*COMET*
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黒く薄い夜が聖地を覆っていた。執務室を後にしたジュリアスは一度車寄せに向かい、待たせてあった馬車を私邸に返した。人も車も通らぬ夜の道を彼はクラヴィスの屋敷に徒歩で行くと決めた。宮殿を出て大凡半刻弱の道のりをゆっくりと歩く。両側に続く木々は空に広がるより更に深い漆黒を抱き込んで、人の足を拒んでいるようである。内に在る伺いしれぬ何かが時折ざわりと鳴って、不敬にもその領域を侵そうとする者を威嚇する。
遠く遙かな梢で夜鳴きの鳥が一声を上げる。呼応して枝が重く低い音を発てる。未だ天に月の姿はなく、細かな煌めきだけがうるさいほどに瞬き続ける。その時一筋の尾を引く星が大きな弧を描き宙を横切った。
夕刻の研究院で職員の一人が語った「帚星」の話を思い出す。今宵主星系の星々の空を流れる流星の言い伝えであった。とある惑星では民の願いを叶える「願い星」と呼ばれ、別の惑星では災いを運ぶ「帚星」だと忌み嫌われると言う。年若い職員はにこやかに笑いながら同じ星でも観る者によって様々な言われようをするものですねと話していた。
明けの一等星が空の高見に姿を見せるまで、幾つもの流星が見られるはずである。ジュリアスはそれらが自身とクラヴィスに何を運ぶのかと、薄墨の天を仰ぎ一人想った。風が渡ったわけではない。けれどまるでジュリアスの胸中を察するかにまた森がぞわりと啼いた。
あの甚だ納得の出来ない調査の結果に関して、その後交代の為にやって来た職員をも含め様々に討議が行われた。けれど何一つ科学的考察も当てはまらず、誰もが頷く論旨もえられずに幕を閉じた。一体クラヴィスが目にしたのは何だったのかと口々に話ながら退出の準備を始めた職員の一人が何気なく洩らした冗談が妙にジュリアスの心に残っただけであった。
「そう言えばクラヴィス様が惑星に降りられたのは例の忘れじの扉が開く頃じゃないか?」
受けた同僚が呆れた風に返していた。
「星によって暦が違うが大体その頃だな…。まさか、君はあんな子供だましの寓話に結びつけようと言うんじゃないだろうな?」
それはジュリアスの耳にも届き、彼は何の話しだ?と訊ねたのである。
「民間の風習の一つなのですが、年に一度この世とあの世を結ぶ『忘れじの扉』が開き彼方の世界から魂が帰ってくるという言い伝えがございます。 現世で縁の深い者の元に戻って参りますそれらを迎える祭りを行う風習が各地で催されるのが丁度クラヴィス様が彼の惑星に降りられた時期だと申しておりました。」
「………。」
意外にもジュリアスがそれを真顔で受け、何か考え込む仕草をした事に職員達は大いに驚く。よもやそんな非科学的な話をジュリアスが正面から受け取ると思っていなかったからである。
ほんの僅か真剣な面もちで考えを巡らせていたジュリアスが口を開いた。
「そうだと結論づけてしまうのは短絡的すぎるとは思うが、この宇宙には我らの物差しでは図れぬ諸々もあろう。そうかもしれぬと考えるのも一つの可能性ではないかと思ったのだ。」
彼は普段の穏やかな表情に戻り自身に言い聞かせるようにそんな事を言った。職員達も成る程と顔を見合わせた。現時点ではそれを否定するも出来なかったのである。
大体において9人の守護聖が宿すサクリアが如何なる力であるのか、周囲も守護聖自身も分かってはいないのだ。如何にして宿主を決めるのか、何を基準に覚醒が起こるのか、果たして何時翳りが訪れるのか。ならばそうした言い伝えが現実に像を結ぶかもしれない。それにクラヴィスの深紫の瞳にだけ映る姿があったとしても不思議ではない。
彼の持ち得る深い慈愛に縋ってこの世に現れた過去の欠片がクラヴィスの捨てられぬ想いに呼応したと考えるのも間違ってはいないであろう。
道に点々と灯る外灯の先に微かに屋敷の灯りが窺える。もう間もなく闇の館が見えてくるとジュリアスは折り重なる枝の合間からチラチラと覗く仄かな灯りを目指した。
玄関の扉が厳かに開いた。迎える執事はジュリアスを見留、僅かに安堵し半ば困った顔を作る。朝から床につく主人の元へジュリアスが訪れた事を吉としても良いのか、はたまた難と受け取るべきか咄嗟に判断尽きかねた様子であった。その様を怪訝に思いながらもジュリアスは面会を求める。執事は少し迷い、だが結局来客を邸内に招き入れたのだった。
先を行く執事に彼はクラヴィスの所在を尋ねる。私室ならば案内は不要と述べるつもりであった。返された答えは寝室とのこと。執事は自分の答えを補い今朝から主人は加減が悪いとそう言った。言った後で、もしジュリアスに具合を問われたら詳細を明かしても構わぬのだろうかと再び逡巡する。しかし首座の守護聖はそうか…と言ったまま口を閉ざし、それ以上何も語らぬまま寝室に続く長い廊下に靴音を響かせたのであった。
寝室の扉に、とりあえずのノックをする。答えは返らない。静かに扉を開き室内に歩み入る。相変わらず明かりを落とした部屋の奥、寝台の中に居るはずのクラヴィスに一応の声をかけてみた。
「クラヴィス…。」
「……。」
「具合が悪いと聞いた。」
ジュリアスの発てる衣擦れの音だけがさらさらと聞こえるのみ。天蓋に掛かる帳は下ろされてはいなかった。サイドテーブルに置かれたランプの明かりの先にこちらに背を向け横になるクラヴィスが見えた。
椅子を引き寄せ寝台のすぐ脇に置くとジュリアスは軽く腰掛ける。その時彼の頬がふっと緩んだ。広い寝台の端に寄り、背を丸めるようにした姿から確かに加減が悪いのだと分かる。小さい頃と少しも変わらぬと思った。執務に上がらぬ幼い闇の守護聖の病欠を聞き屋敷を訪ねると必ずクラヴィスは今と同じに自分の身体を抱き込むようにして眠っていた。
「クラヴィス…?」
今一度呼んでみる。
頭が微かに動いたのかシーツに広がる黒髪がさらりと流れた。だが答えはない。
「眠っていないのだろう?」
「……。」
「調査の結果を伝えに来た。そのまま聞いていれば良い。」
ジュリアスは声を落として詳細を伝える。その内容さえ違えば、まるで小さな子供にお伽噺を語るような穏やかな物言いであった。
如何なる方法を駆使しても探す場所も求める者も見つけられなかった事。遙か昔、彼の惑星にはそれと思える場所が在った事。職員の一人が洩らした民間の風習に至るまでジュリアスは何一つ隠すでもなく全てを語った。
「そなたも信じられぬだろうが、これ以上は分からなかったのだ。」
伝えた結果に対してもクラヴィスからは一言もなかった。
話し終えたジュリアスは一度深いため息を吐いた。ここまでを述べる彼は明らかに守護聖の面を作っていた。ただこの先を話すのは光の守護聖ではない。今、個人のジュリアスに戻り続けたものかと彼は大層迷っていた。そして数分ののち彼は語るべきでないと結論を引き出す。
「もう一つ…話があったのだが。それは日を改めた方が良いだろう。」
椅子から立ち上がると静寂を孕む室内の空気がほんの僅か動いた。
上質の絹が擦れる柔らかな音が遠ざかる。クラヴィスのすぐ傍にあった温もりが薄れていくのが分かった。扉まであと数歩という辺りで背後から低い声が彼を呼んだ。
「…ジュリアス。今…聞かせてくれ。」
毛足の長い絨毯に収まらなかった仄かな靴音が室内を戻ってくる。今一度椅子が引かれる。今度は深く腰を掛けるジュリアスから先ほどより更に押さえた声音が発せられた。
「私は…そなたの身勝手な振る舞いを赦すつもりはない。」
背をむけたままで聞くクラヴィスの肩が小さく揺れた。
続