*SMILE*
=3=
流れていたたおやかな調べが不意に途絶えた。
「何か?」
あまりに小さな呟きであった故、リュミエールは思わず問い返した。カウチに身を横たえ深く瞑想でもするかに瞳を閉じたままでクラヴィスは同じ言葉を繰り返す。
「もう…良い。」
演奏を止めろと言っているのだと理解するのに数秒を要した。そう言うや否やクラヴィスは身体を起こし、リュミエールに退室を促した。水の守護聖の不安げな表情にクラヴィスは微かに嘆息し、別に彼に落ち度があった訳でもなく単に少しすることがあるのだと静かに告げた。
幾度も後ろを振り返りながら扉に向かう後ろ姿を見つめながら、カウチに起きあがった姿勢のままクラヴィスは額に飾るサークレットを鬱陶しそうに外し脇に投げた。支えを失った前髪が顔に掛かる。それを掻き上げもせず彼は薄暗い室内の一点に視線を止める。そこに何があるわけでもない。何もないがただそこから視線を外さずにいた。唐突と白皙に笑みが浮かぶ。自身を嘲笑する乾いた笑いが広がった。いったい自分は何をしているのかとおのれをあざ笑うそれは暫しの間消えることはなかった。
あの休日の一件以来ジュリアスとは顔を会わせていなかった。
それは特別珍しくもなく、十日や二週間すれ違いもしないことなど今までにいくらもあった。もし庭園や回廊で行き違う機会にでも巡り会えれば例え言葉を交わさずとも、それが見て取れぬくらいの笑みであろうと与えあい互いの息災を確認してきた。ところがつい数時間前、おのれは一体なにをしたのかとクラヴィスは自身に問う。
午前も終わりに近い時刻、そこは研究院から続く回廊であった。
手に一枚の紙片を持ちクラヴィスは育成のため研究院へ向かっていた。途中、吹き抜けの手前で前方よりこちらに歩を進める人影に気づく。文官を従えたジュリアスである。自室に戻るところなのだろう。彼もすぐにクラヴィスに気づいた様子であった。幾分その歩調が早まったのが何よりその心を表していた。
互いの表情が分かるくらいに近づいた時、ジュリアスは困った時に見せるはにかんだような笑みを浮かべ何かを問いたげな視線を寄越した。彼の言わんとする事など分かっていた。あの日、何故一言も置かずに屋敷に帰ったのかと訊ねたいに決まっている。それにジュリアスはそれに関して爪の先ほども怒りは覚えていない。秀麗な面に浮かんだ曖昧な笑みがそれを裏付けている。怒りどころか間違いなくクラヴィスの行為により自分を責めたはずだ。ただ二人で過ごす時を反故にしたのは自分の所為だと心を痛めたに違いない。
そんなことは分かっている。
あの時、私邸に戻ったのは自身の身勝手な感情からであり決してジュリアスに否があるわけなどないと強く言わねばならぬのだと頭では理解していた。そこまで分かっていながら己のとった態度は一体なんだったのかと薄闇の降りる室内でクラヴィスはまた深いため息を落とした。ジュリアスの投げる真っ直ぐな視線から自身のそれを外し、こともあろうに顔を背けたのだ。視界の端にとらえたジュリアスの顔から守護聖の面が見る間に剥がれ、不安げな心許ない表情が現れた時、自分がどれほど彼を傷つけたのかを知りクラヴィスは心から悔やんだのだが。一度投げてしまった賽は二度と元には戻せない。
すれ違う刹那、顔を伏せたまま視線のみでうかがったジュリアスはほんの数秒前のそれが嘘であったかに常と変わらぬ毅然とした面でキリと前を見つめていた。自身の心の揺らぎや受けた傷を誰にも知らしめぬよう、彼は瞬く間にそれらを自身の奥深くに沈めたのである。そして仮面を着けたのだ。弱く脆い心を隠す守護聖の仮面を。いつしかそれこそがジュリアスの真実を隠してしまうと怖れ、ことある毎に彼の纏う殻をつき崩そうと勤めてきたクラヴィスがあろう事か最も鋭利な刃先を向けてしまったのだ。
「謝るのは、わたしの方だ…。」
薄い唇からこぼれた悔恨は室内の空気に溶け誰に届くでもなく広がっていった。
ガクリと身体が傾いだ。
カウチに身を預けたまま知らぬ間に寝入っていたクラヴィスは咄嗟に腕をつき惚けたように辺りを見回した。室内の薄暗さは変わらないものの、奥に控える者達の気配が感じられない。ノロノロと立ち上がり控えの間の様子を窺う。やはり皆退出したらしい。これは珍しい事ではなく、この執務室に仕える彼らは主の気まぐれを損なうことなく全てを整え帰路についたのだ。
窓を覆う厚いカーテンを僅かに捲り外を眺めれば、既に陽はとっぷりと暮れ庭園に続く小径に転々と外灯の明かりが灯っていた。振り返りデスクを見るとポツリと一つ鍵が置かれていた。長い指がそれをつまみ上げる。もう、帰ろう…と声に出さず彼は言う。もうする事もなく、自分が此処にいる理由もない。緩やかに裾を引いてクラヴィスは戸口に向かった。少し肩を落とし、疲れたように振り向き室内を一瞥したのちノブに手をかけ、それを静かに引いた。
音もなく開いた扉の先には夜の降りた廊下があるだけの筈だった。
しかし其処で彼を待っていたのは思いも寄らぬ人であった。正確に言えば、決してジュリアスは待っていた訳ではない。彼もまた屋敷に戻る為に執務室を出て、たまたま闇の執務室の前を通りかかったのであった。そこに扉が開いたのだ。当然ジュリアスは驚き立ち止まる。だが薄闇の中でも分かるほどクラヴィスは仰天したのであった。肩がビクリと跳ねた。そしてジュリアスを前に瞠目したまま彼は動きを止めてしまった。どうして良いか分からなかったに違いない。
両者の間に音のない空間が生まれる。互いを凝視したまま彼らは微動だにしない。いや、出来なかったのだ。真昼の回廊で自分から顔を背けたクラヴィスに何を語れば良いのか、自身の胸に在る感情をジュリアスにどう伝えれば良いのか、どちらも喉元にあるそれを形に出来ず立ちつくしていた。その静寂は痛いほどの緊迫を孕んでいた。破れば保たれた均衡が崩れてしまうような。
「クラヴィス、私は…。」
いたたまれずに口を開いたのはジュリアスであった。彼が堪らず一言を発したのは見つめ合ったまま埒のあかない状態に見切りをつけたのでもなければ、痛みすら感じる静けさに耐えられなくなったからでもない。
彼の目の前で自分を凝視するクラヴィスが実は先に何かを言おうと息を吸い込み、ところが口の端まででかかったそれを飲み込んでしまったからであり。しかもその彼の緊張に強張った面が苦しげに歪んだからであった。まるで鉛を飲み込んだとでもいうように。
「私は、そなたに謝らねば…。」
ところがそこでジュリアスの言葉は途切れる。遮ったのはもちろんクラヴィスである。彼はそれが続くのを怖れたかに一歩後ずさり明かりを落とした室内にもどろうとした。今開いたばかりの扉を閉じようとしたのだ。
「クラヴィス!」
咄嗟のことにも関わらずジュリアスの動きは素早かった。閉じかけた扉に身体を当て押しとどめ、両足に力を込めて押し戻そうとした。
「いったいどうしたのだ。何か言いたいならここで聞こう。」
口調こそ尊大であった。だが、そこに響くのはジュリアスの願い以外の何物でもない。
何故自分を避ける…。何故言葉を隠す…。何故心を偽る・・・。そして何を・・。いったい何を欲しているのかが知りたかった。
「話すことなど…ない。」
やはり返ったのは拒否であった。
「嘘だ!」
「嘘ではない。」
「ならば、何故私から逃げる!」
「逃げてなど…いない。」
戻るのは虚言ばかりである。
「それなら中に入れてくれ、クラヴィス。」
執務以外でジュリアスの望みを無視するなどクラヴィスには出来ない。今彼は命令しているのではない。どうか中に入れてくださいと懇願しているのだ。扉にかかる抵抗が失せた。軽く押しただけで難なくそれは開いた。
薄暗い廊下より更に濃い闇が室内を満たしていた。
そのただ中、部屋の中央で入り口に背を向けたままのクラヴィスは両手をだらりと垂らし僅かにうつむいて立っていた。廊下に点された仄明かりが開いた扉から室内に入り、黒衣を纏う背に届いていた。
「扉を…閉めてくれ。」
言われるまま、ジュリアスは堅くそれを閉じる。
そして、それに続く言葉を待った。
「お前が謝ることなど…ないのだ。」
もう、逃げ場はない。語らねば夜明けまででもジュリアスは待つ。言ってしまうしかないと諦めたクラヴィスがポツリポツリと話し始めた。
「お前が休日の朝に来客を許したことに…腹を立ててなどいない。誰かの頼みを断るなど、お前が出来ぬのを知っているからな。」
「では、どうして?」
クラヴィスの腕が上がり手のひらがハラリと揺れた。何も言うなとジュリアスを制したのだ。
「お前に否などない。謝らねばならぬのは…わたしだ。」
一度言葉を切ったクラヴィスがデスクに歩み寄る。机上にあるランプに小さな明かりが灯った。
「お前が…あの者と庭で話すのを見ていたのだ。」
午前の淡い光の中でジュリアスは来客と供に自慢の薔薇を見ていた。
居間のガラスを隔てて、クラヴィスはその様子を眺めていた。勿論、声など聞こえる訳もなく。それでも会話の内容など容易に察しがついた。年若い緑の守護聖が首座の私邸を訪れた理由は、彼の屋敷に咲き誇る薔薇が見たいといったところだろうし、出来ればその育成を教えて欲しいと言ったのだろう。幾種類もある薔薇の一つ一つを丹念に見て歩き、時折少し後ろに立つジュリアスに何かを訊ねている。
それに応えるジュリアスは彼の横に立ち、時に地面にしゃがむようにして某かを返していた。暖かな光景であった。眺めるクラヴィスも知らぬ間に頬を緩めるほども。広い庭園を子犬の如く駆け回りながらマルセルはキラキラと輝く笑顔をジュリアスに向ける。居間に背を向けている彼がどんな表情を作っているのかは見えなかったが、きっと穏やかな笑みを浮かべているに違いないと思えた。
こんな朝も良いかもしれぬと手にしたカップのコーヒーを啜りながらクラヴィスはそんな事を考えたりした。それにしてもあれほど駆けずとも良かろうと息を弾ませて先を行くマルセルを視線で追っていた時、立ち止まった少年から甲高い声が上がった。
「ジュリアス様!」
大きく花壇を回り込んだ一画に咲く大輪の白い花を見つけたようだ。その花はクラヴィスも知っていた。主星にあるジュリアスの生家から苗を持ち込みこの地で咲かせた花であった。四季のある主星と違い気候に変化のないこの地での育成には随分と苦労したらしく、たった一つついた蕾が純白の花弁を開いた時のジュリアスの喜びようは今でも眼裏にハッキリと描けるほどである。
暫しの間二人は濡れた様に輝く真っ白い花弁を見つめていた。
気の済むまでそうしていた彼らが歩き始める。今度は肩を並べゆっくりと屋敷に向かい戻って来る。
「あんなに綺麗な薔薇を初めて見ました。」
マルセルが降り仰ぎ興奮で頬を上気させ早口にそう言った。
「良ければ苗を分けてやろう。」
「ほ、本当ですか!!」
「ああ…。」
「ありがとうございます。でも、僕に育てられるでしょうか?」
「案ずるな。そなたなら育てられる。」
そう言ってジュリアスは軽く少年の肩に手のひらを乗せた。
離れた場所で見るクラヴィスに会話が聞こえた筈などなかった。マルセルの肩に手をやったジュリアスの浮かべた笑みが居間に居るクラヴィスの双眸を捉えた。視線を外せないくらい、それは彼に大きな衝撃を与えた。
クラヴィスはジュリアスの笑顔が好きだ。
休日を供に過ごす時に見せる屈託のない笑顔も、彼の気まぐれにつき合いながら仕方がないと浮かべる笑みも、唐突と唇を奪った後の照れたようなそれも、情事のあと抱き合って眠りに落ちる刹那に現れる幸福に満たされた微笑みも。何もかもが愛おしく、それに出会うことがクラヴィスの至福である。ジュリアスがいつも笑ってくれたらと望み、その為なら如何なるものをも与えたいと願うのである。
「あの時、お前があの者に向けた笑顔は…。あれは、わたしには無理だ。」
それが悔しかった…。
机上に置かれた手のひらが堅く握られた。
幼くして聖地に召されたジュリアスには得られなかった家族への憧憬がある。そんな話は一度として彼の口から語られなかったが、同じ時を長きにわたり過ごしたクラヴィスには十分すぎるほど分かっていた。彼がマルセルに見せた笑顔は親や兄弟に向けるそれであった。自身を慕う年少の守護聖の背後に決して会うことの叶わなかった幼い兄弟の姿があったのだ。それだけはどんなにクラヴィスが望んだとしても与えられぬものである。
「わたしには、あの笑顔はやれない。わたしは、お前の家族ではないから…。」
大きく一息を吐き、彼は静けさの中でも聞き取れぬ声音で謝罪を述べた。
「済まなかった…。」
自分の身勝手さと、浅はかな振る舞いと、傲慢な願いと、醜い嫉妬を詫びた。
この一言を最後にクラヴィスは唇を噤んだ。もう、話すべきは何もないと彼の背が語っていた。背後に感じるジュリアスの気配が動くのを察して、クラヴィスは終わったのだと悟る。彼は理にかなわぬを是としない。それは自身にも他者にも同じだ。クラヴィスが行った数々の愚行は彼が最も嫌う行為に他ならない。赦されるものか…とクラヴィスは胸の内で繰り返す。言えば必ずジュリアスは己の元を去る。しかし言わずにいれば更に彼を傷つける。道は一つしかなかったのだ。
扉が開かれ、ジュリアスが遠ざかり、再び閉じるのをクラヴィスは待った。
ある日奇跡のように繋がった心はやはり儚く終わるのだ。明け方の夢が不意に途切れるのと同じように。いや、終わるのではなく己がその細い糸を断ち切ったのだ。昼間この部屋で彼が浮かべたより遙かに痛ましい笑みが刻まれた。悔恨と嘲笑の入り交じった悲しみに支配された微笑であった。
室内の空気が揺らめき、靴音こそないが確かにジュリアスが動く気配がした。ところがそれは遠ざかるのではなく、クラヴィスのすぐ後ろで止まった。背後から身体を抱かれ、突然の事にクラヴィスはただ全身を堅くするしかなかった。耳元に声がした。
「そなたは…馬鹿だ。」
どこまでも柔らかく慈愛に満ちた声音であった。
「馬鹿馬鹿しくて、何か言う気にもならぬ。」
デスクに在る握られた手をそっと包まれ、クラヴィスは少しだけ身体の力を抜いた。
「子供でもあるまいし…。」
背に触れる温もりから細かな振動が伝わる。ジュリアスが笑っているのだと思った。
「人には出来る事と出来ぬことがあるのだ。」
分かったか…。
「ああ…。」
やけに素直に応えるクラヴィスが可笑しくて、ジュリアスは肩を震わせた。
ジュリアスが笑っている。零れるほども。クラヴィスにだけ見せる笑顔で。彼は全てを赦していると言っているようであった。
「それに…。」
言いかけた言葉を切り、彼はクラヴィスの肩越しに唇を寄せる。僅かに躊躇ったのち、クラヴィスも身体を返しそれを迎えた。
紡がれなかったそれは徐々に深くなる口づけを交わすジュリアスの胸の底に沈んでいった。
「それに…いつかそなたが家族になれば良い。」
それが彼の願いであったのか、それともクラヴィスに向けた慰めだったのか。舌先を絡めあい、吐息を分かち合いながらジュリアスは一度だけ切なげに眉を寄せた。
いつか…傍に居るのが当たり前と思える程互いが近くに在り、クラヴィスを家族と呼べる日まで同じ時を過ごせる保証などないのを彼は知っていたから。伝えてしまうのを怖れたのだろう。伝えて、それが現実の風に脆くも崩されるのが怖かったのだ。
唇を求めあう濡れた音と高まる熱が冷えた室内に充ちていった。
厚い帳の外、宙には今宵も青い月が昇る。
月光は冴え冴えと聖地を照らす。
夜はそうして静かに更けてゆくのだった。
了