*理由-wake-*
=3=
彼の眠りはごく浅いもので、例えるなら水面の数センチ下でゆらゆらとたゆたう水藻の様相に似ている。水面を割って大気に触れるでもなく、さりとて深みに潜るでもない。ただ水の動きに任せ揺れている。夢を見るにも浅すぎる辺りを漂うのだった。
不意に訪れた覚醒が何に因るのかが分かってみれば、あまりに合点がいきすぎてクラヴィスは明かりのない寝台の上で一人苦笑を洩らすばかりであった。狭いと思いつつジュリアスと潜り込んだ寝台が思ったとおり二人には小さかったとみえ、彼は寝返りを打った拍子に半身を落としかけたのだ。ビクリと躯を震わせ目を見開いてみれば、窓辺に吹きつもった雪が何処かしらから射す外灯の灯りを弾いて驚く程も窓際の一画を明るく見せていた。
視線をすぐ隣りに流せば自分に向いて瞳を閉じるジュリアスの小さな顔があった。吹雪は既に止んでおり、寝入る間際に耳にあった地を這う風の音も地表を覆う新雪にのまれ名残すらない。もちろん起こす気など更々なかったが、そっと頬に触れてみてもジュリアスはピクリとも動かぬ。彼の眠りの深さに安堵しつつクラヴィスは小さく笑んだ。夜目の効くクラヴィスであっても、離れた壁に掛かる時計の針までは読めなかった。別にどうしても時間が知りたかった訳ではない。直ぐに上掛けを引き寄せてその中に沈み、傍らの身体に腕をかけた。
ジュリアスはとても良く眠っている。
彼の眠りはたいそう穏やかで寝乱れるなど決してない。静かに身を横たえ如何に短い時間であろうとも有効な睡眠を迎える術を知っている。それは恐らく幼い頃から身につけたものであり、明日の執務に差し支える事などない様にと重ねた努力の賜物なのだろう。浅い眠りを繰り返すクラヴィスと違い、一度その階に足をかけてしまえば少々の事では目を覚まさぬ代わりに、寝起きはすこぶる良いのだった。しかし、それが必ずしも約束されている訳ではない。
執務の遅滞、惑星での凶事、宇宙に起きる諸々の問題、その他さまざまな現実が彼に安息を与えないのも事実である。聖地に在る時は、そんなジュリアスを抱きしめ癒すのがクラヴィスであった。ところがこの旅にあってはそれも叶わぬ事となり、幾人もを隔てた先で何度も寝返りを打つ姿を目にしたとしても傍らに沿うのすら許されぬ現状に苛立ちを覚えずにはいられなかった。眠りこける他者の間を忍び滑らかな額に手のひらを翳すのは容易いかに思えたが、不夜番の目もある中での行為をジュリアスは快しとはしない。肩肘をつきそんな彼の姿を見つめるしか出来ぬ自分の不甲斐なさを嘆きながら迎えた朝もあった。
口では夜の秘め事を匂わせておきながら、クラヴィスは躯を重ねるつもりなどなかったのだが。あと少し眠りの波が寄せるのが遅かったら自身の理性が保てたかと問われれば、甚だ怪しいのも事実であった。クラヴィスが感じるよりも遙かに疲労が蓄積されていたのはジュリアスにとって幸いだったのかもしれない。さもなくば、久しく触れていなかった躯の温もりにクラヴィスの理性などいとも簡単に崩れ去ったに違いない。いくら目を凝らしても先の分からぬ旅の行く末に心を砕くジュリアスに僅かでも休息を与えたいと願いながら、その内に自身の欲望を埋めたいとも望んでいる。
『まぁ…それは常の事だが…。』
そう、これは今に始まった事ではない。
頑なに守護聖であらんとするジュリアスの外殻を破り、宇宙と女王への忠誠を突き崩し、誰にも曝すまいと守る彼の真意を露わにせんとするクラヴィスと何としても翻弄などされるものかと抗うジュリアスの争いは私邸のみならず時として宮殿或いは執務室でも繰り広げられているのだ。単にそれを他の守護聖や傍に仕える者達が知らないだけである。互いの想いを伝え合い、躯を繋げてからは尚のこと飽きもせずに続いてきた彼らの日常であった。矛盾に充ちたそれらは外界を遷ろう生活にあっても全く変わりはしなかった。
ジュリアスと異なりクラヴィスは環境の激変にも全く動じぬかに思えた。平素から周囲に同調せず我が道を行く男である。それもあり得ることだ。だがそんな彼にも変化は訪れていた。先陣を切り襲い来る魔物に剣を振るジュリアスをクラヴィスは常に背後から見ている。美しい金絹の髪が靡き隙のない間合いで対峙した相手に向けるそれが無骨な剣でなければ、その滑らかな動きはまるで舞踏と見まごう優美さである。背に踊る金の波に視線を走らせつつ、クラヴィスは後方から援護を行う。ジュリアスの剣術の腕が確かであると知っていても、もし次の瞬間彼がうち倒されたらという不安が拭えるわけではなかった。
この世に絶対は存在しない。彼の不安が的中しない保証などないのである。
これまでクラヴィスは自身の在る意味をただジュリアスの為としてきた。彼に降りかかる危険があるなら、その身を呈して排除すべきを是としてきた。戦闘に明け暮れる旅が始まった頃、当然クラヴィスは在ってはならぬ状況に陥ったとしたら己が身を盾にしてもジュリアスを守護すると決めていた。幾度払っても湧いて出るとしか思えぬ魔物との戦いを続けるうち、そんな彼の決意に僅かずつではあるが変化の兆しが起こる。そして今、恐ろしいほどの静寂の中で安息に包まれるジュリアスを眺め、クラヴィスは仄かな兆しが確固たる意志に変わったのを知る。
最初に気づいたのは戦いの最中であった。
飛来する魔物を次々と落としつつ周囲に間断なく指示を与えるジュリアスがふとした折りにクラヴィスに向ける視線の弱さにそれを見いだしたのだ。不安げな頼りない瞳の色がクラヴィスの無事を確認するや否や安堵に揺れ、いつもの強さを取り戻す。一心に何かに打ち込むからこそ、そこには偽りない彼の心情が現れたのだと理解するに至り、万が一彼を擁護した結果おのれが大地に臥したならと考えれば答えは容易に導きだせた。
ジュリアスはそれこそを怖れていたのである。
ならばせねば良い。そうならぬが為の努力を怠らなければ良いのだ。クラヴィスには似つかわしくない努力などという台詞を胸の内に刻んだ、それこそが彼の変化なのである。人を想い、人に想われ、共に生きるとは思いも寄らぬ感情を運ぶ、何とも不可思議で難儀な幸福であろうかとクラヴィスは掛けた腕を微かに引きつつ小さく言うのだった。
留まることなく襲い来る困難や危険のただ中にあるが故に、彼らは各々の変わりゆく様を確かに認めたのだろう。平穏な日常を暮らす限り、それらは曖昧なまま心に潜んでいたに違いない。ある日気づくのか、気づかぬうちにそれまで持ち得た真実とすり替わるのか、また気づいた時それをもたらしたのが如何なる理由なのかなど知らずに過ごしていったのかもしれない。
極限とも呼べる日々を過ごした今だから知り得たのである。
ドサリ…と重い音が響く。積もった雪に耐えきれず撓った枝から白い固まりが地表に落ちたのだ。
空の色が薄くなったと思えた。あと数時間で夜が明ける。再び眠りが訪れるかは分からなかったが、クラヴィスは広がる金の波に鼻先を埋め静かに目を閉じた。ジュリアスの香りがする。仄かに漂うそれはクラヴィスに得も言われぬ愛しさを運んだ。もし、またこんな夜を迎える日があるなら、その時はこのしなやかな躯を抱いてしまおうと甘い決意を胸に落としてクラヴィスは深い吐息を一つ零したのだった。
雪深い街にも程なくして朝日が昇るだろう。
また戦いの日々が始まる。
了