*COMET*
=12=
ほっそりとした顎の線が小さく動く。形の良い桜色の唇が告げる言葉の形に合わせゆっくりと変わっていく。まるでコマ送りの映像のように。一つ一つが暗く垂れ込めた空気に融けて世界を別の色に染めていくかに思えた。それは夜明けの空が瞬きをする間に刻々と変わってゆくのに似ている。漆黒から深い藍に、僅かに蒼さを増した紺色、暁の先が地表に現れるを待っていたとでも言うように朱が混じり青紫から菫色に。確かに姿を見せる暁光と共に大地の近くは茜色、そして空の高見は紺碧に目眩く染まる天の営みが描く壮大な流れと。
自身の発したそれにクラヴィスが驚愕の表情を作るのを見ながらジュリアスは胸の内で何をそんなに驚くのかと不思議に思う。そしてふっと口元を緩める。彼がそんなあからさまに驚いた顔をするなど滅多に見られぬと気づいたからであろう。感情を内に降ろし喜怒哀楽など持ち合わせていない風を装うクラヴィスのこんな素直な反応を知っているのは己以外にはあり得ないだろうと、瞠る深紫の瞳に視線を絡めそんな事を考えたのだった。
「だから…償ってもらう。」
『償う?』
何をして何を償えと言うのかが理解できない。彼の傍らから逃げるも叶わず、この地に留まりしかし打ち捨てられた自分に求めるとすれば…。クラヴィスの思考を次ぎが遮った。
「私を軽んじた…そなたの振る舞いを悲しく思った。あの程度の人間だと…あんな事で私の想いが変わるなど…。」
果たしてジュリアスが何を言わんとするかが未だ判然としない。怒りを覚えたのは事実であると言い、呆れたとも言っていた。それでいて悲しいなどと、しかも彼を軽んじたとは言の意味するところが少しも明確に伝わらずクラヴィスはひたすらに眼前の双眸を見つめるばかりである。彼の真意がその海よりも蒼く澄み渡る瞳に潜むとでも言いたげに。
「私は…。」
ジュリアスはそこで大きく息を吸い込む。例えばその先を躊躇うか、又は何か大いなる決意を伝えようとするときの彼の癖である。つられクラヴィスも息を飲んだ。
「そなたがどう思っていようと…。」
また先が続かない。言葉を選んでいるのか、はたまた迷っているのか。
「私は…そなたが好きだ。こうして供に在る事を幸福だと…思っている。例え…別離を望まれても受けるつもりなどない。 それが…そなたの願いでも…受けるなど出来ない。一人で…この地に残るなど…耐えられない。」
瞳に宿る紺碧の海が俄に揺らぐ。言葉にした途端、単なる例えであった「別離」が彼の中で具現化されたのかもしれない。灰色の夜明けに一人立つ自身に吹き付ける風の冷たさを感じたのだろうか。ジュリアスは言いながらぶると身体を震わせた。
「もしあの者が見つかり、聖地の規律が追放を唱えたとしても…、私は首座の権限を行使するつもりであった。それが…。守護聖と…陛下への反目となろうとも…だ。」
それまで半ば呆然とジュリアスを眺めていたクラヴィスがやにわに半身を起こす。
今、彼の聞いた言葉が他の誰かから発せられたなら驚きもしなかったろう。宇宙の掲げる不文律に納得しない輩は少なくない。不敬と知りつつ口に出す事もあり得る事実だ。ところが事も在ろうにそれがジュリアスの口から放たれたのである。それに彼は一時(いっとき)の感情で発言するような真似はしない。少なくともこの数日、或いはもっと以前から考え、胸に秘めていたに違いない。いや、そうだと言い切って構わない。それは反逆であり、不敬であり、完全な裏切りである。公の前で私を捨ててきたジュリアスがそれまでの自身を否定したのである。しかも彼を辱めた男の為に。
実際ジュリアスがクラヴィスとの関係を自身の罪と考えている事に気づかなかった訳ではない。週末の執務外にしか会わない慣習となったのも、宮殿などで敢えて必要以上のなれあいを求めないのも、そうした彼の奥深い拘りがあってこそだと理解していた。互いに想いを分け合った当初などは私邸で夜を過ごすのにも躊躇う素振りがあった。そのジュリアスが不徳に違いないそれらを発する胸の内を察すれば、激しい葛藤などでは片づけられない身を割くほどの苦悩を抱えているとしか思えぬ。
「もう…良い。」
腕が音もなく上がり、暗い室内でも尚輝きをたたえる髪に触れた。己が身をそれ以上貶めてくれるなとクラヴィスが静かに告げる。そんな真似を望んではいないのだと。
「それより、わたしが如何なる贖罪を行えば良いのか…。それを教えてくれ。」
ジュリアスは髪に触れる手を払うでもなく、拒絶を表す出もなく『そうだな…。』と頷いた。
「私は今まで何かを欲しいと思った事はなかった。 手に入れたいと願ったことも、如何にして手にしようかと考えた事も…ない。」
ジュリアスには物欲がないと言えば虚言になってしまう。勿論、ささやかなそれはある。身体が供給を求める基本的な欲求以外で彼が何かを欲するのは当然である。数少ない趣味である乗馬や嗜好品に関する要求がないわけではない。しかしそれを除けば彼ほど無欲に近い者もないであろう。他者より遙かに公人である部分が彼の生活を占め、たとえ休日であっても望まれれば直ぐさま宮殿にのぼる。常に思考を占有するのは職務に関する諸々であろうし、極論を言えば宇宙が求めればその身を惜しげもなく捧げてしまうかもしれない。それ故に個人としてどうしても何かが欲しいと口に出すこともなかった。
守護聖として個を優先してはならないと自らを律しているからもあるが、もし仮に何かを手に入れたとしても世の理の前にそれを捨てなければならない選択を強いられる可能性が誰よりも高いからである。世界が捨てろと言えば従うしかない事を彼は知っているからだ。
「それなのに…私は欲しいと思い、手に入れてしまった。」
正確に言えば差し出された心を受け取ってしまった。いつの頃からだろうか、初めて先代の守護聖から引き合わされた時だったかもしれない。艶やかな髪に囲まれた寂しげな横顔と伏し目がちに落とされた不思議な色の瞳に心を動かされた、あの時の感情がそうであったとは言い切れないにしても気づけば必ずその姿を探していた。
ハッキリと欲したのはもっとずっと後である。けれど欲しい気持ちは届かぬ想いであり、叶わぬ願いだと知りすぎていた。そして己が手にした後もいつか何者かに奪われるに違いないと形のない影を畏れていた。だから幾度となく手放そうとした。奪われる前に解き放とうと自身の意に反する言を唱えたりした。だが、今は違う。手を離してはならないのだと魂の奥底から真実の声が上がる。
「他に何も要らぬ…欲しくもない。そなただけだ…。」
ジュリアスの視線がクラヴィスのそれを捉え、クラヴィスもまた決して離すまいと自身の眼差しを強く絡めた。
「私を置いて…この地を去るなど、断じて赦さぬ。時が…我らを分かつまで…償ってもらう。」
言い終わると彼は瞳を伏せた。それでも嫌だとクラヴィスが言ったなら、その時はそれを受けるつもりもジュリアスは持ち合わせていた。聖地から解き放たれる日を待つ彼の切なる望みを誰よりも知っているが故である。
「…分かった。」
クラヴィスが返したのはそれだけだった。良いでも悪いでもない、たった一つだけの了解をしめした。それ以上彼の唇が動くことはなかった。
しかし少し前までジュリアスの髪に触れていた掌が強くその者の肩を掴み引き寄せた。僅かの抵抗もなく身体の重みが預けられる。滑らかな額が肩先に降りてきた。背に流れる黄金色の波に指先を沈め、腕にある彼の全てを抱きしめる。込めた力が語られぬ何もかもだと言っているようだ。
ジュリアスもまた何一つ発するでもなく迎える胸に顔を押し当て、だがクラヴィスに応えるかに抱き返すのだった。華奢な指先が黒髪に絡み砂色の布に深い皺を刻む。耳の奥が痺れるほどの静寂の中、互いに廻した腕は解けぬまま時だけが何食わぬ顔で過ぎていった。
抱き合うという行為以外を全て忘れたかのようであった。掌と指先に在る感触だけが世界を支配しているかに思えた。形にすればその途端、嘘がそれらを侵食し風化して崩れ去る幻想を怖れているように。呼吸さえ躊躇うほども。けれどそこに終わりがあるわけではなく、微かに顔を上げたジュリアスがそっと次を求める仕草にクラヴィスが気づかぬ筈もなかった。
降りてきた唇はいつもと変わらぬ、最初に触れる時少しひんやりと感じるそれであった。その形と温もりを確かめ合うかに幾度も啄み、体温と心を分かち合う口付けが続いた。閉じられた窓の外に広がる天上に昇る月が白さを増すのも知らず、墨で染められた空に間断なく流れる星の長い尾が消えるのも気づかずに。
隙間無く合わせられた肌が汗に濡れ、絡まる足の付け根を互いの内股が忙しなく擦する。時折胸の奥から絞り出される湿った呻きは、果たしてどちらのものかも分かりはしなかった。
下になるジュリアスの両手は無造作にシーツの上にあり、そこにクラヴィスの指が絡みついている。唇は常に何かを求め、それぞれの肌にくすんだ朱を幾つも残した。桜色から紅に変わるジュリアスの唇が黒髪をわけて首筋を這う。一度止まり其処をきつく吸った途端、半ば開いたクラヴィスの口の端から緩い吐息が零れた。
「…あぁ。」
安堵にも似た快感の波が彼の内に広がる。歓喜に胸を震わせクラヴィスは更に強く腰を押し付ける。悲鳴に聞こえる微かな叫びがジュリアスから発せられた。
根芯は融けてしまうくらい熱く、僅かな動きにも鋭敏に応える。押し当てた腰を少し揺らしただけでジュリアスは白濁して精を先端から滴らせた。細かく痙攣する足が落ち着く先を探ってクラヴィスの下腹部を何度も撫でさする。身体の中心に生まれた鼓動がその速さを増した。
「クラ…ヴィス。」
肩を辿っていたジュリアスの唇が戦慄き、喘ぎに殺されそうになりながらも言葉を吐き出す。口付けを…。意味のある言はそれだけで他は吐息に紛れ空間を隠微に濡らした。
応えようとクラヴィスが背を僅かに伸ばし顔を近づける。頬を寄せようとした刹那、彼は必要以上に重なるその場所に刺激を与えてしまった。
「…うっ!」
耐えきれず充る滾りがジュリアスの根芯から迸った。躯を駆け上がる震えに大きく背が撓り、しなやかに伸びる足が与えられた刺激をそのままクラヴィスの中心に伝えた。
「くっ…。」
腰の奥で大きな熱が炸裂した。彼もまたせり上がる精を放ったのである。
ほぼ同時に彼らは高見を極めた。がくりと落ちてきたクラヴィスを受け止め、ジュリアスは胸に渦巻く様々な想いを深い吐息とともに長く吐き出した。
四肢に満ちる倦怠を心地よいと感じながら同じように事の終わりの充足感に意識を漂わせるジュリアスを抱き寄せ、クラヴィスはその上気した頬に軽く唇を寄せた。労いと感謝をのせたそれがジュリアスに届いたかは分からない。それにこの行為にどれほどの意味があるのかも疑問であった。
躯を重ねれば何もかもが分かり合える訳でない事は知っている。けれど、それ以外の術を持たぬ未完成な自分等にはこれしか出来ないのも事実なのであった。
ジュリアスの腕が緩やかに抱き返すのを感じた時、幾枚もの扉で隔たる居室から日付が変わった事を知らせる重い鐘の音が聞こえた。不意にジュリアスが顔を上げ半ば瞳を閉じるクラヴィスをじっと見つめる。彼の視線は常に何か強い思念を伝えるらしく、すぐにクラヴィスがそれに気づいた。
「…ん?」
疑問を表す小さな音にジュリアスは柔らかな声音で返した。
「日が変わった。生誕だな…そなたの。」
「ああ…。」
そんな事はどうでも良いと間近に在る深紫が語った。
最初の頃、執拗に物を贈りたがったジュリアスであったがこの数年は特に思いつくものがなければ夜を供に過ごすだけとなっていた。だから彼も特にそれには触れぬつもりのようである。
形あるものは重すぎる。籠もる願いや想いを幾つも抱えて過ごすには、この地の移ろいはあまりに緩慢だ。それにいつか時を分かたれたのち、それらの重さはきっと懐かしさなど運ばない。優しすぎる悲しみに押しつぶされるに違いない。
けれど今宵ジュリアスが寄越した諸々は決して色あせることなく、鮮烈な色彩と彼の焼けるほども熱い心をクラヴィスの夕闇にけぶる胸の底に刻みつけたのだ。高慢にも聞こえたあの言葉の裏に潜む深い愛情を曇らせん事を自身に誓う。形のない、脆く儚くさえあろうそれこそが何よりの強さの証であると今は知り得たからであった。
いつか開くであろう聖地の門の先にある色のない世界に諦めの溜息を零す日々を捨てようとクラヴィスは微睡みに支配され薄れる意識の下で思う。手にした灯明は眩く道先を照らしている。もしかしたら灰色の夜明けにさえ鮮やかな色を与えるのかもしれない。
胸に翳せば良いのだろう。贈られた魂の導きのままに。訪れる未来は未だ深く薄暗い帳に隠されてはいるが。
「クラヴィス…。」
彼もまた眠りの腕に抱き込まれようとしているのか、辿々しい言い回しでジュリアスが話かける。
「今宵、天には無数の星が…流れている。せめて…何か願いをかければ…良い…。」
言い終わらぬうちに大空の瞳が目蓋の内に隠された。既に聞こえてはいないかもしれないその者の耳元に囁きが返される。
「星には…願わぬ。」
---叶えるのは…お前でしかないから…---
人の世の吉凶も願いも憂いも善も悪も。天上を駆ける流星は全てを包み、大地の果てに向かい消えていった。
了