*SMILE*
=2=
来客を玄関まで送り自室に戻った時そこには誰もいなかった。寝室にも、寝乱れた寝台の中にも。この屋敷でクラヴィスが好む場所などあまりに在りすぎて咄嗟には思いつかない。それに彼は館のあるじであるジュリアスと違い、まさか…と思う場所にいたりする。例えば庭の裏手に僅かに並ぶ立木に凭れ、飽きもせずに空を眺めていた事もあり。そうかと思えば書斎の隅にある古びた椅子が気に入ったと休みの午後を二人してそこで過ごしたこともあった。
今日はどこなのだろうとジュリアスは私邸のあちこちを頭に描きながら、とりあえず居間にむかった。居間の表に張り出したテラスで中庭を見る姿がふと浮かんだからである。しかし其処にも思う姿はない。ただテーブルの上に彼の使うカップが一つ置かれているだけであった。いったい何処にいるのかと踵を返し部屋を出ていこうとした時、ノックの音が響き厳かに執事が現れこう言った。
「クラヴィス様はさきほどお屋敷にお戻りになられました。」
---屋敷に帰った?---
「それはいつ頃のことか?」
「お客様がお帰りになる三十分ほど前のことでございます。」
---待ちくたびれたのか…---
「何か言づては?」
「特には承っておりません。」
---やはり臍を曲げたか---
昨夜のクラヴィスの横顔がちらと脳裏を掠めた。
「分かった。」
そう言い置くとジュリアスは居間を後にし、自室に戻って着替えを始める。
---馬で行こう---
来客を迎えるため纏っていた正絹の衣装から乗馬服へと手際よく着替えてゆく。袖口のボタンをとめながら、ジュリアスは口元に小さな笑みを刻んだ。いつまで待っても戻って来ない自分に呆れて、不機嫌そうに屋敷に戻って行ったクラヴィスの姿を想像し、きっと顔を合わせるなり皮肉の一つや二つを投げられるに違いないと思ったからである。
---いや、皮肉では済まぬかもしれぬ---
夕べの一件もあり、今朝はまだ半分眠っているクラヴィスに声を掛けたまま来客を迎えてしまった。どう考えても文句を言われるだけで済むはずがない。「お前は情が薄い」だのなんだのと散々聞かされた挙げ句に「泊まっていけ…」と言い出すに決まっている。
そう言われる前におのれからその一言を告げてしまおうかとジュリアスは逡巡する。望まれるからするのではなく、自身もそれを欲していると一度くらい言葉にしても構わないと思う。それが彼を支配する理性やモラルやしがらみに反する行為であったとしても、求める心の声を自ら否定など出来ないのをジュリアスは知っているから。
そんな事をあからさまに口にしたら、果たしてクラヴィスはどんな顔をするのだろうか。明日は嵐になるなどと軽口を叩くか、驚いて目を見開いた後あの滅多に見せぬ穏やかな笑みを零すのか。そこまで考えてジュリアスは不意に困った顔をした。
---明日は朝議があった---
蜜色の眉を寄せ僅かに逡巡したのち、今度は自嘲ともとれる笑みを刻んだ。
まだどうなるとも分からぬうちから何を懸念しているのかと、あまりに自分らしい気苦労が可笑しく思えたのだろう。
とにかくクラヴィスを訪ね、顔を合わせ、言葉を交わせば良いのだ。少し重い上衣の前を合わせながら、ジュリアスは扉へとむかうのだった。
闇の館は深閑とした静寂の中にある。
玄関の扉の前でそれが開かれるまでの僅かの間、ジュリアスはそのしんとした空気に包まれた屋敷の奥に果たして誰も住んでいないかの錯覚に囚われた。人がいると感じられない。この扉を自ら開き踏み行った先には無人の空間があるのではないかという、なんの根拠もない自分の想像に胸がザワリと騒いだ。だが、そう思っても仕方のない雰囲気がクラヴィスの屋敷にはあった。
まだ互いが言葉を交わすのにさえ躊躇いがあった頃、それは随分と以前のことでもなくたった数ヶ月前でしかないのだが、やむを得ぬ用事で此処を訪ねるたびに今と同じ想いにとらわれ執事が現れる数分が途方もない時間に思えてならなかった。
クラヴィスがあの一言を寄越してからは執務さえ入らなければ週末を供に過ごすようになった。たいがいの場合、ジュリアスがクラヴィスの屋敷を訪ねる。今、クラヴィスの私室にあるクロゼットにジュリアスの為に用意された平服まで置かれている。彼の使う食器や夜着も当たり前のようにそこにあるのだ。終わらぬ懸案に追われ宮殿の執務室から自身の屋敷に戻れなかった週末などは、クラヴィスの元に在る時間の方が長かったりする。それでもふとそんな事を考えてしまうのは、クラヴィスが私邸に最低限の使用人しか置かないからかもしれない。それとも彼の纏う独特の雰囲気が空気にまで溶けているのかも…。
その時、扉が音もなく開かれた。見知った顔が現れる。
玄関で待つ来客を一目見た執事はあからさまに驚いた顔をした。が、それは瞬く間に消える。丁寧に一礼した執事はジュリアスの来訪の由を聞く前に「申し訳ございません。」と今一度深く頭を下げた。彼の告げた意味が分からずジュリアスが怪訝な顔を作るのを見留、執事は先を続ける。
「クラヴィス様は少し前に宮殿に上がられました。お出かけの前にこの後ジュリアス様がお越しになられたなら、その旨をお伝えするようにと賜っております。」
執事が最初に驚いた顔をしたわけがハッキリした。クラヴィスは彼が屋敷に来ると分かっていたのだ。本当にジュリアスが訪ねて来たのでそれが思わず顔に出てしまったのだろう。
「戻るのはいつ頃であろうか?」
「本日はお戻りにならないかと存じます。」
きっとクラヴィスは王立研究院に行ったのだと思った。また星が一つ沈むのだ。女王の力の衰えは僅かずつだが広がっている。終末の足音が宇宙に響くのはもう間もなくのことに違いない。朽ちていく生命を見送る為に彼が召集されたのは明確であった。
「そうか・・。」
お伝えがあれば承りますと述べる執事に何もないと告げてジュリアスはその場を辞した。
---今日は・・恐らく明日も会えぬのだろう---
私邸に向けて馬を駆るジュリアスはそんな言葉を胸に落とした。
遅い午後の風がこぼれる黄金色の髪を大きく巻き上げ吹き抜けていった。
深くなる夜の中でジュリアスは一人時間を持て余していた。
一刻をも無駄には使わぬと思われる光の守護聖が何をするでもなく椅子に凭れ、時折開いた窓の外に目線を流しては小さくため息をついたりしている。手には本の一冊も持ってはいない。まだ休むには早すぎる。テーブルの上には数枚の書類が置かれているが、それを取るつもりもないようである。
心が通い合えば例え離れていても満たされるものだと思っていた。まして互いに求めあい躯を重ねたなら、その心がもっと近くに感じられ意味のない欠落感など消えてなくなるのだと思いこんでいたのに。一度手にしてしまった充足感は決して全てを満たすものではなく、より多くより近く僅かな距離が耐え難くなる事さえある。
自身の内にそんなどん欲な思いが隠れていたなど考えたこともなかった。そしてクラヴィスが何を思い、何を欲しているかが少しも分からない自分に呆れてしまう。分かった気がしていただけなのだとジュリアスはまた細い息を零す。あの深い紫の瞳が何を映すのか、あの長い指が何に触れたいのか、あの心が何を欲しがっているのか。こうして幾ら考えてみてもその欠片すら見つからないのだった。
---何故、何も言わずに帰ってしまったのだろう---
たった一つの何故を幾度胸の中で繰り返してもその答えは深い霧の中に閉ざされてしまったようで、少しも見えてはこなかった。
---次に逢えるのはいつになるのか---
どれほど気になったとしても執務を放置し私事を優先させるなどジュリアスには出来ない。
隣り合う執務室を某かの用事を作って訪ねるのは容易いことであるが、ざっと思い返してみてもその僅かな時間が取れないのは明白であった。最初はいつもの事だと高をくくっていた。偶の休みに来客との約束を入れたのが少し面白くないとクラヴィスが帰ってしまっただけなのだと。それがこうして逢えないとなるとその事ばかりが頭を占める。
---怒ってしまったのだろうか---
深く降りた夜の帳の中、ジュリアスは時が過ぎてゆくのも気づかぬかに思考の深みを彷徨うのだった。
まるで忍び込む夜風のように大気に紛れ良く知ったサクリアが寄せてくる。
この世に在る全ての命に安らぎをもたらすそれがジュリアスの脳裏に彼の者の面影を運んだ。
続