*夏の幻想-maboroshi-*

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「・・・え?」

見開いた真っ青な瞳がパチパチと瞬いた。
耳に触れていた指が今、自身の顎に掛かりそっと引き寄せようとしている。
黒の麻を纏う肩越しに見える木々の合間から夏の午後の光がこぼれていた。真昼の頃よりは幾分色を落としたそれは、
鮮やかな緑の葉先が揺れるたびにチラチラと広がっていく。道に黒い影を作る林の奥から、この季節が盛りを過ぎた
のだと告げる蝉たちの声が聞こえた。
頬に触れたのが唇だと分かった。クラヴィスが口づけようとしている。
こんな明るい陽の下で。誰も来ないのは確かなのだが此処は往来の、しかもその真ん中で。
普段ならハッキリとした口調で拒否を言い渡すか、胸に腕をついて押し返すか。
いつものジュリアスなら多分そうしたに違いない。
ところがその時ジュリアスはふっと微かな笑みを浮かべ瞼を閉じたのだ。
あの柔らかく、少しひんやりとした唇を迎えるために。



きっとこれは夏の陽が作る幻想だとジュリアスは思った。
---そうに決まっている---
何故なら、今朝から起こった全てがいつもと違っていたからだ。
強い日射しが道の先に在るはずのない像を結ぶのと同じまぼろしなのだと、そう思った。

++++++++++++++++++++

朝食を終えて自室に戻ったジュリアスが何気なく見た時計の針はまだ八時前を指していた。
目覚めた時よりずっと高く昇った太陽の熱はほんの少し前より室内の気温を高めてはいたが、湿度が低いために暑いと
は感じない。むしろ爽やかな清々しい朝のひとときを作っていた。
さて、何をしようかといった風にジュリアスは室内を見回し、とりあえずテーブルに置かれたコーヒーを味わおうと静
かな身のこなしで椅子を引いた。
日の曜日の朝を一人で過ごすのには慣れた筈だった。この数週間はずっとそうであったからだ。
いつも此処にいる人が居ないのは分かり切っていた。それにもし居たとしても、まだこんな早い時間にその人が起きて
いるのも珍しい。
それでも何か物足りない。つまらないと言うより少し寂しいと感じてしまう。
習慣になってしまった休日の在りようが僅かに違っただけで、そんな風に思ってしまう自分がおかしかった。予定では
今夕には戻ると知っていながら、気が付くと時計に視線を向けてしまう自身の行動に呆れていた。
木の曜日の夕刻にクラヴィスはフラリと光の執務室を訪れ、一言「行って来る」とだけ告げると女王の随伴として主星
からほど近い惑星に降りたのだ。
夏と呼ばれるこの時期には以前から「星」や「夜空」に祝いを捧げる祭事が多く行われている。
今までもそうした行事にクラヴィスが招かれる事は珍しくなかった。それは新しい年を迎える祝いの席にジュリアスが
招待されるのと同じ意味合いである。
しかしそうだとしてもこれまでは余程大きな祭事か或いは古来からの風習として守護聖を招く習わしでもない限り、そ
う頻繁に彼らが聖地を空けるわけではなかった。
ところが当代の女王はそうした席に自ら出向くのが好きらしく、その際に守護聖を伴うのを大変好ましく思っているよ
うである。
その為、先月の半ばから週末になるとクラヴィスは時に一人で、または今回の様に女王の供として外地に赴く頻度が驚
くほど増えたのである。
他者に語れば「まさか!」と目を丸くし、続いてとても信じられないと返されるに違いないが、ああ見えてもクラヴィ
スは慣れぬ場所では決してくつろげぬ質であり、枕が変わるとなかなか寝付けなかったりする。これはジュリアスだけ
が知る彼の一面であるから、平素は執務室はおろか時には庭園の木陰ですら気持ち良さそうに寝息を発てる姿を見慣れ
た者には冗談としか受け取れないかもしれない。
出立の直前に顔を合わせたクラヴィスは続けざまの祭事は大変だろうと言ったジュリアスの言葉を受けて「流石に参っ
た」と苦笑を漏らしていた。
だからもし夕刻に戻って来たとしても自分を訪ねるなどせず私邸で休むようジュリアスも言い渡したのだった。
でも、それでいてクラヴィスの帰る時間が気になって仕方がない。
それは彼が執務室から退室する間際にジュリアスに言った一言があるからなのである。
扉のノブに手を掛けながら思い出したように振り返り、クラヴィスは少しすまないそうな顔でこう言った。
「明日はお前の生誕の日なのに・・な。」
勿論ジュリアスはそんな事は気にするなと言ったし、実際子供でもないのだから今さら誕生日でもあるまいと笑って見
せた。
その時クラヴィスも「まぁ・・そうだな。」などと答えてはいたが、もしかしたら戻ったその足で此処に来るつもりな
のではないかとジュリアスは気に掛けているのだ。
それは嬉しくもあり、心苦しくもある。
そんな事を考えながら手にしたカップをテーブルに置き、またジュリアスは時計を眺める。
それはこの部屋に入ってから半刻が過ぎようとしていると告げていた。



扉を叩く音にジュリアスは我に返る。そして心底驚いた顔をし、その方に視線を向けた。
軽く二度、まさにおざなりに扉をノックするそれが誰であるのか瞬時に分かったからである。
入室の返事など待たずに扉が開いた。思った通り、入って来たのはクラヴィスであった。
取り次ぎもせずに此処までやって来る者など彼以外にはありえない。それはいつもの事であるから驚くいわれなどあり
はしないのだが、彼が戻るのは夕刻である筈でいったい何故こんな時間にクラヴィスが自分を訪ねるのかが理解できな
かった。
当然ジュリアスはその何故を言葉にしようとした。が、それより先にクラヴィスが答えを寄越した。
「今日は正式な行事はないと言われたので、夕べ晩餐が捌けた後にシャトルで先に戻ったのだ。」
ジュリアスの疑問に対する的確な答えであった。
「陛下にもご了承いただいている。」
更に続く言葉がより完璧に全てを伝えた。
そうか・・と頷くジュリアスに軽く笑ってみせながら、クラヴィスは彼の定位置であるカウチにゆっくりと腰を下ろし
た。下ろしながらジュリアスに此方へ来いと手招きをする。それに引き寄せられるかにジュリアスもその横に腰掛ける
のだった。
指が大きく波打つ巻き毛に触れる。触れる一房を長い指に巻き付け離す。それはふわりと肩先にもどり、射し入る日射
しにきらめいた。
細い指先がまっすぐな髪を撫でる。撫でて顔にかかるひとすじを後ろに梳き流す。それはさらりと背に落ちて、音もな
く揺れた。
目線を合わせ密やかな声音で言葉を交わした。
「お帰り・・・。」
「・・・ただいま。」
スミレの花弁をとかした瞳に蜜色の髪が映り、青空を宿した瞳に墨色の髪が見えた。
不意にクラヴィスはジュリアスの膝に頭を乗せて、カウチにごろりと横になった。
腕を伸ばし指に絡む髪先を弄ぶ。
「久しぶりだ・・・。」
唇からこぼれ落ちた呟きを拾い、ジュリアスは穏やかな笑みを浮かべた。
まさか会えるとは思っていなかった相手が現れ、こうして二人で朝の静寂に在ることが不思議でもあり嬉しくもあった。
何もない時が過ぎる。贅沢で少し退屈な朝の時間が流れていった。
ジュリアスは思う。恐らくクラヴィスはこのまま己の膝に頭をあずけ眠ってしまうに違いないと。
それならそれも良い。この休日は本当は一人で過ごす筈だったのだから。



ところが今にも微睡んでしまうと思われたクラヴィスが突然身を起こし、これもまた唐突と外に行こうと言い出した。
何を思いそんな事を言うのかと蒼穹の瞳が問いかける。
クラヴィスは鼻先でふっと笑い、たまには外で過ごすのも良いとは思わぬかと問い返す。
「いったい何処に行くのだ?」
「庭園に・・・。以前お前が行きたいと言ったことがあったろう?」
そんな事を言っただろうかとジュリアスは首を傾げたが、すぐに何かに思い当たり「ああ・・」と小さく呟いた。
もう随分前のことである。たしか珍しくクラヴィスが早い時刻から起き出した休日に、たまには庭園のカフェテリアに
二人で行こうかと言った事があった。
しかしそれは叶わなかった。
休日の庭園はたいそうな人出であるのをジュリアスが思い出し、そんな中に筆頭守護聖二人が揃って出かけたら周囲の
者たちに無用の気遣いをさせるからと結局日も落ちて人も捌けた頃に散策に出たのだった。
恐らくクラヴィスはその時のことを言っているのだろう。
だが、今日は日の曜日である。やはり大勢の人が庭園に繰り出しているに違いない。
「今日も・・人の出は多いだろう。だから・・。」
ジュリアスは言葉を濁す。
「嫌なのか?」
「嫌ではない。」
「それなら行こう。」
「しかし・・庭園は・・・。」
「庭園は嫌・・か?」
「そんなことはない・・。」 では行くぞ・・とクラヴィスはいつになく強引に結論を引き出し、立ち上がるとさっさと部屋を出て行こうとする。
慌ててその後を追いながらいつもと違う事の運びにジュリアスはどこか釈然としない気分で誰にともなく呟いた。
「いったい・・どうしたと言うのだろう。」

夏の一日が始まろうとしていた。





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