*COMET*

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何処がどうおかしいのかと問われてもハッキリとは答えられぬ程の事である。
最初に気づいたのが何時かも判然としない。
それでも一体いつの事かと食い下がられれば、供に過ごした週末の日か…。
いや、短い昼の休みに庭園をそぞろ歩いた折りかもしれない。
だいたい「変化」に乏しい男である。誰も気づかずとも不思議はなかった。
感情を出さぬばかりか、その物言いもボソボソと聞き取りづらいことこの上ない。
楽しいのかつまらぬのか、喜びを感じているのか怒りを抑えているのか。
普段言葉を交わす同僚でさえ、さっぱり分からぬのが常である。
それでも偶に口元を緩めたりするが、大概は投げた揶揄に相手が窮したか焦れたりするの
を目にした場合に限られていたりする。
一筋縄ではいかないのである。この闇の守護聖は。



「どうかしたか?」と声を掛けたのはこの日何度目かとジュリアスは考えた。
最初は「別に…」と返された。
しかし一度気になると事が解決するまで引かぬのがジュリアスである。
長い朝議ののち、執務室に戻る道すがら再び同じ問いを送った。
答えは同じであった。
クラヴィスは振り返りつまらなそうに「何でもない」と答えた。
その後も顔を合わせる度に同様の問いかけを行った。
そして今である。
長椅子に寝そべっていたクラヴィスが恐ろしくうんざりした顔でジュリアスを一瞥し、目線はそのままで口を開いた。
ただ、今回はそれまでと違う返答が投げられた。
「一体全体、何が『どうした』なのだ。」
言っている意味が分からぬ、そんな訳の分からぬ問いに答えなどかえせないとクラヴィスはすこし怒った風に言ったのち、顔を背けてしまった。さもありなんとジュリアスも僅かに自身の執着を省みる。
でも気になってしまったのだから仕方がない。自分が聞かずにはおれない質だとクラヴィスも知っているに違いなかった。それに何の謂われもなく執拗に問いかけているのではない。確かに「おかしい」と感じた結果なのである。
ジュリアスはどう言ったものかと頭の中でそれまでの経緯を整理した。



クラヴィスが何処か果てしない彼方に心を彷徨わせるのは珍しい事ではない。
それが執務中であろうとも会議の最中でも時によっては二人して過ごす折り、不意に会話が途切れたとその顔を見ると大概彼の瞳はどこか遠くを見つめている。肉体は確かに目の前のカウチに座しているのだが、既に精神はジュリアスの手の届かぬ辺りに行ってしまっている。
もちろん声を掛ければ即座に戻っては来るのだが、それでもどこかあやふやな答えを返すところをみるとその一部は未だ知らぬ虚空に在るのだと思えた。嘗てはその態度を糾弾し改めよと声を荒げたりもしたが、今は好きなようにさせている。きっと自分にも他者にも見えぬ何かが彼の深く闇を湛えた瞳には映っているのだろうと、ジュリアスは諦めたのである。
それにそうしている時のクラヴィスは普段決して見せぬ表情を作ることがあり、流れる黒髪に囲まれた面に不意に浮かぶ微かな笑みや気づかぬくらいの驚きを眺めるのはジュリアスにだけ許される楽しみなのだった。揶揄を含む辛辣とも取れる言葉を放つ薄い唇が仄かに緩むのを見た途端、胸がドキリと鳴る事さえあった。
ところがこのところクラヴィスが意識を放つ先が普段と違うと思えてならない。しかもその頻度が尋常ではないのだ。まさか四六時中とは言わないが、昼の休みに誘い合って庭園の奥を散策している最中にも少し後ろを歩く足音がパタリと途絶え、振り返えれば立ち止まり木々の梢の先に視線を放つ姿がある。
それだけなら「おかしい」などとは思わない。ジュリアスに怪訝な顔をさせたのはその時のクラヴィスの様子である。彼の面に降りるのが、鬱々とした影であったり事も在ろうにあからさまな沈痛であったのだからジュリアスでなくとも声を掛けたくなるに違いない。単純に心配だと思ったから「どうしたのか?」と訊ねたのだ。
クラヴィスの夕暮れを思わせる瞳に映る諸々について敢えて問うたことはない。それが吉事であり凶事であっても元来他人にそれを知らせようと言う気がないクラヴィスである。偶に語ったとしても謎かけのような至極抽象的な物言いで説明され、結局ジュリアスは語る真意を理解するに至らないのだった。
だが今回は何が見えているのかが気になると言うより、如何なるものが彼にそんな顔をさせるかが気がかりなのだ。何を見て、何を思いそんな悲しげな顔をするのか。知ったからといって彼の憂鬱を自身が収められぬかもしれないが、知らずに見過ごすなどジュリアスにはできない相談であった。
何と言えばよいのだろうか…。
彼は頭の中に浮かんでは消える言葉に手を伸ばすが、それは直ぐに離されてしまう。結局湾曲した言い回しより率直な方が自分らしいし、なまじ使い慣れぬ表現など向ければ逆にクラヴィスの誤解を招く怖れもあった。だから敢えて単刀直入に尋ねる。しかしその眼差しは鋭くクラヴィスに現れるかもしれぬ微かな変化をも見落とすまいとしていた。
ゆっくりと口を開く。
「そなたの様子がおかしいと思えてならぬ。なにか心配事があるなら、聞いてやるしかできぬのは分かっているが…。」
私に話してみてはくれぬか?
ジュリアスが最後に告げる筈の頼みを発する前にクラヴィスから信じられぬ答えが返った。
「五月蠅い!!」
彼が声を荒げるのは珍しいが決して無いことではない。時にジュリアスの執務に対する頑なな態度を責めたり、その手に余るとしか思えぬ重責を一人全うしようと自分の許容さえ忘れる悲愴な姿に放たれたこともある。ただ、これがジュリアスにのみ現す様であるから他の誰もが知らなくても当然なのであった。
それでもまさか怒鳴られるなどとは思ってもいなかった筈で、ジュリアスは暫しその場に張り付いたかに動きを止めた。



彼が受けた怒声に吃驚していたのはほんの数分にも満たなかった。反対にジュリアスから声が上がる。
「五月蠅いとはどういう了見だ!私はそなたを心配して尋ねたまでだ!!」
それが悪かったのである。クラヴィスが尋常ではないと分かっていながら返した荒々しい詰問に、あの物静かな闇の守護聖の理性が消し飛んだのだ。
二人は少し距離を置いて顔を合わせていた。クラヴィスは大股に近づくとジュリアスの胸ぐらを掴む。続けて起きた信じられぬ出来事に再びジュリアスは口を噤んだ。クラヴィスの怒りは相当なものであったのだろう。掴んだ布をぐいと引き寄せ鼻先が触れるほども間近で睨むその瞳の中に、青白い炎に似た冷えた怒りが在った。
「話せば全てが解決するのか?!お前が何もかも収めてくれるとでも?」
小馬鹿にしたように吐き捨てると二の句が継げぬジュリアスなどお構いなしに先を続ける。
「何でも分かった風な口をきくな!お前に…何が分かると言うのだ。」
掴んでいた両手が不意に解けた。
言いながらクラヴィスは自身の馬鹿げた行動に気づく。一体ジュリアスが何をしたのかと己に問う。何もしてはいない。この数日彼の目から見ても不審だと感じる様を露わにしていたのは自分自身であり、胸の辺りに鬱積する鉛の様な悔恨と嫌悪は己の愚行の結果でしかなのである。
ただジュリアスは彼の身を案じて話してみろと言っただけだ。しかしそれを言うつもりは無かった。ジュリアスに語ると言うことは、これまで二人で過ごした時を無に返すことになる。そしてそれ以降、確かにあると信じていた供に生きる道を閉ざす事に他ならないのだ。
解けた指が暫し宙を彷徨い、だが行く先を見いだせぬままにダラリと落とされた。
「すまなかった…。」
それだけを言い置きクラヴィスはその場を後にした。



その日以来、闇の守護聖は宮殿に姿を見せぬようになった。



週末の遅い時間そろそろ退室を考えていたジュリアスの元を水の守護聖が訊ねてきた。用件は聞くまでもないことで、案の定週の頭に一度顔を見せて以来サッパリと姿を現さぬクラヴィスの話である。
朝、宮殿に上がる前と退出した帰りに私邸を訊ねても会わないどころか門前払いなのだとリュミエールは困り果てた顔で言った。
当然ジュリアスもそんな様子は知っている。知ってはいるが彼の場合はそのまま放置してあるだけなのだ。
諍いのあった翌日に屋敷を訊ねたが玄関に出てきた執事から誰とも会うつもりはないと伝え聞き、その後も何度か使いを送ったが戻る返答は同じであった。一度こじれると彼の者の機嫌をなおすのは難しい。様子をみるのが適切なのをジュリアスは熟知している。だから敢えてそれ以上の行動を起こさずにいた。
しかし考えてみればいつまで待てば機嫌が直るのかも分からず、このままにしておいても良い筈もない。ジュリアスはリュミエールに明日の土の曜日に様子を見てくると伝える。無理に執務に就けと言うつもりはなく、ただどうしているのかを確認するだけだと困った風に笑ってみせた。
この時点で残念ながら周囲の誰もがクラヴィスの真意が分からずにいた。ジュリアスもあの言い争いの当事者でありながら、その胸の内に隠すものを見抜いてはいなかったのだ。
ジュリアスにとってもクラヴィスにとってもこの数年は互いが傍にいるのが当たり前の存在になっていても不思議ではない。ジュリアスはそれほど深刻な話だなどと考えもしなかっただろうし、逆にクラヴィスは彼にしては珍しく熟考しそのお陰で身動きがとれなくなっていた。近くに居るから大概の事は分かり合えると思うのは誰でも同じである。しかし、その思考の裏に潜む罠に気づくのは事が起きてからと決まっているのもまた事実なのである。
ジュリアスはリュミエールに告げたように翌日の午後も早い時間に闇の館を訪ねた。今日はいくら執事が済まなそうにクラヴィスの意志を伝えても引かぬ覚悟であった。誠に本意ではないがいざとなったら強引にでも邸内に入るか、それが不可能なら屋敷の裏手からクラヴィスの私室に続く小径から行こうと決めていた。
そんな事を考えていたからかもしれない。玄関にジュリアスを見留た執事は彼の放つ威圧感に半瞬臆したほどであった。ところがそんな決意はあっさりと覆された。執事は深々と礼をとり、どうぞとジュリアスを迎え入れたのだった。午後の陽光が入らぬ長い廊下を進みつつ、どう切り出したものかと迅速に思考を動かす。
等間隔に灯された仄明かりが薄闇に点々と影を作る。彼らの発てる乾いた靴音もその影に吸い込まれ消え失せ得た錯覚を呼ぶほど、邸内はいつにない静寂に沈んでいた。





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