*COMET*
=4=
「何だと?」
顔を顰め聞き返すジュリアスがみせたのは凡そ当たり前の反応である。クラヴィスが心を痛める某かがこんな出鱈目な話になるなど思いもよらぬから当然のことだ。
「何を根拠にその者が言ったのかは知らぬが、だいたいそなたはそれにどう返したのだ?!」
「分からない…と言った。」
「分からない???何だ、その言い草は!」
根も葉もない言いがかりだと言うなら分かるが、いったい全体何が分からないのか。クラヴィスの言葉こそが全く理解不能である。
あまり考えたくはないが、それはそうした者達のやり口かもしれないとジュリアスは咄嗟に思った。それまでに出会った旅行者とは異なるクラヴィスを良いカモだと踏んだのか、或いは何かの縁を結べばより美味しい施しにありつけるとした算段か。守護聖の筆頭に立ち清廉潔白を心情とするジュリアスにそんな考えもあるのかと仰天する者もあるかもしれないが、広く宇宙に目を配り守護聖として如何なる事象も捉えてきた彼はこの世が美しい幻想で出来ているなどと思うほど世間知らずでもなければ愚かでもない。
小狡いやり口で微々たる利益を得ようとする役人もいるだろうし、隣りの子供のパンを掠めとる大人も確かに居るのだ。人の世は善も悪も混然となり動いていくものなのである。誰かが他者を傷つける、しかしそれを正すのは守護聖の役割ではない。その者達の暮らす場所に必ず存在する刑法が彼らを裁けば良いのだ。逆に彼らのそうした行いに守護聖が手を出す方が誤りだと彼は信じる。
だから年端もゆかぬ少女が明日の糧を得んが為にたまたま出会った他人にそれらしい事を言う可能性を否定などしない。その行為が誤りだとしてもジュリアスが怒りを向ける先は彼女ではなく、彼女がそうしなければ生きてゆけぬ社会にである。しかも今は世の善悪を語り合っているのではない。分けの分からぬ物言いをするクラヴィスに彼の怒りの矛先は向けられた。
「近しい者には歯に衣を着せぬ言いようをするくせに、そうでない者には奥歯に物の挟まったような言い回しをする。何故ハッキリ違うと言わなかったのだ!」
「……。」
突如押し黙ったクラヴィスにもう一度怒声が飛んだ。
「クラヴィス!!いい加減にしろ!」
残念ながらジュリアスの怒りは次の一言で掻き消えてしまった。
「心当たりがある…。」
「え?」
「わたしには…思い当たることがあるのだ。」
部屋に充ちる空気が一気に冷えていくように思われた。
ジュリアスはテーブルを隔てたクラヴィスから目が離せなかった。手を伸ばせば届くほんの僅かな距離がその一言で途方もなく開いた錯覚に陥る。
「心当たりがある。」
クラヴィスは何の迷いもなくそう言い切った。それはいったいどんな意味なのだろうかとジュリアスの聡明な頭脳が恐ろしい早さで回転する。
普通に考えれば自分と出会う前に婚儀かそれに近い契りを交わしていたと言うのが順当なのであろう。しかしクラヴィスが聖地に召されたのは己と歳も変わらぬ頃である。それはあり得ない。ならば何かの折りに、例えば視察や祝宴などに招かれて外界に降りた時にそうした約束を取り交わしたのか?
そうならクラヴィスは既に相手がいながら自分と行く末を誓った事になる。もしかしたらその逆かもしれない。自分に心を明かしておいて他の誰かと誓いをたてたのか?そんな事があり得るだろうか?クラヴィスは職務や聖地の決め事に関しては甚だいい加減な男である。どれほど言葉を尽しても態度を改めるなどしない。だが彼の頑なな守護聖に対する拒絶には深い謂われがあるのをジュリアスは知っている。守護聖を身に纏うサクリアを宇宙を統べる女王の存在を嫌悪し、不本意ながら其処に身を置く自身すらを否定する理由を熟知すればそれを単なる「いい加減な人間」だと決めつけられない。
己の逃れられぬ運命以外に於いてクラヴィスが他者をないがしろになどする筈がない。だったら何をして「心当たり」などと言うのだろう。ジュリアスの思考はその先へ進めぬまま堂々巡りへと堕ちていった。
途方に暮れるジュリアスを余所にクラヴィスは静かに続きを語る。
「もう…何年も前の話だ。」
現女王がまだ女王候補として彼らの前に現れる少し前、それはクラヴィスがジュリアスに心を明かす直前の事であった。既にその頃宇宙は崩壊に向かい狂おしい悲鳴を上げて進み始めていた。女王のサクリアの衰退と宇宙自体の命の終わりは守護聖達にも深く辛い翳りを落としていた。悲しみに揺れる聖地にあってその影響を最も敏感に受け取ったのは闇の守護聖であった。日毎に増加する闇のサクリアの需要、幾ら与えたところで改善など望めない閉ざされた未来。
今考えてみればその頃のクラヴィスは他者を執拗に拒んでいた。自身の生をも拒絶するかの虚無に支配されていた理由がジュリアスへの届かぬ想いだと知るのはずっと後になってからの事である。
「どうして良いのかなど、分からなかった…。」
純粋にジュリアスを求める気持ちがある日気づけばあからさまな性欲に凌駕されんとしている事実にクラヴィスは驚愕し、欲する相手を含む周囲全てから自身を隔絶することで均整を保っていたのだ。
守護聖とて生身の人間である。不思議なことに宇宙を支える九つのサクリアは男性にしか宿らない。早い者で十代の頭、遅くとも二十歳に届く前にサクリアは目覚める。特別な存在、神にも等しく市井の民から見れば彼らは食事こそすれ排泄などするわけがないとさえ思われている。ところがその生理が只人と異なる筈もない。喜怒哀楽は勿論のこと、我が儘もあれば嫉妬もする。思春期に在れば当然性欲も覚える。
彼らの住まう聖地は外界とは時を異にする。気候も環境すら尽く管理された楽園である。そんな場所に暮らす年頃の男性が如何にして沸き上がる欲求を処理するのかと疑問に思う者もあるだろう。これは守護聖の間でも語ってはならぬ禁忌であるが、彼らの私邸には何人かの側仕えがおりその中にただ性欲を満たす為に使える者が居るのだ。お互い同士でもそれが誰なのか知らされてはおらず当人と守護聖、そして執事だけが事実を知るのみである。
自身で処理し切れぬそれを癒して欲しいと望んだ時、各自が何らかの意思表示を執事に伝える。例えば私室の前にさりげなく置かれた小さな紙切れであったり、それとなく送る目配せであり受けた執事がその夜頃合いを見計りその者を守護聖の元へ遣わせる。誰もが知り、誰にも知らせない事実であった。ジュリアスにしてもその世話にならなかったわけではない。体内に生まれる熱い滾りを収め癒された経験は数知れずあった。
当時クラヴィスは毎夜その女性を寝室に迎えた。彼の膨れ上がる性をひたすら受ける柔らかな肢体を抱きながらそこに別の姿を重ねたのである。だが物理的な欲望は満たされても、胸に積もる欲求が無くなる事はない。一掃されるどころか虚しさを伴い日毎に大きくなるばかりであった。彼の瞳に翳りが降りるのを気に掛ける輩はあり、年かさの守護聖の一人が偶には人目を忍び外界で羽を伸ばすのも一つの手だとコッソリ耳打ちしたのも仕方のないことである。躊躇うクラヴィスの手を引き実際に連れ出したのはたった一度であった。聖地の門に戻る道すがら気が紛れたかと訊ねる彼にクラヴィスは軽く首を振り、それほど楽しくもなかったと小さく言った。
だがその後数度に渡りクラヴィスは外界に足を運ぶのである。楽しくもなく満たされるでもなかったが、誰も自身を知らぬ雑踏に紛れるのは一時の気晴らしにはなったようだ。
「その時…女を買ったのだ。」
ジュリアスの身体がビクリと跳ねた。驚愕に見開かれた双眸はそれでも眼前の姿から背けられはしなかった。
「女を…買った?」
鸚鵡返しに同じ言葉を呟く。言いながらクラヴィスの述べた意味が分からないとでもいうかにジュリアスは不思議そうに夕暮れを宿す瞳を捉えている。
次に彼の口元が緩み面白そうないつもの口調で冗談だと言うのを待っているようだ。
「正確には、買ったのではないが…。」
ジュリアスの思うそれは告げられなかった。瞬きを忘れた碧色の瞳がクラヴィスを凝視している。数分前まで上気し朱に染まった頬は色をなくしまるで作り物か人形のようにジュリアスは動きを止めてしまった。
白い薄物を纏う胸だけが呼吸に合わせ上下する。彼が受けた衝撃の強さはその様を見れば明白であった。
「ジュリアス…?」
思わずその名を呼ぶ。大丈夫か?と訊ねた後、クラヴィスはここまでにするか?と青ざめた顔を覗き込んだ。
「いや、続けてくれ。」
ジュリアスが発したのはそれだけであった。テーブルの上に乗せた両手をゆっくりと握り彼はクラヴィスが語り始めるのを静かな面もちで待つのだった。
クラヴィスが外界に足を運んだのは数度のことであった。夜半に勤める星見の任がなく、自身に火急の連絡が入らないであろう時。寝室に訪れる件の傍仕えをやみくもに抱いた後に寄せるやりきれなさが募った時に屋敷を抜け出し聖地を出てシャトルに乗り近場の惑星に降りたのだ。目的もなくスカイポートから繁華街に向かい気の済むまで歩き回ることもあり、気が向けば目に付いた店に入り酒を飲んだ。
誰も自分を知らない。守護聖であることも身の内にサクリアを宿すことも幼い頃から傍らに居る人を好きだということも。ましてその人を腕に抱いて躯を重ねたいと願うことも。一度降りた場所に二度足を運ぶことはなかった。初めての街が良かったのだ。其処に在る人々が自分を覚えていない確証がなければ人混みの中でも安堵できなかったからである。
それが何度目の外界だったのか覚えていない。その夜は一人寝室でシーツに横になり眠るつもりであった。しかし突如覚えた熱い衝動に突き動かされ聖地を後にした。街はどこも同じ灯りと雑踏と騒音が溢れていた。最初に入った店はあまり居心地が良くなかった。酔った客が一人で座るクラヴィスにやたらと話しかけてきた。一杯目を飲み終えたところで店をでた。
何軒かを渡り、最後の店に入った時にはそれなりに酔いは回っていたようだ。
少し外れた辺りにあったその店にはクラヴィスともう一人しか客がおらず、彼はやっと腰を落ち着けて気休めのグラスを空けたのだった。安物のカットグラスに大きめの氷を落とす。そこにこれもまた銘柄も分からぬ酒を注いだ。琥珀の液体に浮かぶ氷が解け出すとグラスの中に薄い幕降りる。降りた幕は僅かずつ広がって、いつしか酒精と溶け合い元から一つであったようにそこにあった。眺めているうちに氷は徐々に小さくなり、気づいた時には半分ほどの大きさになっている。それを一気に流し込み、再び同じことを繰り返した。
店内に流れる微かな音は聞いたことのない楽曲で、切ないピアノの伴奏に合わせて嗄れた声の女性が悲しげに歌っていた。
『真夏の暑い日射しの下、屋根に登り目眩がするほど青い空を眺めた…』
とぎれとぎれに聞こえる声はそんなことを歌っていた。それほど飲んだとは思わなかったが、肩を揺すられ顔を上げながら自分が眠り込んでしまったのを知る。店にはもう己以外誰も居ない。早々に勘定を済ませて帰ろうと立ち上がった途端、足が縺れ慌ててテーブルに手を付いた。耳障りな音が鳴り、置かれた水差しが傾いて水が零れる。店主と思しき女性が大丈夫かと聞いてくるのに、大丈夫だと返そうとして顔を向けた拍子に視界が大きく廻り不覚にもクラヴィスはその場にしゃがみ込んでしまった。
肩に置かれた掌が随分小さい気がした。すぐ脇に膝を付いて覗き込むその人の唇が恐ろしく紅く濡れて見えた。
「上の部屋で休んでいけば?」
頷いたのは単に気分が悪かっただけで、その先など全く考えていなかった。登る階段は薄暗く人が一人通るのがやっとの狭さであり、一段を踏み出すごとにギシギシと嫌な音を発てた。
横になった粗末なベッドのシーツに触れると少し湿っているようで、安物のコロンとすえた残り香が鼻の奥に流れ込む。たった一つある窓には薄いカーテンが引かれていた。そこからは空も木々も見えない。チカチカと騒がしく光るネオンの灯りがすぐ前にあるだけであった。ここが休息をとるだけの場所なのか、或いはその人が日々を暮らす部屋なのかは判別できない。凡そ生活を思わせる家具や装飾が見あたらなかったからだ。
目を閉じると薄い壁を通して様々な音が聞こえて来る。数人の怒鳴り声、雑音ともとれる騒がしい音楽、通りを行き交う車の排気音、突如上がる歓声。果たして今の時刻はいつ頃なのだろうと考えながら、それでも身体を起こす気にはならず薄汚れたシーツに身を任せているのだった。靄の掛かった思考の片隅で自分が眠っているのか起きているのかと考えていると階下から足音が聞こえた。
だんだんと近づくそれが傍らで止まり頭上から声が降って来る。
「これでも飲めば?」
カラリと鳴ったそれにつられ目を開ければ水の入ったグラスが差し出されている。受け取りゆっくりと喉に流し入れれば火照った身体にそれは染み渡り、ぼんやりと霞む頭が徐々に冴えていくようである。上体を起こして飲み干したグラスを返そうと運んだ視線の先に身体を屈め受け取る為に手を伸べる彼女が居る。
下着と見まごう衣服から覗く胸がやけに白く、その白さを意識した時クラヴィスは伸べられた腕を掴み強く引き寄せていた。簡単に雪崩れた細い肢体を腕に抱き込み強引に唇を重ねた。拒まれるかなど考えている余裕はなかった。とにかくそれに触れたかっただけで、しかし無理矢理に押しつけた唇をスルリと舐められれば鼓動が早鐘を打ち夢中で自身の舌を絡めたのだった。開いた唇から生き物のように誘う舌の赤さが瞳の奥を鋭く射る。
細く窄めた舌先に口蓋を舐め上げられて、咄嗟にそれを捉え気が狂うほど強く吸った。こんな口付けをしたことなど無い。彼を癒すあの女性は一度として求めてはこなかったのだから。それはあの女性の職務なのだから当たり前のことだ。彼女が寄越すのは奉仕だけで最後にクラヴィスの溢れる精を受け止めるそれだけであった。
どれほど貪っても足りなかった。唇を合わせる心地よさをいつまでも求め続けた。
そして…。
誰かを抱きしめれば己も抱き返されるのだとこの時初めて知ったのである。
彼女が何か囁いたと思った瞬間、細い指がクラヴィスの股間に触れゆるりと撫でた。焼け付く熱がその一点に集まり、痛みにも似た快感の熱さにクラヴィスは苦しげな呻きを洩らした。再び朱を引いた唇が動く。
「…イイよ。」
確かに彼女はそう言った。
続