*COMET*
=5=
彼女の腕が脇腹に触れただけで躯が震えた。爪を背に立てられ、しかし感じたのは痛みではなく彼を誘う快感の刺激であった。薄く開く紅い唇からあられもない声が上がる。
「ん…あぁ…。」
鼻にかかった甘い声音が更にクラヴィスの熱を高め、出口を求め下腹部に集中する快楽の波は彼を目指す先に連れゆこうとする。気が急いて自身の徴を彼女の秘所に突き入れようとし、やんわりと拒絶される。
「まだよ…。」
隠微な笑みを浮かべとろりと酔った風な眼差しで彼女は諭す。
自分だけが快楽に到達するのではなく、互いに頂点を目指すのだと教えられた気がした。高ぶりを押さえながら辿々しい仕草でその柔肌に唇を這わせ、焦りに震える指先で秘部をまさぐった。単に己の欲望を満たすだけでない求め合う幸福にクラヴィスは酔いしれる。そこに果たし如何なる感情も介在していないにしても、肌を摺り合わせ淫らな声を発する意味はあるのだと感じた。
やがて期の満ちた彼女の嬌声に誘われ、その内に膨れ上がった徴を打ち込みながらクラヴィスは受け入れられる喜びに言葉にならぬ声を上げるのだった。もしかしたらここにはいない誰かの名を呼んだのかもしれない。目を背ける視界の端に常にある姿を想って。
目覚めた時、彼の傍らには誰もいなかった。
ノソノソと起き出し階下をのぞき見ても人の気配すらなく、周囲を見渡しても書き置きの一つも残されていなかった。何処にいったのか推し量る術もなかった。勿論いつ戻るのかも分かりはしない。結局その人を待たずクラヴィスは朝の光に照らされ色を無くした街をあとにするのだった。部屋を出る折りに昨夜の勘定すらしていなかったと気づくも幾ら払ったら良いかが分からず手持ちのほとんどをテーブルの上に置くことにした。
酒代にしては法外な額には彼女とのSEXに対するクラヴィスなりの気持ちも含まれていた。だが、その後冷静に考えれば自分の残した幾ばくかの金の意味するところが彼女の行為を買ったと言っても間違いではなかったとする後悔を呼んだのである。もしかしたらあの人の好意であったかもしれない情事を自分が貶めたのだと悔いたところで今更取り返すのも不可能であったからだ。
それ故にあの夜を「女を買った」と現したに他ならない。この夜を境にクラヴィスは外界に降りるのを止めた。
「今お前に話せるのは…これだけだ。」
この先は未だ予測さえ出来ぬ帳の彼方にあり、自身でも決めかねる近い未来を語るつもりもないとクラヴィスはそこで話を終えた。ジュリアスは何も言わない。俯いたままテーブルの上に置いた両手の辺りに視線を落としている。
空になったグラスにまた薄紅の液体を注ぎ、何事も告げないジュリアスを見つめつつクラヴィスは彼の反応をさもありなんと思う。この話を語りたくないと欲した一つは当然ながら今後の互いの関係を訝ったからであるが、もう一つの理由はいくら過去の愚行だとしてもジュリアスがそれを許さぬのではないかと畏れたからである。
自分から彼に決別を向ける前に如何なる心情の果てからも行きずりの女との無責任な情事をジュリアスが嫌悪し、伝えた途端彼から関係を破棄したいと言われるのが怖かったのだ。全く何処まで行っても自分は薄汚い欲望しか持ち合わせていないのだと、この日何度浮かべたかしれぬ薄く醒めた笑いをまた刻むのだった。
己から別離を口にするまではこの暖かな関係を続けたいなどと虫のいいことばかりを考える自身の身勝手さに彼は発した嘲笑を収められずにいた。
「それで、その娘を捜していると言うのだな。」
ジュリアスはとても静かな口調でそう言った。怒りもなく失望や嫌疑も含まぬ言いようは例えば明日の夜を供に過ごさないかと問う時のそれと何ら変わらない。過ぎた事実を語っただけであったが、ジュリアスには既にクラヴィスの言わぬ核心さえも見抜かれてしまったようだ。
「…ああ。」
またクラヴィスは苦く笑う。隠したところで何の意味もなかったと自身の浅い考慮を馬鹿馬鹿しく思った。
ここまであからさまに示せば賢いジュリアスがその先を読めぬはずなどない。それでも彼は今後を明らかにはせずにもう少し時間が欲しいと懇願するつもりだったのだ。
「探して、仮に見つかった場合の…そなたの考えが聞きたい。」
ジュリアスはそう言いながら顔を上げクラヴィス真っ直ぐに見る。それは一種の脅迫ともとれる強さと決して言い逃れなどしないで欲しいと言う願いが込められた眼差しであった。
クラヴィスは深く息を吐き、細い眉を上げ悲しげな表情を作った後諦めたとばかりに胸に留めていた全てを吐露するのだった。
「娘が…わたしの子供だったなら…守護聖を降りるつもりだ。もし…違った時のことは、まだ考えていない。」
「なにを…馬鹿な…。」
その娘を引き取ると言い出すのではと懸念していたジュリアスはまさかの思いに息を飲んだ。過去の事実は理解した、その可能性も否定しない、しかし何故そうだった場合にクラヴィスが守護聖を降りなければならないのか甚だ納得がいかない。
「何故わたしがそこまでするのか、納得など出来まい。」
普通に考えればそうだろうとクラヴィスは軽く口元を緩める。先ほどまで浮かべていたのとは明らかに異なる笑みが広がった。
「今まで数限りない守護聖がこの地にあった。その中にはやはり浅はかな振る舞いをした者も居た筈だ。それを聖地はどうしたと思う?」
正式な文献には残されていない、しかし確かにあったであろう事象について訊ねられジュリアスは言葉に窮する。
図書館の奥深くにひっそりと置かれた過去の守護聖が残した私記には公には語られない数多くの出来事が認められており、ジュリアスもそれらには何度となく目を通した。たった一行の走り書きから何としても解けぬ難問への導きを得たことや、どう対処したら良いかと迷い抜いた心痛を書かれた一文字が救ってくれたこともある。間違いなくクラヴィスはそこに書かれた先人の言葉をお前も知っているのだろうと問うているのである。
全てを閲覧した筈もなかったが幾つかの事例は記憶にある。幼くして婚儀の契りを交わしていたにも関わらず、それが親や家の決め事であったが当人同士も惑いなく将来を誓っていた青年にある日サクリアが目覚める。彼は突如降って湧いた現実に引かれ聖地へと召還された。しかし守護聖となったのちも故郷に残した許嫁を忘れられず一目を忍んでは外界で逢瀬を重ねた。結果は当然ながら許嫁の妊娠である。彼の守護聖は聖地の命と生まれくる命のどちらも選べず徐々に正気を失っていく。周囲が気づいた時、彼の精神は修正しようもない状態でありそれに伴い宿すサクリアを征するも不可能となっていた。
聖地の下した処置はその守護聖の幽閉と彼の妻子の隔絶であった。誰の目にも届かぬ場所で徐々にサクリアをその身から引き上げ、一時的に女王の元にそれを戻す。全てを失くした男は内密に聖地の統括する施設に収容されその後の消息は不明となり、生家から連れ出された妻子もまた同様に誰も知り得ぬ地に居を与えられ生涯不自由のない保証を約束されつつもひっそりと一生を終えたのである。
聖地の尊厳にただ一つの汚点もあってはならぬのだ。知られれば同じ仕打ちが待っているのだとクラヴィスはそう言いたいに違いなかった。
彼は自らの意志でサクリアを女王に返上し守護聖を降りるつもりなのだとジュリアスは推測した。恐らく間違っていまい。満期まで任を全うするなら引退した後も生涯不足なく暮らせるだけの恩給が支給される。望めば家屋も用意されると決まっていた。彼の都合により中途で任を降りるとしても、聖地に不都合のない条件を示せばそこそこの慰労金が与えられる筈である。それらを前提にあの娘を捜し出そうとしているのは、この時点で明白となった。
これまで守護聖として生きた何もかもが抹消されることも考慮に入れているに違いない。聖地の門をくぐり一歩外に踏み出すのを最後にこの世からクラヴィスという存在が消し去られると知っていながらの決断である。二度と彼の足跡を辿るも不可能となるのだ。それこそが今生の別れである。
「そなたの言い分は確かに聞いた。だが到底理解など出来ぬ。」
ジュリアスの意見が尤もだと言えよう。
他に道が皆無ならいざ知らず、勝手に決められた結論を突きつけられ首を縦に振るなどできない相談である。それにクラヴィスの意志には公が欠如している。全てが私事でしかないとジュリアスは訝った。
「責任をとろうと言うそなたの気持ちが分からぬでもない。しかしそれなら守護聖としての責はどうするつもりなのだ。」
それまでの不安が一気に姿を隠し、ジュリアスは守護聖の面を掲げ正論を投げた。クラヴィスの言い分はあくまで個人の感情に寄りすぎている。聖地にその親子を引き取るのは難しいとして、内密にであれば彼らの生活を保障する術もあるのである。住居を与え生活費を某かの名目で支給するのも容易いことなのだ。守護聖を降りる必要もなく、その者達が安住できるならそれで充分ではないのか。ジュリアスの言葉には非の打ち所もなく、彼が発するそれは守護聖を束ねる者なら当然の意見であった。
クラヴィスの弁を私事だと指摘しながら、果たして己はどうなのかとジュリアスは自分の想いをそっと引き寄せる。公の顔を張り付け尤もな論旨を吐いているがそこに一点の曇りも裏もないのかと自問すれば答えは否である。ジュリアスは守護聖の言葉に隠す本心を自ら認めざるを得なかった。クラヴィスを責められた義理ではない。聖地の理を盾にクラヴィスを引き留めようとする自身のやり口を嫌悪しつつも、そうするしか術を持たぬ己を不器用な愚者であると憐れんだのである。
クラヴィスに見抜かれ馬鹿だと蔑まれても構わなかった。正論を押し通しクラヴィスの決意を覆せるならとジュリアスは更に先を続けたのであった。
「私が陛下に進言しても構わぬ。誰にも知られぬよう研究院に調査を依頼するよう取りはからって…。」
「止めろ!!」
突如上がった怒声にジュリアスはハッとしその方を見る。椅子に座したままのクラヴィスから放たれたのは紛れもなく怒りであった。
「お前は…何も分かっていない。」
怒りに震える声音が冷気を伴ってジュリアスの身体を貫いた。
ガタリと椅子を蹴り飛ばすように立ち上がるとクラヴィスは呆気にとられるジュリアスの脇まで歩み寄った。先日の言い争いの際に見せた剣幕とは比べものにならぬ鋭い怒りである。憎悪とも思えるそれを視線に込め、クラヴィスは掴みかからん勢いでジュリアスを怒鳴りつけた。
「守護聖がそれほど大事か!金さえ与えれば・・金を恵んで何もかもを収めればそれが正しいのか!」
正論を述べれば反論もあろうと覚悟はしていた。だがこれ程の怒りを露わにするなどジュリアスも考えていまい。クラヴィスのこんな様を目にしたのは初めてかもしれなかった。ジュリアスはこの時のクラヴィスを心底恐ろしいと感じ、次に起こる何かに思わず身を竦ませたのであった。
続