。」


++++++++++++++++++++++++++++++++++


「そなたの気まぐれにはほとほと呆れる。」
笑いながら軽く頬を叩く。クラヴィスは大仰な渋面を作り、だがそれも瞬く間に微笑に取って変わ
った。
「まだ朝食を支度していない。フロントに頼まなければ……。」
言いながら離れていこうとするジュリアスの腕を長い指が捉えた。それほど強く引かれたわけでも
ないのに、痩身が簡単に倒れ込んで来る。迎える両腕が躯に絡み、今度は完全にそれを拘束した。
唇が蜜色の髪に触れ、頬に移りその先を強請る。
「いい加減に……。」
続きを発するのは叶わなかった。重なる唇をジュリアスは拒みもせず受け入れ、そのまま深くなる
口付けに流される自分を制しもしない。早朝の光の中、暫くの間抱き合った躯が解けることはなか
った。もし、窓に掛かるシェードが上がっていなかったら。窓外から射し込む煌めく帯が二人に降
り注いでいなかったら。その先に堕ちてゆくのも簡単だったかもしれない。
漸くからだを離したジュリアスがゴロリと仰向けに寝ころんだ。それでも諦めていない指が髪にま
とわり大きく波打つそれを梳いている。顎を僅かに上げ、視線を窓に向ければ目も眩むほどの蒼さ
が双眸に飛び込んできた。
あれから今に至るまでクラヴィスはたった二つの言葉しか口にしない。相変わらず声を掛けても、
自身の世界から戻ってこない時もある。其処から無理にでも引き戻そうとすれば、迷惑だと言わん
ばかりの顔を向けることさえある。彼の時間は彼の意志のままに流れており、ジュリアスは何とか
修正しようと毎日口喧しく言葉を投げる。けれど、ここにはジュリアスの場所がある。どれほど疎
ましそうな表情をした後でも、クラヴィスは必ず最後は穏やかな笑みを浮かべる。
「今日は午後から出かけねばならぬのだ。」
言い聞かせるかに言を落とし、ジュリアスはベッドから起きあがろうとした。絡んでいた指先が黄
金の波をついと引いた。
「だから、いい加減にしろと…」
振り向いたジュリアスにクラヴィスは悪戯な笑みを作り小さく言った。
「ジュリアス……。愛している……。」
彼の地に在って、たった一度しか告げなかったそれを彼はもう幾度も囁くのだ。
「私もだ…。」
ジュリアスはそれに続く一言を黒髪に隠れる耳元にそっと返した。あの聖地を出る日、クラヴィス
に言いたかった言葉を彼は漸く伝えることが出来たのだと胸の内でそう思った。



空は相変わらず目眩を覚えるほども青く、吸い込まれるくらいに高く見えた。





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