*COMET*
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この世にもし神と言われる全能の象徴があったとして、その名は神でなくても構わない審判でも裁きの手でも。その存在が善悪を見極め善には慈愛を悪には償いを与えるならば、今まさにそれが天上から己に向かい下るのだとクラヴィスは純白の布に置く両手を固く握りしめた。目蓋を閉じ、その裏に裁く者の姿を描く。澄んだ瞳を縁取る黄金の睫が光りを弾くの思い浮かべる。美しく尊厳を湛え、そして悪者を貫く断罪の眼差しが己を捉える様を。影に身を隠す悪しき愚者はきっとひとたまりもなく焼き尽くされるのだろう。塵ほども価値のない罪人は跡形もなく燃えて朽ちるのだ。
「同じ言葉を何度言ったかしれぬ。しかし、そなたに改める気など無かったと言うことか…。」
ジュリアスの声はどこかまでも静かに流れる。
普段宮殿や執務室で彼の語る厳格な物言いを聞くにつけ、その声音を冷たく激しいと感じる者は多い。余程身近に在る従者にしても受ける印象は大差ないかもしれない。だが纏う守護聖の鎧を取り払ったジュリアスと言葉を交わした者なら、彼がいかに柔和で時として甘い声で話すのかを知っている筈である。残念ながらそうしたジュリアスと同席する機会は滅多になく、聖地にあっても数人を数えるにすぎない。
「何事かが起こるたびに、全てを一人で収めようとする。この世に…誰も必要ではないとしか思えぬ。」
『恐らく…私も…。』
続けようとした最後は放たれず、ジュリアスはそれを飲み込んだ。喉元から胸に落ちた一言は鉛よりさらに苦く、耐え難い重みを伴い体内に沈んでいった。どんなに分かり合おうと願ったところで所詮互いは異なる人格を有する他人でしかないのだと、自身の言葉が抱き続ける望みをあざ笑う気がした。
常に万人に与えるのみを責とする自分がただ一人から与えられたい。宇宙に在る全ての者を無償の愛で包む自身がたった一人から愛されたい。離れたくない、なれるものなら一つに溶け合ってしまいたい。それらは守護聖にあるまじき望みである。
他者に壊されるなら如何なる手段でも護るだろう、しかしそれを無惨に踏み散らそうとしたのはクラヴィスなのだ。
それが彼の切なる願いなら…。
最後まで彼が振りきれなかったのはこの一点であった。
「この地から出て行きたい…そなたの願いは知っている。あの者の所在が分からず、今はさぞかし残念に思っているのだろうな。」
皮肉かと思った。凡そジュリアスから発せられるとは信じられぬ言い回しである。敢えて顔を見ぬようにしたお陰で彼の真意が図れなかった。物静かな声なだけにかえって含む感情がわからない。だが少なくとも好意を向けられたわけではない。あるのは嫌悪。それ以外は無いのだろう。
彼らしからぬ、どう聞いても相手に敵意を含む言葉を吐くほどジュリアスは己を憎んでいるか、顔を見るのも汚らわしいと感じているのだ。そうに違いない。次だろうか。次にこそ最後の一言を投げられるのかと怯えたように先を伺う。
「そなたの望みが叶わなかったのは事実だ。ならばその現実を受け宇宙がその責の終了を告げるまで…、この地に留まり己の職務を全うするのだ。」
言い含めるよう発した言葉の最後は心持ち力が込められていた。そうせよ、と命じられたのである。ジュリアスが語り初めてからこれまでクラヴィスは一切返答をしていない。拒否しているのか、声すら上げられぬのかは窺いしれない。そのどちらであっても終いまで伝えようとジュリアスは意を決する。既にここまで進めてしまったのだ。後へ引くも中途で幕を引くもしたくはなかった。
彼にしても安穏と話し続けてきたわけではない。ここで一度間をおいたジュリアスが一息をつき、知らぬ間に入っていた肩の力をゆっくりと抜いた。
「クラヴィス。」
思わぬ間合いで名を呼ばれ、今度は肩がぴくりと跳ねた。
「私はそなたの凡そ相手を思わぬ振る舞いに怒りを覚え…呆れ果てた。過去に執着するのは、そなたの勝手であろう。それを悔いるのも…だ。私は…それに関して口を差し挟むつもりも無い。ところが、そなたは私に何をした?」
辱めを…。言わんとしたそれは声にすらならなかった。喉の奥が硬直し何かを発することも出来ない。無理に絞り出そうとすれば引きつった呼吸音が細く漏れるだけであった。
「それをしておきながら…そなたは何と言った?」
赦すなと…。
胸に何かが厚く粘り、吸い込もうとした大気が遮られる。握りしめる両の掌に冷たい汗が溢れた。
「あれが、偽らざる願いなら…。」
下ろした目蓋に更に力を込める。
「望み通りにしよう。私は、お前を決して…。」
内耳が痺れじんとした耳鳴りが広がる。ジュリアスが次ぎを発する。望みのままに…、確かにそう言った。己が願ったその言葉がジュリアスの形の良い唇から放たれてしまう。そう思った途端、クラヴィスの全身が震えだした。下腹に力を入れ、何とか押さえようと無駄な足掻きを試みる。が、それは真実無駄でしかなかった。
「………。」
きっとジュリアスは告げた筈だ。耳鳴りがして聞き取れなかったが確かに言ったに違いない。そうしてくれ…と懇願したままを。
それが自身の選んだ結果であった。これで何もかもが終結したのだ。安堵の吐息をついて明日から始まる穏やかな孤独を夢見れば良いのだ。それなのに何故自分は胸に空いた虚ろを抱いて身を震わせているのだろうかとクラヴィスは口元を歪め笑みにもならぬ苦笑を浮かべた。
細かく震える肩に柔らかな掌が置かれた。それはすぐさま背に廻され緩やかに撫でる。耳元に寄せられた唇が小さく動き「クラヴィス?」と囁く。額に触れたのが唇だと理解するのに数秒かかった。軽く触れたされはあっと言う間に離れていく。離れて欲しくなかった。あと僅かで良いから触れていて欲しいと願った。だが掌は変わらず背に在り、ゆっくりと撫でるそこから暖かな日溜まりの温もりが体内に染み込むのを感じた。
薄く目蓋を開くと触れるほども近くにジュリアスの顔がある。覗き込む空色に微かな曇りも翳りもない。一心に見つめる瞳の澄んだ色は微塵の怒りも宿してはいなかった。
「大丈夫か?」
「…ああ。」
細く掠れた声がため息に紛れ唇から落ちた。
「私は・・そなたを赦さぬ。だから…。」
耳に流れ込んだ声の意味にクラヴィスは双眸を大きく開く。それが一体何を表すのか、瞬時に理解するも出来なかったからである。
続